2005N5句

May 0152005

 笈も太刀も五月にかざれ紙幟

                           松尾芭蕉

語は「幟(のぼり)」で夏。端午の節句に立てる布や紙製の幟である。現在では鯉のぼりが圧倒的に優位にあるが、芭蕉の頃には逆だった。あるいは、鯉のぼりはまだ無かったかもしれない。いかにも五月らしい威勢の良い句だ。『おくのほそ道』の旅で、現在の福島県瀬上町に佐藤庄司(藤原秀衛の臣で、息子二人は義經に殉じた)の旧跡を訪ねた折りの作。かたわらの医王寺に「入りて茶を乞へば、爰に義經の太刀辨慶が笈をとゞめて什物とす」とある。すなわち、折りしも五月なのだから、紙のぼりといっしょに弁慶の笈(おい)も義經の太刀も節句の飾り物にせよと言ったわけだ。しかも、この日は偶然にも「五月朔日のことなり」ということで、ますます威勢がよろしい。昔の読者はみな「ううむ」と感心したのだったが、後に曾良の随行メモが発見されて、これらがフィクションであることが明らかになる。芭蕉は義經の太刀も辨慶の笈も実際には見ていないし、日付も五月一日ではなくて二日だった。このようなフィクションは『おくのほそ道』には他にもあり、ノンフィクションとしては信用できない書き物ではあるけれど、しかし私は、自作を生かすためのこの程度のフィクションは気にしない。もっと大ボラを吹いて楽しませてほしいくらいだ。でも、二日の出来事を「一日」のことだとわざわざ特記するところあたりで、芭蕉はちょっと気がさしたかもしれないなあ。同時代の井原西鶴ほどには、押しが強くなかった人のようだ。蛇足ながら、正岡子規は鯉のぼりが嫌いだったらしい。「定紋を染め鍾馗を画きたる幟は吾等のかすかなる記憶に残りて、今は最も俗なる鯉幟のみ風の空に翻りぬ」と慨嘆している。(清水哲男)


May 0252005

 田植ぐみ子が一人ゐて揺りゐたり

                           若色如月

夏茱萸
語は「田植ぐみ」。この言い方は知らなかったが、句景からして「苗代茱萸(なわしろぐみ)」とも言う「夏茱萸」のことだろう。秋に実をつけるのが「秋茱萸」だ。私が俳句を愛好する理由のひとつは、ときどきこうした懐かしい光景に出会えるからである。二十年も三十年も忘れてしまっていた世界が、すっと眼前に立ち現われてくる喜びは、俳句ならではのものだ。少年時代の思い出にそくして言えば、掲句は一家総出での田植えの一齣である。昔の田植えはとにかく手間がかかったから、夜明けとともに田圃に入り、日暮れ時まで植えつづけた。自分の家の真ん前の田に出るのならばともかく、遠く離れた田圃だと、昼食をとりに家に戻るなどという余裕は無い。だから、文字通りに一家総出で出かけていく。あぜ道に篭を置いて、なかに赤ん坊を寝かせておくなども当たり前の情景だった。年寄りから小学生まで、植えられる人間はみんな田圃に入ったものだった。そんなわけで、句の「子」はまだ手伝いのできない小さい子だと思う。退屈してきたので、近くの山薮のなかに入って「ぐみ」を取っているのだ。田圃のなかから眺めやると、葉がくれの小さい子の姿に重なって、ちらちらと赤い実が揺れている。ただそれだけのことながら、かつての農村に育った者には、ふるいつきたいくらいの懐かしい光景だろう。写真は、このサイトより拝借。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


May 0352005

 春深し隣りは鯛飯食ひ始む

                           清水基吉

書に「車中」とある。隣りにいるのは、たまたま乗り合わせた見知らぬ人である。発車後間もないのか、あるいはまだ飯時ではないのか。でも、その人はひとり悠々と「鯛飯」弁当を食べはじめた。まことにもって「春深し」の候、作者は窓外を流れる新緑を眺めながら微笑している。ざっくりと読むならば、こういうことだろう。だが、人にもよるのだろうが、私などは隣りの人の食事にはちょっと神経を使わせられる。ちらちら目をやるわけにもいかないし、できるだけ無関心を装わねば失礼なような気もするので、身じろぎもせずに窓の外を見やったり、眠ったふりでもすることになる。自分が弁当を持っている場合にはもっと複雑で、こちらも食べればよいものを、それでは隣りにつられて真似したようで、釈然としない。しかも相手は高価な「鯛飯」、こちらはスタンダードな幕の内だったりすると、それだけで一種気後れもするから、ますます開けなくなる。仮にこの逆であるとしても、同じことだ。とにかく、まったく無関心というわけにいかないのには困ってしまう。神経質に過ぎるだろうか。これはもしかすると昔の教室で、みんなが弁当を隠しながら食べた世代に特有の感じ方なのかもしれないと思ったりもしているのだが……。ゆったりと句を味わえばよいものを、つい余計なことを書いてしまった。ごめんなさい。俳誌「日矢」(2005年5月号)所載。(清水哲男)


May 0452005

 屋根裏に吊す玉葱修司の忌

                           大倉郁子

日を季語とすることに、私はあまり積極的じゃない。よほど有名な人の亡くなった日でも、故人の縁者や友人などならいざ知らず、季節がいつだったかを覚えているのは難しいからだ。急に誰それの忌と句で示されても、読者に季節がわからなければ価値は半減してしまう。「(寺山)修司」が亡くなったのは、1983年の今日のことだった。もう二十年以上もの歳月が過ぎているわけで、ファンや私のような友人知己は別にして、一般的には死去した季節を知らないほうが普通なのではあるまいか。だから、それでもなお忌日を使いたいという場合には、掲句のように他に季節を指し示す言葉で補完するのが妥当だと思う。俳句で「玉葱」は夏の季語だが、今頃はちょうど新玉葱の収穫期だから「修司の忌」にぴったりだ。そしておそらく、この句は寺山の短歌「吊るされて玉葱芽ぐむ納屋ふかくツルゲエネフを初めて読みき」を踏まえている。したがって、句の「玉葱」も芽ぐみつつあるのだ。吊るした玉葱は気温との関係で発芽することがあり、収穫農家にはドジな話なのだが、寺山にとっては眠れるものの覚醒であり、句の作者にとっては死者のひそやかな復活を意味している。そう読むと、なかなかに良く出来た抒情句だ。ところで振り出しに戻って、句の季語はどうしようか。「玉葱」か「修司の忌」か。小一時間ほど悩んだ末に、寺山さんとのあれこれが思い出されてきて切なくなり、あえて節を曲げることにした。季語は「修司忌」で春です。明日が立夏。『対岸の花』(2002)所収。(清水哲男)


May 0552005

 頭より軽きボールや夏始まる

                           原田 暹

の上では、今日から夏だ。作者の体調、すこぶる良好と読める。天気も快晴だ。バレーボールだろうか。とにかく、野球のボールのように小さいものではない。それを両手で持ったときに、ふっと「頭より軽き」と感じた。普通は頭の重さなど意識することはまずないだろうが、このときの作者は感じたわけだ。これはボールの意外な軽さを言っていると同時に、頭の重さに身体の充実した感覚を象徴させているのだろう。すなわち、気力体力が良好であるがゆえのボールの軽さなのである。同じボールでも、調子の悪いときには重く感じられる。今日は、そんな感じがまったくない。さて、それではサービスエースとまいろうか。夏の始まりの清々しい気持ちが、一読伝わってきて心地よい。このとき、作者二十七歳.さもありなんと、うなずける年齢でもある。ボールと言えば、少年時代に憧れたものの一つだ。何にせよ、手作りの時代だったから、野球のボールにせよバレーボールのそれにせよ、本物のボールに触れる機会はなかなかなかった。バレーボールの本物に触れたのは、中学三年のときの体育の時間だったと思う。そのときは軽さ重さというよりも、見かけからすると意外に固いなと感じたことを良く覚えている。いまだにその触覚が残っているせいで、国際試合などでの猛スピードのやりとりを見ていると、痛っと思ったりしてしまう。「俳句」(1971年7月号)所載。(清水哲男)


May 0652005

 十七歳跨いで行けり野の菫

                           清水径子

語は「菫(すみれ)」で春。ハイキングの途次だろうか。可憐に咲いている「野の菫」を、まことに無造作に「十七歳」が跨(また)いで行ったというのである。「十七歳」とは、微妙な年齢だ。十六歳とも違うし、十八歳とも違う。もう子供だとは言えないが、さりとて大人と言うにはまだ幼いところが残っている。そんな宙ぶらりんな年齢にとって、例外はあるにしても、野に咲く花などに立ち止まるような興味はないのが普通だろう。万事において、好奇心はもっと刺激的なものへ、もっと華麗なものへと向けられている。掲句は、十七歳のそのようなありようを、菫をぱっと跨いで行った一つの行為を描くことで、見事に象徴化してみせた作品だ。未熟で粗野な美意識と、それを補って余りある若い身体の柔軟性とが、一つに混然と溶け合っている年齢の不思議を、むしろ作者は羨望の念を覚えながら見たのだと思われる。ところで、この十七歳は男だろうか、それとも女だろうか。どちらでもよいようなものだけれど、私は直感的に女だと読んでいた。男だとすると、情景が平凡で散文的に過ぎると感じたからだ。女だとしたほうが、跨ぐ行為にハッとさせられるし、しなやかな肢体を思わせられるので、情景にちょっぴり艶が出る。それから、もしかするとこの「十七歳」はかつての作者自身だったのかもしれないと、思いが膨らんだのでもあった。『清水径子全句集』(2005)。(清水哲男)


May 0752005

 植うる田を明けの駅員見つつゆく

                           剣持洋子

の句を載せている歳時記では、田植えの終わった「植田」の項に分類しているが、間違いだと思う。「植うる」とは「植えられつつある」の意だから、当歳時記では「田植」に分類しておく。季節は夏。夜勤「明け」の駅員が、帰宅の道すがら、田植えの模様を目に入れているという情景だ。上天気で、日がまぶしい。その日を照り返している田の水は、もっとまぶしい。徹夜明けのくたびれた目には、なかなかに辛いものがある。この駅員の実家は、おそらく農家なのだろう。疲れた身体を休めるために、これから戻って一眠りしなければならないのだが、みなが田圃で働いているときに寝ることには、忸怩たる気持ちもある。いかに自分が徹夜で働いていたとはいえ、田園地帯に暮らしている以上は、徹夜仕事すら言い訳めいてくるのだからだ。もしかすると、田植えが行われているのは、我が家の田圃なのかもしれない。ならば後ろめたい気持ちはなおさらである。戦後の農家は、現金収入を得るために、町場に働きに出る男たちを輩出した。余儀なく、いわゆる「三ちゃん農業」に追い込まれていったのだった。「とうちゃん」や「にいちゃん」はサラリーマンになり、残った「かあちゃん、じいちゃん、ばあちゃん」が野良仕事をするわけだ。そんな背景を思って掲句を読むと、一見さらりとした情景のなかに、複雑な人間心理が錯綜していて、読後に重いものが残る。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


May 0852005

 旧姓で呼ばるる目覚め明易き

                           宮城雅子

語は「明易(あけやす)し」で夏、「短夜(みじかよ)」に分類。夜明けが早くなってきた。最近では、4時を少し過ぎると明るくなってくるので、早起きにはありがたい。そんなある朝、作者は「旧姓」で呼ばれて目が覚めた。夢の中で呼ばれたとも取れるが、私は現実に呼ばれたと取った。一泊のクラス会か何かで、この日は早立ちだったのだろう。そろそろ起きなければと呼びかけた人は、昔の友人だから、何のためらいもなく自然に旧姓で声をかけたのだ。が、呼びかけられたほうは、眠さも手伝って、一瞬意識が混乱したにちがいない。既に夜がしらじらと明け初めているなかで、だんだん覚醒してくると、そこにはかつての友人の微笑を浮かべた顔があった。時間の歯車が懐かしい少女時代に戻してくれたような気がして、まだ眠さは残っているものの、まったく不快ではない。結婚によって、姓が変わった女性ならではの世界だ。したがって、多くの男には体験できないわけだが、急に旧姓で呼びかけられると、どんな気持ちがするものなのだろうか。男だと、それこそクラス会で、いきなり昔のあだ名で呼ばれたりすることがあるけれど、ちょっとあれに似ているのかもしれない。似てはいるのだろうが、しかしもっとインパクトは強そうだ。などと、あれこれ想像を膨らませてくれる一句だった。『薔薇園』(2004)所収。(清水哲男)


May 0952005

 美しき人の帯せぬ牡丹かな

                           李 千

語は「牡丹(ぼたん)」で夏。柴田宵曲『古句を観る』(岩波文庫)に出ている元禄期の句だ。えっ、なんだい、これはっ。と、一瞬絶句。牡丹と美人との取り合わせは良いとしても、選りにも選ってしどけなくも帯をしていない女を立たせるとは。いわゆる狂女かしらんと想像をめぐらして、なんだか不気味な句だと思ったら、そうではなかった。宵曲曰く、「こういう句法は今の人たちには多少耳遠い感じがするかも知れないが、この場合強いて目前の景色にしようとして、帯せぬ美人をそこに立たせたりしたら、牡丹の趣は減殺されるにきまっている。句を解するにはどうしてもその時代の心持ちを顧慮しなければならぬ」。なるほど。となれば、現代の句は「今」の時代の心持ちを顧慮して読まなければならないわけだが、その前に「今」の俳句が「今」の心持ちを詠んでいるのかどうかが大いに気になる。「今」の時代というよりも、「今」の俳壇の心持ちで詠まれている句が多すぎないか。おっと、脱線。したがって、掲句の帯せぬ美人とは、すなわち牡丹の艶麗な様子を言ったものである。「立てば芍薬、坐れば牡丹」と言い古されてきたが、元禄期の心持ちでは牡丹は美人の立ち姿だったことになる。当然のことながら、美人の尺度もその時代の心持ちによって決められるのだから、この帯せぬ人の体型は、「今」の美人のそれとは大いに異なっていたのだろう。(清水哲男)


May 1052005

 とととととととととと脈アマリリス

                           中岡毅雄

語は「アマリリス」で夏。ギリシャ語で「アマリリス」は「輝かしい」という意味だそうだが、そのとおりに輝かしく健康的で、そしてとても強い、先日見た鈴木志郎康さんの映画のなかに、三年ぶりだったかに庭に咲いたこの花が出てきたが、そう簡単には生命力を失うことはないらしい。一方、作者は病いを得て、少なくとも健康とは言えない状態のなかにいる。そんな状態が、もうだいぶ長いのだろうか。ときおり脈の様子をみるのが、習い性になっているのだ。今日もまた、いつものように手首に指先を当ててみると、「とととと」「とととと」と、かなり早く打っている。健康体であれば、もう少しゆっくりした調子で「とくとく」「とくとく」となるところなのに……。そしてこのとき、作者の視界にあるのはとても元気なアマリリスだ。病気の身には、人間はもとよりだが、草木や花などでも、健康的なものには敏感になる。老いの身が若さをまぶしく感じるのと同様で、元気に触れると、どうしようもないほどに羨望の念を覚えてしまう。「とととととととととととと」、表現は一見諧謔的ではあるけれど、それだけ余計にアマリリスの元気と溶け合えない作者の気持ちが増幅されて伝わってくる。ところで、この花の花言葉は「おしゃべり」だそうだ。病人には、もっとしっとりとした花でないと、刺激が強すぎる。『椰子アンソロジー・2004』(2005・椰子の会)所載。(清水哲男)


May 1152005

 若菜から青葉へぽつんと駅がある

                           富田敏子

語は「青葉」で夏。「若菜」もそのように思えるが、俳句で「若菜」は新年の季語だ。七草粥に入れる春草を言う。しかし、この句ではそうした正月の七草ではなく、なんとなく春の雰囲気を帯びた草の総称として使われているので、季語と解さないほうがよいだろう。初夏のローカル線での情景。作者は車中にあって、窓外の景色を眺めている。広々とした平野にはどこまでも薄緑の春の草が広がっていて、心地よい。そのうちに列車は山間にさしかかり、今度は木々の緑が美しく目に飛び込んできた。これからしばらくは、この青葉をぬって進んでいくのである。その「若菜」と「青葉」の景色が切り替わるあたりの「駅」で、列車はしばし停車した。無人駅かもしれない。それはいかにも唐突に「こんなところに駅が」という感じで「ぽつん」と立っており、乗降客も見当たらないようだ。私の故郷の山口線にも、昔はそんな駅がいくつかあった。この句の良さは、もちろん「若菜から青葉へ」の措辞にあるわけで、物理的には平野部から山間部への移動空間を指し示しているのと同時に、他方では春から夏への時間的な移ろいを表現している。その時空間がまさに変化しようとしている境界に、ぽつんとある駅。駅自体はちっぽけなのだけれど、存在感は不思議に重く感じられる。作者のセンスの良さが、きらっと輝いている句だ。『ものくろうむ』(2003)所収。(清水哲男)


May 1252005

 緑蔭に低唱「リンデン・バウム」と云ふ

                           上田五千石

語は「緑蔭(りょくいん)」で夏。青葉の木陰は心地よい。二通りに解せる句で、ひとつは、緑蔭で誰かが低く歌っている「リンデン・バウム」が聞こえてきたという解釈と、もう一つは自分で歌っているという解釈だ。私は「緑蔭に」の「に」を重視して、自分が口ずさんでいると取る。ほとんど鼻歌のように、何の必然性もなく口をついて出てきた歌。それがシューベルトの名曲「リンデン・バウム」だったわけだが、作者はその曲名をあらためて胸の内で「云ふ」ことにより、美しい歌の世界にしばしうっとりとしたのだろう。あるいはこの曲にはじめて接した少年時代への懐旧の念が、ふわっとわいてきたのかもしれない。いずれにしても、ちょっとセンチメンタルな青春の甘さが漂っている句だ。♪泉に沿いて繁る菩提樹……。私は中学二年のときに習ったが、この曲を思い出すと、教室に貼ってあった大きなシューベルトの肖像画とともに、往時のあれこれがしのばれて、胸がキュンとなる。学校にピアノはなく、オルガンで教えてもらった。ところで「リンデン・バウム」を菩提樹と訳したのは堀内敬三だが、ドイツあたりではよく見かけるこの樹は、お釈迦様の菩提樹とも日本の寺院などの菩提樹とも雰囲気がかなり違う。両者の共通点は同じシナノキ科に属するところにはあるのだけれど、この訳で良かったのかどうか。もっとも「菩提樹」という宗教的な広がりを感じさせる訳だったからこそ、日本にもこの歌が定着したとも言えそうだが。『田園』(1968)所収。(清水哲男)


May 1352005

 白服にプラットフォームの端好む

                           田中灯京

語は「白服」で夏、「夏服」に分類。今日から「白服」に着替えたのだろう。男は女性ほどひんぱんに色調の異なる服には替えないので、着替えた当座はなんとなく照れくさいものだ。べつに誰が見ているわけでもないのに、あまり人の目につかないようなところを選びたくなる。そんな感じで、作者も自然に「プラットフォームの端」に足が向いたのだった。が、端っこに立っていても、どうも落ち着かない。面映いような気持ちだけが募ってくる。わかりますねえ。私はそういうときでなくても端が好きで、ひとりのときはいつも最後尾から乗車する。駅のどのあたりで待つかは、性格によるんだぜ。大学時代に友人からそう言われて、はっとしたことを思い出した。友人の説によれば、内向的な人間、引っ込み思案の人間は、たいてい端に立つ。それも先頭ではなく、最後尾のほうの端だということで、見事に当っているなと合点したのだった。それからしばらくというもの、ならば引っ込み思案を少しでも直そうとして、真ん中へんで待つことに努力したのだけれど、あえなく挫折。どうも、端でないと落ち着けなかったからだ。そういえば、別の友人で、いつも同じ位置に乗り合わせた女性と結婚したヤツもいたっけ。同じ性格だから、大いに気が合ったのだろう。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


May 1452005

 生きのいい頭あつめてもむみこし

                           落合水尾

輿渡御の景。句は「祭」に分類しておく。俳句で「祭」は夏祭のことだ。平仮名を多用しているのは、神輿を揉むダイナミックな様子を表現する意図からだろう。明日は東京・神田祭の宮入で、九十基もの神輿が練り回るというから、人、人、人の波となる。まさに「生きのいい頭」たちの晴れ舞台だ。岡本綺堂が明治期の東京の祭について書いているが、昔は実にすさまじかったらしい。「各町内の若い衆なる者が揃いの浴衣の腰に渋団扇を挿み、捻鉢巻の肌脱ぎでワッショイワッショイの掛け声すさまじく、数十人が前後左右から神輿を揉み立て振り立てて、かの叡山の山法師が京洛中を暴れ廻った格で、大道狭しと渦巻いて歩く」。そして、これからが大変だ。「殊に平生その若い衆連から憎まれている家や、祭礼入費を清く出さぬ商店などは、『きょうぞ日頃の鬱憤ばらし』とあって、わざとその門口や店先へワッショイワッショイと神輿を振り込み、土足のままで店へ踏み込む。戸扉を毀す、看板を叩き落とす、あらん限りの乱暴狼藉をはたらいて、またもや次の家へ揉んでゆくという始末」というのだから、ダイナミックもここに極まれり。さすがに警察も黙っていられなくなり、この文章が書かれたころには、神輿を若い衆に揉ませることは禁じられ、「白張りの仕丁が静粛に」かつぐことになっていたようだ。それがまた、いつの間にやら「生きのいい頭」たちの手に戻り、戦後のひところはまた静かになった時期もあったけれど、やはり祭は「静粛」では面白くない。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


May 1552005

 大学も葵祭のきのふけふ

                           田中裕明

日は「葵祭(あおいまつり)」。京都は上賀茂神社と下鴨神社の祭礼だ。古くは賀茂祭と言い、昔は単に祭といえばこの祭を指したという。不思議な魅力を持った句だ。「大学も」の「大学」は作者の在籍した京大を言っているのだろうが、作者よりも二十年ほど前の学生であった私の実感からすると、葵祭がこのように大学の雰囲気に影響したことはなかったと思う。アルバイトで参加する連中を別にすれば、ほとんど話題にすらならなかった。どう想像してみても、作者が学生だった頃も同じだったのではないかと思われる。京都に在住経験のない人ならば、さもありなんと微笑しそうだけれど、大学というところは京都に限らず、散文的な空間である。それに若い多くの学生たちには、古くさい祭のことなどよりも、もっと他に好奇の対象はいくらだってあるのだから、いかに有名な祭でも、その色に染まるなんてことはまずないのである。しかし作者は、だからこそと言うべきか。あえてたかだか百年ほどの近代の産物である大学に、千年の都の風を入れてみたかったのではなかろうか。せっかく伝統の土地にありながら、その風を入れずに機能するだけだなんて、なんともったいない。もっとゆったりと構えて、葵祭に染まるのも、またよろしいのではないか。ならば染めてみようというところに、この句の発想の原点があるような気がする。すなわち、作者は掲句のような大学で学びたかった。「大学も」の「も」には、そうした作者の願いが込められているのだと読む。『山信』(1979)所収。(清水哲男)


May 1652005

 白靴の埃停年前方より来

                           文挟夫佐恵

語は「白靴(しろぐつ)」で夏。「前方」には「まへ」のルビあり。私は停年を経験していないが、わかるような気がする。一日働いて帰宅し靴を脱ぐときに、うっすらと埃(ほこり)がついているのに気がついた。白靴だからさして目立たないとは思うけれど、その埃を言うことで、日中働いてきた作者の充実感と、伴ってのいささかの疲労感を象徴させているのだろう。そんな日々のなか、だんだん停年退職の日が近づいている。ついこの間までは、まだまだ先のことだと思えていたのが、最近ではどんどん迫ってくる感じになってきた。停年の日に向かってこちらが歩いていっているつもりが、なんと停年のほうからも自分に歩み寄ってくる。それも「前方より」というのだから、有無を言わせぬ勢いで近づいてくるのだ。玄関先でのほんの一瞬の動作から、呵責ない時の切迫感を詠んだ腕の冴え。あるいはまた、この白靴は自分のではなく、ご主人のものだとも解釈できるが、そうだとしても句の冴えは減じない。いま調べてみたら、掲句は作者五十代はじめの句集に収められていた。昔の停年は五十歳と早かったので、ううむ、どちらの靴かは微妙なところではある。『黄瀬』(1966)所収。(清水哲男)


May 1752005

 敗れたりきのふ残せしビール飲む

                           山口青邨

語は「ビール(麦酒)」で夏。とはいえ、いまでは一年中飲まれていて、季節感も薄れてきた。だが、この句はやはり昔の夏のものだろう。いつごろの句かは不明だが、とりあえず飲み残したビールを保存しておくのは、ビールがまだかなり高価だった時代を物語っているからだ。作者は、何に「敗れた」のか。わからないけれど、「敗れたり」の「たり」に着目すると、ある程度の勝算があったにもかかわらず、結果は負けてしまったということだと推察できる。したがって情けなくも口惜しくて、勝てば新しいビールの栓を抜いたところなのに、気の抜けた飲み残し分を飲んでいる。意気消沈の気分が、不味いビールで余計に増幅されてきて、暗くみじめである。ビールの句には美味そうなものが多いなかで、不味い味とは珍しい。アルコール類の味は、飲むときの気分によってかなり左右されるということだ。飲まない人からすれば、そんなときには飲まなければよいのにと思うだろうが、勝ったといっては飲み、負けてもまた飲むのが飲み助の性(さが)みたいなもので、こればかりはなおらない。敗戦後の一時期には、失明の危険を承知しながらメチールを飲んだ多数の人たちがいたことを思えば、飲み残しのビールを飲むなどは、まだまだ可愛い部類だと言うべきか。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


May 1852005

 無職は無色に似て泉辺に影失う

                           原子公平

語は「泉」で夏。作者は出版社勤務(戦前は岩波書店、戦後は小学館)の長かった人だから、停年退職後の感慨だろう。「無職」と「無色」は語呂合わせ的発想だが、言われてみれば通じ合うものがある。社会通念としては、定年後の無職は常態であるとはいうものの、当人にしてみればいきなり社会の枠組みから外に出されたようなものなので、虚脱感や喪失感は大きい。ひいてはそれが己の存在感の稀薄さにもつながっていき、軽いめまいを覚えたときのように一瞬頭が白くなって、好天下「泉辺」にあるべきはずの自分の影すらも(見)失ってしまったと言うのである。むろんこれは心境の一種の比喩として詠まれてはいるのだろうが、しかし同時に、ある日あるときの実感でもあったろうと読める。作者とはだいぶ事情が違うのだけれど、私は二十代のときにたてつづけに三度失職した。いずれも会社都合によるものだったとはいえ、無職は無職なのであって、その頼りなさといったらなかった。若かったので「そのうちに何とかなるさ」と思う気持ちと、どんどん減ってゆく退職金に悲観的になってゆく気持ちとが絡み合い、それこそ頭が真っ白になってしまいそうで辛かった。社会や世間の枠組みから外れることが、どんなことなのかを思い知らされた者として掲句を読むと、何かひりひりと灼けつくような疼きを覚える。このときの作者には、停年まできちんと勤め上げたキャリアとは無関係に、無職の現実が重くのしかかっていたのだと思う。『酔歌』(1993)所収。(清水哲男)


May 1952005

 廃屋の内なる闇やさつき燃ゆ

                           山崎茂晴

語は「さつき(杜鵑花)」で夏。句景色は明瞭だ。誰も人の住んでいない(あるいは、誰も使用しなくなった)「廃屋」の周辺に、この夏も例年の通りに「さつき」が燃えるように咲いた。花の明るさが派手であるだけに、暗い廃屋との対比が鮮やかに感じられ、目に強い印象で焼きつけられる。そこで「内なる闇」に思いをいたせば、さまざまな想像がわいてきて、読者によっては廃屋にまつわる物語性を感じることもあるだろう。手法的に言って、景物のコントラストを強く意識させるべく詠まれた句だ。このように、多くの俳句は取り合わせの妙を大切にするから、おのずと作者は両者のコントラストの強弱ゃ濃淡を調節しながら詠むことになる。そしてその調節の具合は、変なことを言うようだけれど、デジカメのフルオート撮影のように、結局のところ作者各人の持って生まれた気質に依っているようである。デジカメにはそれぞれに癖があり、オートで撮るとよくわかる。あるメーカーのものはコントラストがいつも強く出るし、別のメーカーのものだといつも控えめであったりする。むろんどちらが良いというものではなく、使い手の好みに属する問題だ。そんな目で掲句の作者の詠みぶりを見ると、さつきと廃屋のコントラストの強さもさることながら、そこにもう一押し「内なる闇」を置いたことで、物事や物象の輪郭鮮明を好む人であるらしいと知れる。たった十七文字での表現ながら、作者の気質はかなり正確に反映されるということだ。面白いものです。『秋彼岸』(2003)所収。(清水哲男)


May 2052005

 信号をまつまのけんか柿若葉

                           伊藤無迅

語は「柿若葉」で夏。着眼点の良い句だ。まずは、シチュエーションが可笑しい。そのへんに柿の木があるくらいだから、そう大きくはない横断歩道だろう。信号を待つ人の数もまばらだ。そこへ「けんか」をしながら歩いてきた二人がさしかかり、赤信号なので足は止まったのだが、口喧嘩は止まらない。お互いに真っ赤な顔で言い争いつつも、ちらちらと信号に目をやったりしている。激した感情は前へ前へと突っ走っているのに、身体は逆に足止めをくっているのだ。その心と身体の矛盾した様子は、傍らにいる作者のような第三者からすると、とても滑稽に見えたにちがいない。しかも、周辺には柿の木があり、若葉が陽光を受けて美しく輝いている。こんなに美しくて平和な雰囲気のなかで、なにも選りに選って喧嘩をしなくてもよさそうなものを……。と、第三者ならば誰しも思うのだが、しかし当人たちにはそうはいかないところが、人間の面白さだと言うべきか。二人の目に信号は入っても、柿の木には気がついてもいなさそうである。口喧嘩を周囲の人たちに聞かれていることにすら頓着していないのだから、風景なんぞはまったくの関心外にあるのだ。すなわち私たちは、平常心にあるときは美しい自然に心を溶け込ませられるが、激したり鬱屈したりしていると、それはとうてい望めない存在であるということなのだろう。哀れな話だが、仕方がない。『炎環・新季語選』(2003)所載。(清水哲男)


May 2152005

 写生大会大きな紙に夏をかく

                           ともたけりつ子

者、十代の句。屈託がなく、羨ましいほどに瑞々しい句だ。なによりも「大きな紙」が良いし、描く対象を具体的に示さず、「夏をかく」としたところに好感を持った。そうなのだ、こういうときには何を描くかはさして問題ではなく、戸外に出て絵筆を握ったことに第一の喜びがあるのだ。「夏」とはいっても炎天下ではなく、ちょうどいまごろの季節だろう。はつなつの風も心地よく、作者は大きな紙をひろげて、清新の意気に溢れている。描かれてゆくのも、きっと大きな夏であるに違いない。思い起こせば、私が子供だった頃の画用紙は、とても小さいものだった(紙質もお粗末、おまけに絵の具も劣悪)。それでもA4判くらいの大きさはあったと思うが、なんだか小さい紙に小さくチマチマした絵ばかりを描いていたような記憶がある。すべてを紙のせいにしてはいけないけれど、伸びやかな絵を描くためには、やはり大きな紙が必要だ。私の世代から風景画家が出ていないのも、やはりあの小さな紙のせいではないかと疑ってきた。むろん、絵の上手い者は他の世代と同じくらいいたはずなのだが、われらが世代の絵得意人は、多くイラストレーターやらデザイナーやら、漫画家やらになっている。画家になっていても抽象的な志向が強く、おおらかでオーソドックスな王道を歩んだ者は皆無に近いのではなかろうか。作者の育った環境を、あらためて羨望する。『風の中の私』(2005)所収。(清水哲男)


May 2252005

 煌々と夏場所終りまた老ゆる

                           秋元不死男

語は「夏場所(五月場所)」。いまは六場所制だが、五月場所は初場所と並んで歴史が古い。作者は、毎年この場所を楽しみにしていたのだろう。千秋楽、館内「煌々(こうこう)」たるうちに優勝力士の表彰式も終わり、立ち上がって帰る前に、あらためて場内を見回して余韻を噛みしめている。充実した場所に大いに満足はしているのだが、それだけにもう来年まで見られないのかと思うと、一抹の寂寥感がわいてくる。そんな感情にかられるのもまた相撲見物の楽しみの一つではあるものの、一年に一度の夏場所ゆえ、ふっと我が身の年齢に思いが及んだりする。また一つ、年を取った……。あと何度くらい、ここで夏場所を楽しめるだろうか。若いうちには思いもしなかった「老い」の意識が、遮りようもなく脳裡をかすめたというのだ。まだ大相撲人気が沸騰していたころの句だから、この寂寥感は無理なく当時の読者の共感を呼んだにちがいない。比べると、昨今の相撲にはこうした感情が入りにくくなったような気がする。それは何も朝青龍などの外国人力士が強いからというのではなく、相撲そのものの内容が、昔とはすっかり変わってしまったせいではないのかと愚考する。いちばん変わったのは、勝負に至るスピードだろう。行司がついていけないほどのスピーデイな相撲は、よほどの玄人でないかぎり、見ていてもよくわからない。わからなくては、感情移入の隙もない。格段の技術の進歩が、かえって人気を落としてしまったというのが、ド素人の私の解釈である。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


May 2352005

 噴水や戦後の男指やさし

                           寺田京子

語は「噴水」で夏。連れ立っていた「男」が、たまたま噴水に手をかざしたのだろう。ああいうものにちょっと手を触れてみたくなる幼児性は、どうも男のほうが強いらしい。それはともかく、作者はその人の「指」を見て、ずいぶんと「やさし」い感じを受けたのだった。そういえば、この人ばかりではなく、総じて「戦後の男」の指はやさしくなったとも……。男の指を通して、戦後社会のありようの一断面をさりげなく描いた佳句だ。男の指がやさしくなったのは、もちろん農作業など戸外での労働をしなくなったことによる。1950年代の作と思われるが、当時は「青白きインテリ」という流行語もあったりして、多くの男たちにはまだ「指やさし」の身を恥じる気持ちが強かった。たしか詩人の小野十三郎の自伝にも、自分の白くてやさしい感じの手にコンプレックスを持っていたという記述があったような気がする。ごつごつと節くれ立った指を持ってこそ、男らしい男とされたのは、肉体労働の神聖視につながるが、しかしこれはあくまでも昔の権力者に都合の良い言い草であるにすぎない。句はそこまでは言ってはいないけれど、男の指がやさしく写ることに否定的ではなく、ほっと安堵しているような気配がうかがえる。苛烈な戦争の時代を通り抜けた一女性ならではの、それこそやさしいまなざしが詠ませた句だと思う。『日の鷹』(1967)所収。(清水哲男)


May 2452005

 自由が丘の空を載せゆく夏帽子

                           山田みづえ

京都目黒区自由が丘。洒落たショッピング街と山の手らしい閑静な住宅街とが共存する街。友人が長らく住んでいたので、二十代のころからちょくちょく出かけていた。どことなく、避暑地の軽井沢に似た雰囲気のある街だ。そんな自由が丘の坂道を、たとえば白い夏帽子をかぶった少女が歩いてゆく図だろうか。「空を載せゆく」とは、いかにも健やかでのびのびとした少女を思わせて微笑ましい。しかも、その空は「自由が丘」の空なのだ。実際に現地を知らなくても、「自由」の響きからくるおおらかさによって、作者の捉えた世界への想像はつくだろう。軽い句だが、上手いものである。自由が丘と聞いて、戦後につけられた地名と思う人もいるようだが、そうではない。「自由ヶ丘」と表記していたが、昭和の初期からの地名である。発端となったのは、自由主義を旗印に手塚岸衛がこの地に昭和二年に開校した「自由ヶ丘学園」だ。試験もなく通信簿もないというまさに自由な学園は、残念なことに昭和の大恐慌で資金繰りがうまくいかなくなり、あえなく閉校してしまったという。が、手塚の理想主義は当時の村長や在住文化人らの熱い支持を受け、地名として残され定着したのだから、以て瞑すべし。戦時中には「自由トハ、ケシカラン」と当局からにらまれたこともあったらしいが、住民たちが守り通した。そうした独特の気風が、現在でもこの街に生きているような気がする。その「空」なのだから、夏帽子もどこか誇らしげである。ちなみに「自由ヶ丘」が「自由が丘」と表記変更されたのは、昭和四十年(1965年)のことであった。『新日本大歳時記・夏』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


May 2552005

 こひびとを待ちあぐむらし闘魚の辺

                           日野草城

語は「闘魚(とうぎょ)」で夏、「熱帯魚」に分類。闘魚とは物騒な名前だが、その名の通りに闘争本能が極めて強い。同じ水槽に雄を二匹放つと、どちらかが死ぬまで闘いつづけるという。赤や青の色彩が鮮やかであるだけに、余計に凄みが感じられる。そんな闘魚が飼われている水槽の前で、作者は女性が人待ち顔でいるのを目撃した。おそらく「こひびと」を待っているのだろう。相当に待ちくたびれたらしく、もはや華麗なる闘魚も眼中に無し。イライラした顔で、早く来ないかとあちこち見やっている。二人が「闘魚の辺」を待ち合わせ場所に選んだのは、どちらかが多少遅れても退屈しないですむということからに違いない。が、ものには限度というものがある。もうしばらくすると、彼女自身がそれこそ闘魚と化してしまうかも……。というのは半分冗談だが、しかしそれに近い滑稽味を含んだ句だ。実際、相手が「こひびと」であるなしに関わらず、待ち合わせ場所の選択は難しい。とくに初対面の人とは大変で、編集者のころにはけっこう苦労した。ある人が渋谷のハチ公の銅像前ならわかるだろうと約束し、さらにわかりやすく、ハチ公の鼻に手をかけて待っているからと念押しした。ところが、約束の日時にハチ公の前に出てビックリ。鼻に手をやろうにも、高すぎてとうてい届かない。仕方がないので、相手が現われるまで鼻めがけてぴょんぴょん飛び上がりつづけた。……か、どうかまでは聞き漏らしたけれど。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


May 2652005

 雨霽れて別れは侘し鮎の歌

                           中村真一郎

語は「鮎」で夏。「霽れて」は「はれて」。作者は小説家。俳句的には「侘し」に稚さを感じないでもないが、リリカルな情景を想像させる佳句だ。実はこの句は、詩人・立原道造の追悼句として詠まれている。詩人が二十四歳で世を去ったのは1939年(昭和十四年)3月のことであり、「鮎」の季節ではない。が、句はその年の夏に、中村ら詩人と親しかった数人の後輩が集まった席での吟ということで、追悼時点での季語を詠み込んでいるわけだ。このとき、作者二十一歳。後年に書かれた自註があるので、紹介しておく。「『雨霽れて』は実景だろう。高原の追分村の夏の雨の通りすぎたあとの爽やかさは、格別のものがある。そこでその気持のいい空気のなかに恋人たちが散歩にでる。というところから、私の小説風の空想がはじまる。そのまだ幼い恋人たちは今日が別れの日なのである。そこでふたりは村外れの、昔の北国街道と中仙道との道が二つに分れる、その名も『分去れ(わかされ)』の馬頭観音像のあたりまて行って、別れを惜しむ。これは宛然、道造さんがフランス中世の歌物語『オーカッサンとニコレット』などを模して書いた小説『鮎の歌』の世界である。/これだけの内容をこめ、特に道造さんの有名な小説の表題も詠みいれて、追悼の意を表したわけである」。金子兜太編『俳句(日本の名随筆・別巻25)』(1993・作品社)所載。(清水哲男)


May 2752005

 麦の秋一と度妻を経てきし金

                           中村草田男

語は「麦の秋」で夏。ちょうど今頃から梅雨入り前まで、麦刈りに忙しい農家も多いだろう。時間がなくて調べずに書いているのだが、句は作者が新婚間もない時期のものだと思われる。結婚すると独身時代とは違った生活の相に出会うことになるが、家計の管理もその一つだ。作者の場合はすべての金銭管理を妻にまかせたわけで、月々の小遣いも妻から渡してもらうことになった。自分が働いて得た金を妻経由で渡されることに、慣れない間は何か不思議なような照れくさいような感じを受けるものだ。と同時に、これが家庭を持つということ、一人前になるということなのだと、大いに納得できるのでもある。眼前には収穫期をむかえた麦が一面の金色に広がっていて、ポケットの財布のなかには妻から手渡されたばかりの金がある。作者はそのことにいい知れぬ充実感を覚え、いよいよ張り切った気持ちになってゆく自分を感じている。もっとも掲句は専業主婦が当たり前の時代のもので、いわゆる共働きが普通になってきている現代の新婚夫婦間には、こうした感慨は稀薄かもしれない。たとえどちらかがまとめて管理するとしても、お互いに所得があるのだから、金銭に関してはむしろドライな感覚が優先するのではあるまいか。作者の時代の夫婦間の金が湿っていたのに対して、現代のそれは乾いている。比喩的に言えば、そういうことになりそうだ。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


May 2852005

 傘の女水中花にして街暮れる

                           渡邉きさ子

語は「水中花」で夏。フォトジェニックな句だ。構図がぴしゃりと決まっている。雨降りの日暮れの街、とある建物から出てきた「女」が傘を開いた。ぱあっと開いた彼女の様子は、さながら「水中花」の開くそれにも似て、華麗で美しい。他にも通行人はいるのだけれど、作者の視野にはその「女」ひとりだけが焼きつけられたのだった。それもくっきりとではなく、雨のフィルターと薄暮の光源のために、少し紗がかかっている。まことに都会的で洒落た一句だ。一読、こんな写真を撮ってみたいなと思い、十七文字でそれをなし得た作者のセンスの良さと構成力に感心してしまった。このようなまなざしで、雨の街を歩いている人もいるのだ。あやかりたい。もう一度読み直してみると、句の主体は作者ではなく「街」である。街が「女」を水中花にしている。そこに作者の技巧的な作為が働いているわけだが、こうした詠み方はひとつ間違えると句をあざとくしてしまう危険性がある。つまり、作り過ぎになってしまう。掲句が実景であるかどうかは別にして、そのあざとさの危険性を限りなくさりげなさの方に寄せているのは、やはり雨と薄暮による紗の効果によるものだと思った。こういうことは、すべて作者の持って生まれたとでも言うしかないセンスに属する。魅かれて、句集一巻をじっくり再読することになった。『野菊野』(2004)所収。(清水哲男)


May 2952005

 夜の岩の一角照るは鯵釣れり

                           秋光泉児

語は「鯵(あじ)」で夏。種類が多いので、総称である。ちなみに代表格であるマアジの学名は"Trachurus japonicus"と、日本の名が入っている。普段は深い海に住んでいるが、この季節になると、産卵のため浅いところにやってくるのだという。夕食後の散歩だろうか。暗い海岸から見やると、遠くの岩場にちろちろと灯りが見える。ああ、あれは鯵を釣っているんだな。と、それだけの句だけれど、初夏の風物詩としての味わいは良く出ている。私は海で釣ったことはないので知らないのだが、この灯りについては釣り好きだった詩人の川崎洋が書いている。「横須賀の岸壁から竿を出し、夕刻から夜にかけてよくアジを釣りました。群れを寄せるのに、横にカーバイトの明かりを用意しました。それ専門の用具を釣り道具店で売っていました。子どものころ、東京の大森で縁日のとき道の両側にならんだ露店の灯火がこのカーバイトで、その明かりと匂いを懐かしく思い出しながら釣りました」(『肴の名前』2004)。現在もカーバイトを使うのかどうかは知らないが、なるほど、釣り人にはこうした用具も楽しみの一つであるわけだ。お祭りなのですね、釣りは……。鯵といえば、夏の民宿での朝ご飯を思い出す。我が人生のそれこそお祭りどきだったなあ、あの頃は。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


May 3052005

 灯ともせば雨音渡る茂りかな

                           角川源義

語は「茂り」で夏。樹木の茂った状態を言う。草の茂ったのは、「草茂る」と別の題がある。詠まれているのは地味な情景だが、技巧的にはむしろ華麗と言うべきか。表は本降りの雨だ。暗くなってきたので部屋の明かりをつけると、窓越しに雨の降る様子が見えた。灯を受けた一角にある茂った樹々に、激しく降り掛かっている。雨脚の動く様子も、かすかながらうかがえる。と、実際に見えるのはこのあたりまでだろうが、この情景に「雨音渡る」と聴覚的な描写を加えたところが非凡だ。よく考えてみれば、茂りを渡っていく雨音は、べつに明かりなどはなくても聞こえていたはずである。でも、そこが人間の五官の面白いところで、句の言うように、これは灯をともしてはじめて認識できる音だったのだ。つまり、明かりのなかに雨を見たことによって聴覚が刺激され、明かりの届かない暗い茂みのほうへと雨音が渡ってゆくのに気がついたというわけである。視覚が、聴覚をいわば支援した格好だ。パラフレーズすればこういうことだが、句の字面からすれば、灯をともしたら音が聞こえたと直裁である。そこで一瞬「えっ」と読者は立ち止まり、すぐに「はた」と膝を打つ。夏の夜の男性的な雨の風情を、わずかな明かりを媒介にして、きっちりと捉えてみせた佳句である。樹々を渡る雨音が、しばらく耳について離れない。『俳句歳時記・夏の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


May 3152005

 いよよ年金冷し中華の辛子効く

                           奈良比佐子

語は「冷し中華」で夏。「いよよ年金」ということになり、所定の手続きをすませに行った帰りだろう。ちょっと空腹を覚えたので、そこらへんの店に入って「冷し中華」を注文した。と、思いのほか辛子が効いていて、鼻がツーンと……。理不尽にも、強制的に泣かされたようなものである。そう思うと、なんとなく可笑しい。が、句の眼目はともかく、年金と冷し中華との取り合わせはよく似合うような気がする。というのも、年金受給資格を得るためには、保険料を払い込むこと以外には、あとはただ一定の年月が経過すればそれですむ。そこが停年退職とは決定的に違うから、受給資格を得て思うことは、すなわち歳をとったということくらいだ。したがって、停年退職の感慨もなければ、何かを成し遂げたという充実感もない。ただ、もう自分は若くはなく、いわゆる高齢者に分類されるのだと、そんな愉快ではない思いがチラチラするばかりなのである。受給する年金が高額ならまだしも、それも適わぬとなれば、自分で自分を祝う気などにはさらさらなれない。で、そこらへんの店で、そそくさと散文的に冷し中華を食べたということだ。こういうときに寿司という気分ではなし、かといって蕎麦や饂飩でも少し意味ありげだし、やはり無国籍料理たる冷し中華くらいが適当なのだ。その前に、まだ食欲があっただけ、作者はエラい。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます