mq句

May 0752005

 植うる田を明けの駅員見つつゆく

                           剣持洋子

の句を載せている歳時記では、田植えの終わった「植田」の項に分類しているが、間違いだと思う。「植うる」とは「植えられつつある」の意だから、当歳時記では「田植」に分類しておく。季節は夏。夜勤「明け」の駅員が、帰宅の道すがら、田植えの模様を目に入れているという情景だ。上天気で、日がまぶしい。その日を照り返している田の水は、もっとまぶしい。徹夜明けのくたびれた目には、なかなかに辛いものがある。この駅員の実家は、おそらく農家なのだろう。疲れた身体を休めるために、これから戻って一眠りしなければならないのだが、みなが田圃で働いているときに寝ることには、忸怩たる気持ちもある。いかに自分が徹夜で働いていたとはいえ、田園地帯に暮らしている以上は、徹夜仕事すら言い訳めいてくるのだからだ。もしかすると、田植えが行われているのは、我が家の田圃なのかもしれない。ならば後ろめたい気持ちはなおさらである。戦後の農家は、現金収入を得るために、町場に働きに出る男たちを輩出した。余儀なく、いわゆる「三ちゃん農業」に追い込まれていったのだった。「とうちゃん」や「にいちゃん」はサラリーマンになり、残った「かあちゃん、じいちゃん、ばあちゃん」が野良仕事をするわけだ。そんな背景を思って掲句を読むと、一見さらりとした情景のなかに、複雑な人間心理が錯綜していて、読後に重いものが残る。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます