2005N8句

August 0182005

 麦の穂を描きて白き団扇かな

                           後藤夜半

語は「団扇(うちわ)」で夏。真っ白な地に,すっと一本か二本の「麦の穂」が淡く描いてある。水彩画タッチか、あるいは墨一色の絵かもしれない。いずれにしても、いかにも涼しそうな絵柄の団扇だ。その素朴な絵柄によって,ますます背景の白地が白く見えると言うのである。作者、お気に入りの団扇なのだろう。この句に目が止まったのは,私がいま使っている団扇のあまりに暑苦しい図柄の反動による。街頭で宣伝物として配られていたのをもらってきたのだから、あまり文句も言えないのだが,それにしてもひどすぎる。まずは、色調。パッと見て,目に飛び込んでくる色は、赤色,橙色,黄色だ。これって、みんな暖色って言うんじゃなかったっけ。「うへえっ」と図柄をよく見ると,どうやら夏祭りを描いているらしい。それは結構としても,最上部の太陽からは、幼稚園児の絵のように,太い橙色の光線が地上を照らしている。その地上には祭りの屋台が二軒出ていて、これがなんと「たいやき屋」と「たこやき屋」なのである。普通の感覚なら,氷屋なんかを出しそうなところに,選りに選って汗が吹き出る店が二軒も、左右にぱーんと大きく描かれているのだ。そして、客のつもりなのだろう。店の前には、ムーミンもどきの黄色と緑色の大きなお化け状の人物(?!)が二人……。そして絵のあちこちには、めらめらと燃え上がる真っ赤な炎みたいなものも配されていて,もうここまでやられると、力なく笑ってしまうしかないデザインである。あきれ果ててはいるのだけれど、でも時々,どういうつもりなのかと眺め入ってしまうのだから、宣伝物としては成功しているのかもしれない。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


August 0282005

 髪濡れて百物語に加はりぬ

                           島 紅子

語は「百物語」で夏。さきごろ(2005年7月22日)亡くなった杉浦日向子に、『百物語』なる好著がある。森鴎外にも同名の短編があるが、これが季語であることは,恥ずかしながらつい最近まで知らなかった。はじめて百物語に出かけた体験を描いた鴎外の文章から引いておくと,「百物語とは多勢の人が集まって、蝋燭(ろうそく)を百本立てて置いて、一人が一つずつ化物の話をして、一本ずつ蝋燭を消して行くのだそうだ。そうすると百本目の蝋燭が消された時、真の化物が出ると云うことである」。したがって、季語としては「肝試しの会」というような意味合いだろう。つづけて鴎外はいかにも医者らしく,「事によったら例のファキイルと云う奴がアルラア・アルラアを唱えて、頭を掉(ふ)っているうちに、覿面(てきめん)に神を見るように、神経に刺戟を加えて行って、一時幻視幻聴を起すに至るのではあるまいか」と述べている。掲句が,いつごろの作かは知らない。が、そう古いものでもなさそうなので、地方によっては現在も、夏の夜の楽しみとして百物語が催されているのかもしれない。「髪濡れて」は洗い髪であるはずはないから、会場に来る途中に夕立にでもあったのだろうか。怪談にはしばしば濡れた髪の女が登場するけれど,不本意でも,他ならぬ自分がそんな格好で怪談の場に加わったことの滑稽を詠んでいる。おどろおどろしい雰囲気で会が進行するなか、隣りの人あたりが濡れた髪に気がついて「ぎゃっ」とでも声を上げたらどうしようか……。『新日本大歳時記・夏』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


August 0382005

 サラリー数ふ恋ざかりなる日盛に

                           高山れおな

語は「日盛(ひざかり)」で夏。前書に「みずほ銀行西葛西支店」とあり、私はこの支店を知らないけれど、句と合わせると奇妙なリアリティが感じられる。これがたとえば六本木支店だとか麹町支店だと、同じ句との組み合わせでも相当にニュアンスが異なってくる。西葛西のほうに、だんぜん庶民的な生活の匂いがあるからだ。猛暑の昼日中、今宵のデートのために「サラリー」を引き出して数えている図だろう。なにしろ「恋ざかり」なのだからして、残額がちょっと心配になるくらいの多めの額を下ろしたのに違いない。わかりますねえ。これだけ用意すれば足りるだろうと,汗を拭いつつていねいに数えている様子は,微笑ましくもつつましやかで好感が持てる。私がサラリーマンだったころは現金支給だったので、「恋ざかり」の、すなわち独身の男らはたいてい、袋のままに全月給を持ち歩いていたものだ。現在のカップルはかかった費用を割り勘にするのが普通のようだが、昔は食事代やら映画代やらたいていのものは男が払うものと、なんとなく決まっていた。だから、恋愛中の男は目一杯持ち歩かざるを得ないという事情があったし、恋少なき私などは、いちいち銀行の窓口に行くのが面倒臭くて無精を決め込んでいただけの話だが……。それはともかく、割り勘であろうがなかろうが、恋愛には金もかかる。恋愛の情熱や精神についての書物は古来ゴマンとあるけれど、誰か「恋愛の経済学」といったようなテーマで一冊書いてくれないかしらん。『荒東雑詩』(2005)所収。(清水哲男)


August 0482005

 蚊柱や昔はみんな生きてゐた

                           吉田汀史

語は「蚊柱(かばしら)」で夏、「蚊」に分類。蒸し暑い夏の夕方などに、蚊が群れをなして飛んでいるのを見かけることがある。最初は少数だが,たちまち数百匹の大集団になる。これは蚊の生殖行動だそうで、蚊柱を形成するのはすべて雄であり、その大集団に飛び込んでいくのが雌なのだそうな。人間には見るだけで鬱陶しい蚊柱ではあるが、蚊にしてみれば,生涯のうちで最も生命力の溢れている時空間なのだ。そのことに思いが至り,作者はふっと既に鬼籍に入っている誰かれのことを思い出したのではなかろうか。父や母のこと、親しかった友人知己の元気なころのことなどを……。すなわち、「昔はみんな生きてゐた」のだった。生きていたみんなのことを目障りな蚊柱から思い出しているところに、掲句のやるせなく切ないとでも言うべきペーソスを感じる。しかも蚊柱は,短時間のうちに消えてしまう。その儚さがまた、句にいっそう苦い味を付加している。作者には失礼かもしれぬが、句を読んだ途端に,私は「♪ぼくらはみんな生きている」ではじまる「てのひらを太陽に」という子供の歌を思い出し,なんとなく「♪昔はみんな生きてゐた」と歌ってみた。そうすると,本歌の毒々しくも能天気な向日性が消えてしまい,なかなか味わい深い歌に転化したのには我ながら驚いた。いま、首をひねった方,どうか一度お試しください。俳誌「航標」(2005年8月号)所載。(清水哲男)


August 0582005

 新聞のゲラ持ち走り夜の雷

                           津野陽子

語は「雷」で夏。作者は新聞記者。同じ日付の新聞でも,紙面は刻々と変化していく。できるだけ新しい情報を提供すべく、何度も版を重ねて発行している。急に記事を差し替える必要に迫られたのか,大きなニュースが飛び込んできたのか。とにかく、悠長に構えているわけにはいかない。さっとゲラに目を通して,輪転機の待つ印刷部門まで走っていく。と、折りからの雷だ。真っ暗な窓の外に,青白い雷光がぱっぱっと明滅しはじめた。雷とゲラとは何の関係もないのだけれど、作者の切迫した気分や職場の雰囲気が、この取り合わせによってよく伝わってくる。その昔『事件記者』というテレビ・ドラマがあって人気だったが、たしかオープニングには印刷中の輪転機が使われていたと記憶する。職業柄,そんな輪転機の様子は何度も見てきたけれど、あの機械にはどこかとても人を興奮させるようなところがある。アメリカの小説だったか映画だったかに、唸りをあげている輪転機の傍で,小説家が機関銃のようにタイプライターを打ちまくっている場面があった。小説家とはいっても、いわゆるパルプ・マガジン(大衆向きの低俗誌)のライターなのだが、これがまたなんとも格好がよろしい。一度でよいからあんなふうに、輪転機を横目に書いてみたいものだと憧れてきたけれど、ついに夢は夢のままに終わりそうである。「俳句」(2005年8月号)所載。(清水哲男)


August 0682005

 舌やれば口辺鹹し原爆忌

                           伊丹三樹彦

十年前の昭和二十年八月六日、広島市に,つづいて九日、長崎市に原爆が投下された。私の住む東京・三鷹市では,両日の投下時刻と敗戦日正午に黙祷のための街頭放送で告知しチャイム音を鳴らす。隣りの武蔵野市では、何も流さない。瞬時にあわせて三十万人の人命が殺傷された歴史的事実に,向き合う自治体とそうしない自治体と……。ところで知らない人もいるようだが、十余年前のアメリカの情報開示により、広島長崎以前に、既に原爆犠牲者と言うべき人々が存在していたことが判明した。すなわち、同型の模擬爆弾を使った本物投下の訓練が、事前に日本各地五十カ所余りで行われていたのだった。「新潟県では現在の長岡市に1発の5トン爆弾が落とされ、4人が死亡、5人が負傷した。60年を経て、着弾した同市左近町の太田川の土手に『投下地点跡地の碑』が建てられ20日、市民ら約100人が見守る中、投下時間(午前8時13分)に合わせて除幕された」(2005年7月20日付「毎日新聞」)。他の地方でも、死者が出ている。また、これは最近の情報開示によるが,戦後歴代の首相のなかで、池田勇人と佐藤栄作が日本の核武装化を目指していたこともわかった。掲句はこうした事実が判明する以前の作と思われるが,原爆による圧倒的な悲惨に向き合った一市民の、やりきれない思いがよく伝わってくる。「口辺鹹し」は、「くちのへからし」と読んでおく。「鹹し」は「塩辛い」の意。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


August 0782005

 今朝秋のよべを惜みし灯かな

                           大須賀乙字

日は、早くも立秋である。季語は「今朝(の)秋」。立秋の朝を言う。作者は、早暁に目覚めた。「灯(ともし)」は街灯だろうか、それともどこかの家の窓の灯火だろうか。いずれにしても、「よべ」(昨夜)から点いていたものだ。そして今日が立秋となれば、その灯は今年最後の夏の夜を見届けたことになり,「今朝秋」のいまもなお、去って行った夏を惜しむかのように点灯していると見えるのである。昨夜までで消えた夏を言い、立秋に一抹の哀感を漂わせた詠みぶりが斬新だ。「そもそも詩歌製作後の吾等感情は一種解脱的の味ひである。然るに俳句は製作に取り掛る時は既に解脱的寂滅的調和の感情に到達して居る」と乙字の俳論にあるが、みずからの論を体現し得た佳句と言えよう。ところで掲句は掲句として,例年のことながら,立秋は猛暑の真っ只中に訪れる。毎年立秋を迎えると,どこに秋なり秋の気配があるのかと、ぼやくばかりだ。一茶に「けさ秋や瘧の落ちたやうな空」(「瘧」は「おこり」)があるけれど、なかなかそううまい具合には、自然は動いてくれない。それでも人間とは面白いもので、そう言えば朝夕はかなり涼しくなってきたような……などと、懸命に秋を探してまわったりするのである。「立秋と聞けば心も添ふ如く」(稲畑汀子)。このあたりに、私たちの本音があるのだろう。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


August 0882005

 夏よもぎ小さくちいさく無職と書く

                           青木貞雄

語は「夏よもぎ(夏蓬)」。春の若葉のころの蓬は可憐な感じがするが、夏になるとその面影もすっかり失せてしまう。獰猛と言いたくなるくらいに,荒々しく生長する。丈はぐんと高くなり、「蓬髪」という言葉があるほどに無秩序に茂りあい、その荒れ錆びた感じは凄まじい。作者はしかるべきところに提出すべく、書類を書いている。その窓辺から、群生する夏蓬が見えているのだろう。書類には職業を記載する欄があるのだが、気恥ずかしくて「無職」と書くのが躊躇され、しかし書かないわけにもいかなくて「小さくちいさく」書いたのだった。放埒に繁茂している「夏よもぎ」と、小さく萎縮している「無職」の文字との取り合わせが,作者の切ない心境をよく写し出している。書類とは不思議なもので、あれには記載してみてはじめて感じられる事どもがある。たとえば自分の年齢にしても,日頃から百も承知の年齢を書類に記入した途端に,なんだか自分の年齢じゃないように思えてくることがある。おそらくそれは、社会が他人と区別するために自分に当てている諸種の物差しを,自分が社会の目で自身に当てさせられることに起因するのだろう。だから年齢の欄に年齢を記入するとは,その数字は社会的にしか意味がないので,自分が自分であることとはさして関係のない行為だと言える。職業があろうとなかろうと、これまた自分が自分であることとは無関係だ。それが書類を書くことで社会の目を意識させられると、作者のように無職を気恥ずかしく思わされてしまうのである。そういうことではあるまいか。『現代俳句歳時記・夏』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


August 0982005

 まろび寝に氷菓もたらす声にはか

                           堀口星眠

語は「氷菓(ひょうか)」。アイスキャンデーやアイスクリームなど、夏の氷菓子の総称。暑い日の昼下がり,寝ころんでうとうとしていると、家人から「にはか」の声がかかった。アイスキャンデーを買ってきたから,すぐに起きて来なさいと言う。いまでこそ、冷凍庫に保管しておいて後で食べるテもあるけれど、冷蔵庫の無い時代はそうは行かなかった。買ってきたらすぐに食べないと,たちまち溶けてしまう。待った無し、なのである。だから気持ちよげに昼寝をしている人であろうが、無理にでも起こさなければならなかった。しかしこういう場合には,急に起こされた側も悪い気はしないものだ。機嫌良く「おっ」と跳ね起きて,既に少し溶けかけて滴っているバーを手にするのも、真夏ならではの楽しいひとときだったと言える。それにつけても毎夏残念に思うのは,私が子供だったころのような固いアイスキャンデーが無くなってしまったことだ。出来たてはとくにカチンカチンで、少々のことでは歯が立たないほどだった。だからまず、しばらくしゃぶって柔らかくしたものだが、このときに舌にぴたっと氷が吸いついてくる感じも忘れられない。あの固さは多分、原料にミルクを使わなかった(高価で使えなかった)せいだろう。安物だったわけだ。が、私はいまのものより、数倍も美味かったと信じている。『俳諧歳時記・夏』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


August 1082005

 羅を着し自意識に疲れけり

                           小島照子

語は「羅(うすもの)」で夏。昔は薄織の絹布の着物を指したが,現在では薄く透けて見える洋服にも言うようだ。「うすものの下もうすもの六本木」(小沢信男)。あまりに暑いので,思い切って「羅」を着て外出した。そうすると普段とは違って,どうしても「自意識」から他人の視線が気になってしまう。どこに行っても,周辺の誰かれから注視されているようで、気の休まるひまがない。すっかり疲れてしまった、と言うのである。さもありなん、共感する女性読者も多いだろう。この「自意識」というやつは被害者意識にも似て、まことに厄介だ。むろん女性に限ったことではないが、とかく過剰になりがちだからである。一歩しりぞいて冷静に考えれば,誰もが自分に注目するなど、そんなはずはあり得ないのだけれど、自意識の魔はそんな客観性を許さない。他人の視線に身を縮めれば縮めるほど,ますます魔物は肥大するばかりなのである。疲れるわけだ。そして更に自意識が厄介なのは,作者の場合は過剰が恥じらいに通じているのだが、逆に過剰が厚顔無恥に通じる人もいる点である。こうした人の場合には,誰もが自分に注目しているはずだと信じ込んでいて,ちょっとでも視線を外そうものなら(比喩的に言っているのですよ)、自分を無視したと怒りだしたりする。いわゆる「ジコチュー」的人種で、政治家だの芸能人に多いタイプだ。ま、それくらいでないと勤まらない商売なのだろうが、あんまりお友だちにはなりたくないね。俳誌「梟」(2005年8月号)所載。(清水哲男)


August 1182005

 石工の鑿冷し置く清水かな

                           与謝蕪村

語は「清水」で夏。「石工」は「いしきり」と読む。汗だくの石工が,近くの冷たい清水で「鑿(のみ)」を冷しながら仕事をしている。炎天下,往時の肉体労働のシーンが彷佛としてくる。石を削ったり割ったりした鑿は,手で触れぬくらいに熱くなったことだろう。ところで、戦後の数年間の我が家はずいぶんと「清水」のおかげを蒙った。移住した村には水道がなく、多くの家は井戸水で暮らしていた。我が家は貧乏だったので,その井戸を掘る金もない。頼るは、数百メートル先にこんこんと湧いていた清水のみで、父が朝晩そこから大きなバケツで何往復もして水を汲んできては生活用水としていた。洗面の水や炊飯の水から風呂の水まで、あの清水がなかったらとうてい生活するのは無理だった。むろん、この水を使っていたのは我が家ばかりではなく、井戸のある家の人でもそこで洗濯をしたり農耕の道具を洗ったりと,つまり生活に密着した水源なのであった。したがって私には、春夏秋冬を通しての命水であった「清水」が「夏」の季語であるという認識は薄い。私などの世代より、昔の人になればなるほどそうだったろう。馬琴の『俳諧歳時記栞草』(岩波文庫)を読むと,文献から引用して、こうある。「清水とばかりを夏季とせしは、例の蕉門の新撰としるべし」。すなわち「清水」を夏の季語にしたのは,芭蕉一統であると……。三百年も前,生活用水として多くの人が利用していた水を,いわば風雅の点景に位置づけた芭蕉を私は好まない。その点,掲句はまだ「清水」をまっとうに詠んでいるほうである。(清水哲男)


August 1282005

 皆夕焼熱を持ち込む東京駅

                           金子篤子

語は「夕焼」で夏。「東京駅」といっても,働く人の多い丸の内南口側の情景だろう。夕焼のはじまる時刻は,すなわちラッシュアワーのはじまるころの時間帯でもある。近隣のオフィスで働いている人々がぞくぞくと帰途につきはじめたころ、空が美しく夕焼けてきた。それまで閑散としてひんやりしていた東京駅の構内に、次々に「皆」がその「夕焼(の)熱」を持ち込んでゆく。むろん、作者もその一人だ。駅とその周辺に、朝のラッシュ以来の活気が戻ってきたのである。赤煉瓦の東京駅を夕焼の下に置いた構図も美しいし,それぞれの人の体温というか体熱を夕焼のそれに見立てたセンスも面白い。海辺や山の地で静かに暮れてゆく空の夕焼も素晴らしいが,こうした雑踏する大都会のなかで仰ぐ夕焼にはまた独特の情趣が感じられる。とこころでご存知のように,東京駅は先の大戦時の空襲により被災している。辰野金吾設計によるこの駅は,大正三年末開業時の姿を完全にはとどめていないわけだが、現在往時の原型を取り戻すべく復元計画が進行中なのだそうだ。来年から工事をはじめて、2010年の完成予定という。「さながら宮殿の如し」と称えられた丸形(八角形)の二基の大ドームもそのまま復元されるというから楽しみだ。とはいえ、毎日利用している人には迷惑千万なことになるのでしょうが……。『俳諧歳時記・夏』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


August 1382005

 土用波わが立つ崖は進むなり

                           目迫秩父

語は「土用波」で夏。夏の土用のころ,太平洋岸で多く見られる高波のこと。台風シーズンに多い。炎暑のなか、晴れて風もないのに波が押し寄せてくるのは,遠い洋上の台風の影響だ。そんな土用波を、作者は高い「崖」の上に立って見下ろしている。見下ろしているうちに,目の錯覚で,まるで崖が沖のほうへと進んでいるように思えてきた。いや、確かに進んでいるのだ。子供っぽいといえばそれまでだが、進んでいる気持ちには,波涛を越えて巨船を自在にあやつる船長のような誇らしさすら湧いてきている。勇壮なマーチの一つも,聞こえてきそうな句だ。と、この句の良さはわかるのだが、私はこうした状況が苦手だ。「進むなり」と想像しただけで,もういけない。船酔いしたときのように、頭がくらくらしてくる。三半規管と関係がありそうだが、よくわからない。そういえば高校時代に、川に入って魚を釣ったことがあった。当然川の流れを見つめることになり,見つめているうちに身体のバランスを失ってしまって倒れそうになり,ほうほうの体で引き上げたこともあったっけ。目の錯覚だと頭ではわかっていても、身体が理解して反応してくれないのだから情けない。とにかく、自分の足元が動くことには臆病なのだ。そんな具合だから,私は「それでも地球は動く」の地動説よりも、本音では天動説のほうがずっと好きである。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


August 1482005

 ケチャップの残りを絞る蝉の声

                           桑原三郎

こにも書かれてはいないけれど、晩夏を詠んだ句だと思う。「残り」「絞る」という語句に,過ぎ行く時、消え去るものが暗示されているように読めるからだ。半透明のプラスチック容器から、残り少なくなったケチャップを絞り出すのは,なかなかに厄介である。ポンポンと底を叩いてみたり,容器を端っこからていねいに絞り上げてみたりと、いろいろ試みても,なかなかすんなりとは出て来てくれない。かといって、まだかなり残っているのに捨てるのも惜しいし,けっこう苦労を強いられてしまう。暑さも暑し,そんなふうにして時おりぽとっと落ちてくるケチャップの色はちっとも涼しげではないし,表からは今生の鳴き納めとばかりに絞り出されているような「蝉の声」が聞こえてくるし……。日常的にありふれた食卓の情景とありふれた蝉の鳴き声とを取り合わせて,極まった夏の雰囲気を的確に伝えた句だと読めた。この洒落っ気や、良し。さて、ここで作者のように、ケチャップを絞り出すのに苦労しているみなさんに朗報が(笑)。「日本経済新聞」によれば「ハインツ日本株式会社(本社:東京都台東区浅草橋5−20−8、代表取締役社長:松村章司)は、2005年9月1日(木)より、液ダレしないノズルと、逆さに置ける洗練されたデザインのボトルが特長の『トマトケチャップ 逆さボトル』(通称、逆さケチャップ)を日本で初めて発売いたします。ケチャップは、「液ダレしてキャップの口が汚れ、不衛生」、「へなっとしたボトルは食卓やキッチン台に置きにくい」、「残量が少なくなると出しにくい」など、さまざまな問題点がありました。今回発売される『逆さケチャップ』は、このような主婦の悩みを解決する新しい付加価値商品です」と。『不断』(2005)所収。(清水哲男)


August 1582005

 終戦日父の日記にわが名あり

                           比田誠子

語は「終戦(記念)日」で秋。あの日から,もう六十年が経過した。そのときの作者は四歳で、父親はまだ三十代の壮年であった。当然,作者に八月十五日の具体的な記憶はないだろう。父親の日記を通して,その日の様子を知るのみである。どのように「わが名」が書かれているのか。読者にはわからないが、大日本帝国が敗北するという信じられない現実を前に茫然としつつも,しかし真っ先に小さい我が子や家族のことを思った彼の心情は、ひとり彼のみならず、多くの父親に共通するそれだったに違いない。これで、とにかく生き延びられるのだ。ほっとすると同時に,前途への不安は覆い隠しようも無い。戦時中から食糧難は悪化の一途をたどっていたので、明日はおろか今日の食事をどうやって切り抜けたらよいのかすらも、思案のうちなのであった。戦争が終わっても,気休めになる材料は何一つなかったのである。そんななかで、日記に我が子の名を記すときの父親の思いは,たとえ備忘録程度の記述ではあっても,胸が張り裂けんばかりであったろう。そしてその父の思いを,何十年かの歳月を隔てて,作者である娘が知ることになる。すなわち、敗戦の日のことがこうして再び生々しく蘇ってきたというわけだ。もう一句、「我が子の名わからぬ父へつくしんぼ」。苦労するためにだけ生まれてきたような世代への、作者精一杯の鎮魂の句と読んだ。『朱房』(2004)所収。(清水哲男)


August 1682005

 秋かぜやことし生れの子にも吹く

                           小西来山

西の「来山を読む会」編『来山百句』(和泉書院)を送っていただいた。小西来山は西鶴や芭蕉よりも若年だが,ほぼ同時代を生きた大阪の俳人だ。「酒を愛し,人形を愛し,そして何よりも俳句を愛した」と、帯文にある。掲句は一見どうということもない句に見えるが,それは私たちがやむを得ないことながら、現代という時代のフィルターを通して読んでしまうからである。前書きに、こうある。「立秋/天地平等 人寿長短」。すなわち来山は,自分のような大人にも「ことし生れの子」にも、平等に涼しい秋風が吹いている情景を詠み,しかし天地の平等もここらまでで、人間の寿命の長短には及ばない哀しさを言外に匂わせているわけだ。このときに「ことし生れの子」とは、薄命に最も近い人間の象徴である。一茶の例を持ち出すまでもなく,近代以前の乳幼児の死亡率は現代からすれば異常に高かった。したがって往時の庶民には「ことし生れの子」は微笑の対象でもあったけれど、それ以前に大いなる不安の対象でもあったのだった。現に来山自身,長男を一歳で亡くしている。この句を読んだとき,私は現代俳人である飯田龍太の「どの子にも涼しく風の吹く日かな」を思い出していた。龍太も学齢以前の次女に死なれている。「どの子にも」の「子」には、当然次女が元気だったころの思いが含まれているであろう。が、句は「天地平等」は言っていても「人寿長短」は言っていない。「どの子にも」という現在の天地平等が、これから長く生きていくであろう「子」らの未来に及ばない哀しさを言っているのだ。類句に見えるかもしれないが,発想は大きく異なっている。俳句もまた、世に連れるのである。(清水哲男)


August 1782005

 よく噛んで食べよと母は遠かなかな

                           和田伊久子

語は「かなかな」で秋、「蜩(ひぐらし)」に分類。どういうわけか我が家の近隣では,ここ十数年ほど、まったく鳴いてくれなかった。それがまたどういうわけか、十日ほど前から突然にまた鳴きはじめたのである。数は少なくて,一匹か二匹かと言うほどに淋しいが,とにかく「かなかな」は「かなかな」である。素朴に嬉しい。そして、なんと昨日は朝の起き抜けにも鳴いた。まだ明けきらぬ四時半くらいだったか、一瞬空耳かと疑い,窓を大きく開けてたしかめたら、たった一匹だったけれど、やはり「かなかな」であった。早朝の鳴き声は,田舎にいた少年時代以来だろう。夕刻の声は寂寥を感じさせるが,早暁のそれは清涼感のほうが強くて寂しさはないように思われる。やはり一日のはじまりということから、自然に気持ちが前に向いているためなのだろうか。懐かしく耳を澄ましながら、しばししらじらと明けそめる空を眺めていた。伴うのが寂寥感であれ清涼感であれ,「かなかな」の声は郷愁につながっていく。「子供にも郷愁がある」と言ったのは辻征夫だったが、ましてや掲句の作者のような大人にとっては,「かなかな」に遠い子供時代への郷愁を誘われるのは自然のことだ。遠い「かなかな」,遠い「母」……。もはや子供には戻れぬ身に、母の極めて散文的な「よく噛んで食べよ」の忠告も,いまは泣けとごとくに沁み入ってくるのだ。私たち日本人の抒情する心の一典型を、ここに見る思いがする。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


August 1882005

 八月や後戻りして止まる電車

                           吉田香津代

のJR福知山線の大事故以来,電車の停車駅でのオーバーランが俄にクローズアップされてきた。どこの管内ではオーバーランが一日に何度あったか、などと新聞に載る。運転者にすればオーバーランは仕事の失敗であり,それが給与の減額などに反映されるとなれば、失敗を挽回すべく無理をすることになり、結果としてもっと大きな失敗を犯すことにもつながっていく。私も事故はご免だけれど,しかしながら、オーバーランにあまりにも神経質になってカリカリするような世間もご免だ。効率一本槍の余裕の無さは,私たちの内面までをも浸食し、味気ない生活を再生産することに資するだけではないのか。掲句の作者は,カリカリしているだろうか、苛立っているだろうか。私には,逆に思われる。「八月や」の「や」は「八月なのだから、暑い季節なのだし」と、運転者を少しも責めてはいない。もっと言えば運転者にも意識は及んでいなくて、むしろ「電車」そのものを生き物のように捉えている。暑いからつい間違って行き過ぎることだってあるし、行き過ぎたらゆっくり「後戻り」すれば、それでよろしい。なにしろ、いまは八月なんだからね。と、ゆったりと構えて微笑しているのだと思う。掲句に触れて,私は高校時代に乗っていた東京の青梅線を思い出した。ちょっとしたオーバーランなどは、しょっちゅうだった。で、その都度,後戻りだ。後戻りした電車から降りるときに見ると,見事に所定の位置に止まっていた。それを見て,はじめて意識は運転者に向かい,バックしてきちんと止められるなんぞは凄いなと感心したりしてた思い出。『白夜』(2005)所収。(清水哲男)


August 1982005

 晩夏の旅家鴨のごとく妻子率て

                           北野民夫

語は「晩夏(ばんか)」で夏。夏の末。暑さはまだ盛りだが,どことなく秋の気配がしのび寄りはじめる。見上げると,空には入道雲にかわってうろこ雲がたなびいている。作者の名前をはじめて知ったのは,大学生のときだった。細々と投稿をつづけていた「萬緑」(中村草田男主宰)には、現在の主宰である成田千空をはじめ、香西照雄、平井さち子、花田春兆、磯貝碧蹄館などの錚々たる同人が並んでおり,北野民夫もその一人であった。しかも、この人の名は雑誌の奥付にもあった。つまり作者は,「萬緑」の発行元「みすず書房」社主でもあったわけだ。したがって業務多忙ということもあったろうが、社員をさしおいて社長が先に夏休みをとるわけにもいかず、やっと休暇がとれたころは既に晩夏だったというわけだ。子供らにせがまれたのだろう。人並みに行楽地に家族旅行と洒落込んではみたものの、もう人出のピークはとっくに過ぎていて,かなり閑散としている。人出が盛んなら当たり前に見える家族連れが、やけに目立つように感じられてならない。「妻子率て」歩いているうちに,なんだか自分たち一家がひょこひょこと連れ立つ「家鴨」の集団のように思えてきて,苦笑いしている。「率て」は「ひきいて」だろうが、字余りを嫌うのなら「いて」の読みも可能だ。が、音読の際に意味不明になるのが悩ましいところ。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


August 2082005

 だけどこの子は空襲で死んだ草

                           小川双々子

季句だが、夏を思わせる。「空襲」ののちの敗戦は、折りしも「草」生い茂る夏のことだったからだろう。掲句を含む連作「囁囁記」のエピグラフには、旧約聖書「イザヤ書」の次の一節が引かれている。イザヤは、キリスト生誕の700年以上前に登場した預言者だ。「人はみな草なり/その麗しさは、すべて野の花の如し/主の息その上に吹けば/草は枯れ、花はしぼむ。/げに人は草なり、/されど……」。すなわち「囁囁記」の諸句は、このイザヤの言の「されど……」を受けたかたちで展開されている。なかでも掲句は,「されど」を「だけど」と現代口語で言い直し,言い直すことで、草である人の現代的運命の悲惨を告発している。「子」は小さい子供というよりも、「神の子」たる人間のことを指しているのではなかろうか。作者の父親は空襲の際、防空壕のなかで窒息死している。その父親がまず,作者にとっての「この子」であると読むのは自然だろう。たとえそうした背景を知らなくても,引用されたイザヤの言葉を頭に入れていれば、「子」が「空襲で死んだ」個々人に及んでいると読めるはずである。ちなみにイザヤ書の「されど……」以下の部分は、こうだ。「我らの神の言葉は永遠に立つ」。キリスト者である作者はこの言を受け入れつつも,しかしなお「だけど」と絞り出すようにして書きつけている。やがては枯れる運命も知らぬげに、いま盛んな夏草の一本一本が,掲句によってまことにいとおしい存在になった。『囁囁記』(1998・1981年の湯川書房版を邑書林が再刊)所収。(清水哲男)


August 2182005

 仰ぎ見て旱天すがるなにもなし

                           石原舟月

語は「旱天(かんてん)」で夏、異常とも言える日照りつづきの空のこと。「旱(ひでり)」に分類。報道によれば,早明浦ダム(高知県)の貯水率が19日(2005年8月)午後8時に0%になり、ダムに残された発電用水の緊急放流が始まった。水道水の半分を同ダムの水に頼っている香川県では現在、高松市など5市13町が、水を出にくくする減圧給水を実施している。いまのところ、まとまった雨は予想されていない。全く雨が降らなかった場合、発電用水も約1カ月で底をつくという。隣県の徳島でも事態は深刻化しており,お住まいの皆さんは、まさに掲句の作者のような気持ちでおられるだろう。お見舞い申し上げます。私の経験した大渇水は1964年(昭和三十九年)の東京のそれで、目前に東京五輪を控えていたため「オリンピック渇水」の異名がある。急激な人口膨張と建築ラッシュも一因だったろうが、とにかく雨が降ってくれず,表に出れば空を見上げてばかりいたことを思い出す。当時の東京都知事は、戦後二代目の東龍太郎。彼が渇水に何ら有効なテを打たないのは,自分の家に井戸があるからさ。そんなまことしやかな陰口もささやかれていた。台風でも来てくれないかと、真剣に願ったものである。まさに「旱天すがるなにもなし」の思い……。自然のパワーには、抗しがたし。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


August 2282005

 向日葵に大学の留守つづきおり

                           鈴木六林男

語は「向日葵(ひまわり)」で夏。「大学の留守」、すなわち暑中休暇中の大学である。閑散とした構内には,無心の向日葵のみが咲き連なっている。まだまだ休暇はつづいてゆく。向日葵が陽気な花であるだけに、学生たちのいない構内がよけいに寂しく感じられるということだろう。そして元気に若者たちが戻ってくる頃には,もう花は咲くこともないのである。私も学生時代に、一夏だけ夏休みに帰省せず,連日がらんとした構内を経験した。向日葵は植えられてなかったと思うが,蝉時雨降るグラウンド脇をひとりで歩いたりしていると、妙に人恋しくなったことを覚えている。誰か一人くらい、早く戻ってこないかな。と、その夏の休暇はやけに長く思われた。これには九月に入っても、クラスの半分くらいは戻ってこなかったせいもある。ようやくみんなの顔が揃うのは,月も半ば頃だったろうか。むろん夏休みの期間はきちんと決まってはいたけれど、そういうことにはあまり頓着なく、なんとなくずるずると休暇が明けていくのであった。そのあたりは教える側も心得たもので、休暇明け初回の授業の多くは休講だったような覚えがある。大学で教えている友人に聞くと,いまではすっかり様変わりしているらしい。学生はきちんと戻ってくるし,休講などとんでもないという話だった。大学も世知辛くなったということか。『王国』(1978)所収。(清水哲男)


August 2382005

 壯年すでに斜塔のごとし百日紅

                           塚本邦雄

語は「百日紅(さるすべり)」で夏。作者は、歌人の塚本邦雄である。いまを盛りと百日紅が咲いている。よく樹を見ると,がっしりとしてはいるが「斜塔」のように少し傾(かし)いでいるのだろう。その様子を、生命力盛んな人間の「壯年」の比喩に見立てた句だ。すなわち、最高度の充実体のなかに「すでに」滅びの兆しが現われているのを見てしまったというわけで、いかにも塚本邦雄らしい感受性が滲み出ている。掲句は、たとえば彼の短歌「鮎のごとき少女婚して樅の苗植う 樅の材(き)は柩に宣(よ)し」に通じ,またたとえば「天國てふ檻見ゆるかな鬚剃ると父らがけむる眸(まみ)あぐるとき」に通じている。加えて「斜塔」のような西洋的景物を無理無く忍び込ませているのも塚本ワールドの特長で,無国籍短歌とも評されたが、塚本の意図はいわゆる日本的な抒情のみに依りすがる旧来の短歌や俳句を否定することにあった。この感覚に若い読者が飛びつき,エピゴーネン的実作者が輩出したのも当然の流れだったと言うべきか。塚本は言った。「同じ歌風を全部が右へならえして、一つの結社でチーチーパッパとやっている神経が,どうしてもわかりません。練習期間が過ぎてもまだ師匠と同じように歌っていることに疑問を感じないのは,一種の馬鹿じゃないかと思う。だから、いつまでも私の真似をする人もきらいなんです」。現代詩手帖特集版『塚本邦雄の宇宙 詩魂玲瓏』(2005)所載。(清水哲男)


August 2482005

 帰省子の鞄に入れる針と糸

                           松田吉憲

針と糸
語は「帰省」で夏。最近、チャップリンの『ライムライト』を見る機会があった。クライマックス近く,舞台袖の大道具の陰で踊り子の成功をひざまずいて祈るシーンがある。通りかかった大道具係が見とがめると,「なにね、ボタンが落ちちゃったもんで」と誤摩化してやり過ごした。なんでもないようなシーンだが,私は「ああ」と思った。そうだった。糸が粗悪だったせいで、昔のボタンは実に簡単に落ちたものだった。だからこういうシーンも成立したわけで,現在ではこの言い訳にはかなり無理があるだろう。そんな具合だったから、私の学生時代に「針と糸」は必需品だった。男でも,ちょっとした糸かがりやボタンつけは誰でもできた。掲句は,そろそろ「帰省子」が大学に戻るための準備をはじめていて、忘れないようにと親が早めに「針と糸」を鞄にそっと入れてやっている図だ。この親心。句としてはいささか平凡だけれど、あの時代を正確に反映しているところに注目した。「針と糸」といえば、もう三十年も昔のことも思い出す。仕事でラスベガスのホテルに滞在したことがあって、部屋に入ったらベッドサイドのデスクの上に写真のサービス品が置いてあった。一瞬マッチかなと思って手に取ってみると,これがまあなんと「針と糸」だったのには驚いた。ホテルは当時,超一流と言われた「シーザース・パレス」である。私などは例外として,まず大金持ちしか泊まらない。だから、どうにも「針と糸」はそぐわないのだ。金持ちは細かい出費にシビアだというから、案外,部屋でボタンつけなどやっていたのかもしれないけれど……。記念に持ち帰ってきたのだが、いまだに謎は謎のままである。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


August 2582005

 汝が好きな葛の嵐となりにけり

                           大木あまり

語は「葛(くず)」で秋。「葛の花」は秋の七草の一つだが、掲句は花を指してはいない。子供の頃の山中の通学路の真ん中あたりに、急に眺望の開ける場所があった。片側は断崖状になっており、反対側の山の斜面には真葛原とまではいかないが、一面に葛が群生していた。そこに谷底から強い風が吹き上がってくると,葛の葉がいっせいに裏返ってあたりが真っ白になるのだ。葛の葉の裏には,白褐色の毛が生えているからである。大人たちはこの現象を「ウラジロ」と言っていて、当時の私には意味がわからなかったけれど、後に「裏白」であると知った。壮観だった。古人はこれを「裏見」と称し「恨み」にかけていたようだが、確かにあれは蒼白の寂寥感とでも言うべき総毛立つような心持ちに、人を落し込む。子供の私にも,そのように感じられたが、嫌いではなかった。「全山裏白」と,詩に書きつけたこともある。ところで、掲句の「葛の嵐」が好きな「汝」とはどんな人なのだろう。この句の前には、「身に入むと言ひしが最後北枕」、「恋死の墓に供へて烏瓜」の追悼句が置かれている。となると、「汝」はこの墓に入っている人のことだろうか。だとすれば、墓は葛の原が見渡せる場所にあるというわけだ。無人の原で嵐にあおられる裏白の葛の葉の様子には、想像するだに壮絶な寂しさがある。それはまた、作者の「汝」に対する心持ちでもあるだろう。「俳句」(2005年9月号)所載。(清水哲男)


August 2682005

 母許や文武百官ひきつれて

                           鈴木純一

季句。「母許」は「ははがり」と読む。「許(がり)」は「(カアリ(処在)の約カリの連濁。一説に、リは方向の意) 人を表す名詞や代名詞に付いて、または助詞『の』を介して、その人のいる所へ、の意を表す。万葉集14『妹―やりて』。栄華物語浦々別『夜ばかりこそ女君の―おはすれ、ただ宮にのみおはす』[広辞苑第五版]。掲句は要するに、権力の座にすわった男が,文武百官をひきつれて母親の許(もと)にご機嫌伺いに戻ったというのであるが、なんとなく現今の二世議員を想像させられて可笑しい。「私はこんなに出世しましたよ、お母さん」というわけだ。でも、微笑ましいと思ってはいけないだろう。なにしろ文武百官をひきつれての里帰りだから,当然この間の政治的空白は免れないからだ。父の選挙地盤を受け継ぎ,その父を実質的に仕切っていた母に頭の上がらぬ男の幼児性は、私たちが知っている権力者の誰かにも当てはまりそうで、冷や冷やさせられる。そしてまた、この文武百官たる連中がことごとくイエスマンであることも困りもの。中国の「鹿をさして馬と為す」の故事を持ち出すまでもなく、意見の相違する者を排除してゆく姿勢は、案外と子供っぽい人間性に存するというのが私の見方だ。「鹿」を「馬」だと言い張った権力者・趙高と、嘘と知りつつそれに従った百官たちもろとも、始皇帝亡き後の秦があっという間に滅んでしまったのはご承知の通りである。『平成物語 オノゴロ』(2005・豈叢書2)所収。(清水哲男)


August 2782005

 ちらつく死さへぎる秋の山河かな

                           福田甲子雄

年の四月に亡くなった作者が、昨秋の入院時に詠んだ句である。こういう句は、観念では作れない。胃のほとんどを切除するという大手術であったようだ。「切除する一キロの胃や秋夜更く」。掲句の「ちらつく死」はもとより観念ではあるけれど、そういうときだったので、より物質的な観念とでも言おうか、まったき実感としておのれを苛んだそれだろう。そうした実感,恐怖感を「秋の山河」が「さへぎる」と言うのである。このとき「さへぎる」とは、ちらつく死への思いを消し去るということではなく,文字通りに立ちふさがるという意味だろう。悠久の山河を目の前にしていると,束の間自分が死んでしまうことなどあり得ないような気がしてくる。昨日がそうであったように、今日もそしてまた明日も、自分の生命も山河のようにつづいていくかと思われるのだ。だが、山河は悠久にして非情なのだ。そんな一瞬の希望を、簡単にさえぎって跳ね返してくる。すなわち、山河を見やれば見やるほど,ちらつく死の思いはなおさらに増幅されてくるということだろう。怖い句だ。いずれ私にも,実感としてこう感じる時期が訪れるのだろうが、そのときに私は耐えられるだろうか。果たして,正気でいられるかどうか、まったく自信がない。そう考えると、あらためて作者の精神的な強さに驚かされるのである。合掌。遺句集『師の掌』(2005)所収。(清水哲男)


August 2882005

 大瀑布ひとすじ秋の声を添ふ

                           篠田悌二郎

語は「秋の声」。ものの音、ものの気配に秋をききつけるのである。心で感じとる秋の声だ。「瀑布(ばくふ)」は滝のことだが、作者は大きな滝の落ちる「音」に「秋の声」を聞き取ったのではあるまい。日は中天にあって,なお真夏のように暑いのだけれど、滝に見入っているとどことなく秋の気配が感じられたということだろう。「ひとすじ」とあるが、これもまた具体的な滝の一部を指しているのではなく、「秋の声」のかすかな様子を表現している。「ひとすじ」「添ふ」の措辞が、非常に美しい。ところで歳時記をめくると、この「秋の声」は「天文」の部に分類されている。私などはむしろ「時候」の部に入れたほうがよいのではと思うのだが,なぜ「天文」なのだろうか。こうした分類法が合理的でないと言ったのは,俳句もよくした寺田寅彦であった。「今日の天文學(アストロノミー)は天體、即、星の學問であつて氣象學(メテオロヂー)とは全然其分野を異にして居るにも拘らず、相當な教養ある人でさへ天文臺と氣象臺との區別の分らないことが屡々ある。此れは俳諧に於てのみならず昔から支那日本で所謂天文と稱したものが、昔のギリシャで「メテオロス」と云つたものと同樣『天と地との間に於けるあらゆる現象』といふ意味に相應して居たから、其因習がどうしても拔け切らないせゐであらう」(随筆「俳句と天文」)。すなわち、歳時記の分類法は科学的にはすこぶる曖昧なのだ。最近、歳時記の季節的分類の矛盾(たとえば「西瓜」や「南瓜」を秋季とするような)を修正する動きが出て来たが、もう一歩進めて、こちらの分類法も考えなおしてほしいものだ。せっかくの分類も、分りにくくては話にならない。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


August 2982005

 石段に初恋はまだ赤のまま

                           つぶやく堂やんま

語は「赤のまま」で秋、粒状の紅色の花を赤飯(赤の「飯」)になぞらえた命名だ。「犬蓼(いぬたで)」に分類。今年も「石段」の周辺に、「赤のまま」が咲く季節になった。神社か寺院かに通じている道だろう。昔ながらに風に揺れている「赤のまま」を見ていると,往時の初恋の思い出が懐かしくも鮮明によみがえってくる。その鮮明さを表現するのに、「赤のまま」の「まま」を「飯」ではなく、「儘」と洒落たわけだ。恋ゆえに、赤い記憶が冴えてくる。初恋の相手が当時の「まま」に、いまにも石段を下りてきそうではないか。むろん相手のこともそうだけれど、純情だったころの自分のことをもまた、作者はいとおしく思い出しているのである。言葉遊びが仕掛けられているが,無理の無い運びが素敵だ。私の「赤のまま」の記憶は,次の歌に込められている。「♪小鳥さえずる森陰過ぎて、丘にのぼれば見える海、晴れた潮路にけむり一筋、今日もゆくゆくアメリカ通いの白い船」。中学一年のときの学芸会で,憧れの最上級生がうたった歌だ。おそらくそのころの流行歌だろうと思われるが、タイトルは知らない。だが、半世紀以上経ったいまでもこのように歌詞を覚えているし,節をつけてちゃんと最後まで歌える。丘にのぼったって海など見えっこない山奥の村には、どこまでも「赤のまま」の道がつづいているばかりなのであった。『つぶやっ句 龍釣りに』(2005・私家版)所収。(清水哲男)


August 3082005

 秋澄むやステップ高き検診車

                           吉村玲子

検診車
語は「秋澄む」。秋の大気が澄み切った様子を言う。最近は検診車に乗ったことがないが、昔はたしかに一般のバスに比べて。少し「ステップ」が高かったような記憶がある(写真参照、1960年代に北海道で使われていた車両だそうです)。自動車のメカの知識は皆無だけれど、いろいろな精密機器を積む関係で、エンジンの種類や設置する場所などが制限され,どうしても車体を高くする必要があったのではなかろうか。会社をやめてから何度か、居住する自治体の検診車でレントゲン撮影などを受けた。検診を受ける気持ちには微妙なものがあって、若い間は健康に自信があったので気楽に積極的に受診できたのだが、五十代に入るころからいささか躊躇するといおうか、できれば避けたいような気持ちが強くなっていった。結果の通知をおそるおそる開くときの、あの、いやアな感じ……。まあ、そんな自分のことはともかく、このときの掲句の作者はすこぶる元気だったのだろう。元気でないと,いくら大気が澄んでいようとも、気持ちよく「秋澄む」と詠み出す気にはなれないはずだからだ。だからステップの高さまでが、むしろ心地よいのである。「よっこらしょ」としんどそうに乗るのではなく、高さに戸惑ったのは一瞬で、すぐに軽やかに乗り込んだのだと思う。「秋澄む」の爽やかな雰囲気を自然の景物ではなく、ちょっと意外な「検診車」を使って出したところがユニークで面白い。『冬の城』(2005)所収。(清水哲男)


August 3182005

 本ばかり読んでゐる子の夏畢る

                           安住 敦

語は「夏畢る(夏終る)」、「夏の果」に分類。既に二学期がはじまっている学校もあるが、多くの学校では今日までが夏休みだ。この間、ほとんど本ばかり読んで過ごした子の「夏」も、いよいよ今日でおしまいだなあと言うのである。親心とは切ないもので、いつも表で遊び回っている子もそれはそれで心配だけれど,本を読んでいるとはいえ、家に閉じこもってばかりいる子の不活発さも気になってしまう。明日からは新学期。作者はこれで、少しは活発に動いてくれるだろうと、ほっとしているのだ。なお「終る」ではなく、わざわざ「畢る」という難しい文字を使ったのは、書物の終りを示す「畢(ひつ)」にかけて「もう本は終りだよ」と洒落たのだろう。「畢」は漢語で「狩猟に用いる柄つきのあみにかたどった象形文字で、もれなくおさえてとりこむ意を表す」[広辞苑第五版]。ひるがえって、私が子供だった頃はどうだったろうか。どちらかと言えば性格的には不活発だったと思うけれど、しかし閉じこもって読むべき本がなかった。唯一の楽しみは母方の実家から送ってもらっていた新刊の「少年クラブ」であり、それを読んでしまうと何も読むものがなかった。仕方がないから炎天下、手製の釣り竿と餌のミミズを入れた缶カラとをぶら下げて、あまり意欲の無い魚釣りをよくやったものだ。退屈だった。早く新学期にならないかと、夏休みのはじまった頃から思いつづけてたっけ。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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