Lzq句

March 3132005

 春や一億蝋人形の含み針

                           豊口陽子

が、どこで切れているのか。しばし迷った。大宅壮一の「一億総白痴化」じゃないけれど、最初は「一億蝋人形」(化)するのかとも考えた。でも、そう読むと、あまりにも構図が単純になってしまい、しかも押し付けがましくなる。私もあなたも「蝋人形」というわけで、決めつけが強引に過ぎるからだ。で、素直に「春や一億」で切ってみた。そうすると、一億の民みんなに春が訪れたと受け取れ,ほとんど「春や春」と同義になる。情景がぱっと明るくなり,蝋人形とのコントラストが鮮明になる。「含み針」は、口に含んだ短い針を敵に吹きつけて攻撃する一種の飛び道具だ。実際に使われたものかどうかは知らないが,時代物の小説などにはよく出てくる。作者は「春や一億」の明るいイメージは、つまるところ表層的なそれに過ぎず,その深層には正体不明の蝋人形がいて、それも含み針を口中に,一億の能天気に一針お見舞いすべく隙をうかがっていると詠んでいる。この、言い知れぬ不安……。蝋人形は不気味だ。どんなに明るい表情に作られていても,その一瞬の表情や仕草が永久に固定されていることから、本物の人間との差異が強調されてしまうからだ。身体的にも精神的にも,およそ運動というものがないのである。いま思い出したが,西條八十が若い頃、空に浮かんだ蝋人形の詩を書いている。八十は不気味にではなく,耽美的に蝋人形をとらえているのだが、私などにはやはり病的な不気味さばかりが印象づけられた世界であった。『薮姫』(2005)所収。(清水哲男)




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