2005N1句

January 0112005

 初茜鶏鳴松をのぼりけり

                           櫛原希伊子

けまして、おめでとうございます。この清冽な抒情句をもって、2005年のスタートとします。季語は「初茜(はつあかね)」で新年。初日の出る直前の東の空はほのぼのと明るくなり、やがて静かに茜色がさしてくる。身も心も洗われるように清々しくも、しかし束の間のひとときだ。とりわけて、電灯の無かった時代の人々には、待ちかねた新年の光に心の震える思いがあっただろう。その昔から現代にいたるまで、いまの都会では無理だとしても、この時間になるといちばんに雄鶏が「咽喉(のんど)の笛を吹き鳴らし」(島崎藤村「朝」)てきた。その雄叫びにも似た「鶏鳴(けいめい)」は、句の作者も自注で記しているように、赤のイメージだ。その赤き声が、茜空をバックに黒々と大地に根を生やした「松」の大木にのぼってゆく……。まさに、自然が巧まずして描き上げた一幅の画のようではないか。いや、句の作者その人が巧まずして描いたからこそ、そのように受け取れるのだ。このような句に出会うとき、俳句という文芸を知っていて良かったと、しみじみと思う。この毅然とした鶏鳴が、なにとぞ本年の世界中の人々の幸せにつながりますように。祈りながら、今年も当サイトを増殖させてゆく所存です。よろしく、おつきあいくださいますように。『櫛原希伊子集』(2000・俳人協会刊)所収。(清水哲男)


January 0212005

 妻の過去わが過去賀状とみに減る

                           野木野雨

婦といっても、もとは他人だ。お互いに知らない「過去」を持つ。「賀状」が配達されるてくると、そのことを強く感じる。自分が知らない名前の人から相手に来ている賀状は、いやでも別々の過去があったことを印象づける。どんな友人からなのか、どんな付き合いのあった人からなのだろうか。若い頃には、いささか気になったりするものである。が、年を重ねていくうちに、だんだん賀状が減ってくると、二人への過去からの便りも少なくなり、気にしていた頃が華(はな)だったなと思うようになってくる。どんな関係の人からであろうとも、数多く来ているうちが所帯の盛りなのだ。「とみに」減った賀状の束をいとおしみながら、作者はあらためて夫婦の来し方に思いを去来させているのだろう。そういえば、こんなこともあったっけ。「たゞごとの如き賀状や秘めし意酌む」(藤波銀影)。むろん異性からの賀状だろうが、相手は誰に見られてもよいように、淡々と「たゞごと」のような書きぶりしかしていない。が、受け取ったほうには「秘めし意」がよくわかるというのである。知能犯ですな(笑)。かと思えば、たくさん来てはいても、こういう淋しさもある。「賀状うづたかしかのひとよりは来ず」(桂信子)。今年から、今日二日にも配達がある。「かのひと」からの賀状を期待している人は、内心ドキドキなのでしょうね。賀状は小さなドラマ台本だ。『俳句歳時記・新年の部』(1956・角川文庫)所載。(清水哲男)


January 0312005

 はや不和の三日の土を耕せる

                           鈴木六林男

句で「三日」といえば、今日一月三日のこと。三が日の最後の日。「三日正月」と言うように、この日までは誰もがのんびりとくつろぐ。が、作者ははやくも畑に出て耕している。家にいても、面白くないからだ。いくら年が改まろうとも、そう簡単に人間関係は改まらない。正月というのでお互いに我慢していたけれど、それも今日で限界。ぷいと家を出て、しかし行くところもないから、仕方なく畑仕事をしているという図だ。通りがかりの人から不思議そうに見られても、致し方なし。まことにもって、人間関係とは厄介なものです。同じように家を出るのなら、「顔触れも同じ三日の釣堀に」(滝春一)というふうでありたい。呑気でよろしいが、でも、これもいささか侘しいかしらん。「三ヶ日孫の玩具につまづきぬ」(青木よしを)。つまづきながらも、上機嫌なおじいちゃん。わかりますね。やっぱり「つまづ」こうがつんのめろうが、こんなふうにして家にいられるのがいちばんだ。ところで、本日の諸兄姉や如何に。私は、煙草を買いに出るくらいのものでしょうかね。ありがたし。『新歳時記・新年』(1990・河出文庫)所載。(清水哲男)


January 0412005

 今ここで死んでたまるか七日くる

                           山本有三

者は『女の一生』『路傍の石』『真実一路』などで著名な小説家にして劇作家。季語は「七日」で一月七日のことだ。1974年(昭和四十九年)の今日、山本有三は伊豆湯河原の自宅で高熱を発し、翌日に国立熱海病院に入院した。そのときの句だというが、当人以外には意味不明である。「七日くる」とは、何を言っているのだろうか。強いて理屈をつければ、七日は「七種(ななくさ)」なので、七草がゆを食べれば病気を免れるとの言い伝えがあることから、なんとか七日までは持ちこたえたいと思ったのだろうか。しかし、高熱に苦しむ人が、悠長にそんなことを思ったりするだろうか。他に何か、七日に個人的に大切なことがあったのだろうと読むほうがノーマルかもしれない。いずれにしても、私が掲句に関心を持ったのは、寿命いくばくも無いと自覚した作家が、五七五のかたちで思いを述べている点だ。辞世の句を詠むなどという気取った意識もなく、作品として提出しようとする意図もむろん無く、ほとんど咄嗟に五七五に思いを託している。俳句というよりも、これほどまでに五七五の韻律は瀕死の人までをも巻き込むものなのかと、粛然とさせられてしまう。くどいようだが、彼はプロの小説家であり劇作家だったのだ。結局、山本有三は一進一退の病状のうちに「七日」を越えて、十一日に死去した。八十六歳だった。余談ながら、現在、彼の作品は全教科書から姿を消してしまったという。赤瀬川原平『辞世のことば』(1992)所載。(清水哲男)


January 0512005

 なんとなく街がむらさき春を待つ

                           田中裕明

語は「春(を)待つ」で冬。一番的な説明としては「寒さも峠を越し、近づく春を心待ちにすること」の意だ。二月半ばくらいの心持ちだろうが、ちょうどいまごろ、新春の気持ちとしてもよいように思う。とりわけて今年の東京のように、元日から晴天がつづいていると、それこそ「なんとなく」街の様子も春めいて見えてくる。加えて「むらさき」は、正月にふさわしい色だ。古来、高貴や淑気と関連して用いられてきた色彩だからである。といって私には、掲句を強引に新春句と言い張るつもりはない。読者の自由にまかせたいが、それはそれとして、句の力は「なんとなく」という一見漠然とした表現に込められていると思った。俳句のような短い詩型で「なんとなく」を連発されると、ピンぼけになって困るけれど、作者はそのことを百も承知で使っている。まるで満を持していたかのように、ハッシと使って言い止めた感すら受ける。人には、正確に「なんとなく」としか言いようの無いときがあるのだ。ところで、作者は旧臘三十日に四十五歳の若さで亡くなった。掲句が収められた今年(2005)のいちばん新しい奥付を持つ句集『夜の客人』(ふらんす堂)は、献呈先に三が日に届くようにと配慮されていて、同封の挨拶状には大伴家持の次の歌が添えられていた。「新しき年の始の初春の今日降る雪のいや重け吉事」。合掌して、ご冥福をお祈りします。(清水哲男)


January 0612005

 凭らざりし机の塵も六日かな

                           安住 敦

語は「六日」。元日から七日まではすべて季語として用いられてきたが、最近の歳時記では「六日」を外してしまったものが多い。実作で用いるにしても、掲句のように、正月が去っていくという漠然たる哀感を伝えることくらいしかできないからだろう。もはや、特別の日の感じは薄いのである。ところがどっこい、少なくとも江戸期まではとても重要な日とされていたようだ。上島鬼貫に「一きほひ六日の晩や打薺」がある。「薺(なずな)」は春の七種の一つだ。そこでお勉強。昔は六日の日を「六日年」とか「六日年越」と呼んで、もう一度年をとり直す日だった。つまり翌七日が「七日正月」の式日なので、それが強く意識され、六日の夕方には採ってきた薺などを切りながら歌をうたい祝ったという。♪七種なづな、唐土の鳥と、日本の鳥と、渡らぬ先に……。こうして準備した菜は、もちろん翌朝の七種粥に入れて食べる。すなわち、二度目の大晦日(年越し)だったというわけだ。このように私たちの祖先は何かにこと寄せては、生活のなかで楽しみを見出していた。庶民の知恵というものだろうが、我々現代人もまた、クリスマスだのバレンタインだのと西洋の言い伝えにまで凭(よ)っているのだから、似たようなものである。が、決定的に異なるのは、昔の日本人には楽しみはすべて八百万の神々によって与えられるものという意識が強かった点だろう。『新歳時記・新年』(1990・河出文庫)所載。(清水哲男)


January 0712005

 人間天皇空に凧が上っています

                           内田南草

に「凧(たこ)」といえば春の季語だが、この場合は句意から推して別建ての「正月の凧」に分類しておく。戦後はじめてめぐってきた元日に、天皇の人間宣言が行われた。1946年(昭和二十一年)。「朕ハ爾等国民ト共ニ在リ。常ニ利害ヲ同ジウシ休戚ヲ分タント欲ス。朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(あらひとがみ)トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延(ひい)テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ」。当時七歳の私には何の感慨の起きようもなかったけれど、大人たちには実に衝撃的な事態であったろう。反応は当然さまざまであったと思われるが、なかで掲句は当時の多くの庶民の気持ちを代弁していたと言ってもよいのではあるまいか。それまでの雲の上の存在が、同じ地平に降りてきたわけだから、今日からは同じように空を見上げる立場になった。正月の空といえば、まず「凧」である。人間天皇にいっしょに見上げようと呼びかけることで、戦後の大いなる開放気分をうたい込んだ句だ。今年は、敗戦から数えて六十年になる。あのときにこの開放感を抱いた庶民のその後の歴史は、どうであったか。そして、これからのこの国はどこへ行こうとしているのか。かつての戦争を知る人が少なくなってきた現在、このあたりで立ち止まってじっくりと考える必要がある。『財界歳時記』(1988)所載。(清水哲男)


January 0812005

 枯野ゆく徒手空拳も老いにけり

                           吉田汀史

語は「枯野」で冬。若い人が読むと、「枯野」と「徒手空拳」は付き過ぎ、あるいは出来過ぎと感じるかもしれない。いや、そう読むのがむしろノーマルだろう。なぜなら、若い人は病者を除いて、本当の意味での「徒手空拳」がわからないからである。つまり、日常的に自分の身体のありようを意識することがほとんどないからなのだ。したがって、他に何物をも持たず我が身一つをたのむという「徒手空拳」を、身体よりも気概に重きを置いて理解する。ところがある程度の年輪を重ねてきた人は、逆に身体に重きを置く。そうせざるを得ない。身体の老いの自覚は日常的になり、それだけ孤独感も深まってくる。字義どおりの「徒手空拳」で生活をつづける身にとっては、もはや「枯野ゆく」の孤独も比喩というよりは実感に近いのである。作者に比べれば、私などはまだまだ若造でしかないけれど、だんだんこういう句が見逃せなくなってきた。話は少しねじれるが、若者にとって最も理解し難い老人の欲望の一つに名誉欲がある。むろん掲句とは無関係の一般論だが、一円にもならない何とか褒章などを欲しがったりする人がいる。理由は単純で、要するに徒手空拳であることが恐いのだ。褒章というメディアで世の中ともう一度つながることにより、「枯野」から脱け出して、我が身一つではないことを確認したいがためである。この心情を良く知っている国家とは、しかし何と狡猾なことか。俳誌「航標」(2005年1月号)所載。(清水哲男)


January 0912005

 その昔初場所中継志村アナ

                           永 六輔

語は「初場所」。めでたく勇ましく。「初場所や千代吹っ飛びぬ土俵下」(大和屋古鬼)。大相撲の盛りのころ、とくに初場所は華やいだ。毎日が満員御礼。この盛況をもたらしたのが、戦後存亡の危機にあった大相撲を中継しつづけたNHKラジオだ。昭和二十年代、中継アナウンサーの花形は和田信賢と句にある志村正順の二人。この二人が、全国にどれほど相撲ファンを作り出したことか。私の年齢では、とくに志村アナの「軽機関銃」と評された早口にして的確な描写が思い出に残る。初場所が楽しみだったのか、志村アナの放送それ自体が楽しみだったのか、どちらとも言えないほどだ。放送時間前になるとそわそわしてきた気分を、いまでも忘れない。だから、掲句が巧いとか下手とか言う前に、目にした途端にここに記録しておこうと思った次第だ。志村アナの名調子を再現できればよいのだが、録音もあまり残されておらず、おまけに著作権法の縛りがあってどうにもならない。せめてもということで、尾嶋義之『志村正順のラジオ・デイズ』(新潮社)より彼独特の実況ぶりを引き写しておく。「……立ち上がりました。ガーンと一発左を入れた東富士。左四つ、ガップリと組みました。……全然動かない。まったく動きません。動かない。まるでくくりつけの人形のようだ。全然動かない。……東の左足首がじりっ、じりっと動いております。まさに土俵上、電光燦爛、電光燦爛としております。東富士寄りました。グングン寄った。羽黒こらえた、懸命にこらえた。こらえました。東土俵、羽黒寄り返しました。七分三分、東また寄った。グングン寄った。グーッと寄りました。羽黒またけんめーッにこらえました。羽黒寄り返しました。東また寄った。グングン寄った。三度目。しかしまた羽黒寄り返しました。……さすがに羽黒山は強い」。結局東富士が勝つのだが、嘘か誠かは知らねども、締めくくり方も実に巧い。「……さすがに期待どおりの大相撲、両雄莞爾と笑っております」。ここで掲句に戻れば、全くそのとおりだなあと何度でも頷ける。今年の初場所、今日初日。月刊「うえの」(2005年1月号)所載。(清水哲男)


January 1012005

 十日戎所詮われらは食ひ倒れ

                           岡本圭岳

日は「十日戎(とおかえびす)」。新年初の戎祭を言う。東京あたりの酉の市に対して、関西以西での商売繁盛を祈る祭りと言ってよいだろう。大阪の今宮戎神社や京都の恵美須神社、福岡の十日恵比寿神社などが有名だそうだ。が、私は学生時代に京都に住んだが、実はこの祭りのことは何も知らない。福笹を持った人を見かけた記憶も無い。最近の宵祭りには烏丸通でパレードもあると聞くが、四十数年前にはそんな派手なこともなかったせいではあるまいか。したがって耳学問程度の知識しかないのだけれど、「えべっさん」は福の神だからあやかりに行くわけだ。しかし耳が遠いとされているので、社前と社殿のうしろで二度拝む風習がある。一度だけだと聞こえなかったかもしれず、もう一度「わかってはりまんなア、商売繁盛でっせ」と大声で念を押すのだという。それから福娘に授かった福笹をかつぎ、それに沿道で売っている小判などの縁起物(吉兆)を買い求めて吊るしては、そぞろ歩くという寸法だ。句は、そんな人混みの中での即吟だろう。すなわち、こうやって熱心にお参りしていくら稼いでも「所詮われらは食ひ倒れ」、いずれはまたすっからかんさというわけだ。一見自嘲的にも読めるが、そうではあるまい。江戸っ子が「宵越しの銭は持たねえ」と言うのといっしょで、大いに浪速っ子気質を自慢しているのである。一度は行ってみたいお祭りの一つだ。『新歳時記・新年』(1990・河出文庫)所載。(清水哲男)


January 1112005

 手毬真つ赤堅き大地に跳ね返り

                           河内静魚

手毬
語は「手毬(てまり)」で新年。ゴム毬ではなく、写真のような「かがり毬」だ。観光地などの売店でよく見かけるが、今ではすっかり飾り物になってしまった。「丸めた綿やハマグリの殻、ぜんまい、いもがら、こんにゃく玉、山繭、砂、小鈴などを芯(しん)にして、その上を布に五色の絹糸や綿糸でかがったものを糸鞠(かがり鞠)といい、江戸時代から少女の遊び道具として発達した。芯にいろいろなものを入れたのは、鞠に弾力性をもたせるためで、なかにはかわいらしい音を出すようにくふうしたものもある。(C)小学館」。ついてみたことはないけれど、とてもゴム毬ほどの弾力性はないだろう。江戸期の女の子は立て膝でついて遊んだそうだが、さもありなん。そんな弾まない毬が、句では「堅き大地に」カーンと跳ね返っている。「堅き大地」は凍てついた大地を連想させ、毬はその大地に何か空恐ろしいような力で叩き付けられたのである。だから、あまり弾まない毬が予想外の高さにまで跳ね返った。そして、この光景に人の気配は感じられない。無人の大地に、ひとり跳ね返った手毬の「真つ赤」な姿だけが読者の目に焼き付けられる仕掛けだ。ゴム毬にはこうした幻想性はないが、このように日本古来の毬には、どこか私たちのイマジネーションをかき立ててくるようなところがある。『花鳥』(2002)所収。(清水哲男)


January 1212005

 学校に畳の間あり歌留多かな

                           森田 峠

語は「歌留多(かるた)」で新年。歌留多にもいろいろあるが、この場合は小倉百人一首だろう。掲句を読んで、そういえば「学校に畳の間」があったようなと思い出した。「ような」と曖昧なのは、学校の畳の間といえば女の子たち専用の裁縫室というところだったので、廊下の窓越しにちらりと見た程度だからだ。転校が多かったから、どこの学校の裁縫室かも覚えていない。でも、確かにあったような……。国語の授業の一貫だろうか、それともクラブ活動なのか。歌留多には畳が必要だから、当然のように裁縫室が使われているのだ。裁縫用の低くて長い机は隅のほうに片付けられ、花びらを散らしたように歌留多が撒かれ、このときばかりは男子生徒も裁縫室にいるのだろう。普段とは違う使われ方をする教室は、文化祭などでもそうだけれど、とても新鮮な感じがする。ましてやこのときは歌留多会なので、晴れ着の生徒はいないにしても、おのずから華やいだ雰囲気となり、学校ならではの正月風景となる。「歌留多かな」の「かな」には、一般の人には目に触れない正月風景を押し出す効果もあると感じた。さきごろ、今年の全国競技歌留多クイーンの座を中学生が獲得して話題になった。一般的には若い人に見向きもされない歌留多が、こうしたトピックからでも注目されるようになればいいなと思ったことである。『逆瀬川』(1986)所収。(清水哲男)


January 1312005

 父の死や布團の下にはした銭

                           細谷源二

語は「布團(蒲団・ふとん)」で冬。ながらく寝たきりに近かった「父」が死んだ。長い間のべられたままだった「布團」をあげてみると、下からいくばくかの「銭」が出てきたというのである。それも、布団の下に大事にかくしておくほどでもない、ほんの「はした銭」だった。みっともないと突き放した詠みぶりだが、その哀れさが逆に父への親しみを増し、作者はうっすらと涙を浮かべているのではあるまいか。いまにはじまったことではないが、年寄りの金銭に対する執着には凄いものがある。何事につけ、最後に物を言うのは金だからだ。若いうちなら「金は天下の回りもの」ですむものが、社会的な経済サイクルから外に出てしまった老人には、そんな気休めは通用しない。収入はゼロであり、蓄えは減ってゆくばかりという生活が長ければ長いほど、よほどの資産家でもない限りは、生活の不安にさいなまれる。体力が衰え、家族としての役割も無くなっていくなかで、金さえあれば多少は人も相手にしてくれることを知っているから、たとえ「はした銭」であろうが握りしめて放さない。私くらいの年齢になれば、この心情は痛いほどによくわかる。他人事ではない。昨今の年金問題を考えるにつけ、政治家どもはこうした年寄りの不安を少しも理解していないなと、痛切に思う。いや、政治家だけとは言えないな。若くて元気な人々も、いずれはおのれが高齢になることを忘れているかのようだ。高齢者に対して、多く世間が偽善的にしかつきあわないのは、そのせいだとしか思えない。『俳句歳時記・冬の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


January 1412005

 熱燗や子の耳朶をちょとつまむ

                           辻貨物船

語は「熱燗(あつかん)」で冬。今日は五年前に逝った辻征夫の命日、私は彼の俳号から勝手に「貨物船忌」と呼んでいる。彼の詩にもよく子供が出てくるが、問わず語りに娘さんの話をすることも多かった。子煩悩だったと言ってよいだろう。最後になった写真には、亡くなる直前に成人式を迎えた晴れ着の娘さんと並んで写っている。成人式がそれまでの一月十五日ではなく、第二月曜日に移動したおかげで、彼は「耳朶(みみたぶ)を」つまんだ「子」の晴れ姿を見ることができたのだった。世の中、何がどう幸いするかわからない。以下に少し長くなりますが、没後二年目の命日に出た『ゴーシュの肖像』(書肆山田)への私の感想を載せておきます。・・・「二年前に急逝した詩人が、折りに触れて書いた散文を集めた本だ。めったにやらなかった講演の記録も、いくつか納められている。/早すぎた詩人の晩年を、私は共に飲み、句会などで共に遊んだ仲である。読んでいると、いろいろなことが思い出される。けれども、不思議に悲しくはならない。おそらく、それは辻征夫の文体の持つ力によるものだろう。そう、合点できた。文体は生き方の反映だ。/詳しくは書かないが、彼は治癒不可能といわれた難病にとりつかれていたのに、文章の上でも日常でも、一言も弱音を吐くことはなかった。だんだん身はひょろひょろと立ちゆかないのに、ひょうひょうとしていた。いつだって、微笑していた。本書を読んでわかったことは、それが単なるやせ我慢から来ているものでは、断固としてないということだ。/集中に「手にてなすこと」と題された短文がある。中原中也の名篇「朝の歌」の冒頭の詩に触れ、「みな何ごとかに従事して、生計を立てている」ことへの思いを述べた一文だ。辻は中也のように親からの仕送りで生きるわけにもいかず、「私は手を使いどおしだった」と書く。ここには、ごく普通の生活者の生き方がある。辻のような才能溢れる詩人でも、満員電車に揺られて生きていかねばならない。それが、世間というものではないか。誰だって、仕方ないなとあきらめている……。/しかし、満員電車に揺られながらも、次のように言えるのが、辻征夫なのだ。「では労働と詩は両立するのか。私は根本のところでしないと考えている。私の全作品を眼の前に置かれても、首を横に振る」。/この一言が、辻征夫の真骨頂である。かくのごとき過激な物言いは、生半可な詩への愛情から生まれるものではない。十五歳にして詩の魅力にとりつかれ、詩を心から愛した男の、これは真実の苦しみの告白と言ってよい。文体の強さ明るさの秘密は、この生涯の苦しみの土台の上にある」。合掌。句は『貨物船句集』(2001・書肆山田)所収。(清水哲男)


January 1512005

 日の中に娘の町や初電車

                           佐分靖子

語は「初電車」で新年、「乗初(のりぞめ)」に分類。昔は新年に初めて馬やかごに乗ることで、交通機関が発達していなかったころには、いかにも「初」という新鮮な感じが持てたのだろう。現代人はいつ乗ったのが「初」だったかしらんと、それほどに電車などは日常の生活に溶け込んでしまっている。が、私もそうだけれど、作者も普段はあまり電車に乗らない人なのではないだろうか。だから、くっきりと「初」の意識が持てたのだと思う。目的の駅までの途中で「娘の(暮らす)町」を通りかかり、その「町」に燦々と「日」が注いでいるのを見て、なんとなく我が娘の元気で幸福な姿が想われたという親心。いかにも「初電車」にふさわしい明るい句だ。作者のこれから訪ねて行く先にも、何か楽しいことが待っているのだろう。そういえば、今日15日は「女正月」だ。その昔、正月に忙しかった女性がこの日は家事から解放され、ゆっくりと骨休めができる日だった。映画や芝居見物に出かけたり、年始の挨拶に回ったり、地方によっては女だけで酒盛りをする風習があったと聞く。掲句は現代の作だから、もはや女正月でもなかろうが、俳句の文脈のなかで読んでいると、ふっと今日という日にぴったりの気もしてくる。では、女だけの酒盛りの果ての一句を。「女正月一升あけて泣きにけり」(高村遊子)。いやはや、お賑やかなことで……。『若狭ぐじ』(2004)所収。(清水哲男)


January 1612005

 うそのやうな十六日櫻咲きにけり

                           正岡子規

語は「十六日桜(いざよいざくら・いざざくら)」で新年。前書きに「松山十六日櫻」とあるように、愛媛県松山市にある有名な桜だ。正月十六日(旧暦)に満開となる。一茶がこの桜を見に出かけ、「名だたる桜見んと、とみに山中に詣侍りきに、花は咲満たる芝生かたへにささえなどして、人々の遠近にあつまりたる……」と日記に記した。小泉八雲も『怪談』で紹介している。もっともこの桜は戦災で焼けて枯れてしまい、現在伝えられている樹は元の樹の実から育てたもので、満開は新暦三月初旬頃だそうだ。早咲きには違いないが、子規が見た頃のように「うそのやうな」早咲きぶりではない。掲句は明治二十九年(1896年)の作。既に体調がおもわしくなく「二月より左の腰腫れて痛み強く只横に寝たるのみにて身動きだに出来ず」という状態。それでも「四月初め僅かに立つことを得て」、「一日車して上野の櫻を見て還る」と花見に出かけていった。このときに詠まれた句だから、写生句ではない。上野の桜を見ているうちに、卒然と故郷の花を思い出したのだろう。誰にだって故郷贔屓の気味があるから、咲く時期の早さといい花の見事さといい、上野の花よりも十六日桜のほうに軍配をあげている。「うそのやうな」には、そんなお国自慢めいた鼻のうごめきが感じられる。が、内心では、もう一度あの花を見てみたいという望郷の念止み難いものもあったに違いない。べつに名句というような句ではないけれど、珍しい新年句として紹介しておく。『子規句集』(1993・岩波文庫)所収。(清水哲男)


January 1712005

 金目鯛手に黒潮の迅さ言ふ

                           中村幸子

語は「金目鯛」としておく。手元の歳時記を調べてみたが、この魚を季語としたものはなかった。が、金目鯛の漁期は十二月から三月ころまでなので、作者が冬を想定して詠んでいるのは明らかだ。実景だろう。見事な金目鯛を一本釣りで釣り上げてきた漁師がそれを両手に抱えるようにして、嬉しさを隠しきれないようなのだ。周りの人たちも、凄いなあと感嘆している。でも、彼は自分の腕前をストレートに自慢するのは照れ臭いので、しきりに「黒潮の迅(はや)さ」を言っている。つまり、如何に困難な条件下にあったかを言うことで、間接的に腕自慢をしているわけだ。こんな情景に出くわしたことはないけれど、私には日焼けした漁師の表情までもが目に浮かぶ。というのも、おそらくは別の場面で何度も似たような経験があるからなのだろう。いわゆる職人肌の人はおおむね照れ屋であり、自慢も婉曲に表現する場合が多い。画家などの芸術家にもそういう種類の人は多く、周囲が讃めるとなおさらに婉曲的になる。自分の能力のことは放っておいて、たとえば紙や顔料の入手に苦労した話ばかりをしたりするのだ。奥ゆかしいと言えば奥ゆかしいし、もどかしいと言えばもどかしい。こうした処世美学は、西欧人にはあまり通じないかもしれないと思う。いや日本でも、職場などで声高に能力の誇示が叫ばれはじめたからには、やがてこうした謙譲の美徳につながる姿勢は理解されなくなりそうだ。『笹子』(2005)所収。(清水哲男)


January 1812005

 南天よ巨燵やぐらよ淋しさよ

                           小林一茶

語は「南天(の実)」と「巨燵(こたつ・炬燵)」。前者は秋で後者は冬の季語だが、もう「巨燵」を出しているのだから、後者を優先して冬期に分類しておく。なにしろわび住まいゆえ、部屋の中の調度といえば「巨燵」くらいのものだし、戸障子を開ければ赤い「南天」の実が目に入ってくるだけなのだから……。たぶん父に死なれた後の弟との遺産争いの渦中にあったころの作だろうが、いかにも「淋しさ」が何度もこみあげてくるような情景である。信州だから、おそらくは雪もかなりあっただろう。その白い世界の南天の実は、ことのほか鮮やかで目にしみる。けれども心中鬱々としておだやかではない作者には、自然の美しさを愛でる余裕などはなかったろうから、鮮烈な赤い実もかえって落ち込む要因になったに違いない。つい弱音を吐いて「淋しさよ」と詠んでしまった。そうせざるを得なかった。でも、妙な言い方になるけれど、これほど吠えるように「淋しさよ」と言い放つたところは、やはり一茶ならではと言うべきか。文は人なり。そんな言い古された言葉が、ひとりでに浮かんできた。(清水哲男)


January 1912005

 声高になる佐渡よりの初電話

                           伊藤白潮

語は「初電話」で新年。掲載時期が遅すぎた感もあるが、旅先からの「初電話」なので、松を過ぎてもあり得ることだ。作者は千葉県在住。したがって、日常的には佐渡ははるか遠方である。その遠方に来ての電話だから、自然に「声高に」なったというわけだ。佐渡の様子を新春に報告する気のたかぶりのせいもあるだろうが、それよりも遠方から電話をかけている意識から声高になったと解したい。昔の遠方同士の電話だと、たしかに大声でないと聞こえにくい場合があったけれど、今日では単に遠方が原因で聞こえにくいことは稀だろう。だからことさらに声高になることもないのだが、遠いと思うとつい大きな声で話してしまう心理とは面白いものだ。他人事ではなく、ラジオの新米パーソナリティだったころの失敗談がある。スタジオと都内を結ぶ電話でインタビューするときと九州や北海道間のそれとで声の大きさが違ってしまい、しばしば技術マンに注意を受けたのだった。放送では本番前に回線状態をチェックするので、都内であろうと遠方であろうと、同じようにクリアーな状態で通話ができる。それなのに……、というわけだ。遠方との通話だからといって、いきなり声をはりあげられたら技術者はたまらない。この句は、そんな懐かしい日々にも想いを誘ってくれた。『ちろりに過ぐる』(2004)所収。(清水哲男)


January 2012005

 枯野ゆきつつ縺れる中学生

                           金子皆子

語は「枯野」で冬。「縺(もつ)れる」が良い。下校の途中だろうか。何人かの中学生が、下世話に言えばじゃれあいながら帰ってゆく。よく見かける光景だし、誰にもそんなふうにふざけあった覚えがあるだろう。ちょっと肩で相手を小突いてみたり、からかってパッと走って逃げたりとか。これを町中でやられると、ひどく傍若無人の存在に感じられるが、場所が「枯野」となれば印象はだいぶ違ってくる。ただ茫々とひろがる冬の原では、行き交う人もめったにいない。そこを行く中学生たちだけが、シルエットのようなイメージで浮かんで動いている。つまり、枯野での彼らはほとんど影に等しいのだ。その影たちが、しきりに「縺れ」あっている。見ていると、彼らは単に物理的に縺れているのではなく、彼らの内面までもがお互いにねじれ、からまり、また離れてといった具合に縺れているようなのだ。中学生と言えば、半分は子供で半分は大人みたいなところがある。世間を知っているようで知らないとか、独立心があるようでいて依頼心も強かったりとか、中途半端な年頃だ。そしてこのことは彼ら自身もぼんやりと意識していて、日常的にいわば矛盾の塊としての自己を持て余している。その持て余しようを、掲句は「縺れる」という表現で一掴みにしているのだと思う。作者はその年頃だった自分を重ねあわせているはずだから、ただ微苦笑のうちに眺めているわけではあるまい。『花恋2』(2005)所収。(清水哲男)


January 2112005

 侘助を撫でゝ入りけり法学部

                           須原和男

語は「侘助(わびすけ)」で冬。この花の魅力を、薄田泣菫が次のように書きとめている。「侘助椿は実際その名のやうに侘びてゐる。同じ椿のなかでも、厚ぽつたい青葉を焼き焦がすやうに、火焔の花びらを高々と持ち上げないではゐられない獅子咲(ししざき)のそれに比べて、侘助はまた何といふつつましさだらう。黒緑の葉蔭から隠者のやうにその小ぶりな清浄身(しやうじやうしん)をちらと見せてゐるに過ぎない。そして冷酒のやうに冷えきつた春先の日の光に酔つて、小鳥のやうにかすかに唇を顫(ふる)はしてゐる。侘助のもつ小形の杯では、波々(なみなみ)と掬(く)んだところで、それに盛られる日の雫(しずく)はほんの僅かなものに過ぎなからうが、それでも侘助は心(しん)から酔ひ足(た)つてゐる」。掲句はそんな侘しい小さい花を、そっと撫でて「法学部」の建物に入っていった人物の床しさを言っている。撫でたのは、学生だろうか教授だろうか。建物が農学部や文学部あたりだとありそうな情景だが、法学部だったから、作者も「おや」という感じになった。実際に大学の構内を歩いてみると、それぞれの学部によって建物に出入りする人たちの雰囲気や気質が、なんとなく違う気がする。面白いものだ。ところで、かつて私が通った大学には侘助はともかく、どこぞに花なんぞあっただろうか。いくら思い出そうとしても思い出せない。文学部だったくせに(笑)。『式根』(2002)所収。(清水哲男)


January 2212005

 山門の被疑者の写真雪催

                           久松久子

語は「雪催(ゆきもよい)」で冬。寺の楼門にまで指名手配のポスターが貼ってあるとは、今まで気づかなかった。でも、観光客がたくさん集まるような名刹の「山門」であるならば、全国各地から人が訪れて来るので、「被疑者」情報を得る絶好のメディアではありそうだ。プロが考えることは、やはり一味も二味も違う。折りからの「雪催」。それでなくとも愉快ではない寒々しい手配ポスターが、雪催いとあいまって、余計に寒さを助長してくるのである。こうした手配写真に目が止まるとき、むろん人の反応は様々だろうが、多くはそう単純ではないだろう。誰もが、警察的な正義の味方として見るわけではあるまい。個人的には見ず知らず縁もゆかりも恨みも無い被疑者なのだから、こんな寒空の下のどこでどうやって隠れているのか、息をひそめているのかなどと、同情とまではいかなくても、ある種のシンパシーを覚えてしまうこともある。追われるのは自業自得ではあるにしても、大組織がしゃかりきになって一個人を追いつめることについては、どこか釈然としないものが感じられるからだろう。これがもし自分であれば、どう逃げているのだろうか。そのあたりまで、私はたまに想像が及ぶこともある。句の作者がどう感じたかの詳細は知る由もないけれど、やはりそこには単純でない想いがあったのだと思う。情景も灰色ならば、心のうちも灰色である。『青葦』(2004)所収。(清水哲男)


January 2312005

 某日やひらけば吹雪く天袋

                           鳥居真里子

語は「吹雪く」で冬。「天袋(てんぶくろ)」は、和室の高いところ(押し入れの上部にある場合が多い)に設けられた収納スペースのこと。踏み台がないと開けないような高さなので、頻繁に出し入れする物の収納には向いていない。季節用品とか、卒業証書のように使わないけれど捨てられない記念の物などを仕舞っておく。だから、日頃はほとんど意識することの無い空間だ。それが「某日」、ふっと思い起こされた。で、開いてみたら中が「吹雪」いていたというのである。が、現実にはむろん作者は開いていない。あそこを「ひらけば」、きっと吹雪いていそうな気がしたということだ。想像の世界を詠んでいるわけだだが、想像だからどんな突飛なイメージでもよいということにはならないところが、俳句的喩の難しさだろう。この場合には、天袋と吹雪との取り合わせが、無理なくつながっている。天袋も吹雪も、この国の暮らしの土俗的な暗さの部分で溶け合っている。そしてまた、句からは天袋やタンスの引き出しなどを開けると、そこにはこの世ならぬ別世界があったという伝承の物語もいくつか想起される。そういうことどもが絡まりあって、掲句が決して安易な思いつき的着想に発していないことがうかがえるのだ。「俳句研究」(2005年2月号)所載。(清水哲男)


January 2412005

 凍みるとはみちのくことば吊豆腐

                           井桁蒼水

期「凍豆腐(しみどうふ)」の項に分類しておく。ただし、JAS(日本農林規格)では「凍(こお)り豆腐」を正式な名称としている。作者の居住地がわからなくて残念だが、作者がお住まいのあたりでは「吊豆腐」と呼んでいるのだろう。「凍豆腐」の呼称があまりに有名なことから、実はこの呼び方は「みちのく」という一地方の方言であって、本当はここらで言うように「吊豆腐」と呼ぶべきだと主張している。俳句で食品の名前に文句をつけているのは珍しいし、面白い。言われてみると、その通りだ。凍豆腐製造は元来が和歌山県高野山の「高野豆腐」に発していることに間違いは無く、私の田舎(山口県)でもごく普通に「こうやどうふ」と言っていた。それが江戸期や明治大正期の全国的に通用する名前だったようだが、いついかなる理由をもって凍豆腐のほうが一般的になったのだろうか。たいていの名産品だと、特産地が移動したとしても発祥の地の呼び名を一部分でも踏襲しそうなものだけれど、この食品に限っては、突然変異的(としか思えない)に名称のポピュラー性が高野山から陸奥にシフトされてしまったようだ。寒夜に表に吊るして凍らせるイメージが、高野山よりも陸奥の厳寒にこそふさわしいからだろうか。それにしても、高野豆腐の名称は今でも通じてはいるものの、言葉の世界にも不思議なことが起きるものだ。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所収。(清水哲男)


January 2512005

 死後初の雪見はじまる縁の家

                           摂津幸彦

語は「雪見」。平城京の昔には年中行事とされていた。高貴な人たちが初雪を賞でたわけだが、時代を経るにつれて庶民のささやかな楽しみの一つに転化した。行われるのも、とくに初雪の日とは限らない。掲句の場合も、友人知己が集っての例年当季の酒盛り程度の軽い意味だろう。自分が死んだ後も、当然のように恒例となった雪見の会が開かれている。いや、開かれるはずである。当たり前といえば当たり前のことながら、そこに自分がもう出られないと予感することは淋しくもたまらない気持ちだ。明らかに、このときの作者は自分の死期が近いことに気がついている。最近「摂津幸彦論」(「俳句」2005年1・2月号)を書いた仁平勝によれば、夫人から聞いた話として「幸彦はこの時期すでに、自分が癌であることをうすうす感づいていた」ようである。しかし、このエピソードを知らなくても、十分に作者の気持ちは伝わってくる。読み解くキーは「縁(私はあえて字余りとなる「えにし」と読んでおく)」だ。誰だって通常出入りするのは「縁の家」に決まっているから、普段はことさらに「縁」を言う必要は無い。だが作者は、あえて「縁」と付けている。すなわち、生きていてこその「縁」を強く意識し、いとおしむ気持ちが激しいからこその措辞と受け取らねばならない。したがって、近い将来にその「縁」が断たれてしまう絶望的な予感のなかで、生への執着と諦念とが交錯し明滅している一句と読めるのである。『鹿々集』(1996)所収。(清水哲男)


January 2612005

 わが肩に霞網めく黒ショール

                           梶川みのり

ショール
語は「ショール」で冬。最近のこの国でショール(肩掛け)といえば、なんといっても成人式での和装女性のそれが目に浮かぶ。申し合わせたように誰もが白いショールを羽織っているけれど、なかなかサマになる人はいないようだ。和装のついでに肩に無理矢理乗っけているといった感じ……。むしろ無いほうがすっきりするのにと、他人事ながら気がもめることである。ま、和装それ自体に慣れていないのだから、無理もないのだろうが。ところで、掲句のショールは洋装用だろう。写真は某社の商品カタログから抜いてきたものだが、「霞網(かすみあみ)めく」というのだから、たとえばこんなアクセサリー風の感じかしらん。たまに見かけることがある。おそらく作者は普段からすっと着こなしていて、しかしあるときいつものように肩に掛けると、なんだかふっと霞網にでもかかったような気持ちになったと言うのだ。ショールが霞網に感じられたということは、纏った作者自身はからめとられた不幸な小鳥ということになる。むろんそこまで大袈裟な感覚的事態ではないのだが、そうした想いが兆す作者の心の奥底に、私は自愛と自恃のきらめきを感じる。そのきらめきが、黒いショールを透かしてちらりちらりと見え隠れしているところに、この句の魅力があるのだと思った。『転校生』(2004)所収。(清水哲男)


January 2712005

 吸殻に火の残りをる枯野かな

                           山口珠央

語は「枯野」で冬。誰が捨てたのか、煙草の吸殻が落ちている。気になったので立ち止まってよく見ると、まだかすかに火がついたままだ。うっすらと煙も立ち上っている。あたりは一面の「枯野」原だ。危ないではないか、火事になったらどうするのだ。捨てるのならば、消えたかどうかをきちんと確認してほしいものだ。……といったような、心ない煙草のポイ捨てにいきどおっている句では、実はないだろう。作者が意図したのはおそらく、眼前に広がる枯野がどのような枯野なのかを、描写的にではなく実感的に提示したかったのだと読む。だから実際にそこに吸殻は落ちていなかったのかもしれないし、落ちていたとしても完全に火は消えていたのかもしれない。いずれにしてもそこに火の消えていない吸殻を置くことによって、見えてくるのはいかにも乾いていてよく燃えそうな枯れ木や枯れ草、枯れ葉の一群であり、それらが延々と広がっている情景だ。いかに描写を尽くそうとも伝わらないであろう実感的な情景を、小さな吸殻に残ったちいさな火一つで伝え得た作者のセンスはなかなかのものだと思う。作者の句としては、他に「トラックやポインセチアを満載に」「古物屋や路地にせり出す炬燵板」などがある。いままで知らなかった名前の人だが、こういう才能を見つけると嬉しくなってくる。煙草が美味い。「俳句」(2005年2月号・「17字の冒険者」欄)所載。(清水哲男)


January 2812005

 寒き夜や父母若く貧しかりし

                           田中裕明

年末に急逝した作者の主宰誌「ゆう」の二月号が届いた。最後の作品として、掲句を含む二十二句が載せられている。むろん、彼はこの最新号を目にすることはできない。彼はあまり自分の育ちなどについては詠まないできた人という印象があるので、おやっと目が止まってしまった。他のページに「いまはあいにく入院中で、おおかた病院の中にいます」とあるから、この句も病院で詠まれたものだろう。入院という環境が、「家族」を強く意識させたということにもなろうか。とりたてて家族への新鮮な視点があるわけではないけれど、貧しくはあったが、あのころがいちばん良かったかなというつぶやきが聞こえてきそうな句だ。いまの自分よりももっと若かった父母を中心に、「寒き夜」に家族が身を寄せあっている情景は懐かしくも心温まる思い出だ。両親が貧しさと戦う武器は「若さ」のみ。生活の不安や悩みには重いものがあったろうが、子供としての作者にはわかるはずもない。ただ両親の若さによる活力を頼もしく思い、庇護されていることの心地よさだけがあった……。作者とはだいぶ年代が違うのだが、敗戦時に子供だった私たちの世代には、もうこれだけでぐっと来てしまう句だ。なお「ゆう」は、もう一冊「田中裕明主宰追悼号」を出して終刊となる。(清水哲男)


January 2912005

 遊び降りにたちまち力山の雪

                           矢島渚男

語はもちろん「雪」であるが、「遊び降り」という言い方にははじめて接した。作者は長野の人だから、信州あたりでは普通に使われている言葉なのだろう。はじめての言葉だが、だいたい察しはついたつもりだ。ちらりちらりと降るともなく降ってくる雪。その様子が、いかにも悪戯っぽく「遊び」めかしたような降り方に思えることからの言い方だと思う。味のある言葉だ。しかし遊び降りだからといって、「山の雪」をあなどってはいけない。東京あたりだと、ちらちらはちらちらのままに終わってしまうことが多いけれど、雪国の山中ではまさに句にあるごとく、ちらちらに「力」を得たかのように「たちまち」視界を遮るほどの本降りに変わっていく。雪国とまでは言えなくとも、我が故郷での少年時代には何度も同じような降り方を体験した。下校時にちらちらっと来たら、一里の道を一目散に家をめがけたものだ。掲句にそんなことも思い出したが、この「力」の使い方が実に巧みだ。なんでもないようだけれど、この「力」は情景的な雪のそれにとどまらず、句全体を引き締める力としても働いている。妙な言い方になるが、句のいわばフンドシとして機能している。であるがゆえに、読む側にもキリリとした力が渡されるというわけだ。『翼の上に』(1999)所収。(清水哲男)


January 3012005

 夜は水に星の影置き冬の菊

                           加藤耕子

語は「冬(の)菊」。当歳時記では、一応「寒菊(かんぎく)」に分類しておく。芭蕉の昔より「寒菊」「冬菊」の句は多いが、冬季は花が少ないので自然にこの花に注目が集まるということだろう。が、掲句のように冬の夜の菊を詠んだものは珍しい。池のほとりに咲いている冬の菊。今宵の空は煌煌と冴え渡り、「水」は「星の影」をくっきりと写している。その星々と白い菊の花が、まったき静寂の中で澄み切っている様が目に浮かぶ。がさがさとせわしない現代人の暮らしの中にも、心を鎮めれば、こうした情景をとらえることができるのだ。その意味で、この句は私をはっとさせた。叙景句、あなどるべからず。ところで、季語「冬菊」を「寒菊」とは別種なので別項目にしている歳時記がある。最も新しいものでは、講談社版『花の歳時記』(2004)がそうだ。それによると「冬菊」は普通種の遅咲きを指し、「寒菊」は「島寒菊(油菊)」を改良した園芸品種を指すのだという。そして「(これらを)混同している歳時記が多い」と書いてある。しかし私は、それはその通りだとしても、あえて「混同」的立場に立っておきたい。なぜならば、多くの歳時記がどうであれ、肝心の俳人たちが明確に「冬菊」と「寒菊」の違いを承知した上で詠んできたとは、とても思えないからなのだ。たとえば芭蕉の有名な「寒菊や粉糠のかゝる臼の端」にしても、この菊は園芸種でないほうがよほど似つかわしいではないか。それに別建て論者が典拠とする『江戸名所花暦』は文政11年(1827年)の刊行だから、むろん芭蕉が知り得たはずもないのである。掲句は俳誌「耕」(2005年2月号)所載。(清水哲男)


January 3112005

 人参は丈をあきらめ色に出づ

                           藤田湘子

語は「人参(にんじん)」で冬。大人になっても苦手な人がいるけれど、私は子供のころから好きだった。でも、正直言って最近のものには美味くないのが多い。当時は掘りたての人参を生でも食べていたのだから、よほど甘味に飢えていたのか、あるいは本当に品質が良かったのか。それはともかく、掲句はまことに言い得て妙だ。世の中にはひょろ長い品種もあるのだそうだが、たいていの人参はゴボウなどのように「丈」長くは生長しない。ずんぐりしている。それを作者は人参が「丈をあきらめ」たせいだと言い、その代わりにあきらめた分だけ「(美しい)色に」出たのだと言っている。なるほどねえと、多くの読者は微笑するに違いない。むろん、私もその一人だ。ただ、句では人参が擬人化されていることもあって、なかには人生訓的に読もうとする人もありそうだが、それは作者の意図に反するだろう。この句の生命は、あくまでも人参のありようをかく言い止めたウイットにあるのであって、もっともらしく教訓的にパラフレーズしてしまっては何のための句かわからなくなってしまう。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」などの俳句もどきとは違うのである。ウイット無き俳人は問題にならないが、ウイット無き読者も同断だ。しゃかりきになってこんなことを言う必要もないのだけれど、ちょっと気になったので……。俳誌「鷹」(2005年2月号)所載。(清水哲男)




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