May 1452005

 生きのいい頭あつめてもむみこし

                           落合水尾

輿渡御の景。句は「祭」に分類しておく。俳句で「祭」は夏祭のことだ。平仮名を多用しているのは、神輿を揉むダイナミックな様子を表現する意図からだろう。明日は東京・神田祭の宮入で、九十基もの神輿が練り回るというから、人、人、人の波となる。まさに「生きのいい頭」たちの晴れ舞台だ。岡本綺堂が明治期の東京の祭について書いているが、昔は実にすさまじかったらしい。「各町内の若い衆なる者が揃いの浴衣の腰に渋団扇を挿み、捻鉢巻の肌脱ぎでワッショイワッショイの掛け声すさまじく、数十人が前後左右から神輿を揉み立て振り立てて、かの叡山の山法師が京洛中を暴れ廻った格で、大道狭しと渦巻いて歩く」。そして、これからが大変だ。「殊に平生その若い衆連から憎まれている家や、祭礼入費を清く出さぬ商店などは、『きょうぞ日頃の鬱憤ばらし』とあって、わざとその門口や店先へワッショイワッショイと神輿を振り込み、土足のままで店へ踏み込む。戸扉を毀す、看板を叩き落とす、あらん限りの乱暴狼藉をはたらいて、またもや次の家へ揉んでゆくという始末」というのだから、ダイナミックもここに極まれり。さすがに警察も黙っていられなくなり、この文章が書かれたころには、神輿を若い衆に揉ませることは禁じられ、「白張りの仕丁が静粛に」かつぐことになっていたようだ。それがまた、いつの間にやら「生きのいい頭」たちの手に戻り、戦後のひところはまた静かになった時期もあったけれど、やはり祭は「静粛」では面白くない。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


September 0692010

 落蝉に一枚の空ありしかな

                           落合水尾

生句ではない。作者の眼前には、落蝉もなければ空もない。「ありしかな」だから回想句かとも思われるが、それとも違う。小さな命の死と悠久の空一枚。現実の光景をデフォルメすれば、このような景色は存在するとも言えるけれど、作者の意図はおそらくそうした現実描写にはないだろう。強いて言えば、作者が訴えているのは、命のはかなさなどということを越えた「虚無」の世界そのもの提出ではなかろうか。感傷だとか慈しみだとか、そういった人情の揺らぎを越えて、この世界は厳然と展開し存在し動かせないものだと、作者は言いたいのだと思う。このニヒリズムを避けて通れる命はないし、そのことをいまさら嘆いてみても何もはじまらないのだ。私たちの生きている世界を何度でもここに立ち戻って認識し検証し、そのことから何事かを出発させるべきなのだ……。妙な言い方をするようだが、この句は老境に入りつつある作者の人生スローガンのようだと読んだ。『日々』(2010)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます