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December 30122005

 桜の木ひかりそめたり十二月

                           加藤喜代子

二月。人事的にはいろいろなことが終了する月だが、この句は「ひかりそめたり」と、自然界のはじまりを見ている。紅葉の早い「桜」だから、春への準備も早いのだろうか。もとより、いまは真冬だ。桜の木のなかで何が起きているのかは、表面的にはわからないだろう。しかし作者は目で見たというよりも、体感として桜の木に、何か春へのひそやかな息吹のようなものを感じたのだと思う。ものみな終りを告げているような年末に、ふっと覚えたかすかな自然の胎動。生命が生命として、そこにある確かさ、頼もしさ。それを「ひかりそめたり」とは、まことに詩情あふれる優しい物言いだ。この月の慌ただしさのなかで、こうした感受の心を保ち得ている作者には深甚の敬意を表したい。惚れぼれするような佳句だ。ところで今日十二月三十日は、作者の師事した「ゆう」主宰・田中裕明が逝って一年目の命日にあたる。あらためて、俊才の夭折が惜しまれてならない。その彼が掲句について書いているので、引用しておこう。「……この句などは上質のポエジーが感じられます。あらためて、俳句における詩情とは何かを考えました。雰囲気や感情に流れるのではなく、季語がひろげる世界を具体的に描き出すこと」。季語「十二月」に安易にながされていないという意味でも、私には記憶すべき一句となった。『霜天』(2005)所収。(清水哲男)




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