2006N1句

January 0112006

 塗椀のぬくみを置けり加賀雑煮

                           井上 雪

語は「雑煮」で新年。この句、なんといっても品格がよろしい。雑煮の大きな「塗椀(ぬりわん)」を置いたわけだが、それを「ぬくみ」を置くと婉曲に、しかし粋に表現しているところ。そして「加賀雑煮」と締めた座りの良さ。句の座りももちろんだが、雑煮の椀もまた見事に安定している。ゆったりとした正月気分と同時に、質素な加賀雑煮に新年の引き締まる思いが共存している句だ。一般に加賀料理というと豪勢な感じを受けるが、加賀雑煮だけはすまし仕立てで、具は刻み葱と花鰹のみのシンプルなものだという。加賀百万石の権勢下で、武家も庶民も正月の浮かれ気分を自らいましめるための知恵の所産だろう。このように、雑煮は地方によっても違うし、その家ごとの流儀もある。我が家のように、関東風と関西風との両方を作ったりする家庭もけっこうあるのではなかろうか。子供の頃から慣れ親しんだ雑煮でないと、なんだか正月が来た気分がしないからだ。考えてみれば、雑煮は大衆化していない唯一の料理だ。たいていの料理はレストランや食堂が大衆化に成功してきたが、雑煮だけはそれぞれの家庭で食べるのが本流だから、どんなに美味しいものでも、簡単には表に出て行かないのである。すなわち、雑煮だけは味的鎖国状態のまま、それぞれの味がそれぞれの家庭で継承されてきたというわけだ。さて、新しい年になりました。お雑煮をいただきながら、年頭の所感を。……ってのは真っ赤な嘘でして、例年のようにぼんやりと過ごす時間を楽しむことにいたします。『新歳時記・新年』(1990・河出文庫)所載。(清水哲男)


January 0212006

 二日はや雀色時人恋し

                           志摩芳次郎

語は「二日」で新年。正月二日のこと。俳句を覚えたてのころ、つまり中学生のころ、「二日」が季語と知って驚いた。子供にとっての正月二日はとても退屈な日でしかなかったので、何故そんな日をわざわざ季語にする必要があるのかと、腹立たしくさえ思ったものだ。元日ならお年玉ももらえるし、年賀状もちらほらと来るし、それなりのご馳走にもありつけたので、家でじっとしてるのも苦ではなかった。が、それも一日が限度。二日になると、もういけない。年賀状の配達もなかったし、新聞も休刊日で,まったく刺激というものがない。掲句はむろん大人の句だけれど、同じように無性に「人恋し」くなって、友人の誰かれに会いたくなってしまう。でも、それは禁じられていた。正月早々にのこのこ他の家に遊びに行くと、迷惑になるという理由からであった。そんな「二日」が、なんで季語なんかになってるんだよ。と思っているうちにわかってきたのは、多くの子供には無関係だけれど、ことに昔の大人の社会では、この日が仕事始めの日だということだった。初荷、初商い、それに伴って活気づく町。たしかに元日とは違う表情を持った日ということで、なるほど季語化したのもうなずけると合点がいったのだった。といっても、なかには作者のような無聊をかこつ大人も大勢いるわけで、逆にこの立場からしても「二日」は特別な日と言えば言えるのではなかろうか。なお「雀色時」は、あたりが雀の羽根のような色になることから、日暮れ時を言った。洒落てますね。『新歳時記・新年』(1990・河出文庫)所載。(清水哲男)


January 0312006

 年玉やかちかち山の本一つ

                           松瀬青々

語は「年玉」で新年。大正期の句だと思われる。この「年玉」は、誰が誰に与えたものだろうか。間違いなく、作者が幼い我が子に与えたものだ。他家の誰かから我が子にもらったものでもなく、作者が他家の子供にあげたものでもない。というのも「かちかち山」はあまりにも有名な昔話だから、他家の子供が既にこの本を持っている確率はかなり高いので、いきなりプレゼントするのははばかられるからである。持っていないことが確実なのは、我が子しかないのだ。そして、我が子が正月にもらった年玉は、結局その本「一つ」だったと言うのである。句の背景には、もちろん推測だが、正月といっても年賀に訪れる客もなかったことがうかがわれるし、日頃からのつつましやかな生活ぶりも見えてくる。そのたった一つの年玉に喜んで、何度も何度も本を広げているいじらしい我が子へのいとしさが滲み出ている句だ。現代の子供への年玉は、たとえ小さい子に対してでも現金で与えるのが普通のようだが、昔はその時代なりの慣習や教育的配慮もあって、句のように物で与える例も多かったにちがいない。金銭は不浄という日本的な観念が社会的にあらかた払拭されたのは、つい最近のことである。不浄どころか、いまや金銭をたくさん所持している人物が偉いとまで考えられるようになってきた。そんな偉い人が、どうかすると「泥舟」で沈んでゆく姿も見かけるけれど。『新歳時記・新年』(1990・河出文庫)所載。(清水哲男)


January 0412006

 門松や黒き格子の一つゞき

                           呂 風

戸の正月風景も見ておこう。例によって柴田宵曲『古句を観る』(1984・岩波文庫)からの句で、元禄期の町の様子だ。近年の東京で門松を立てる家は珍しくなってしまったが、江戸の町ではこのようにどの家でも立てていた。正月を寿ぐ歌の文句にもあるけれど、まさに「♪門松立てて門ごとに……」である。ところで私は掲句を解釈する際に、「黒き格子」とあるので、どこか粋筋の町の様子を思い浮かべてしまったが、宵曲の解説を読んで大間違いだとわかった。「黒き」を塗り格子と読んだのが失敗で、これは宵曲によれば格子が古びて黒っぽくなっている感じを詠んでいるのだという。私は格子戸が一般的だったころの町の風景に思いがいたらなかったわけで、古い句を読むときには現代感覚を捨てなければならない。となれば、普段は目立ちもしない格子つづきの家並みが、家ごとの門松の存在によってにわかに淑気を帯び、とてもおめでたい気分だという句意になる。なんでもない普通の小さな家々の「一つゞき」が、ぱっと輝くように見えたのが昔のお正月であった。一陽来復の実感がある。最後に,宵曲は書いている。「堂々たる大きな門構でなければ、正月らしく感ぜぬ人たちは、こういう句のめでたさとは竟(つい)に没交渉であるかもしれぬ」。この言は、別の意味で現代人にも通用しそうである。(清水哲男)


January 0512006

 蒼天の愁ひかすかに五日かな

                           小方康子

語は「五日」で新年。一月五日のこと。今日から、本格的な仕事始めの会社が多いだろう。まだ松の内とはいえ、これからは少しずつ日常が戻ってくる。作者はその感じを、昨日と変わらぬよく晴れた正月の空ながら、どこか「愁ひ」を含んでいるように見えると表現している。「青空」としないで「蒼天」と漢語調に詠んだのは、空に「愁ひ」を滲ませるためだろう。「青空」としたのではあまりにカラッとしすぎてしまい、「愁ひ」の湿り気を含ませる余地がないからである。ただし、この場合の「愁ひ」は、正月のハレの気分が遠ざかってゆく一抹の寂しさのことだから、「蒼天」はいささか大袈裟かもしれないとは思う。むろん、悪い句ではない。で、この気持ちを「青空」の表現の下でどうにかならないかと、しばらく考えてみたのだが、良い知恵は浮かばなかった。ここで話は句を離れ、少しく青空的になるが、独身のサラリーマン時代には仕事始めの日が待ち遠しくてたまらなかった。安アパートで電気ごたつにあたりながら本なんか読んでみても、人恋しさが募るばかりで、いっかな気分は晴れてこない。行きつけの飲み屋も閉っているし、テレビなんて贅沢品は持っていないし、大いに時間を持て余したものだった。だから仕事始めの日には、喜び勇んでの早朝出社とはあいなり、したがってこの日の空は「青空」以外のなにものでもなかったですね。周辺に家族や友人知己があってこそ、いわゆる正月気分は保たれるのだと、思い知らされたことでした。俳誌「未来図」(2006年1月号)所載。(清水哲男)


January 0612006

 戸をさして枢の内や羽子の音

                           毛 がん

田宵曲『古句を観る』(1984・岩波文庫)より、江戸元禄期の句.季語は「羽子(つき)」で新年。作者名の「毛がん」の「がん」は、糸偏に「丸」と表記する。「枢」は「とぼそ」と読み、戸の梁(はり)と敷居とにうがった小さな穴、転じて扉や戸口のこと。追い羽根の様子を詠んだ句は数多いが、掲句は羽根つきの音だけを捉えた珍しい句だ。おそらくは、風の強い日なのだろう。町を歩いていると、とある家の中から羽子をつく音が聞こえてきたと言うのである。ただそれだけのことながら、しかしここには、戸の内にあって羽根つきをしている女の子たちの弾んだ心持ちが、よく描出されている。風が強すぎて、とても表ではつけない。でも、どうしてもついて遊びたい。そこで戸を閉めた家の中の狭い土間のようなところで、ともかくもやっとの思いでついているのに違いない。そう推測して、作者は微笑している。……と私は読んだのだが、宵曲は「風の強い日など」としながらも、夜間の羽根つきと見ているようだ。「ようだ」としか言えないのは、解説にしきりに明治以降の灯火の話が出てくるからで、しかし一方では元禄期の灯火では羽根つきは望めないとも書いており、今ひとつ文意がはっきりしない。ただ「戸をさして枢の内」を、戸をしっかりと閉めた家の中と読めば、昼間よりも夜間とするほうが正しいのかもしれない。夜間の薄暗い灯火でつく羽子の音ならばなおさらのことだが、いずれにしても正月を存分に楽しみたい女の子の心持ちが伝わってきて、好感の持てる一句である。(清水哲男)


January 0712006

 限りなく降る雪何をもたらすや

                           西東三鬼

測史上、未曾有の豪雪だという。カラカラ天気の東京にあっては、新潟津南町の4メートルに近い積雪の様子などは想像を絶する。テレビが映像を送ってくるけれど、あんな画面では何もわからない。車が埋まる程度くらいまではわかるとしても、それ以上になると地上はただ真っ白なだけで、深さを示す比較物が見えないからだ。「雪との闘いですよ、他のことは何もできない」という住民の声のほうが、まだしも深刻な深さを指し示してくれる。映像も無力のときがあるというわけだ。掲句はおそらく戦後二年目の作と思われるが、「限りなく降る」というのは一種の比喩であって、とりわけて豪雪を詠んだ句ではあるまい。降り続く雪を見ながら、作者はその雪に敗戦による絶望的な状況を象徴させ、これから自分は、あるいは世の中はどうなっていくのかと暗澹とした気持ちになっているのだ。「何をもたらすや」の問いに、しかし答えは何もないだろう。問いが問いのままに、いわば茫然と突っ立っている格好だ。そしてこの句を昨今の豪雪のなかで思い出すとき、やはりこの問いは問いのままにあるしかないという実感がわいてくる。「実感」と言ったように、作句時の掲句はむしろ観念が勝っていたのとは違い、いまの大雪の状況のなかでは具体も具体、ほとんど写生句のように読み取れてしまう。といって私は、状況や時代が変われば句意も変わるなどとしたり顔をしたいわけじゃない。こういう句もまた、写生句としか言わざるを得ないときがあることに、ふと気がついたというだけの話である。『夜の桃』(1948)所収。(清水哲男)


January 0812006

 初場所のすまねば松の取れぬ町

                           石川星水女

語は「初場所」で新年。東京の松の内は、元日から七日までとするのが普通だ。対して関西などでは十四日ないしは十五日までと長い。ところが東京でも、初場所興行のある両国の町だけは別である。場所が終わるまでは「正月」だ、どんなもんだいと、無邪気に町の自慢をしている句だ。ちなみに今年は今日が初日だから、両国で松が取れるのは二十二日の夜ということになる。たしかに長い正月だ、たいしたもんだと、こういうめでたい句は褒めておくに限る。それに、相撲はいちばん正月に似合うスポーツだと思う。古式ゆかしい伝統を持っていることもあるけれど、何と言っても飲み食いをいわば前提にしたスポーツ観戦は相撲だけだからだ。束の間ながら、憂き世を忘れての殿様気分で楽しめるのが相撲なのである。ほとんど芝居見物と同じ気分で観戦でき、他のサッカーやらラグビーやらのように息をこらして見つめつづける必要もない。贔屓力士や人気力士が出てくるまでは、一杯やりながらのんびりと構えていればよいのである。こんなスポーツ観戦の仕方が、他にあるだろうか。もう少し言えば、相撲の勝敗には殺伐としたところが稀薄なのも正月的だ。もとより力士には並外れたパワーも必要だが、小さな土俵の上で決着をつけるのは、パワーにプラスされた技である。その意味でも元来相撲は演劇的なのであって、芝居見物の気分と通い合うのも、土俵と舞台の上には技を見せるという似た風が吹いているからだろう。とまれ、今場所も外国人力士の優勢は動きそうもない。べつに私は構わないが、正月気分からすると、もっと強い日本人力士の登場が待たれる昨今ではある。『合本俳句歳時記・第三版』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


January 0912006

 道にはずむ成人の日の紙コップ

                           秋元不死男

語は「成人の日」で新年。いろいろな情景が想像できるが、あまりディテールを思い描かないほうがよいだろう。道を歩いていたら、どこからか「紙コップ」が跳ねながら転がってきた。それだけで十分だ。誰がどんな状況で投げ捨てたのかなどは、とりあえず句意には関係がない。作者が言いたいのは、この跳ねている紙コップに若さの一側面を見たということだけだからだ。すなわち、若さとはこのコップのように真っ白で何でも入れることができ、しかし他方ではいくらでも投げ捨てることもできる二面性を持っている。多くの可能性と、同時に多くの消費性とを併せ持つところが、若さという容器なのである。しかも、投げ捨てられてもなお跳ねているところが、遠く青春を去った作者にとっては、とても眩しく思われるのでもある。若さのただ中にあってはわからなかったことが、いまこうして捨てられた紙コップからでさえも、容易にわかってしまう切なさよ。と、作者はおのれの来し方をもちらりと想起して、あらためて紙コップを見つめ直しているのだ。ところで「成人の日」の制定時には一月十五日と決まっていたが、現在は第二月曜日へと動くようになった。年ごとに違う日付になるのはしっくりこない気がするが、2000年1月14日に急逝した辻征夫の場合は、変更になったおかげでお嬢さんの成人式に立ち会うことができたのだった。没後、親娘で撮った晴れ晴れとした記念写真を見せてもらったことがある。『新歳時記・新年』(1990・河出文庫)所載。(清水哲男)


January 1012006

 火吹竹火のことだけを思ひ吹く

                           吉田汀史

語は「火吹竹(ひふきだけ)」で冬。一年中使ったものだが、最も火に縁のある冬とするのが妥当だろう。最近、この句に出会うまではすっかり忘れていたけれど、懐かしく思い出せた。薪を焚いたり炭火を熾したりする初期の段階では、なくてはならない道具だった。竹筒の先っぽの節の面に細い穴を明け、面を取り去ったもう一方の側から息を吹き込む。新聞紙などを燃やして少し火のつきかけた薪や炭に、そうやって新鮮な空気を送ってやると、だんだんに火力が増してきて燃え上がるようになる。原理的には簡単なものだが、けっこうコツを要した。火元に近づけすぎて、竹筒に火がついてしまうこともあった。焦らず騒がず、句にあるように「火のことだけを思ひ吹く」ことが、結局は早道だった。この句はしかし、そうした火吹竹使いのコツだけを述べようとしているのではない。それもあるが、一方では対象である「火」そのものが、吹いている人間の思いを引き込む力を持つことも言っている。実際、小さな火を慎重に真剣に吹いていると、だんだんと火に魅入られてきて、「火のことだけ」にしか集中できなくなってくるのだ。吹くほうが一心に火を思っていると、火の側もそんな吹き手の思いを吸い込んでしまうかのようであった。大袈裟かもしれないが、そこに束の間の無我の境のような心持ちが生まれたものである。小学生時代には交替で早朝登校して、教室の大火鉢に炭を熾す当番があった。先生は立ち会わない。全部子供だけでやった。今そんなことをしたら、新聞ダネになってしまうだろう。忘れていたそんな思い出も、掲句から鮮やかに蘇ってきたのだった。『航標・季語別俳句集』(2005)所載。(清水哲男)


January 1112006

 観覧車雪のかたちに消えにけり

                           五島高資

が降っている。それでも動いている「観覧車」を、作者は離れた場所から見上げているのだろう。こんな日に、乗ってる人がいるのだろうか。そのうちにだんだん降りが激しくなってきて、とうとう見えなくなってしまった。その様子を、迷うことなく「雪のかたちに」消えたと詠んだところに、作者のリリシズムが光っている。消えたとはいっても、遠くのほうでまだぼおっと霞んでいて、観覧車のかたちは残っているのだ。つまり、あくまでも観覧車はおのれの「かたち」を保っているわけだが、時間が経つにつれて降る雪と混然となっていく様子を指して、作者は「雪のかたちに消えにけり」と情景に決着をつけたのである。「雪」に「かたち」はない。しかし、このように「ある」のだ。そう言い切っているところに、句としての鮮やかさを感じた。観覧車といえば、高所恐怖症にもかかわらず、私が一度乗ってみたいのは映画『第三の男』に出てきたウイーンの大観覧車だ。オーソン・ウェルズとジョセフ・コットンが、これに乗って話し合う有名な場面がある。だから乗らないまでも見てはおきたいと長年思っていたのだが、実は十数年前に一度、スケジュール的に少し無理をすればチャンスはあったのである。所用でせっかくウイーンの駅で降りたのに、しかし疲れていたこともあって、またの機会にと断念してしまった。でも私には、もはやまたの機会はないだろう。あのときに行っておけばよかったと、何度くやんだことか。だいたいが私は「またの機会に」と思うことが多い人間で、大観覧車にかぎらず、けっこう見るべきものを見ないままに今日まで来てしまっている。要するに、勤勉でない性格なのである。『蓬莱紀行』(2005)所収。(清水哲男)


January 1212006

 煮凝や晝をかねたる朝の飯

                           松尾いはほ

語は「煮凝(にこごり)」で冬。煮魚を煮汁とともに寒夜おいておくと、魚も汁もこごりかたまる。これが煮凝りである。料理屋などでは、わざわざ方型の容器で作って出したりするけれど、掲句の煮凝りは昨夜のおかずの煮魚が自然にこごってできたものだろう。昔の室内、とりわけて台所は寒かったので、自然にできる煮凝りは珍しくはなかった。作者は京都の人だったから、これは底冷え製である。句は、あわただしい一日のはじまりの情景だ。急ぎの用事で、これからどこかに出かけていくところか。たぶん、昼食はとれないだろうから、朝昼兼用の食事だと腹をくくって食べている。それすらもゆっくり準備して食べる時間はないので、食べているのは昨夜の残り物だ。ご飯ももちろん冷たいままなので、これまた冷たい煮凝りといっしょでは侘しいかぎり。おかずが煮凝りだったわけではないが、これと似たような食事体験は、私にも何度かあった。思い出してみると、我が家は夕食時にご飯を炊いていたので、朝飯はいつも冷たくて、あわただしい食事ではなくても侘しい感じがしたものだ。冷たいご飯に熱い味噌汁をぶっかけて食べたり、あるいはお茶漬けにしたりと、冷たいご飯をそのままで食べるのは苦手であった。だから余計に掲句を侘しいと思ってしまうのかもしれないが、句のような煮凝りの味は現在、もはや死語ならぬ「死味」になってしまったと言ってもよいのではなかろうか。往時茫々である。『合本俳句歳時記・第三版』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


January 1312006

 襖絵の虎の動きや冬の寺

                           斎藤洋子

の句を矢島渚男が「単純な形がいい」と評していて、私も同感だ。がらんとした「冬の寺」。想像しただけで寒そうだが、ものみな寒さの内に固く沈むなかで、ふと目にとめた襖絵の虎だけには動きがあって、生気にみなぎっていると言うのである。この生気が、いやが上にも周辺の寒くて冷たい事物を際立たせ、ひいては寺ぜんたいの静けさを浮き上がらせているのだ。襖絵の虎といえば、誰もが知っている一休和尚のエピソードがある。彼がまだ子供で周建という名前だったころ、その知恵者ぶりを足利義満に試される話だ。義満が聞いた。「周建よ、そこの屏風の絵の虎が毎晩抜け出して往生しているのだ。その虎を縛ってはくれないか」。「よろしゅうございます」と縄を持った周建が、平気な顔で「これから虎を捕まえます。ついては、どなたか裏に回って虎を追い出していただきたい」と叫んだという話である。少年時代にこの話を何かの雑誌で読んだときに、文章の傍らに虎を描いた立派な襖のイラストレーションがそえられていた。何の変哲もない挿絵だったけれど、それまで襖絵というと模様化された浪と千鳥の絵くらいしか知らなかった私には、衝撃的であった。こんな絵が自分の家の襖に描いてあれば、どんなに楽しいだろうか。虎の絵が寺や城の襖につきものとは露知らず、一般家庭の襖にも描かれていると思ってしまったわけだ。以来、襖の虎は我が憧れの対象になっていて、いまだにそんな絵があるとしみじみと見入ってしまう。掲句が目に飛び込んできたのも、そのことと無縁ではないのであった。俳誌「梟」(2006年1月号)所載。(清水哲男)


January 1412006

 着ぶくれて避難所を這ふ双子かな

                           白石多重子

語は「着ぶくれ」で冬。句集では、この句の前に「阪神淡路大地震千織一家被災」と前書きされた「第一報うけ寒卵とり落とす」がある。1995年(平成七年)一月の大地震のあとで、東京在住の作者が身内が身を寄せている避難所を見舞ったときの句だ。見舞った先は、名前から推して娘さん一家だろう。いくら命に別状はなく無事に避難しているからと聞いてはいても、そこは親心、一家の顔を見るまでは心配でたまらない。とるものもとりあえず出かけていくと、避難所で掲句のような光景に出くわした。同じような顔をした双子の赤ちゃんが、同じようにモコモコと着ぶくれて、元気に床を這い回っていたのだった。これが避難所でなければ、少しく滑稽な図とも見えるところだが、状況が状況だけに、作者は微笑すると同時に涙ぐんでしまったのではあるまいか。地震発生から避難所にたどりつくまでの大人たちのどんな話よりも、こうしてまるで何事もなかったかのようにふるまっている赤ちゃんの姿のほうに、作者ならずとも、人は安堵し癒されるものなのだろう。無垢の者は状況を理解しないがゆえに、何らの理屈も引きずっていないからだ。安堵や癒しに、理屈は不要なのである。最近の例では、病院から誘拐されて救出されたときの新生児の姿がそうだった。報道によれば、発見されたときの赤ちゃんは「きょろきょろ周囲を見回していた」という。見知らぬ赤ちゃんの「きょろきょろ」にすら、私たちはほっとさせられるのだ。ましてや身内ともなれば、作者はどれほどモコモコと這い回る双子の姿に感動したことか。個人的な体験を越えて、句は無垢の力を伝えることに成功している。『釉』(2005)所収。(清水哲男)


January 1512006

 ペチカ燃ゆタイプライター鳴りやまず

                           伊藤香洋

語は「ペチカ」で冬、「ストーブ」に分類。厳寒の地に生まれたロシア風の暖房装置のこと。本体は煉瓦や粘土などで作られており、接続して据え付けられた円筒に通う熱気の余熱で室内を暖める仕掛けだ。句はオフイスの情景だが、新聞社だろうか、あるいは商社かもしれない。ほどよい暖かさのなかで、タイプライターを打つ音がなりやまず、いかにも活気のみなぎった職場風景だ。みんなが、ペチカの暖かさに上機嫌なのである。……と解釈はしてみたものの、私にペチカ体験はない。実は、見たこともない。読者諸兄姉にも、そういう方のほうが圧倒的に多いのではなかろうか。しかし、見たことがなくても、誰もが「ペチカ」を知っている。だいたい、どんなものかの想像もつく。何故なのか。それはおそらく、北原白秋の童謡「ペチカ」のおかげなのだと思う。「♪雪の降る夜は たのしいペチカ/ペチカ燃えろよ お話しましょ……」。この詩情に惹かれて、私たちは実際には知らないペチカを、いつしか知っているように思ってきたのである。そういうふうに考えると、詩の力には凄いものがある。実際のペチカは明治期にロシアから北海道に入ってきたという記録もあるが、高価なために普及はしなかったようだ。そんなわけで、多くの日本人が実際に体験したのは満州においてであった。白秋のこの歌も、満州での見聞が下敷きになっている。独立した俳句の季語になったのも、たぶんこの時期だろう。言うならば中国大陸進出の国策が産み落とした珍しい季語というわけで、さすがに近年の歳時記からは姿を消しつつある。掲句の舞台もまた、国内ではなく満州だったのかもしれない。『俳句歳時記・冬の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


January 1612006

 寒柝や街に子供の声残る

                           両角武郎

語は「寒柝(かんたく)」で冬、「火の番」に分類。火事の多い冬季には火の用心のために夜回りをするが、その際の拍子木の音が「寒柝」だ。我が家の近辺でも引っ越してきた当座(もうかれこれ四半世紀前になる)の何年間かは、夜遅くに寒柝が聞こえてきたものだが、いつの間にか聞こえなくなってしまった。古くからの住民で作っている町内会の人々の高齢化によるものなのか、あるいはもはや夜回りは時代遅れという判断からなのか、いざ聞こえなくなってみるとなんとなく物足りなくて寂しい気がする。掲句は現代の句。作者は東京郊外の東村山市在住とあるから、私の住む三鷹市とはそんなに遠くない東村山では、寒柝は健在というわけだ。その寒柝がひとしきり鳴って通ったあと、街に「子供の声」が残ったと言うのである。実況なのだろうが、たとえば犬の声ならよくありそうだけれども、夜遅い時間の表での子供の声とは印象的だ。「残る」とあるので、寒柝といっしょにも聞こえていたに違いない。おそらくは「火の用心」と、子供も真似をして声を出していたのである。それが寒柝が去ったあとでも、まだ屈託なく「火の用心」とやっている。それにしても、こんな寒い夜中に、あの子(ら)は何故外にいるのだろうか。傍に、ちゃんと大人がついているのだろうか。そんな不安もちらりと頭をかすめて、作者はまた耳をこらしたことだろう。子供と夜。いささか不気味な取り合わせである。「東京新聞・武蔵野版」(2006年1月15日付朝刊)所載。(清水哲男)


January 1712006

 冬山に僧も狩られし博奕かな

                           飯田蛇笏

語は「冬(の)山」。大正初期の作である。「博奕(ばくち)」は、おそらく花札賭博だ。農閑期、冬閑期の手なぐさみとでもいおうか、他に娯楽とてない寒村で博奕が流行したのはうなずける。違法行為ではあるけれど、多くの村人が関わっていることはいわば公然の秘密なのであり、当然警察も知っているのだが、たいていは見て見ぬふりをしていたのだろう。警察といえどもが村落共同体の一員だから、何事にも杓子定規だけでは事は巧く運ばない。それでも面子や威信もあるので、たまにはと山寺を急襲して取り締まった結果が、僧侶の逮捕ということになった。むろん僧侶の逮捕はあらかじめ意図されたものであり、情報宣伝価値の高さをねらったもので、これはいつの世にも変わらぬ警察の常套的な戦略である。作者はこの情報を聞いて作句したわけだが、この句の言わんとするところのものは、僧侶のスキャンダルを嘆いているのでもなければ博奕の流行を慨嘆しているのでもない。私の読後に残ったのは「僧」でもなければ「博奕」でもなく、ただ上五の「冬山に」の「冬山」だけだった。中七下五のどたばた劇も、終わってみればみな、荒涼たる冬の山に吸収されてしまったがごとくではないか。このときに「博奕かな」の「かな」には、結局は冬山に吸収されてしまう卑小な人間行為へのあきらめの気持ちが込められている。下世話に言えば「やれやれ」というところか。『山廬集』(1932)所収。(清水哲男)


January 1812006

 行く雲の冥きも京の冬の晴

                           瀧 青佳

語は「冬(の)晴」。京都の冬晴れを言いとめて、絶妙な句だ。同じ「冬晴」とはいっても、京都のそれは東京のように明るくカーンと抜けたような雰囲気ではない。良く晴れはしても、どこかに何かが淀んでいるような恨みが残る。これを指して「行く雲の冥(くら)きも」とは、まさに至言だ。地形的な影響もあるのだろうが、京都の天気は油断がならない。私は烏丸車庫の裏手の北区に住んでいたのだが、雪の舞い散るなかを出かけて、わずか数キロしか離れていない百万遍の大学に着いてみると、まったく降っていないということがよくあった。雨についてもむろん同様で、局地的に天候がめまぐるしく変化するようである。しかし掲句は、そういうことだけを言っているのではないだろう。もう一つの雲の冥さは、多分に心理的なものだ。街全体のおもむきが、たとえば江戸を陽とすれば、京は陰である。千年の都が抱え込んできたさまざまな歴史的要因が、現代人にもそう思わせるところがあるのだ。はるか昔の応仁の乱など知るものか、関係ないよなどとは誰にも言わせない伝統の力が、京都の街には遍在している。そういうことが私には、京都を離れてみてよくわかったのだが、代々地元にある人は理屈ではなく、いわば肌身にしみついた格好になっているのだろう。作者は大阪在住だが、句集を見ると京都にも親しい人のようだ。生粋の京都人ではないだけに、京都を見る目に程よい距離と時間があって、この独特のリリシズムが生まれたのだろうと思った。『青佳句集』(2005)所収。(清水哲男)


January 1912006

 サンドイッチ頬ばるスケート靴のまま

                           土肥あき子

語は「スケート」で冬。いいなあ、青春真っ只中。べつに青春でなくても構わないけれど、おじさんがこの姿でも絵にはならない。で、私のスケートの思い出。はじめてスケート靴をはいたのは、二十歳くらいだったか。大学の体育の授業で、スケート教室みたいなものが急遽ひらかれたときのことだ。急遽というのは、体育の単位は出席時間数に満たないと取得できない規定があって、この時期に正規の授業だけでは時間数が不足になることが明らかな学生を救済するための臨時的措置としてひらかれたからである。私は学生運動に忙しかったこともあり時間数が不足していたので、これ幸いと教室に潜り込むことにした。だが、申し込んではみたものの、スケートなんて一度もやったことがない。初心者でも大丈夫ということだったが、そこはそれ、変な青春の意地もあって、その前にひそかに特訓を受けることにしたのである。正月休みで帰省した際に、スポーツ万能の先輩に頼んで、東京の山奥(青梅だったか五日市だったか)にあった野外スケート場に連れていってもらったのだ。しかしまあ、行ってみて驚いた。リンクはなんと、田圃に水をはって凍らせたようなものでデコボコだらけ。そこを貸し靴で滑るのだから、手本を見せてくれた先輩がまず顔から氷面に突っ込んでしまうというハプニングが起き、まあ怖かったのなんのって。それでも、青春の意地は凄い。そんな劣悪なリンクでもなんとか滑れるようになって、大学に戻った。そして、授業本番。「岡崎アリーナ」という名前だったと思うが、室内のリンクでありデコボコなんてどこにもなく、その滑り良さに感激しながらの授業とはあいなったのだった。ああ、これがスケートというものか。すっかり気に入って、せっせと授業に通ったのはもちろんである。授業だから、まさかサンドイッチを頬ばるわけにはいかなかったが、掲句の楽しい気分はわかるつもりだ。「俳句αあるふぁ」(2006年2-3月号)所載。(清水哲男)


January 2012006

 大寒や転びて諸手つく悲しさ

                           西東三鬼

語は「大寒」。「小寒」から十五日目、寒気が最も厳しいころとされる。あまりにも有名な句だけれど、その魅力を言葉にするのはなかなかに難しい。作者が思いを込めたのは、「悲しさ」よりも「諸手(もろて)つく」に対してだろう。不覚にも、転んでしまった。誰にでも起きることだし、転ぶこと自体はどうということではない。「諸手つく」にしても、危険を感じれば、私たちの諸手は無意識に顔面や身体をガードするように働くものだ。子供から大人まで、よほどのことでもないかぎりは転べば誰もが自然に諸手をつく。そして、すぐに立ち上がる。しかしながら、年齢を重ねるうちに、この日常的な一連の行為のプロセスのなかで、傍目にはわからない程度ながら、主観的にはとても長く感じられる一瞬ができてくる。それが、諸手をついている間の時間なのである。ほんの一瞬なのだけれど、どうかすると、このまま立ち上がる気力が失われるのではないかと思ったりしてしまう。つまり、若い間は身体の瞬発力が高いので自然に跳ね起きるわけだが、ある程度の年齢になってくると、立ち上がることを意識しながら立ち上がるということが起きてくるというわけだ。掲句の「諸手つく」は、そのような意識のなかでの措辞なのであり、したがって「大寒」の厳しい寒さは諸手を通じて、作者の身体よりもむしろその意識のなかに沁み込んできている。身体よりも、よほど心が寒いのだ……。この「悲しさ」が、人生を感じさせる。掲句が共感を呼ぶのは、束の間の出来事ながら、多くの読者自身に「諸手つく」時間のありようが、実感としてよくわかっているからである。『夜の桃』(1948)所収。(清水哲男)


January 2112006

 狼も詠ひし人もはるかなり

                           すずきみのる

語は「狼」で冬。「山犬」とも言われた日本狼(厳密に言えば狼の亜種)は、1905年(明治三十八年)に奈良の鷲家口で捕獲されたのを最後に絶滅したとみられている。したがって、ここ百年ほどに詠まれた狼句は、すべて空想の産物だ。といって、それ以前に人と狼とが頻繁に出会っていたというわけではなく、たとえば子規の「狼のちらと見えけり雪の山」などは、いかにも嘘っぽい。実景だとすれば、もっと迫力ある句になったはずだ。そこへいくと、江戸期の内藤丈草「狼の声そろふなり雪のくれ」の迫真性はどうだろう。掲句はそんな狼だけを主眼にするのではなく、狼を好んで「詠(うた)ひし人」のほうにも思いを寄せているところが新しい。で、この「詠ひし人」とは誰だろうか。むろん子規でも丈草でも構わないわけだが、私には十中八九、「絶滅のかの狼を連れ歩く」と詠んだ三橋敏雄ではないかという気がする。絶滅した狼を連れ歩く俳人の姿は、この世にあっても颯爽としていたが、鬼籍に入ったあとではよりリアリティが増して、どこか凄みさえ感じられるようになった。三橋敏雄が亡くなったのは2001年だから、常識的には「はるかなり」とは言えない。しかし、逆に子規などの存在を「はるかなり」と言ったのでは、当たり前に過ぎて面白くない。すなわち、百年前までの狼もそれを愛惜した数年前までの三橋敏雄の存在も、並列的に「はるかなり」とすることで、掲句の作者はいま過ぎつつある現在における存在もまた、たちまち「はるか」遠くに沈んでいくのだと言っているのではなかろうか。そういうことは離れても、掲句はさながら話に聞く寒い夜の狼の遠吠えのように,細く寂しげな余韻を残す。『遊歩』(2005)所収。(清水哲男)


January 2212006

 湯ざめとは松尾和子の歌のやう

                           今井杏太郎

語は「湯ざめ」で冬。はっはっは、こりゃいいや。たしかに、おっしやるとおりです。ちょっと他の歌手でも考えてみたけれど、思い当たらなかった。やはり「松尾和子」が最適だ。句は即興かもしれないが、こういうことは日頃から思ってないと、咄嗟には出てこないものだ。作者は松尾和子全盛期のころから、既に「湯ざめ」を感じていたにちがいない。ムード歌謡と言われた。フランク永井とのデュエット「東京ナイトクラブ」や和田弘とマヒナスターズとの「誰よりも君を愛す」あたりが、代表作だろう。「お座敷小唄」を加えてもいいかな。口先で歌うというのではないが、歌詞内容にさほど思い入れを込めずに歌うのが特長だった。歌詞がどうであれ、行き着く先は甘美で生活臭のない愛の世界と決め込んで、そこに向けて予定調和的に歌い進めるのだから、歌詞との間に妙な感覚的ギャップが生まれてくる。そこがムーディなのであり魅力的なのだが、しかし、このギャップにこだわれば、どこまでいっても中途半端で落ち着かない世界が残されてしまう。まさに「湯ざめ」と同じことで、聴く側の熱が上昇しないままに歌が終わってしまうのだから、なんとなく風邪気味のような心持ちになったりするわけだ。松尾和子が57歳の若さで亡くなったのは1992年、自宅の階段からの転落が、数時間後に死を招いた。その二年ほど前、一度だけ新宿のクラブでステージを見たことがある。「俳句研究」(2006年2月号)所載。(清水哲男)


January 2312006

 風花やライスに添へてカキフライ

                           遠藤梧逸

語は「風花(かざはな)」で冬。良く晴れた空から雪片が、ちらつきながら舞い降りてくることがある。遠くで降っている雪が風に吹き送られてくる現象で、まことに美しい。これが風花。掲句はそんな風花が舞うなかで、作者がこれから食事をしようとしているところだ。レストランというよりも、食堂と言ったほうが似合いそうな店でのことだろう。「ライスに添へて」と、わざわざ「ライス」を立ててあるところからして、楽しみのための食事ではなく、空腹を満たすための日常的な食事という感じが強いからだ。言うなれば「カキフライ定食」を注文したのかな。とはいえ、カキフライをおかずにするということは、いつもの定食のレベルよりは、ちょっと張り込んだ食事であるに違いない。何か良いことでもあったのか、作者は上機嫌だ。暖かい食堂の窓から見やると、青い空に風花はますます美しく舞っており、作者はささやな幸福感に、束の間ながらも浸ることになるのだった。おだやかで明るい句だけれど、しかし一抹の哀感も漂っている。ささやかな幸福感とは、まこと風花のように、移ろいやすく消えやすいものだからだ。それにしても、風花とは巧みなネーミングだ。むろん外国にも同じ気象現象はあるだろうが、これほどに美しい呼び名はないのではあるまいか。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


January 2412006

 フーコーの振子の転位冬牡丹

                           恩田侑布子

語は「冬牡丹(ふゆぼたん)」、「寒牡丹」に分類。厳冬に咲く花を観賞する。霜除けの藁を三角帽子のようにかぶせられた姿が、可愛らしくも微笑ましい。句ではいきなり「フーコーの振子」が出て来て驚かされたが、作者はおそらく、この三角帽子からフーコーの装置を連想したのではなかろうか。フーコーの振子は、地球の自転を視覚的に証明する装置だ。できれば北極か南極にセットするのが理想的だが、赤道を除いた地球の任意の地点に巨大な振子装置を作る。作ったら、振子を水平に揺らしてやる。すると、ちょっと見た目には振子はいつまでも水平運動だけを繰り返しているようだが、そうではない。観察すると、水平運動を繰り返しつつも、徐々に振子は同時に回転もしていることが確認されるのだ。つまり、この回転は地球の自転と連動してからなのであって、北極か南極ならば、振子の転位の軌跡はきれいな円錐形を描き出すだろう。冬牡丹の藁の三角帽子を、このフーコーの振子の「転位」の軌跡である円錐形に見立てれば、そこに咲いているのは牡丹は牡丹でも、どこか宇宙の神秘を感じさせる花のようにも見えてくる。地球は自転している、だからこの花はこのようにある。普段そんなことを思って花を愛でる人はいないだろうが、たまには句のように大胆に視点を変えてみると、これまでは見えなかったものが見えてくることがありそうだ。『振り返る馬』(2005)所収。(清水哲男)


January 2512006

 雪しづか碁盤に黒の勝ちてあり

                           澁谷 道

方の祖父が囲碁好きで、ことにリタイアしてからは近所の碁敵と毎日のように打っていた。お互いの家を行ったり来たりしていたので、掲句のような情景は懐かしい。対局が終わると、たいがい碁盤の上は片づけられていたが、どうかするとそのまま石が残っていることもあった。句は、そのような情景を詠んでいる。主客ともに、たぶんあわただしく出て行ったあとの客間に、作者は片づけのために入ったのだろう。窓外には雪がしんしんと降りつづいており、碁盤の上には熱戦のあとが残されている。これだけでも十分に「雪しづか」の雰囲気は出てくるのだが、作者はもう一歩踏み込んで、黒石の勝ちまでを詠み込んだ。この「黒」が、降る雪の「白」を際立たせていることは言うまでもない。と同時に、ついさっきまで打っていた二人のやりとりも想起され、それがまた「しづか」を強調する効果をあげている。溜め息がでるほどの良いセンスだ。ここで話は脱線するが、しかも一度書いたような記憶もあるが、大学生になったときに、祖父に囲碁を教えてほしいと頼んだことがある。ルールくらいは知っていたけれど、友人とのヘボ同士の対局ではさっぱり上達しなかったからだ。と、祖父曰く。「大学生が、こんなに時間を食う遊びをするもんじゃない。そんな時間があるのだったら、勉強しなさい」。で、そのときに「はい」と素直に答えたおかげで、ついに囲碁とは疎遠のままになってしまった。「俳句」(2006年2月号)所載。(清水哲男)


January 2612006

 枯野起伏明日と云ふ語のかなしさよ

                           加藤楸邨

語は「枯野(かれの)」で冬。草木の枯れた蕭条とした野である。それも「起伏」が見えるのだから、行けども果てしなく思われる広大な枯野だ。そして、眼前に広がったこの枯野は、また作者の心象風景でもあるだろう。鬱々たる心象が、作者の胸中から離れない。このようなときにあって、向日的な「明日と云ふ語」の何と悲しく思えることか。「明るい日」「明けてくる日」は期待や希望を込めるにこそふさわしいが、いまの作者には「明日」もまた今日のように、広大な枯野が待ち受けているだけの索漠たる日であるとしか思えない。鬱屈した心情を枯野の起伏に同期させ、「明日」という言葉すらもが悲しく感じられる自分自身へのエレジーである。ところで、寺山修司の短歌に次の一首がある。「煙草くさき国語教師が言うときに明日という語は最もかなし」。おそらく掲句に触発されて書かれたものだろうが、この悲しさには句のような重苦しさはない。青春の甘美なセンチメンタリズムが、心地よく伝わってくる。同じ「明日と云ふ語」の悲しさを詠んでも、シチュエーションが違えばこれほどの開きが生ずるのだ。その意味で、この句とこの短歌は私のなかで、いつもワンセットになって想起される。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


January 2712006

 マスクしてマスクの人に目敏しよ

                           宮坂やよい

語は「マスク」。最近では花粉症を防御するために、春もマスク姿の人は多いが,元来は風邪の季節である冬季のものである。句が言うように、たしかに自分がマスクをしていると、他人のマスクにも目敏く(めざとく)なる。やや風邪気味なのか、あるいはインフルエンザに流行の兆しが出て来たのか、いずれにしても内心ではちょっと大袈裟かなと思っているのだ。が、街に出てみると、昨日までは気がつかなかったマスクをした人がけっこう目につく。そうか、堂々とマスクをしていても変じゃないんだと、ほっと安堵の一句である。掲句を読んで、すぐに田村隆一を思い出した。なんでも道端で転んで骨折したとかいうことだったので、鎌倉の病院まで見舞いにいったことがある。しかしその頃にはもう大分回復していて、杖を使えば外出もできるようにまでなっていた。面会室で会うと血色もよく、機嫌良くひとしきり病気と病院の話をしてくれた。そのなかでの他の話はすべて忘れてしまったけれど、「杖ついて表をあるくだろ。そうすると君ねえ,杖ついてる人が多いんだよ、鎌倉には」という話を妙に覚えている。鎌倉には爺さんが多いせいかなとも付け足したが,そうかもしれないが、杖姿の人が目についたのは、掲句の作者と同じような心理状態にあったからただろう。このことを逆に言えば、多くの他人は、人のことなど目敏くも何も、はじめから見ないか、見ても気がつかないのだ。むろん作者も,ある程度そういうことはわかっている。わかっちゃいるけど、「でもねえ」と逡巡するのが人情というものだろう。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


January 2812006

 アノラックあばよみんないってしまったさ

                           八木三日女

語は「アノラック」で冬、「ジャケツ」に分類。と言っても、「アノラック」を季語として扱っている歳時記はないだろう。が、フードのついた防寒用ウェアのことだから、無季とするのも変なので、当歳時記としてはこのようにしておく。掲句のアノラックは、青春の象徴として詠まれている。みんなでスキーやスケートに行ったり、あるいは他の楽しみのためにも、いつも着ていったアノラック。大事にとっておいたのだけれど、もう二度と着ることもなさそうだ。なぜなら、もはやいっしょに着ていく「みんな」は「いってしまった」からである。「いって」は「行って」でもあり「逝って」でもあるだろう。そこで作者はわざと「あばよ」などと明るく乱暴に、そのアノラックを処分してしまおうと思い決めたにちがいない。過ぎ去った青春への挽歌として、出色の一句だ。「みんないってしまったさ」の「さ」に、万感の思いが込められている。ところで、かつての世界的なアノラック流行の起源には諸説ある。嘘か本当かは別にして、私が気に入っているのは、その昔のイギリスでトレインスポッティング(汽車オタク)が、寒いなかで着用したところから広まったという説だ。となると、アノラックには人間の一途の思いが込められているわけで、このときに掲句の寂しさはいっそう身にしみてくる。『女流俳句集成』(1999)所載。(清水哲男)


January 2912006

 凍つる日の書架上段に詩集あり

                           藤村真理

語は「凍つ(凍る)」で冬。自宅の「書架」ではあるまい。「凍(い)つる日」を実感しているのだから、外出時でのことだ。図書館でもなく、書店の書架だと思う。凍てつく表から暖かい書店に入り、ようやく人心地がついたところだろう。まずはいつものように関心のある本の多い書架を眺め、ついでというよりも、身体が暖まってきた心のゆとりから、普段はあまり注意して見ることのない「上段」を見渡したところ、そこに立派な「詩集」が置いてあった。著名詩人の全詩集のような書物だろうか。高価そうな本だし、手を伸ばしても届きそうもない上のほうの棚のことだし、中味を見ることはしないのだけれど、その凛とした存在感が表の寒さと呼応しあっているように感じられた。このときに「上段」とは「極北」に近い。著者が孤高の詩人であれば、なおさらである。ぶっちゃけた話をすれば、詩集が上段に置いてあるのは売れそうもないからなのだが、それを存在感の確かさと受け止め変えた作者の心根を、詩の一愛好者としては嬉しく思う。ただ常識から言うと、一般の人にとって、詩集は遠い存在だ。せっかく字が読めるのに、生涯一冊の詩集も読まずに過ごす人のほうが圧倒的に多いだろう。「上段」どころてはなく、いや「冗談」ではなく、多くの人々にとっての詩集は、「極北」よりもさらに遠くに感じられているのではあるまいか。「俳句研究」(2006年1月号)所載。(清水哲男)


January 3012006

 ひと口を残すおかはり春隣

                           麻里伊

語は「春隣(はるとなり)」で冬、「春近し」に分類。これも季語の「春待つ」に比べ、客観的な表現である。「おかはり」のときに「ひと口を残す」作法は、食事に招いてくれた主人への気配りに発しているそうだ。招いた側は、客の茶碗が空っぽになる前におかわりをうながすのが礼儀だから、その気遣いを軽減するために客のほうが気をきかし、「ひと口」残した茶碗でおかわりを頼むというわけである。残すのは「縁が切れないように」願う気持ちからだという説もある。いずれにしても掲句は、招いた主人の側からの発想だろう。この作法を心得た客の気配りの暖かさに、実際にも春はそこまで来ているのだが、心理的にもごく自然に春近しと思えたのである。食事の作法をモチーフにした句は、珍しいといえば珍しい。私がこの「おかはり」の仕方を知ったのは、たぶん大学生になってからのことだったと思う。だとすれば京都で覚えたことになるのだが、いつどこで誰に教えられたのかは思い出せない。我が家には、そうした作法というか風習はなかった。おかわりの前には、逆に一粒も残さず食べるのが普通だった。だから、この作法を習って実践しはじめたころには、なんとなく抵抗があった。どうしても食べ散らかしたままの汚い茶碗を差し出す気分がして、恥ずかしいような心持ちが先に立ったからだった。このとき同時に、ご飯のおかわりは三杯まで、汁物のおかわりは厳禁とも習った。が、こちらのほうのマナーは一度も気にすることなく今日まで過ごしてきた。若い頃でも、ご飯のおかわりは精々が一杯。性来の少食のゆえである。「俳句αあるふぁ」(2006年2-3月号)所載。(清水哲男)


January 3112006

 雪女郎です口中に角砂糖

                           鳥居真里子

語は「雪女郎」で冬、「雪女」「雪鬼」などとも。「雪女郎です」と名乗ってはいるけれど、この句のなかに雪女郎は存在しない。名乗っているのは、他ならぬ句の作者自身だからだ。気まぐれに「角砂糖」を口に含んだときに、ふっと砂糖の白から雪を連想し、雪から雪女郎にイメージが飛んだ。そして雪女郎が口を利くとすれば、角砂糖ならぬ雪を口中に含んでいて、おそらくはこんな声になるのだろうと自演してみた。口中の角砂糖がまだほとんど溶けない間に「雪女郎です」と発音すれば、「ゆひひょろーれす」のような、しまりの悪い感じになるだろうな。などと想像して、思わず笑ってしまったが、しかし茶目っ気からとはいえ、雪女郎の口の利き方まで想像する人はあまりいないのではなかろうか。好奇心旺盛な人ならではの一句だと思った。雪女郎はむろん想像上の人物、というか妖怪の類だから、特定のイメージはない。したがって特定の声もないわけで、各人が勝手に想像すればよいのではあるが、掲句を読んでしまった私などは、これからはこの句を離れた声を想像することは難しくなりそうだ。「しまりの悪い感じ」の声と言ったけれど、逆にきちんと発音された声よりも、実際に聞かされたなら怖さは倍するような気がする。歳時記の分類では、大昔から「雪女郎」は「天文」の項に入れられてきた。つまり、雪女郎は「雪」そのものだとか「雪晴」や「風花」などと同列の自然現象の一つなのだ。自然現象のなかで最も不気味なのは、人智の及ばぬ不明瞭さ、不明晰さであることは言うまでもないだろう。「俳句研究」(2006年1月号)所載。(清水哲男)




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