ニ子句

July 1272005

 月下美人しぼむ明日より何待たむ

                           小島照子

語は「月下美人」で夏。その豪華な姿から「女王花」とも言われる。夜暗くなってから咲きはじめ、朝になるまでにしぼんでしまうところが、なんとも悩ましい。育ててもなかなか咲いてくれないようで、私なども一度だけしか見たことがない。そんな具合だから、いざ今夜には咲きそうだとなると大変だ。友人知己や近所の人に声をかけるなどして、ちょっとした祝祭騒ぎとなる。「月下美人呼ぶ人来ねば周章す」(中村汀女)なんてことにもなったりする。で、そんなにも楽しみに待っていた花も、あっけなくしぼんでしまった。しぼんだ花を見ながら、作者は「明日より何待たむ」と意気消沈している。大袈裟な、などと言うなかれ。それほどまでに作者は開花を楽しみにしていたのだし、これに勝る楽しみがそう簡単に見つかるとは思えない……。作者の日常については知る由もないけれど、高齢の方であれば、なおさらにこうした思いは強くわいてくるだろう。私にもだんだんわかってきたことだが、高齢者が日々の楽しみを見つけていくのは、なかなかに難しいことのようである。時間だけはたっぷりあるとしても、身体的経済的その他の制約が多いために、若いときほどには自由にふるまえないからだ。言い古された言葉だが、日々の「砂を噛むような現実」を前に、作者は正直にたじろいでいる。この正直さが掲句の味のベースであり、この味わいはどこまでも切なくどこまでも苦い。俳誌「梟」(2005年7月号)所載。(清水哲男)


August 1082005

 羅を着し自意識に疲れけり

                           小島照子

語は「羅(うすもの)」で夏。昔は薄織の絹布の着物を指したが,現在では薄く透けて見える洋服にも言うようだ。「うすものの下もうすもの六本木」(小沢信男)。あまりに暑いので,思い切って「羅」を着て外出した。そうすると普段とは違って,どうしても「自意識」から他人の視線が気になってしまう。どこに行っても,周辺の誰かれから注視されているようで、気の休まるひまがない。すっかり疲れてしまった、と言うのである。さもありなん、共感する女性読者も多いだろう。この「自意識」というやつは被害者意識にも似て、まことに厄介だ。むろん女性に限ったことではないが、とかく過剰になりがちだからである。一歩しりぞいて冷静に考えれば,誰もが自分に注目するなど、そんなはずはあり得ないのだけれど、自意識の魔はそんな客観性を許さない。他人の視線に身を縮めれば縮めるほど,ますます魔物は肥大するばかりなのである。疲れるわけだ。そして更に自意識が厄介なのは,作者の場合は過剰が恥じらいに通じているのだが、逆に過剰が厚顔無恥に通じる人もいる点である。こうした人の場合には,誰もが自分に注目しているはずだと信じ込んでいて,ちょっとでも視線を外そうものなら(比喩的に言っているのですよ)、自分を無視したと怒りだしたりする。いわゆる「ジコチュー」的人種で、政治家だの芸能人に多いタイプだ。ま、それくらいでないと勤まらない商売なのだろうが、あんまりお友だちにはなりたくないね。俳誌「梟」(2005年8月号)所載。(清水哲男)




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