痛風治療薬に含まれるベンズブロマロンの副作用、肝臓障害で死者数名。クスリは恐い。




2005N19句(前日までの二句を含む)

January 0912005

 その昔初場所中継志村アナ

                           永 六輔

語は「初場所」。めでたく勇ましく。「初場所や千代吹っ飛びぬ土俵下」(大和屋古鬼)。大相撲の盛りのころ、とくに初場所は華やいだ。毎日が満員御礼。この盛況をもたらしたのが、戦後存亡の危機にあった大相撲を中継しつづけたNHKラジオだ。昭和二十年代、中継アナウンサーの花形は和田信賢と句にある志村正順の二人。この二人が、全国にどれほど相撲ファンを作り出したことか。私の年齢では、とくに志村アナの「軽機関銃」と評された早口にして的確な描写が思い出に残る。初場所が楽しみだったのか、志村アナの放送それ自体が楽しみだったのか、どちらとも言えないほどだ。放送時間前になるとそわそわしてきた気分を、いまでも忘れない。だから、掲句が巧いとか下手とか言う前に、目にした途端にここに記録しておこうと思った次第だ。志村アナの名調子を再現できればよいのだが、録音もあまり残されておらず、おまけに著作権法の縛りがあってどうにもならない。せめてもということで、尾嶋義之『志村正順のラジオ・デイズ』(新潮社)より彼独特の実況ぶりを引き写しておく。「……立ち上がりました。ガーンと一発左を入れた東富士。左四つ、ガップリと組みました。……全然動かない。まったく動きません。動かない。まるでくくりつけの人形のようだ。全然動かない。……東の左足首がじりっ、じりっと動いております。まさに土俵上、電光燦爛、電光燦爛としております。東富士寄りました。グングン寄った。羽黒こらえた、懸命にこらえた。こらえました。東土俵、羽黒寄り返しました。七分三分、東また寄った。グングン寄った。グーッと寄りました。羽黒またけんめーッにこらえました。羽黒寄り返しました。東また寄った。グングン寄った。三度目。しかしまた羽黒寄り返しました。……さすがに羽黒山は強い」。結局東富士が勝つのだが、嘘か誠かは知らねども、締めくくり方も実に巧い。「……さすがに期待どおりの大相撲、両雄莞爾と笑っております」。ここで掲句に戻れば、全くそのとおりだなあと何度でも頷ける。今年の初場所、今日初日。月刊「うえの」(2005年1月号)所載。(清水哲男)


January 0812005

 枯野ゆく徒手空拳も老いにけり

                           吉田汀史

語は「枯野」で冬。若い人が読むと、「枯野」と「徒手空拳」は付き過ぎ、あるいは出来過ぎと感じるかもしれない。いや、そう読むのがむしろノーマルだろう。なぜなら、若い人は病者を除いて、本当の意味での「徒手空拳」がわからないからである。つまり、日常的に自分の身体のありようを意識することがほとんどないからなのだ。したがって、他に何物をも持たず我が身一つをたのむという「徒手空拳」を、身体よりも気概に重きを置いて理解する。ところがある程度の年輪を重ねてきた人は、逆に身体に重きを置く。そうせざるを得ない。身体の老いの自覚は日常的になり、それだけ孤独感も深まってくる。字義どおりの「徒手空拳」で生活をつづける身にとっては、もはや「枯野ゆく」の孤独も比喩というよりは実感に近いのである。作者に比べれば、私などはまだまだ若造でしかないけれど、だんだんこういう句が見逃せなくなってきた。話は少しねじれるが、若者にとって最も理解し難い老人の欲望の一つに名誉欲がある。むろん掲句とは無関係の一般論だが、一円にもならない何とか褒章などを欲しがったりする人がいる。理由は単純で、要するに徒手空拳であることが恐いのだ。褒章というメディアで世の中ともう一度つながることにより、「枯野」から脱け出して、我が身一つではないことを確認したいがためである。この心情を良く知っている国家とは、しかし何と狡猾なことか。俳誌「航標」(2005年1月号)所載。(清水哲男)


January 0712005

 人間天皇空に凧が上っています

                           内田南草

に「凧(たこ)」といえば春の季語だが、この場合は句意から推して別建ての「正月の凧」に分類しておく。戦後はじめてめぐってきた元日に、天皇の人間宣言が行われた。1946年(昭和二十一年)。「朕ハ爾等国民ト共ニ在リ。常ニ利害ヲ同ジウシ休戚ヲ分タント欲ス。朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(あらひとがみ)トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延(ひい)テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ」。当時七歳の私には何の感慨の起きようもなかったけれど、大人たちには実に衝撃的な事態であったろう。反応は当然さまざまであったと思われるが、なかで掲句は当時の多くの庶民の気持ちを代弁していたと言ってもよいのではあるまいか。それまでの雲の上の存在が、同じ地平に降りてきたわけだから、今日からは同じように空を見上げる立場になった。正月の空といえば、まず「凧」である。人間天皇にいっしょに見上げようと呼びかけることで、戦後の大いなる開放気分をうたい込んだ句だ。今年は、敗戦から数えて六十年になる。あのときにこの開放感を抱いた庶民のその後の歴史は、どうであったか。そして、これからのこの国はどこへ行こうとしているのか。かつての戦争を知る人が少なくなってきた現在、このあたりで立ち止まってじっくりと考える必要がある。『財界歳時記』(1988)所載。(清水哲男)




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