Otq句

June 2562005

 半袖やシャガールの娘は宙に浮く

                           三井葉子

元には「半袖」を季語の項目とした歳時記はないが、当サイトでは「夏シャツ」に分類しておく。作者は詩人。この夏、初めて長袖から半袖にしたときの連想だろう。軽やかな着心地が、身体の浮遊感を呼び起こしたのだ。そういえば、宙に浮いているシャガールの絵の「娘(こ)」も半袖だったと思い出し、半袖を着た軽快感も手伝って、気持ちも自然に若やいだのだった。シャガールの作品は多いので、作者がどの絵の娘を指して詠んでいるのかは不明だ。が、もしかすると絵は特定されておらず、彼の絵に頻出する幻想的な女性たちが醸し出している雰囲気を折り込んだ句かもしれない。人魚のような女性像もそうだが、シャガールの優しい色使いもまた、どちらかといえば女性好みだから、作者の連想には説得力がある。かりに男の作者が女性の半袖姿を見て詠むとしても、おそらくシャガールは出てこないと思う。半袖で思い出した。小学生のとき、雑誌に載っていたイギリス切手の写真に、エリザベス女王の横を向いた半袖姿の肖像画があった。むろんシャツではなく半袖のドレス姿だったのだけれど、思わず私は母に言った。「女王って、すごく太い腕してるなあ」。「女の人は脂肪が多いからだよ」とつまらなそうに母は言い、咄嗟に私は母の腕を盗み見たが、その腕は女王の半分くらいしかない細さだった。「そうかあ、脂肪かあ」と私は口に出し、「きっと美味しいものばかり食べてるからだな」とは口に出さなかった。『桃』(2005)所収。(清水哲男)


August 2282007

 ちれちれと鳴きつつ線香花火散る

                           三井葉子

の夜は何といっても花火。今年も各地の夜空に華々しくドッカン、ドッカンひらいた打ち揚げ花火に、多くの観客が酔いしれたことでしょう。それもすばらしいけれども、数人が闇の底にしゃがんでひっそりと、あるいはガヤガヤと楽しむ線香花火にも、たまらない夏の風情が感じられる。「ちれちれ」は線香花火のはぜる音だが、「散れ散れ」の意味合いが重ねられていることは言うまでもあるまい。「ちれちれ」は音として言い得て妙。「散れ」に始まって「散る」に終ることを、葉子は意図していると思われる。そこには「いつまでも散らないで」というはかない願いがこめられている。さらに「鳴きつつ」は「泣きつつ」でもあろうから、いずれにせよこの句の風情には、どこかしらうら寂しさが色濃くたちこめている。時季的には夏の盛りというよりは、もうそろそろ晩夏かなあ。花火に興じているのが子どもたちだとすれば、夏休みも残り少なくなってきている時期である。この句にじんわりとにじむ寂しさは拭いきれないけれど、どこかしらほのぼのとした夏の残り火がまだ辛うじて生きているような、そんな気配も感じとれるところが救いとなっている。あれも花火・これも花火である。葉子は関西在住の詩人だが、はんなりとした艶を秘めた句境を楽しんでいるようだ。「ひとり焚くねずみ花火よ吾(あ)も舞はむ」「水恋し胸に螢を飼ひたれば」などの句もならぶ。『桃』(2005)所収。(八木忠栄)


September 1292012

 嘘すこしコスモスすこし揺れにけり

                           三井葉子

間に「大嘘つき」と陰口をたたかれる人はいる。タチの悪い厄介者と言ってしまえばそれまでだが、落語に出てくる「弥次郎」に似て、嘘もどこやらほほえましいと私には思われる。けれども「嘘すこし」には、別の意味のあやしいワルの気配がただようと同時に、何かしらうっすらと色気さえただよってこないか。風に少々揺れるコスモスからも、儚い色香までがかすかに匂ってくるようである。この場合の「コスモス」には女人の影がちらほら見え隠れしているようであり、女人をコスモスに重ねてしまってもかまわないだろう。作者には案外そんな含みもあったのかも知れない。コスモスには儚さも感じられるけれど、見かけによらず、倒されても立ちあがってくる勁さをもった花である。「すこし」のくり返しが微妙なズレを生み出していておもしろい。掲句は、前の句集『桃』(2005)につづく『栗』(2012)の冒頭に掲げられた句である。葉子はあとがきで「桃栗三年柿八年。柚子の大馬鹿十三年」と書き、「バカの柚子になる訳には行かないだろう」と書いている。他に「〈〉鳴く虫にやはらかく立つ猫の耳〈〉」など、繊細な世界を展開している。(八木忠栄)




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