2005N10句

October 01102005

 出会ひの握力別れの握力秋始まる

                           今井 聖

の「秋始まる」は、暦の上の「立秋」ではなく、実質的な秋の到来を指しているのだと思う。したがって、「秋」に分類しておく。「出会ひ」と「別れ」の具体的な状況はわからないが、そのいずれの場合にも、かわす握手には自然に力がこもると言うのである。秋のひきしまった大気は、おのずからひきしまった行為につながってゆく。本格的な秋の訪れの感慨を、「握力」を通じて描き出した視点は新鮮だ。作者に、実感を伴った体験があるからだろう。絵空事では、こういう句は作れない。ところで放送生活二十年の私としては、鈴木志郎康さんの用語を借りれば「極私的」にも観賞したい句だ。放送局の十月は、まさに「秋始まる」月だからである。ラジオにもテレビにも番組改変期は春四月と秋十月にあり、それに伴って何人かのスタッフや出演者の入れ替えがあるのが普通だ。春の人事異動なら、世間一般に行われることなのでそうでもないが、秋のそれは放送局に特有なことゆえに、とくに「別れ」には寂しさがつきまとう。歓送会での握手にも、それこそ自然に力がこもるのである。在任中に、そんな握手をかわして何人の仲間を見送ってきたことだろう。なかには会社から理不尽な異動理由を突きつけられて、会社そのものから去っていった人もいる。みんな元気にしているだろうか。掲句を読んで、ふっと感傷的になった次第である。俳誌「街」(55号・2005年10月)所載。(清水哲男)


October 02102005

 つかれはてて肉声こぼるや酒光る

                           成田三樹夫

季句。雑誌「en-taxi」(2005年11月号)が、「『七〇年代東映』蹂躙の光学」という特集を組んでいる。シリーズ「仁義なき戦い」などで人気を博した時代の東映回顧特集だ。そんな東映実録物路線のなかで、敵役悪役としてなくてはならぬ存在が、句の作者・成田三樹夫であった。クールなマスク、ニヒルな演技にファンも多かった俳優である。惜しくも五十五歳の若さで亡くなってしまったが、没後に句集が出ていることを、同誌で石井英夫が紹介していた。なかに掲句があるそうだが、作者が俳優とわかると、やけに心に沁みてくる。やっと仕事が終わってホッとした酒の席で、「つかれはてて」いたために、思わずも「肉声」をこぼしてしまったと言うのだ。このときに肉声とは、作者の地声でもあり本音のことでもあるだろう。俳優とという職業柄、人前ではめったに地声を出すことはないし、ましてや本音を洩らすこともない。それが、ぽろりと出てしまったのだ。肉体的にも精神的にも弱り切った様子が、これも少しはこぼしてしまったのであろう「光る酒」に刺し貫かれるようにして露出している。石井の文章には作者へのインタビューも紹介されていて、こうある。「ゴルフもやらなきゃマージャンもできない。およそ役者のやるような趣味は何もできません」。ストレス過剰も当然だったと言うべきか。次の句にも、常に張りつめていた人の気持ちがよく現われている。「一瞬大空のすき間あり今走れ」。遺稿句集『鯨の目』(1991・無明舎出版)所収。(清水哲男)


October 03102005

 鰯雲「馬鹿」も畑の餉に居たり

                           飯田龍太

語は「鰯雲」で秋。よく晴れた昼時の「畑」で、一仕事を終えた家族が昼食をとっている。通りがかった作者が見るともなく見やると、その昼「餉」の輪のなかに「馬鹿」もいて、一人前に何か食べていた。「馬鹿」と括弧がつけられているのは、作者が一方的主観的に馬鹿と思っているのではなく、「馬鹿」と言えば近在で知らぬ者はない通称のようなものだからだろう。知恵おくれの人なのかもしれないが、大人なのか子供なのかも句からは判然としない。いずれにしても畑仕事などできない人で、家に残しておくのも心配だから連れてきているのだ。その人が「餉」のときだけはみんなと同じように一丁前に振る舞っているところに、作者は一種の哀しみを感じている。空にはきれいな「鰯雲」が筋を引き、地には収穫物が広がっていて、同じ天地の間に同じ人間として生まれながら、しかし人間の条件の違いとは何と非情なものなのか。掲句の哀感を押し進めていけば、こういう心持ちに行き着くはずだ。が、それをあえて深刻にしすぎないようにと、作者はスケッチ段階で句を止めている。だから逆に、それだけ読者の心の中で尾を引く句だとも言えるだろう。ところで「馬鹿」ではないけれど、かつて深沢七郎が田舎に引っ込んだときには、近所の人から「作文の先生」と呼ばれていた。昔の田舎では、あまり戸籍上の苗字で人を呼んだりはしなかったものだ。掲句の作者にも、きっと往時には通称があったに違いない。どんな呼ばれ方だったのか、ちょっと興味がある。『定本・百戸の谿』(1976)所収。(清水哲男)


October 04102005

 風化せし初恋ながら龍の玉

                           小島可寿

語は「龍の玉(りゅうのたま)」で秋。まだ本物の宝石など見たこともなかった子供のころ、この小さな瑠璃色の玉を見て「なんだか宝石みたいだな」と思った記憶がある。実が固くてよく弾むので、地面にバウンドさせて遊んだりもしたが、それよりも日陰にひんやりと忘れられたようにある状態を眺めるのが好きだった。子供のときから、センチメンタルな気質だったということか。最近、あまり見かけなくなったのが寂しい。掲句は、そんな私の印象によく通じていて忘れ難い。遠い日の「初恋」は既に「風化」しており、もはや相手の面影すらもが鮮明とは言えなくなってきた。ただつれづれに、そのころのことを思い出すことがあると、心の状態だけは昔そのままによみがえってくる。いまでも、胸がきゅんとなる。それはさながら、細長い葉むらの奥にひっそりと実を結ぶ「龍の玉」のようにあくまでも静かではあるが、あくまでも色鮮やかなのだ。「風化」とは言っても、心情的には限りなく「昇華」に近いそれだろう。「龍の玉」の特性をよく生かした抒情句である。青柳志解樹編『俳句の花・下巻』(1987)所載。(清水哲男)


October 05102005

 お二階にヨガしてをられ花芒

                           梶川みのり

語は「花芒(はなすすき)」で秋、「芒」に分類。隣家か向かいの家だろう。秋晴れの上天気に、大きく「二階」の窓が開け放たれている。ちらりと視線をやると、生けられた「花芒」が見え、いつものように「ヨガ」に集中している人の姿も見えたのだった。この景に象徴されるように、その人の生活にはいつも余裕のある潤いが感じられ、人生を楽しむ達人のような感じすら受けている。「この命なにをあくせく」の身からすれば、羨ましくもあり尊敬の念がわいてくる存在だ。俳句で「お二階」などと「お」をつけることは稀であるが、この句の場合には「お」が効いている。その人への敬愛の念が、素直に丁寧や尊敬の接頭語である「お」をつけさせたというべきで、単なる「お菓子」や「お茶碗」の「お」とはニュアンスが異なっている。あえて言えば、丁寧語である「お菓子」の「お」と、尊敬語である「お手紙」などの「お」が重なりあっているのだ。つまり、その人あっての「二階」が「お二階」というわけである。したがって、掲句の「お」には上品ぶった嫌みはない。ところで世の中には、まさに上品ぶって、何でもかでも「お」をつけたがる人がいる。味噌汁のことを「おみおつけ」とも言うけれど、あれは元来は「つけ」だったのに、「お」「み」「お」と三つもの接頭語が上品に上品にと積み上げられた果ての言葉であることはよく知られている。しかしまあ「おみおつけ」までは許すとしても、許せないのは外来語にまで「お」をつける人である。「おビール」なんて言われると、ぞっとする。『転校生』(2004)所収。(清水哲男)


October 06102005

 山里の子も毬栗も笑はざる

                           大串 章

語は「毬栗(いがぐり)」で秋、「栗」に分類。かつて、作者もまた「山里の子」であった。往時の自分や友人たちの表情と重ねあわせての作句だと思う。最近の箱根で詠んだ句のようだが、たまたま道で出会った「子」の顔に笑いがないことに気がついて、ハッとしている。この場合、笑いとはいっても微笑み程度のそれだ。もっと言えば、社交辞令的な笑いである。都会に暮らしていると、大人はもとより、子供にもコミニュケーションをスムーズにするための微笑みは不可欠だろう。大人に声をかけられたりすると、たいていの子は笑みを含んだ表情をする。ところが、句の「子」はにこりともしなかった。山里ゆえに、不特定多数の人々とのコミニュケーションの必要がないせいである。可笑しくもないのに、知らない人にへらへらとはできない。べつにそういう信念があるわけでもないのだが、都会の子のようにちょっと笑みを含むことすらも、不本意な媚びに通じるようで嫌なのだ。そんな子の表情を久しぶりに見た作者は、子供だった頃の自分たちもそのようだったと思い出して、笑わない里の子に大いに共感を覚えたのだった。折しも頭上には爆ぜかけた毬栗が見られ、笑い顔に見えないこともないけれど、その子の表情を見た目には、もうそのようには写らない。マセてもいないしスレてもいないピュアな表情の魅力。ついでにこの子が毬栗頭であれば面白いのにとも思ったが、そこまでは、どうだったのかしらん……。俳誌「百鳥」(2005年10月号)所載。(清水哲男)


October 07102005

 埠頭まで歩いて故郷十三夜

                           松永典子

語は「十三夜」で秋、「後(のち)の月」に分類。陰暦九月十三日(今年の陽暦では十月十五日)の月のこと。名月の八月十五夜に対して後の月と言い、宇多法皇がはじめた行事とされる。中国の行事である十五夜に対抗して、日本の月ならば十三夜がベストだというわけか。「十三」という数字は、欧米ではキリスト教がらみで嫌う人が多いようだが、日本では「富(とみ)」に通じ、また十二支の次の数でもあるから「出発」に通じて縁起が良いと言われたりする。掲句は、久しぶりに故郷を訪ねた作者が名残りを惜しんで、最後の夜を散策しているのだろう。子供のころに慣れ親しんだ「埠頭(ふとう)」から、もう一度海を眺めておきたい。折しも、今宵は十三夜だ。澄み切った月の光に照らされて歩きながら、この月を「名残の月」とも言うことを思い出して、作者はいちだんと感傷的な気分にひたされてゆく。夜風は、もう肌寒い。月と埠頭。これだけでも絵になりそうな風景に、名残り惜しいという情のフィルターがかけられているのだから、ますますもって美しい絵に仕上がっている。それもカラフルな絵ではなく、モノクロームだ。鮮かに、目に沁みてくるではないか。十三夜の句として、一見地味ながら出色の出来だと思う。『埠頭まで』(2005)所収。(清水哲男)


October 08102005

 通帳にらんで女動かぬ道の端

                           きむらけんじ

季句。この「女」のひとにはまことに失礼ながら、思わず吹き出しそうになってしまった。たったいましがた、銀行で記入してきたばかりの「通帳」なのだろう。記入したときにちらりと目を走らせた数字があまりに気になって、家まで見ないでおくことに我慢ができず、ついに「道の端」で開いてしまった。むろん、残高は予想外の少なさである。どうして、こんなに少ないのか。何度も明細を確かめるべく、彼女は身じろぎもしない。不動のまま「にらんで」いる。世の中には、本人が真剣であればあるほど、他者には可笑しく思われることがある。これも、その一つだ。道端で通帳をにらむという、そうザラにはない図を見逃さなかった作者のセンスが良く生きている。掲句はたまたま五七五の定型に近いが、作者は自由律俳句の人だ。第一回「尾崎放哉賞」受賞。「煙突は立つほかなくて台風が来ている」「職の無い日をスタスタ歩く」「妻よ南瓜はこの世に必要なのか」など。いずれも、ユーモアとペーソスの味が効いている。ところで「自由律俳句」についてだが、放哉や山頭火などの流れのなかの句は、たしかに伝統的な定型句とは異なる「律」で詠まれてはいる。けれども、こうした自由律にはまたそこに確固とした独自の定型的な「律」があるのであって、これを「自由な律」と称するのは如何なものかと思う。何か他に、適当な呼称を発明する必要がありそうだ。『鳩を蹴る』(2005)所収。(清水哲男)


October 09102005

 つゆ草の節ぶし強し変声期

                           泉原みつゑ

語は「つゆ草(露草)」で秋。とはいっても、もう花期は過ぎていると思う。近所に見かけないので、よくわからない。私の子供の頃の記憶では、まだ暑い盛りにまことに可憐な青みがかった花を咲かせたものだ。徳富蘆花は「花ではない、あれは色に出た露の精である」と書いた。そんなか弱げな露の精の茎の「節ぶし」が、実は強いということを、この句に出会うまでは知らなかった。コスモスがそうであるように、ちょっと手折るというわけにはいかないのだろう。花も見かけによらぬものだ。で、作者はそうした露草の特性を「変声期」の少年に重ねてみせている。見事な飛躍だ。中学校あたりを歩いていると、まだ稚ない顔をした少年たちが、おっさんのような声を発していて驚くことがある。そこで作者は、彼らの節ぶしの強さが、まずは外見に似合わぬ声に現われていると詠んだのだ。多くの露草の句が花に着目して、そのはかなさを押し出しているなかで、花と茎全体をとらまえているところがユニークであり、句も成功している。変声期かあ……。むろん私にもあったのだけれど、さほど意識した覚えはない。必然的な生理現象だから、身体がびっくりしなかったせいだろうか。子供のときの声はいささか甲高かったので、変声期があったおかげで助かったとは思っている。『現代俳句歳時記・秋』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


October 10102005

 うつうつと一個のれもん妊れり

                           三橋鷹女

語は「れもん(檸檬)」で秋。妊(みごも)ったときの心境には、妊ったことのない者には絶対にわからない複雑なものが入り交じっているだろう。周囲から祝福の言葉をかけられても、それは当人の気持ちのほんの一部に照応するのみなのであって、そう簡単に心身の整理がつくものではあるまい。だからこその「うつうつと」であり、幸福そうな明るい色彩の「一個のれもん」にすら、むしろ鬱陶しさを感じてしまう。とまあ、私は男だから、このあたりまでしか句への思いがいたらない。ただ、この「れもん」は「りんご」や「みかん」と置き換えることができそうでいて、しかし代替は不可能だということはよくわかる。「れもん」には、どことなく韻文的な神秘性が秘められている感じがあるからだ。「りんご」は散文的にわかってしまうが、「れもん」にはそうしたわかりやすさがないのである。それはたとえば梶井基次郎が『檸檬』で書いたように、だ。京都の丸善で、開いて積み上げた画集の上に、「うつうつと」した梶井が「檸檬」を時限爆弾のように仕掛けて立ち去る。この有名な場面も、檸檬でなくては話にならないだろう。ところで、この京都の丸善が本日をもって閉店するという。もっとも、梶井の短編に出てくる店は現在の河原町通りとは場所が違うけれど、とまれ明治五年(1872年)創業の老舗が消えてゆくのは、やはり時世というべきなのか。京都も、また少し寂しくなるな。『新日本大歳時記・秋』(1999・講談社)所載。(清水哲男)


October 11102005

 天高しやがて電柱目に入り来

                           波多野爽波

語は「天高し」で秋。澄み渡った秋の大空。作者は大いに気を良くして、天を仰いでいる。だが、だんだん視線を下ろしていくにつれ何本かの「電柱」が目に入ってきた。せっかくの青空になんという無粋で邪魔っけな電柱なんだ、興ざめな。……という解釈も成り立たないことはないけれど、作者の本意とは相当に隔たりがあるように思う。そうではなくて、実ははじめから作者の視野には電柱が入っていたと解釈したい。人間の目は、カメラのレンズのようには機能しない。視野に入っているものでも、見たいものが別にあればそちらにピントを合わせて見ることができる。言い換えれば、余計な他のものには意識がいかないので、視野の内にあっても見ないでいられる。それが証拠に、何か気に入ったものを写真に撮ってみると、思わぬ夾雑物がいっしょに写っていたりして慌てることがある。えっ、こんなものがあそこにあったっけなどと、後で首を傾げることは多い。作者の最初の関心は高い天であったから、はじめは電柱に気がつかなかっただけなのだ。それがしばらく仰ぎ見ているうちに、だんだんと気持ちが落ち着いてきて、視野の内にある他のものも見えてきはじめた。そんな人間の目の特性を発見して、作者は面白がっているのだろう。如何でしょうか。『舗道の花』(1956)所収。(清水哲男)


October 12102005

 萩咲て家賃五円の家に住む

                           正岡子規

語は「萩」で秋。前書きに「我境涯は」とある。すなわち、「自分の境涯は、まあこんなところだろう」と、もはや多くを望まない心境を述べている。亡くなる五年前の句だ。一種の諦観に通じているのだが、何となく可笑しい。もちろん、この可笑しさは「家賃五円」というリアリスティックな数字が、とつぜん出てくることによる。「萩咲て(はぎさいて)」と優雅に詠み出して、生活に必要な金銭のことが具体的に出てくる変な面白さ。坪内稔典の近著『柿喰ふ子規の俳句作法』(2005・岩波書店)を読んでいたら、「子規俳句の笑いの基本形は、見方や感じ方のずらしが伴う」と書いてあり、私もその通りだと思った。それも企んだ「ずらし」ではなくて、自然にずれてしまうところが面白い。同書にも書かれているが、子規の金銭感覚はずっと若いときに比べると,この頃は大いに様子が違っている。漱石の下宿に転がり込んでいたころには、「人の金はオレの金」みたいにルーズだったのが、晩年には逆に合理的な考え方をするようになった。掲句の「五円」は切実な数字だったわけで、だからこそ句に書いたのだが、しかし境涯をいわば経費で表現するのは並みの感覚ではないだろう。そう言えば、みずからの墓碑銘(案)の最後に「月給四十円」と記したのも子規であった。稔典さんによれば「その月給で一家を支えている子規のひそかな誇りが示されている」ということであり、これまたその通りであろうとは思うのだけれど……。高浜虚子選『子規句集』(1993・岩波文庫)所収。(清水哲男)


October 13102005

 冴えざえとルイ・アラゴンのことなどを

                           小川和彦

の季語に「冴ゆ」があって、寒さの極まった感じを言う。掲句の「冴えざえ」を季語と見て便宜的に「冴ゆ」に分類はしておくが、この場合の「冴えざえ」は体感というよりも心の鮮やかな状態を表している。となれば、むしろ晩秋くらいの季節感と解釈するほうがよいのかもしれない。それにしても、ルイ・アラゴンとは懐かしい名前だ。第二次大戦のナチスによる被占領下フランスで、伝統的な詩型を駆使してレジスタンス作品を書いた。左翼文学の雄として世界的に名が知られ、私が学生の頃には日本でも人気の高かった詩人である。作者がどういうきっかけで「アラゴンのことなどを」冴えざえと思い出したのかはわからないが、現今のキナ臭い世界情勢のなかで、ふっとかつての左翼詩人に思いがゆくことは不自然ではないだろう。アラゴンの優れた詩は、声高に抵抗を叫ぶのではなく、むしろみずからの傷心に身を沈めつつ、そこから世の中の理不尽を静かに告発するというものであった。短い詩「C(セー)」を安藤元雄の訳で紹介しておく。「C」は、「セーの橋」という町の名前から来ている。戦略上の要衝にあるため、古くからたびたび戦場となった町だ。とくにドイツ占領軍撤退の際の激戦地として知られる。「僕は渡った セーの橋を/すべてはそこに始まった//過ぎた昔の歌にある/傷ついた騎士のこと//夏に咲いた薔薇のこと/紐のほどけたコルサージュのこと//気のふれた公爵の城のこと/お堀に群れる白鳥のこと//永遠に待つ花嫁が/踊りにくるという野原のこと」。句は俳誌「梟」(2005年10月号)所載。(清水哲男)


October 14102005

 赤い羽根つけ勤め人風情かな

                           清水基吉

語は「赤い羽根」で秋。最近は、つけている人を街であまり見かけなくなった。見かけるのは、ほとんどがテレビに出てくるアナウンサーだとか国会議員だとか、いわば特殊な職業の人ばかりだ。この赤い羽根は、昭和二十二年に「少年の町」のフラナガン神父のすすめで、佐賀と福岡ではじまった民間の社会福祉活動である。以後、赤い羽根という斬新なアイデアの魅力も手伝って、たちまち全国展開されるようになった。ひところは季節の風物詩と言っても過言ではないくらいに普及し、街頭募金も大いに盛り上がったものである。掲句は、そのころの作句だろう。みんなと同じように募金して羽根をつけてはみたものの、考えてみれば自分はしがないサラリーマンでしかない。そんな「勤め人風情」が事もあろうに人助けとは、なんだかおこがましいような気がする。いいのかな、こんなことをして……。と、自嘲の心が消せないのである。私も若いころから、民間の福祉活動については(その善意を否定するのではないが)、疑問を持ってきた。本来は国家の福祉制度が充実していればすむ部分をも、民間に任せてネグレクトしているのが許せないからだ。したがって、国会議員が赤い羽根をつけるなどは笑止の沙汰で、自分たちの福祉政策の脆弱さ加減をみずから認めているようなものなのである。彼らにはおよそデリカシーというものが無いらしく、その欠如がいまやこれまで積み上げてきたささやかな公的福祉すらをも切り捨てにかかってきた。それこそ福祉の民営化だ。「勤め人風情」が羽根をつけなくなったのも、当然だろう。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


October 15102005

 底紅や人類老いて傘の下

                           高山れおな

語は「底紅(そこべに)」で秋。「木槿(むくげ)」のこと。なるほど、木槿の花は中央の「底」の部分が「紅」色をしている。句の前書きによれば、若くして世を去った俳人・摂津幸彦七回忌法要の折りの作句だ。「蕭々たる冷雨、満目の木槿」だったという。それでなくとも心の沈む法要の日に、冷たい雨が降りつづき、しかも折りからたくさんの底紅が咲いていた。『和漢三才図絵』に「すべて木槿花は朝開きて、日中もまた萎(しぼ)まず、暮に及んで凋(しぼ)み落ち、翌日は再び開かず。まことにこれ槿花一日の栄なり」とあるように、昔から底紅(木槿)ははかないものの例えとされてきた。冷雨に底紅。参列した人たちはみな「傘」をさしていたわけだが、作者は自分も含めて、そこにいた人たちを「人類」とまとめている。すなわち人間の命のはかなさの前では、人それぞれの性や顔かたちの違いや個性や思想のそれなどにはほとんど意味が無く、生きて集まってきた人たちは「人類」と一括りに感じられると言うのである。その「人類」が故人の生きた日よりもさらに「老いて」「傘の下」に、いまこうして黙々と立っているのだ。虚無というのではなく、それを突き抜けてくるような自然の摂理に従わざるを得ない人間存在を実感させられる句だ。思わずも、襟を掻き合わせたくなってくる。『荒東雜詩』(2005)所収。(清水哲男)


October 16102005

 忙しなく秋刀魚食べ了へひとりかな

                           ともたけりつ子

語は「秋刀魚」で秋。句集の内容から推して、作者は若い独身女性のようだ。仕事を持ち、ひとり暮らしをしている。仕事帰りに、初物の「秋刀魚」をもとめてきたのだろう。せっかくの季節の物だから、ちゃんと大根おろしを添え、柚子かレモンの汁を滴らせたにちがいない。だが、いざ食べる段になると、季節感をじっくり味わうというのでもなく、いつものように「忙(せわ)しなく」食べ了(お)えてしまった。もはや習い性となってしまったそんな食べ方に、つくづくと「ひとり」を感じさせられている。私の独身時代を思い起こしてみても、似たようなものだった。とにかく「食べておかなければ」という意識が強く、旬の物であれ何であれ、そそくさと食べる癖がついてしまうのだ。言うならば、ちょっと中腰のままで食べる感じである。「秋刀魚の歌」の佐藤春夫みたいに色模様もないので、「男ありて/今日の夕餉に/ひとりさんまを食ひて/思ひにふけると」なんて情趣は湧いてこない。句に戻れば、だから作者の「ひとりかな」という表現は、寂寥感を押し出して言っているのではなく、一抹の寂しさを伴ってはいるが、その内実は「苦笑」に近いと思う。「ひとり」の自分を客観視して詠んでいるところが、掲句のポイントである。『風の中の私』(2005)所収。(清水哲男)


October 17102005

 秋の波鳶の激しさときに見ゆ

                           福田甲子雄

語は「秋の波」、「秋の海」に分類。高い秋空の下に広がる爽やかな海。浜辺も、そこに寄せる波も、夏に比べると清澄である。やや淋しい感じがするけれど、だから好きだという人は多い。私も、その一人だ。掲句は、そんな静かで平和な風景を切り裂くように、ときに「鳶(とび)」が激しい動きを見せると言うのである。それまでは静かな風景の一部に溶け込んでいた鳶が、いきなり秋の波をめがけて急降下してくる。魚の死体だろうか、餌を発見して、それをかっさらうためだ。この静と動の鮮やかな対比は、そのまま自然の奥深さを指差しているだろう。鳶は、なにも秋の波を引き立てるために飛んでいるわけじゃない。すなわち、自然は人間の思惑通りにあるのではないということだ。しかし作者は、「ときに」そうした荒々しい動きがあるからこそ、なおいっそう静かな秋の波に魅入られているのだろう。ところで、昔の人は秋の波を女性の涼しげな目に見立てて、「秋波(しゅうは)」と言った。が、「いつの間にか、女性が媚を含んだ目で見つめたり、流し目を使ったりすることを『秋波を送る』というようになりました。/最近では、異性関係以外でも使われますが、男性が女性へ『秋波を送る』とはいいません」(山下景子『美人の日本語』)。なぜ、そうなってしまったのか。大いに気になるが、この本に説明はなかった。ご存知の方、おられますでしょうか。『合本俳句歳時記・第三版』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


October 18102005

 飼い馴らす携帯電話露の夜

                           鈴木 明

語は「露」で秋。一度も「携帯電話」を持ったことはないけれど、パソコンなどの他の機器から類推して、句の「飼い馴らす」の意味はわかるような気がする。たぶん携帯電話にはいろいろな機能がついているので、それらを自分が使うときに便利なようにカスタマイズできるのだろう。その作業を、作者は秋の夜にやっている。私よりも少し年上の方だから、失礼ながら、マニュアルと首っ引きでたどたどしく……。しかし、これをやっておかないと、快適には使えない。やむを得ず作業をつづけているわけだが、そのうちに時々ふっと空しくなってくる。このときに「露」は空しさの象徴だ。夜間に結ぶ露も、明日朝くらいまでのわずかな時間しか身を保つことができない。いま行っているおのれの作業が、いま盛んに結ばれている露みたいに感じられると言うのだ。2002年と三年前の作だが、いまや「携帯電話」とは誰も言わなくなった。「ケータイ」である。それこそ機能的にも「ケータイ」は単なる「携帯電話」とは違い、テレビも受信できればカメラもついている。もう「電話」と言うことはできない。ますます「飼い馴らす」のが難しそうだ。私が持たないのは、そういうことからではなくて、元来が電話嫌いだからだ。相手の都合などおかまいなしの暴力性が、なによりも気に食わないのである。『白』(2003)所収。(清水哲男)


October 19102005

 殺めては拭きとる京の秋の暮

                           摂津幸彦

語は「秋の暮」。秋の終りのことではなく、秋の日暮れのこと。昔はこの両方の意味で使われていたが、今では日暮れ時だけに用いる。ちなみに、秋の終りは「暮の秋」と言う。千年の都であり国際的な観光都市として知られる京都は、先の大戦でも戦火を免れ、いまや平和で平穏な街というイメージが濃い。なんだか昔からずっとそのようであった錯覚を抱きがちだが、歴史的に見れば「京」は戦乱と殺戮にまみれてきた土地でもある。古くは十年間に及んだ応仁文明の乱がすぐに想起されるし,新撰組による血の粛清からでもまだ百年と少々しか経っていない。これら有名な殺戮の歴史だけではなく、都であったがゆえの血で血を洗う抗争の類は数えきれないほどあったろう。だが、「京」はそんな殺戮があるたびに、それを一つずつ丁寧に「拭きと」ってきた歴史を持つ街なのであり、さらには現代の「京」にもまたそんなところがあると、掲句は言っている。したがって、この句の「秋の暮」に吹いているのは、荒涼たる無常の風だ。京都市にはいま、およそ1700近くの寺があるそうだが、これら寺院の「殺(あや)めては拭きとる」役割にも大きなものがあったと思われる。それでなくとも物寂しい「秋の暮」に、句から吹き起こる無常の風は、骨の髄まで沁みてくるようだ。怖い句である。『鳥屋』(1986)所収。(清水哲男)


October 20102005

 火の粉撒きつつ来るよ青年焼芋屋

                           山田みづえ

語は「焼芋(焼藷・やきいも)」で冬だが、実際の「焼芋屋」商売は季語に義理立てなんかしちゃいられない。我が家の近辺にも、かなり冷え込んだ一昨夜、颯爽と登場してまいりました。焼芋屋が「颯爽と」はちょっと違うんじゃないかと思われるかもしれないが、これが本当に「颯爽」としか言いようがないのだから仕方がない。というのも、軽トラに積んだ拡声器が流していたのは、例の売り声「♪やぁ〜きぃも〜〜 やぁ〜きぃも〜 いしぃ〜やぁ〜きいも〜〜 やぁ〜きぃも〜」ではなくて、何とこれがベートーベンの「歓喜の歌」だったのだから……。意表を突くつもりなのか、それともクラシック好きなのか、遠くから聞こえてきたときには一瞬なんだろうと思ってしまった。掲句の焼芋屋の趣も、かなり似ている。焼芋屋というと何となく中年以上のおじさんを連想してしまうが、これがまあ、実はまだ若々しい青年なのでありました。その若さの勢いが、屋台の「火の粉撒(ま)きつつ」とよく照応していて、出会った作者は彼の元気をもらったように、明るい気持ちになっている。季語「焼芋」の醸し出す定型的な古い情趣を、元気に蹴飛ばしたような句だ。彼の売り声は、どんなだったろうか。昔ながらの「♪やぁ〜きぃも〜〜 やぁ〜きぃも〜」も捨て難いけれど、売り声もこれからはどんどん変わっていくのだろう。でもどうひいき目に考えても、ベートーベンではとても定番にはなりそうもないけれど。『手甲』(1982)所収。(清水哲男)


October 21102005

 新宿ははるかなる墓碑鳥渡る

                           福永耕二

語は「鳥渡る」で秋、「渡り鳥」に分類。掲句は、作者の代表作だ。作者が渡り鳥になって、新宿の高層ビル街を鳥瞰している。それぞれのビルはさながら「墓碑」のようだと解釈する人が多いようだが、新宿に思い入れの強い私にはそうは思えない。むしろ作者は新宿を遠く離れた地にいて、「はるかなる」街を遠望している。実際に見えるかどうかは無関係であり、たとえ見えなくとも、心象的に高層ビルとその上空を渡る鳥たちが鮮やかなシルエットとして見えているということだろう。十代の終り頃から十数年間、私は新宿に魅入られて過ごした。京都での大学時代にも、東京の実家に戻るたびに、せっせと出かけていったものだ。紀伊国屋書店が、現在地でまだ木造二階建てだったころである。新宿のどこがそんなに好きだったのかは、とても一言では言い表せないが、街の猥雑さが若い心のそれとぴったり呼応していたとでも言うべきか。いろいろな影響を受けた街だけれど、とりわけて今につづく私の交友関係の多くは、新宿を抜きにしては無かったものである。そんな新宿だが、最近はほとんど出かけることもなくなってしまった。街も変わり、人も変わった。だから、私の新宿はもはや心の裡にしか生きていない。掲句に従えば、現実の新宿は青春の「墓碑」そのもののように写る。切なくも、心魅かれる句だ。ちなみに、作者は私と同年の1938年(昭和十三年)生まれ。句界での未来を嘱望されつつ、わずか四十二歳という若さで亡くなっている。『踏歌』(1980)所収。(清水哲男)


October 22102005

 流れ星ヨットパーカーあふられて

                           対中いずみ

語は「流れ星(流星)」で秋。「ヨットパーカー」を着ているからといって、ヨットに乗っているとは限らない。四季を問わぬスポーツウェアだ。ましてや句は夜の状景だから、作者は陸上にいる。セーリングの後かもしれないし、ランニングなど他の運動の後かもしれない。とにかく心地よい汗を流した後なので、心は充足している。パーカーが「あふられ」るほどに風は強いのだけれど、むしろその風を心地よく感じているのだろう。フードや裾がパタパタ鳴っている。澄んだ夜空を見上げる目に、折りしもすうっと流れていった星ひとつ。句は「流れ星」を点景として、強い風のなかに立っている自分をクローズアップしているのだ。すなわち、自己愛に満ちた青春謳歌と読んでおきたい。古来、多く「流星」の句は、星に重点を置きクローズアップしてきたが、このように星をいわば小道具に用いた例は珍しいののではなかろうか。なお、掲句は本年度の「第20回俳句研究賞」受賞作五十句のうち。他に「ふたりしてかたき杏を齧りけり」「手から手へうつして螢童子かな」「寒施行きのふの雨を踏みながら」などがある。素直で難のない詠みぶりが評価された。作者の苗字は「たいなか」と読む。「俳句研究」(2005年11月号)所載。(清水哲男)


October 23102005

 芸亭の桜紅葉のはじまりぬ

                           岩淵喜代子

語は「桜紅葉」で秋。「芸亭(うんてい)」は、日本最古の図書館と考えればよいだろう。奈良時代後期の有力貴族であった石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)によって、平城京(現在の奈良市)に設置された施設だ。仏道修行のための経典などが収められていたと、創設経緯などが『続日本紀』(797年完成)に出てくる。しかし、宅嗣の死後間もなくに長岡遷都が行われ、荒廃した平城京とともに「芸亭」も消滅してしまったと思われる。したがって、掲句の「芸亭」は幻である。絵も残されていないので、どんなたたずまいだったのかは誰にもわからない。掲句は、そんな幻の建築物の庭には「桜」の樹があって、こちらは誰もが見知っている「紅葉」がはじまったと言うのである。つまり作者は、幻の芸亭に現実の桜紅葉を配してみせたわけだ。「桜紅葉」は、他の紅葉に先駆けて早い。すなわち、もはや幻と化している芸亭にもかかわらず、そこにまた重ねて早くも衰微の影がしのびよってきた図だと解釈できる。幻とても、いつまでも同じ様相にあるのではなく、幻すらもがなお次第に衰えていくという暗喩が込められた句ではなかろうか。想像してみると美しくも幻想的な情景が浮かんでくるが、その美しさの奥に秘められているのは,冷たい世の無常というようなものであるだろう。「俳句研究」(2005年11月号)所載。(清水哲男)


October 24102005

 透く袋ぱんぱん桜落葉つめ

                           星野恒彦

語は「落葉」で冬。多くの木々の落葉にはまだ早いが、桜は紅葉が早い分だけ、落葉も早い。近所に立派な桜の樹があって、昨日通りかかったら、もうはらはらと散り初めていた。掲句は半透明のゴミ捨て用の袋に、散り敷いた「桜落葉」を集めて詰め込んでいるところだ。かさ張るのでぎゅうぎゅうと押し込み、ときおり「ぱんぱん」と袋を叩いて隙間を無くするのである。「ぱんぱん」という乾いた音が、よく晴れた秋の日差しに照応して心地よい。近隣の秋のフェスティバルだったか、あるいは保育園の催しだったか、参加者は「落葉を持ってきてください」と呼びかける広報紙を見たことがある。たしか持参者には、落葉の焚火での焼芋を進呈すると付記されていた。なかなかに粋な企画ではないか。そうして集めた落葉を何に使うのかというと、子供たちのために「落葉のプール」を作るのだという。そこら中に落葉を敷きつめて、その上で子供たちが転がったりして遊ぶためのふかふかのプールだ。実際に見に行かなかったのだけれど、面白い発想だなと印象に残っている。このときもおそらく主催者側では、集まる落葉の量がアテにならないので、掲句のように「ぱんぱん」と袋に詰めてまわったのだろう。どこにでもありそうな落葉だが、いざ意識的に集めるとなると、都会では大変そうだ。私はといえば、ときに本の栞りにと、銀杏の葉などを一二枚拾ってくるくらいのものである。「ぱんぱん」の経験はない。『邯鄲』(2003)所収。(清水哲男)


October 25102005

 しぐるるや船に遅れて橋灯り

                           鷹羽狩行

語は「しぐるる(時雨るる)」、「時雨」に分類。冬の季語だが、晩秋を含めてもよいだろう。昔の歌謡曲に「♪どこまで時雨ゆく秋ぞ」と出てくる。作者はおそらく、海峡近くのホテルあたりから海を見ているのだ。日暮れに近い外はつめたい時雨模様で、遠くには灯りをつけた船がゆっくりと動いている。と、近景の長い橋にいっせいに明りが灯った。時雨を透かして見える情景は、まさに一幅の絵のように美しい。しばし陶然と魅入っている作者の心持ちが、しみじみと伝わってくる句だ。言うなれば現代の浮世絵であるが、絵と違って、掲句には時間差が仕込まれている。何でもないような句だけれど、巧いなあと唸ってしまった。「しぐるる」の平仮名表記も効果的だ。この句を読んでふと思ったことだが、橋に明りが灯るようになったのはいつごろからなのだろうか。明治期の錦絵を見ると、日本橋に当時の最先端の明りであるガス灯が灯っていたりする。しかし通行人はみな提灯をさげていて、そのころの夜道の暗さがしのばれるが、これは実用と同時にライトアップ効果をねらった明りのようにも思える。ガス灯以前の橋の上が真っ暗だったとすると、月の無い夜、大川あたりの長い橋を渡るのはさぞや心細かったに違いない。まして、時雨の夜などは。俳誌「狩」(2005年11月号)所載。(清水哲男)


October 26102005

 蓑虫の蓑は文殻もてつづれ

                           山口青邨

語は「蓑虫(みのむし)」で秋。そこはかとなく哀れを誘う虫だ。江戸期の百科事典とも言うべき『和漢三才図絵』(東洋文庫・平凡社)に、その風情がよくまとめられている。「その首を動かす貌、蓑衣たる翁に彷佛(さもに)たり。ゆゑにこれに名づく。俗説に、秋の夜鳴きて曰、秋風吹かば父恋しと。しかれども、いまだ鳴声を聞かず。けだし、この虫木の葉を以て父と為し、家と為し秋風すでに至れば、零落に近し。人これを察して、付会してかいふのみ。その鳴くとは、すだく声にあらず、すなはち涕泣の義なり」。すなわち、蓑虫はいつも涙を流して泣いているのだ。だとすれば、蓑虫よ。木の葉などの蓑をまとわずに、「文殻(ふみがら)」でこしらえた蓑こそが、お前には似つかわしいぞ。懐かしい古い手紙の数々を身にまとえば、少しは心の慰めになろうものを。掲句は、そう言っている。優しい句だ。掲句を読んで、子供ののころにやらかした悪戯を思い出した。ぶら下がっている蓑虫を取ってきて丸裸にし、それをあらかじめ千切っておいた色紙の屑に乗せておく。そのまま遊びに出かけて帰ってくると、なんと蓑虫は色鮮やかな衣装に着替えているというわけだ。これはなんとも野蛮な所行だったが、この虫が文殻を着ることも不可能ではないわけで、作者もそんな遊びを知っているなと、ちらりと余計なことを思ってしまった。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


October 27102005

 ホップ摘み了へ庭中に木偶の坊

                           宮坂静生

作「遠野行」のうち。「ホップ」とあれば、私のようなビール好きは嫌でも立ち止まる。しかし、何度も読んだが、よくわからない。わからないのは作者のせいではなくて、ホップの知識が乏しい私のせいである。私も数年前、ホップの特産地である遠野に出かけたときにはじめて見たのだが、初夏だったので収穫期にはほど遠かった。ホップの収穫期は、八月から九月初旬にかけてだという。季語としては「秋」になるわけだ。ホップの蔓は十数メートルと長いので、栽培には鉄の棒や金属製のパイプを立てて、それに巻きつかせる。いろいろ考えたけれど、掲句はこの棒のことを「木偶の坊」と言っているように思える。つまり、収穫が終わって役立たずになった棒どもが、畑から引っこ抜かれて庭中に置かれている図だ。背だけはいっちょまえ以上に高いのだが、場所塞ぎになるだけで、もうこうなるとまさに木偶の坊でしかない。収穫以前の颯爽たる立ち姿は、どこに消えたのか。哀れでもあるけれど、どこか滑稽でもある。そんな句意ではあるまいか。なお、乏しい知識のなかから一つ「うんちく」を転がしておくと、ホップには神経鎮静作用があり、昔の欧米では普通に薬局で売っていた。その影響かどうかは知らないが、明治初期の我が国では、ビールは主として薬屋が販売していたそうだ。「俳句」(2005年11月号)所載。(清水哲男)


October 28102005

 深秋の習志野に見し落下傘

                           中嶋秀子

語は「深秋(しんしゅう)」、「秋深し」に分類。千葉県の習志野市には自衛隊の駐屯基地がある。空挺団を持っているので、掲句は降下訓練の模様を詠んだものだろう。見たまんま、そのまんまだけれど、この句は「落下傘」を詠んだのではなく、その背景に広がる大空を詠んでいる。このときに真っ白いパラシュートは、紺碧の空を引き立てるための小道具なのだ。「深秋」の良く晴れた空は、それでなくとも美しいが、いくつかの小さな落下傘を浮かべることで、よりいっそう深みを増すことになった。そこで私の見たいちばん美しい空はと思い出してみて、学生時代の富士登山で見た空がよみがえってきた。夏、空気の清浄なこともあり、頂上近くなると抜けるような青空だった。思わずも「ああ、イーストマン・カラーみたいだ」と思ったのは、熱心な映画ファンだったことによる。最も映画を見た年は、数えてみたら400本を越えていた。当時のイーストマン・カラーは、コントラストの強いメリハリのはっきりした濃い色を出していたと思う。だから情景によっては嘘っぽくも見えてしまうわけだが、富士山の空はまさに天然色としてカラー映画そのものであった。いまでも私はちょっと濃いめの発色が好きで、カメラで言えばニコンの空色に惹かれる。しかしニコンは良いけれど、値段はすこぶるよろしくない。指をくわえて見ているだけとは、情けなや……。『季語別中嶋秀子句集』(2005・ふらんす堂)所収。(清水哲男)


October 29102005

 震度2ぐらいかしらと襖ごしに言う

                           池田澄子

震度
季句。「襖(ふすま)」は冬の季語だが、地震は何も冬に限らない。句は、家人との会話だ。揺れたのだが、ほどなくして治まった。腰を浮かすほどの揺れでもなかった。やれやれと「襖ごしに」、いまのは「震度2ぐらいかしら」と問いかける。問いかけるのだが、別に答えを求めているわけではない。たいした揺れではなかったと、むしろ自己納得のための独白に近い。襖ごしの部屋にいる人も「ああ」とか「そうだな」とか、適当に相槌を打ったことだろう。会話とも言えない会話。家族間では、けっこう頻繁だ。だから掲句は、読者のそんな思い当たりを誘って、微笑を呼ぶのである。それにつけても、この「震度」という数字を伴った用語は、短期間によく浸透したものだ。それまで体感的に「弱震」だとか「中震」だとか言っていたのを、気象庁が1996年(平成八年)から今のように十段階の数字として発表するようになった。以後、まだ十年も経っていない。浸透したのは、やはり数字のほうが明晰だからだろうか。でも、考えてみれば、この明晰さは地震計のものであって人間のそれではない。なのに私たち人間までが、むろん私もだが、掲句のように体感を数値化しようとする。つまり、気象庁の発表よりも早く数値化することで、早く落ち着きたいのである。厳密に言えば、できない相談をやっていることになるわけで、そんなところにもこの句から何とはない可笑しさが滲み出てくる所以があるのだろう。図版は気象庁のHPより。皮肉にも、地震計でないと震度をきちんと数値化できないことがよくわかる絵だ。『たましいの話』(2005)所収。(清水哲男)


October 30102005

 ラヂオつと消され秋風残りけり

                           星野立子

語は「秋風」。「ラヂオ」という表記の時代には、携帯ラジオはなかった。したがって、作者は庭など戸外にいるのだが、聞こえているのは家の中に置いてある「ラヂオ」からの音だ。それも耳を澄まして聴いていたわけではなく、なんとなく耳に入っていたという程度だろう。そんな程度だったが、誰かに「つと消され」てみると、残ったのは「秋風」ばかりという感じで、あたりの静けさがにわかに心に沁みたというのである。静寂を言うのに、婉曲に「秋風残りけり」と余韻を持たせたところが心憎い。いかにも、俳句になっている。この句でふっと思い出したが、昔は表を歩いていても、よくラジオの音が聞こえてきたものだった。ということは、どこの家でも大きな音で聞いていたことになる。永井荷風は隣家のラジオがうるさいと癇癪を起こしているし、太宰治「十二月八日」の主婦は、やはり隣家のラジオでかつての大戦がはじまったことを知ったことになっている。なぜ大きな音で聞いていたのだろうか。と考えてみて、一つには昨今の住宅との密閉度の差異が浮かんでくるが、それもあるだろう。が、いちばんの理由は、現在のように音質がクリアーでなかったからではあるまいか。雑音が激しかった。つまり、大きな音で鳴らさないと、たとえばアナウンサーが何を言っているのかがよく聞き取れなかったせいだと思うのだが……。学校の行き帰りに、どこからともなく聞こえてきたラジオ。懐かしや。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


October 31102005

 子等に試験なき菊月のわれ愉し

                           能村登四郎

語は「菊月」で秋、「長月」に分類。陰暦九月の異称で、陽暦十月上旬から十一月初旬の候。むろん、菊の咲く時期ゆえの命名である。作者、教員時代の句だ。したがって、「子等」は自分の子供ではなく、教えている生徒たちを指している。「試験」がなければ、もちろん生徒たちは愉(たの)しい。しかしこの句を読むまでは、言われてみればなるほどと思ったけれど、教師もまた愉しいものだとは思いもしなかった。私が生徒だったころには、試験中の先生は授業をしなくてもいいので、ずいぶん楽なんだろうなあくらいの認識しかなかった。浅はかの極みではあったが、しかし生徒の先生に対する意識なんぞは、いつの時代にもだいたいがそんなものなのだろう。長じて知るのは親の恩ばかりではなく、教師の恩もまた然りというわけだ。屈託なく伸び伸びと動き回る子等を見て、作者は慈愛を含んだまなざしで微笑している。ところで、この句は昔のものだからこれでよいのであるが、現代だとちょうど「中間テスト」の時期に当たっているので、生徒も教師も「菊月」は憂鬱なシーズンと化してしまった。秋の運動会が終わると、次は試験という学校が多い。私くらいまでが、中間テストのなかった世代ではなかろうか。高校に入ったときにはじめて本格的な中間テストがあって、さすがに高校は勉強の場なんだと感心した覚えがある。それがいまや中間テストは小学生にまで及んでおり、せっかくの良い季節も濁りを帯びている。何をか言わんや、だ。『合本俳句歳時記』(1997)所載。(清水哲男)




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