2006N4句

April 0142006

 大石役者誰彼ぞ亡し義士祭

                           牧野寥々

語は「義士祭」で春。東京高輪の泉岳寺で、四月一日から七日間行われる。冬の討ち入りの日(十二月十四日)にも行われており、こちらの謂れはよくわかるが、なぜ春に行われるのかは、調べてみたが不明。気候が良いころなので、単に人が集まりやすいという理由からだろうか。いまだに人気の高い赤穂義士だが、掲句は義士を追慕するというよりも、これまでに大石内蔵助を演じた役者で故人となった「誰彼」を偲んでいる。芝居、映画、そしてテレビで何度となく演じられてきた義士物語の主役は、多くその時代の名優、人気役者であったから、彼らを偲ぶことはまた時代を偲ぶことにも通じているわけで、作者は泉岳寺の境内に立ちながら往時茫々の感を強くしたことだろう。ちょっと意表をついた句のようだが、しかし考えてみれば、私たちが大石はじめ赤穂浪士の面々を偲ぶというときには、これらの役者が演じた人物像を通して偲ぶのだから、むしろ逆に真っ当な発想であると言うべきか。以下余談。一昨日の夜、NHKラジオの浪曲番組で、三門柳が義士外伝のうちの「元禄武士道・村上喜剣」を演じていた。喜剣は薩摩浪士で、かねてより内蔵助を大人物とみていたが、夜毎の狂態、その腑抜けぶりに遭遇し「噂どおりの腰抜け武士、犬畜生にも劣る大馬鹿者」と内蔵助を足蹴にし「亡君に代わって一刀両断とは思えども犬畜生を斬る刀は持たぬ」と立ち去った男だ。だが、後に義士の討ち入りを聞くに及んでみずからの不明を恥じ、泉岳寺の墓前で割腹する。もちろんこの浪曲の聞かせどころはこのあたりにあるのだけれど、なかで流浪する喜剣の行程が、なぜか「おくのほそ道」と同じなのであり、芭蕉の句までが折り込まれているのには笑ってしまった。俳句入り浪曲なんて、はじめて聞いた。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


April 0242006

 濃みどりの茶摘の三時唄も出ず

                           平畑静塔

語は「茶摘」で春。まだ、摘むには少し早いかな。句は、茶摘みの人たちのおやつの時間だ。茶の葉の濃いみどりに囲まれて、みんなで小休止。お茶を飲んだりお菓子を食べたりと、それだけを見ている分にはまことに長閑で、唄のひとつも出てきそうな雰囲気に思えるのだが、実際には「唄も出ず」なのである。午前中から摘んでいるのだから、「三時」ともなればくたくたに近い。単純労働はくたびれる。夕刻までもう一踏ん張りせねばならないわけで、唄どころではないのだ。この句が出ている歳時記の「茶摘」の解説には、こういう部分がある。「宇治の茶摘女は、赤襷、赤前垂をし、紅白染分け手拭をかぶり、赤紐で茶摘籠を首にかけ、茶摘唄をうたいながら茶を摘んだ」。私はほぼ半世紀前の宇治で暮らしたが、そのころには既にこんな情景はなかった。まだ機械摘みではなかったと思う。こうした茶摘女がいたのは、いったいいつ頃までだったのだろうか。そもそも、本当に歌いながら茶摘をするのが一般的だったのか、どうか。似たような唄に「田植唄」もあるけれど、これまた労働の現場では一度も聞いたことがない。茶摘の経験はないが、歌いながら田植をするなんてことは、あの前屈みの労働のしんどさのなかでは、とうてい無理だと断言できる。したがって、この種の唄が歌われたとするならば、なんらかの祭事などにからめた儀式的労働の場においてではなかったのかと、そんなことを思う。でも、実際に聞いたことがあるという読者がおられたら、ぜひその模様をお知らせいただきたい。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


April 0342006

 花冷や石灯籠の鑿のあと

                           武田孝子

語は「花冷(え)」で春。桜の咲くころでも急に冷え込むことがあるが、そのころの季感を言う。神社か寺か、あるいはどこかの日本庭園だろうか。いずれにしても花を見に訪れたのだが、折り悪しく「花冷」とぶつかってしまった。たとえ花は満開だとしても、やはり花見は暖かくてこそ楽しいのである。それがちょっと肩をすぼめるような気温とあっては、いささか興ざめだ。このようなときには、気温の低さが平素よりも余計に肌にさすと感じるのが人情である。掲句はその微妙な心理的感覚を、そこに置かれていた地味な「石灯籠」に鋭い「鑿(のみ)のあと」を認めた目に語らせているというわけだ。ことさらに寒いとか冷え込むとかとは言わずに、石灯籠の鑿のあとを読者に差し出すだけで、作者のたたずむ場の冷え冷えとした情景を彷佛とさせている。一部の好事家は別として、日頃はさして気にもとめない石灯籠に着目し、その鑿のあとをクローズアップした構成が、この句の手柄と言えるだろう。句集のあとがきによれば、作者は母親が俳句好きだったことで、小学生のころから俳句に親しみを覚えていたというが、さもありなむ、五七五が俳句になる肝どころをよくわきまえた作法だ。長年俳句作りに熱心でないと、なかなかこうは詠めないと思う。派手さはないけれど、いわゆる玄人好みのする一句である。『高嶺星』(2006)所収。(清水哲男)


April 0442006

 もう勤めなくてもいいと桜咲く

                           今瀬剛一

年退職者の感慨だ。サラリーマン時代には、花見といっても、どこか落ち着かない気分があった。見物していてもふいっと仕事のことが頭をよぎったり、いくら楽しくても明日のために早く帰宅せねばと気持ちが焦ったり、開放感がいまひとつなのだ。そこへいくと作者のように、晴れて定年退職した身には、たしかに桜が「もう勤めなくてもいい」と咲いているように思えるだろう。仕事や出勤のことを気にしなくてもよいのだから、余裕たっぷりで見物することができる。おそらくは、生まれてはじめてしみじみと見上げることのできた桜かもしれない。しかしながら人間とは複雑なもので、そんな開放感を味わいつつも、今度はどこかで「もう勤めなくてもいい」、会社に来なくてもいいという事態に、作者は一抹の寂しさを感じているような気もする。昨日のTVニュースでは、各社の入社式の模様が報道されていた。働く意欲に溢れた若者たちの緊張した表情が、美しくも眩しかった。とはいえ、若者たちにだとて複雑な思いはあるわけで、感受性が豊かであればあるほど、やはりこれからの長年の勤務のことが鈍く心の片隅で疼いていたには違いない。定年退職者の開放感と寂寥感と、そして新入社員の期待感と重圧感と……。それら世代を隔てた種々の思いが交錯する空間に、毎春なにごともないような姿で桜の花が咲くのである。「うすうすと天に毒あり朝桜」(宗田安正)。二句ともに「俳句」(2006年4月号)所載。(清水哲男)


April 0542006

 濃山吹墨をすりつゝ流し目に

                           松本たかし

語は「山吹」で春。「濃山吹」は、八重の花の濃い黄色のものを言う。陽気が良いので障子を開け放っているのか、それとも閉め切った障子のガラス窓から表が見えるのか、作者は和室で「墨」をすっている。代々宝生流の能役者の家に育った人(生来の病弱のために、能役者になることは適わなかった)なので、墨をするとはいっても、何か特別なことをしようとしているわけではない。日課のようなものである。そんな日常を繰り返しているうちに、今年もまた山吹の咲く頃になった。春だなあ。庭の奥のほうに咲いた黄色い花を認めて、作者は何度も手元の硯からちょっと目を離しては、花に「流し目」をくれている。「流し目に」というのだから、顔はあくまでも硯に向けられたままなのだ。いかに山吹が気になっているかを、この言葉が簡潔に表現している。真っ黒な硯と濃い黄色の花との間を、目が行ったり来たりしているわけだが、この二つの色彩のコントラストが実に鮮やかで印象深い。句を眺めているうちに、作者のする墨の匂いまでが漂ってくるような……。春を迎えた喜びが、静かで落ち着いた句調のなかにじわりと滲み出ているところは、この作者ならではであろう。東京の山吹は、桜同様に今年は早く、そろそろ満開である。『俳諧歳時記・春』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


April 0642006

 夭折のさだめと知らず入学す

                           秋山卓三

語は「入学」で春。私の住む三鷹市では、今日が小学校の入学式だ。少し散ってしまってはいるが、校庭の桜はまだかなり残っているので、花の下での記念写真は大丈夫そうだ。全国で、今年も元気な一年生が誕生する。掲句を読んで、すぐに長部日出雄の書いた『天才監督・木下恵介』を思い出した。現実の話ではないが、長部さんは木下監督の撮った『二十四の瞳』の入学シーンを、何度見ても涙がわいてきて仕方がないという。教室で先生が名前を呼ぶと、ひとりひとりの新一年生がはりきって元気に返事をする場面だ。そこだけをとれば、何の変哲もない普通の入学風景でしかないのだが、長部さんは何度も映画を見て、そのひとりひとりの子供の近未来の運命を知ってしまっているので平常心ではいられないというわけである。それらの子供のなかには、まさに戦場で「夭折(ようせつ)」する男の子も何人か含まれている。そんな「さだめ」とは知らずに、活発な返事を返す子供たち。これが泣かずにいられようか。掲句の作者は、そうした同級生の「さだめ」を現実に見てきたのだろう。かつての入学時に席を並べた友人の何人かが、待ち受けている暗い運命も知らずに無邪気に振る舞っていた姿を思い出して、やりきれない想いに沈んでいる。そしてその想いは、毎年この季節になると、必ず戻ってくるのだ。だから、いまどきの一年生の元気な姿を見かけても、おそらくは明るい気持ちばかりにはなっておられず、いわれなき暗く哀しい気持ちが、ふっと胸をよぎることもあるに違いない。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


April 0742006

 橋の無き数寄屋橋行く春ショール

                           鈴木智子

語は「春ショール」。この句を読んで微笑を浮かべた読者は、ほとんどが戦前生まれの方だろう。句意ははっきりしていて、わかりにくいところはまったくない。でも、句を文字通りに味わおうとすると、なんだか当たり前過ぎて面白い句でもないので、世代が若いと、がっかりする読者もいそうである。そうなのです。わかる世代には、すぐにわかるし、わからない世代には全くわからないのがこの句なのです。「数寄屋橋」と「シヨール」と言えば、私くらいの世代から上の人々ならば、連想が自然に行き着く先は一つしかありません。すなわち、かの一世を風靡した「真知子巻き」へと……。真智子は、菊田一夫の人気ラジオドラマ『君の名は』のヒロインだった。1953年に映画化されたこのすれ違いドラマでヒロインを演じたのが岸恵子で、ショールを頭から首に巻いた斬新なファッションが、当時の若い女性たちには大受けだった。そこらじゅうに、にわか真知子が出現したのだった。作者は、そんな世代の女性なのだろう。ある春の日に銀座に出かけたとき、いまは無き数寄屋橋のあたりを通りかかって、ショール姿の人を見かけたのだ。むろん、彼女はもはや真知子巻きではない。しかし場所が場所だけに、作者は咄嗟に当時のことを思い出し、一瞬すとんと懐旧の念のなかに落ち、往時茫々の感に打たれたというわけだ。春ショール姿の見知らぬ女性が、そうした過去を何も知らずに数寄屋橋無き道を歩いている。ああ、まことに「忘却とは、忘れ去ることなり」(菊田一夫)なのであります。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


April 0842006

 若き頃嫌ひし虚子の忌なりけり

                           猪狩哲郎

語は「虚子忌」で春。高浜虚子の命日。虚子が鎌倉で没したのは,1959年(昭和三十四年)四月八日であった。八十四歳。そのころの私は大学生で俳句に熱中してはいたが、作者と同じように虚子は「嫌ひ」だった。彼の詠むような古くさい俳句は、断固撲滅しなければならないと真剣に考えていた。「俳句に若さを」が、当時の私のスローガンだった。虚子が亡くなったときに、新聞各紙は大きく報道し、手厚い追悼記事を載せたのだけれど、だから私はそうした記事をろくに読まなかった覚えがある。こういう言い方は故人に対してまことに失礼であり不遜なのであるが、彼の訃報になんとなくさっぱりしたというのが、正直なところであった。付け加えておくならば、当時の俳句総合誌などでも、いわゆる社会性俳句や前衛俳句が花盛りで、現在ほどに虚子の扱いは大きくはなかったと思う。意識的に敬遠していた雰囲気があった。メディアのことはともかく、そんな「虚子嫌ひ」だった私が、いつしか熱心に虚子句を読みはじめたのは、五十代にさしかかった頃からだったような気がする。そんなに昔のことではないのだ。一言で言えば、虚子は終生新奇を好まず、日常的な凡なるものを悠々と愛しつづけた俳人だ。すなわち、そのような詩興を理解するためには、私にはある程度の年齢が必要であったということになる。虚子逝って、そろそろ半世紀が経つ。時代の変遷や要請ということもあるが、もう二度と虚子のような大型の俳人が出現することはあるまい。「虚子嫌ひあるもまたよし虚子祀る」(上村占魚)。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


April 0942006

 駝鳥来て春の団子をひとつ食う

                           辻貨物船

ポキ
らしい楽しい句はないかと探していたら、灯台下暗し、辻征夫の句集に掲句が載っていた。この「駝鳥(だちょう)」、なんとなく宮崎駿の描いた三鷹市のキャラクター「ポキ」(図版参照)を連想させてくれる。ただし、「ポキ」よりも辻の「駝鳥」句のほうが先だ。また「ポキ」が駝鳥なのかどうかは、似ているけれどわからない。そんなことはともかく、春の午後あたりだろうか、どこからか駝鳥がのこのことやってきて、何故かそこに置いてあった「団子」をひとつだけぱくっと食べたよ、というのである。食べた後で、大きな目玉をくるくるっとまわしてから、またもと来た方向に戻っていったような気がする。こういう可愛らしくも茫洋とした情景を描くには、普段からこうした世界で遊びなれていないと、いきなり付け焼き刃での作句は難しいだろう。詩人・辻征夫の内面には、たしかにこういう茶目っ気に近い世界があった。この駝鳥は、だからほとんど「ポキ」と同じような想像上の鳥なのであって、いちおう「駝鳥」とは書いてあるけれど、詩人の頭のなかでは、実物をかなりデフォルメした姿で動いていたにちがいない。このような、いわば童心の発露みたいな瑞々しい句の作り手が、現代のどこかにいないものだろうか。『貨物船句集』(2001)所収。(清水哲男)


April 1042006

 こでまりや白衣の叔母の征きし日ぞ

                           泉夕起子

語は「こでまり(の花)」で春。「征(ゆ)きし日」の「征」は「出征」の「征」で、すなわち戦地に赴く意だ。戦争といえば「男」のイメージが強くて、つい忘れられがちになるが、多くの女性もまた看護婦として従軍してきた。かつての大戦では、日本赤十字社から29,562人の戦時救護看護婦が派遣され、うち戦死者1,143人、負傷者4,689人とされている。しかもこの他に、陸海軍に応召された人々、日中戦争時の派遣人数等をいれると相当な数にのぼり、ある資料によると、およそ5,6000人近くが軍務についたといわれている。なかでも日本赤十字社の看護婦は、養成学校を終えると二十年間は戦地召集への義務を負っていたので、男と同じように赤紙一枚の召集令状で有無を言わせず戦地へと駆り出された。掲句はその出征シーンの回想であるが、男の出征とは違い、日の丸や万歳で見送られることはなかったのだろう。家族など少数の人がひっそりと、真っ白いこでまりの花の咲く道に出て、白衣の叔母にしばしの別れを告げたのだ。叔母といっても、おそらくは二十歳になったかならないかの若い女性である。可憐なこでまりにも似たその姿が、作者の脳裏にいつまでも焼き付いて離れなかったに違いない。この季節になると、自然に思い出されてしまうのである。明治期の日本の歌に世界でも珍しいといわれる「婦人従軍歌」があり、その一節にこうある。「真白に細き手をのべて 流るる血しお洗い去り まくや繃帯白妙の 衣の袖はあけにそみ」。『航標・季語別俳句集』(2005)所載。(清水哲男)


April 1142006

 沖かけてものものしきぞかじめ舟

                           石塚友二

語は「かじめ(搗布)」で春。海藻の一種だが、ご存知だろうか。辞書ふうに説明すると「暖地の近海に産する大型の藻類で、直径1.5センチ〜3センチぐらいの円柱茎の上端に、細長い葉が群がっている」となる。よく似ているが「荒布(あらめ)」とは別種だ。山口県の田舎に暮らした子供のころ、海から遠い山村というのに、どういうわけか大量の干した搗布をよく見かけた。何度も触った記憶もある。昆布よりも黒みの薄い褐色で、お世辞にも見かけはよろしくない。食べられるそうだが、食べた記憶はないので、鶏や家畜の餌にでもしていたのだろうか。思い出そうとするのだが、どうしても思い出せない。そんな程度の記憶しかないのだから、もとより句のような情景は見たことがないのだけれど、作者が「ものものしきぞ」と詠んだ気持ちはわかるような気がする。素人目には、そんなに「ものものしい」感じで採りにいくものでもあるまいにと、搗布を知っている人ならそう思うのが普通だろうからだ。でも一方で作者はこの情景に接して、搗布の価値を見直してもいる。「ほお」と、心のどこかで身を乗り出している。こういうことは誰の心にもたまに起きることで、そのあたりの機微を巧く詠んだ句ということになるのだろう。それにしても、我が故郷での搗布は何に使われていたのか。思い出せないとなると、余計に気になる。『合本・俳句歳時記』(1974・角川文庫)所載。(清水哲男)


April 1242006

 とろけるまで鶏煮つつ八重ざくらかな

                           草間時彦

語は「八重ざくら(八重桜)」で春。サトザクラの八重咲き品種の総称。桜のうちでは咲くのが最も遅く、満開になると枝が見えないほど重く垂れ下がって咲く。この句は、櫂未知子『食の一句』(2005・ふらんす堂)で知った。一年間、毎日「食」にちなんだ句を紹介解説した本で、なかなかに楽しい。「こういう句を読むと、毎日ばたばたして暮らしている自分の情けなさを痛感する」と書いてあって、同感だ。ゆっくりと時間をかけて「鶏(とり)」を煮込む。誰にでもできそうだが、そういうわけにはいかない。料理ばかりではなく、諸事に時間をかけるには日ごろの生活ペースによるのもさることながら、その上に一種の才能が必要だと、私などには思われる。「のろのろ」に才能は不要だが、「ゆっくり」「ゆったり」には、持って生まれた資質が相当に影響するようだ。同じことをほとんど同じ時間でこなしたとしても、「せかせか」と見える人もいれば、逆の人もいる。時間の使い方が上手く見える人は、たいていが後者のタイプである。それはともかく、とろとろとろとろと鶏肉を煮ていると、とろとろとろとろと甘い匂いが漂ってきて、窓外の「八重ざくら」もまたとろとろとろとろと作者を春の底に誘うがごとくである。少年時代に囲炉裏の火で、とろとろとろとろとジャガイモと鯨肉を煮ていたことを思い出した。物事にゆったりする才能はなかったけれど、ヒマだけはあったからである。(清水哲男)


April 1342006

 吹かれつつ柳は発と極を吐き

                           志賀 康

語は「柳」で春。「発」は「ほつ」と読ませている。この人の句には意表をつかれることが多いが、この句もその一つだ。柳の意外な表情を見せられた思いがする。「柳」と「風」といえば、常識では「柳に風と受け流し」のように、柳は風に逆らわないことになっている。風の吹くままに枝や葉をなびかせて、抗わないことで身の安全を守るというわけだ。だが掲句では、そんな柳があまりの強風にこらえかねたのか、ついに「発と極を」吐いたというのである。いや、強風とは書いてない。適度な春風かもしれないのだが、いずれにしても柳が吐くという発想は尋常ではないし、それこそ「発」とさせられる。そして、このときに「極」とは何だろうか。よくは掴めないけれど、おそらくは柳という生命体にある芯のようなものではあるまいか。外側から眺めただけではわからない柳の持ついちばん固い部分、人間で言えば性根のようなもの、それを吐いたというのだから、この柳はよほど環境に適応できなかったか、あるいは嫌気がさしていたのか。となれば、この状況は作者の心情を柳に託したとも読めてくる。これ以上の深読みはやめておくが、わかりにくいこの句を読んでよくわかることは、作者がいかに世の常識による物の見方を嫌っているかだ。いわゆる反骨精神の上に築かれたインスピレーションだなあと、私はひとり納得したことであった。俳誌「LOTUS」(第五号・2006年4月)所載。(清水哲男)


April 1442006

 いもうとのままに老いたり桜餅

                           平沢陽子

語は「桜餅」で春。塩漬けにした桜の葉の芳香が快い。家族のなかに、姉か兄がいる。だから、「いもうと」。だから、家族のなかではいつもいちばん若かった。何かにつけて、そのことを意識させられることも多かった。それが、どうだろう。若い若いと思って生きているうちに、いつしか「老い」の現実が、若い気分の自分に突きつけられることになっていた。老いが誰にも避けられないことはわかっていても、「いもうとのままに」老いたことに、作者はちょっと不思議な感じを受けたのだ。理屈ではなく、なんとなく理不尽な感じがしている。子供のころから姉か兄かと分けあって食べた「桜餅」を、あらためて懐かしいようなものとして眺めているのだろう。当たり前のことを当たり前に詠んだだけの句だが、じんわりと心に沁みてくる句だ。私ごとで言えば、私は長男だからいつも二人の弟たちよりも年上であったわけで、ずっと年長者意識はつづいてきた。だから、弟たちはいつまでも若いと思ってきたのだが、その弟の一人が還暦を迎えたときには、なんとなく理不尽な感じを受けたものである。これまた、理屈ではない。作者とは立場がまったく逆になっているだけで、受けたショックの質は同じようなものだろう。読めば読むほどに、味わい深い良い句です。しんみり。「詩歌句」(第九号・2006年3月)所載。(清水哲男)


April 1542006

 魚島や雨ふりさうな葉のゆらぎ

                           対中いずみ

語は「魚島(うおじま)」で春。山の子ゆえ海のことにはうとく、この季語にもまったく馴染みがない。手元の角川版歳時記から、定義を引き写しておく。「四〜五月になると鯛や鰆などが瀬戸内海に入り込み、海面にあたかも島のようになってひしめきあう。この時期を『魚島時』といい『魚島』はそれを略した形で、豊漁をさすこともある。瀬戸内海地方の方言。燧灘に浮かぶ魚島は鯛漁で有名で、ここの港が語源ともいわれる」。また他の歳時記によれば、兵庫、岡山など瀬戸内海に面した地方では、この時期に鯛の市が立つそうで、これもまた「魚島」と言うとある。総合して考えると、要するに「魚島」とは、瀬戸内海の海の幸の豊饒期をさす季語ということになる。掲句からだけでは、作者が実際に魚島を見ているのかどうかはわからないが、しかし、豊穰感はよく伝えられていると思った。それはむろん「雨ふりさうな」曇天と心理的に関係していて、抜けるような青空の下では得られない種類の思いが込められている。すなわち何も魚の群れとは限らないのだけれど、ものみな晴天下では躍動感こそあれ、それはそのまま心理的に中空に抜けてしまうのに対して、曇天下では逆に内面に貯め込まれるようなところがある。いまにも降り出しそうな気配を周辺の「葉のゆらぎ」に感じて、作者は「魚島時」独特の充実感、豊穰感が盛り上がってくるのを、全身で感応しているのであろう。曇天もまた、春の醍醐味なのである。『冬菫』(2006)所収。(清水哲男)


April 1642006

 春夕好きな言葉を呼びあつめ

                           藤田湘子

語は「春夕(はるゆうべ)」、「春の暮」に分類。一年前(2005年4月15日)に亡くなった作者の最晩年の句である。そう思って読むせいか、どこか寂しげな感じを受ける。あまやかな春の宵を迎える少し前のひととき、病身の作者がひとりぽつねんといて、「好きな言葉を呼びあつめ」ているのだ。長年にわたる俳句修業ののちに、心の内をまさぐって呼びあつめた好きな言葉とは、どんな言葉だったのだろうか。その数は多かったのか、あるいは逆に寥々たるものだったのか。いずれにしても、この句は作者の意図がどうであれ、老いの切なさをはからずも露出していると思われる。またふんわりとした詠み方ではあるが、最期まで言葉に執した人の鬼気も、いくぶんかは含まれているだろう。読後ふと、ならば読者である私に、好きな言葉はあるだろうかと思わされた。しばらく考えてみて、いまの私にそのような言葉は一つも呼べなかった。若い頃にはいくらもあった好きな言葉は、みななんだか陳腐でくだらなく思えてしまい、もはや「無し」としか言いようがない。これが曲がりなりにも詩を書いている人間として、恥ずかしいことなのかどうかもわからない。でも無理やりに記憶の底を掻き回してみているうちに、エジソンの言葉とされる「少年よ、時計を見るな」がやっと浮かんできたのだったが、もはや私は少年ではないので、やはり好きな言葉と言うには無理があるということである。遺句集『てんてん』(2006)所収。(清水哲男)


April 1742006

 幼子と風船売りと話しゐる

                           大串 章

語は「風船」で春。若い頃から、子供の情景を詠むのに秀でた俳人だ。掲句は近作だが、あいかわらず上手いものである。公園か、遊園地か。「幼子(おさなご)」が風船売りの男と話している。ただそれだけの図だけれど、読者の想像力はいろいろに刺激される。たぶんこの子は、物おじしないタイプなのである。私などには、かなりおしゃまな女の子の姿が浮かんでくる。彼女は自分から風船売りに話しかけたはずで、適当に相手になっている男の顔をまっすぐに見ながら、いっちょまえの口をきいている様子が、ほほ笑ましくもリアリティを伴って伝わってくる。「生意気な可愛らしさ」とでも言おうか。作者は、そうした子供の特性を生かすための構図取りが、いつも実に的確である。で、この句にはつづきがあって次のようだ。「風船を持たされ鳩を見てをりぬ」。がらりと変って、この句の主人公はおしゃまな女の子の親か祖父母である。幼子が風船売りに話しかけたばっかりに、風船を買い与える羽目となり、おまけにそれの持ち役にまでされてしまった。委細構わず、そのへんを元気に飛び歩いている女の子と、とうていペースが合わず、風船を持って所在なげに鳩でも見ているしかない大人。この構図もまた、句にはまったく現れていない幼子の様子を活写していると言ってよい。作者はこの春、句集『大地』で俳人協会賞を受賞した。「俳句研究」(2006年5月号)所載。(清水哲男)


April 1842006

 日の昏れてこの家の躑躅いやあな色

                           三橋鷹女

語は「躑躅(つつじ)」で春。近隣で、ぼつぼつ躑躅が咲きはじめた。春も盛りのなかでこの花が咲き出すと、伴ってどこか初夏の感じも漂ってくる。花色は種類によって、白、紅、赤、紫、黄などいろいろだが、どの色にも作者のように「いやあな」感じを受けたことはない。「いやあな色」とは、どんな色なのだろうか。「日の昏れて」とあるから、何かの色がよほどくすんで見え、汚らしい感じに思えたのかもしれない。このときに問題なのは「この家の」である。「この家の」と特定したということは、他の家の花だったらそうは思わないという気持ちが言外に込められている。つまり、「この家の躑躅」だから嫌なのだ。この句は裏返し的にではあるが、一種の挨拶句ではあるだろう。こんな挨拶をされたら誰でもたまるまいが、率直というのか子供っぽいというのか、ここまで言われてしまうと、読者はただ「はあ、そうですか」と作者の剣幕を受け入れるしかない。日ごろからよほど「この家」自体に嫌な印象があったのか、はたまた別の事情で作者の機嫌が悪く、たまたまとばっちりを受けたのが「この家」だったのか。いずれにしても、この「いやあな」という表現は、俳句的には斬新かもしれないけれど、私などには女性に特有の意地の悪さが滲んでいるようで、別段「いやあな句」とも思わないが、あまり思い出したくない句の一つになりそうだ。でも、こういう句に限って、躑躅の咲くころには、毎年きっと思い出してしまいそうな予感がする。『魚の鰭』(1941)所収。(清水哲男)


April 1942006

 覚めきらぬ者の声なり初蛙

                           相生垣瓜人

語は「初蛙(はつかわず)」で春、「蛙」に分類。今年はじめての蛙の声を聞いた。その声が、まだ完全には眠りから覚めていない人の声と同じように聞こえたと言うのである。言われてみれば、初蛙の声はなんだかそのようでもあり、あれが寝ぼけ声だとすると、鳴いている姿までが想像されて、なんとなく可笑しい。この句を紹介した本(『忘れられない名句』2004)のなかで、福田甲子雄は「こんな発想はなかなか初蛙の鳴き声を聞いても思いに至らない」と書き、句の説得性については「声なり」と断定して、「ごとし」とか「ような」といった直喩の形式をとっていないからだと説明した。その通りであって、この断定調が作者独特の感性に客観性を持たせ、瓜人ワールドとでも言うべきユニークな世界を構築している。私がそう聞きそう思ったのだから、そのままを書く。下手に他人の顔色をうかがったりはしない。だから逆に、その理由を書かなくてもすむ短詩型では読者を納得させ得るのだろう。同書で福田も引用しているが、能村登四郎はこのような瓜人ワールドを指して、「瓜人仙郷とよばれる脱俗の句境で、いうなれば東洋的諦観が俳句という寡黙な詩型の中に開花した独自の句風」と言っている。わかったようなわからないような説明だが、要するにみずからの感性に絶対の確信を持ってポエジーを展開したところに、作者最大の魅力があらわれているのだと思う。『微茫集』(1955)所収。(清水哲男)


April 2042006

 清水次郎長が大好き一番茶

                           吉田汀史

語は「一番茶」で春、「茶摘(ちゃつみ)」に分類。摘みはじめの十五日間(4月下旬頃)に摘んだものを「一番茶」と呼び、最上とする。掲句は、そんな一番茶を喫する喜びを卒直に詠んでいる。「旅ゆけば駿河の国に茶の香り」と広沢虎造の「清水次郎長伝」で歌われたように、茶といえば駿河、駿河といえば海道一の大親分だった清水の次郎長だ。したがって、茶と次郎長は付き過ぎといえば付き過ぎだけれど、しかし付き過ぎだからこそ、作者の上機嫌がよく伝わってくるのである。次郎長の本名は山本長五郎といい、通称次郎長は次郎八方(かた)の長五郎で、相続人の意だ。幼くして悪党の評があり、家業(米穀商)のかたわら博奕に手を出し、賭場に出入りするようになる。1842年(天保13)賭場のもつれから博徒に重傷を負わせて他国に逃げ、無宿渡世に入る。浪曲や講談でのヒーローも、そう褒められた生活者ではなかったが、1868年(明治1)東海道総督府判事・伏谷如水から旧悪を許されて帯刀の特権を得、新政府の東海道探索方を命じられてからは、囚人を使役して富士の裾野を開墾したり、汽船を建造して清水港発展の糸口をつけたり、その社会活動は精力的でみるべきものが多い(藤野泰造)。明治26年病死、葬式には1000人前後の子分が参列したという。また「清水港は鬼より恐い、大政小政の声がする」とはやされたように、一昔前までは清水といえば誰もが次郎長を連想したものだが、いまではすっかり「ちびまる子ちゃん」(さくらももこ)にお株を奪われた格好になっている。『一切』(2002)所収(清水哲男)


April 2142006

 春山にかの襞は斯くありしかな

                           中村草田男

語は「春(の)山」。うっかりすると見逃してしまいそうな地味な句に見えるが、しばし故郷から遠く離れて暮らしている人にとっては、ふるいつきたくなるような句だろう。作者が、久方ぶりに郷里の松山に戻ったときに詠んだ「帰郷二十八句」の内の一句。「東野にて」の前書きがある。私にも体験があるが、故郷を訪れて最も故郷を感じるのは、昔に変わらぬ山河に対面するときだ。新しい道ができていたり建物が建っていたりするトピック的な情景には、それはそれで興味を引かれるけれど、やはり帰郷者が求めているのは子供の頃から慣れ親しんだ情景である。ああ、そうだそうだ。あの山の襞(ひだ)は昔も「斯(か)く」あったし、いまもそのまま「斯く」あることに、作者は深く感動し喜びを覚えている。変わらぬ山の姿が、過去の自分を思い出させ、若き日の自分と現在の自分とを対話させ、そしてその一切が眼前の山に吸い込まれてゆく。「父にとって『かの襞』はほとんど『春山』の人格のようなものをさえ感じさせたことであろう」。めったに色紙を書くことのなかった作者に、掲句を書いてもらったという草田男の三女・中村弓子さんの弁である(「俳句α」2006年4-5月号)。父なる山河、母なる故郷などと、昔から自然はある種の「人格」に例えられてきたが、それらは単なる言葉の上の比喩ではなく、まさに実感の上に立った比喩であることが、たとえばこの句からも読み取れるのである。『長子』(1936)所収。(清水哲男)


April 2242006

 巣鴉をゆさぶつてゐる木樵かな

                           大須賀乙字

語は「巣鴉」で春、「鴉(からす)の巣」に分類。春になると鳥は交尾期に入り、孕み、巣を営む。雀、燕は人家などの軒に、雲雀は麦畑や草むらに、また鳰(にお)は水上に浮き巣をつくり、岩燕は岩石の空洞に巣をつくって産卵し、そして鴉は高い樹木や鉄塔の上に営巣するなど、それぞれの鳥によってまちまちである。掲句は、これから鴉の巣がある木を切り倒すのだろう。木樵(きこり)がしきりに、上の様子を見ながら木を「ゆさぶつてゐる」図だ。危険だから避難しろよと親鴉に告げているようにも見えるが、実際に危険なのはむしろ木樵のほうなのであって、鴉の攻撃を受けないために先手を打っているのだと解したい。鴉が人を襲うなど、最も凶暴になるのは子育ての季節だと言われている。「ひながかえってから巣立つまでの約1ケ月間は、オス・メス両方が食べ物を運び、ひなの世話をします。カラスの警戒心が最も強くなるのもこの頃で、巣のそばを人間が通った時に攻撃を受けることが多くなります」(HP「東京都カラス対策プロジェクト」より)。俗に「ショーバイ、ショーバイ」と言ったりするが、その道のプロには、傍目にはなかなかわからない目配りが必要な一例だ。作者は、そういうことがわかって詠んでいるのかどうか。気になるところではあるけれど、もはや手斧や鋸で樹木を伐採する時代ではなくなった今日、この句がどこかのんびりとしたふうに読めてしまうのは、止むを得ないのかもしれない。『俳諧歳時記・春』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


April 2342006

 原宿を雨過ぎにけり蔦若葉

                           芹沢統一郎

語は「蔦若葉(つたわかば)」で春。晩春の頃の蔦の若葉。木々の「若葉」は夏の季語だが、草類の若葉は春である。掲句の「蔦若葉」は「原宿」にあるというのだから、表参道にあった同潤会青山アパートのそれだろう。このアパートは築後六十数年の老朽化のためすでに取り壊されており、跡地には安藤忠雄設計による新しい建物が建てられている。健在であった頃には、原宿に出かけるたびに、そのどっしりと安定した存在感に心癒されたものだった。とりわけてその昔、原宿にまだ若者たちが集まってこなかった時代には、古き良き時代の東京の住宅地を象徴するかのようなたたずまいを見せていた。このアパートが姿を消してからの原宿は、私のような年代の者にとって、どことなく落ち着かない街になってしまった。昔のそんな原宿に、通り雨だろうか。しばし柔らかな春の雨が降り注ぎ、そして程なく雨は止んだ。と、雲間から今度は明るく日が射してきて街を照らし、いささか古色を増してきた青山アパートの外壁に這う蔦若葉も生気を取り戻してきたのだった。雨に洗われた蔦若葉の光沢がなんとも美しく、作者はしばし路傍にたたずんで見上げていたのだろう。都会がときに垣間見せる都会ならではの美しさを、淡くさらりと水彩画風にスケッチしてみせた佳句である。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


April 2442006

 栞ひも書架より零れ春燈下

                           井上宗雄

語は「春燈(しゅんとう)」。この句に出会った途端、思わず本棚を見てしまった。なるほど、普段はまったく意識したことはなかったけれど、たしかにあちこちの棚の端から「栞(しおり)ひも」が零(こぼ)れている。辞典の類いは別として、栞ひもの位置からその本をあらためて眺めてみると、未読のまま途中でやめてしまっている本はすぐにわかる。なぜ読むのをやめたのかも、あらかた思い出すことができる。本は自分の歴史を思い出すよすがでもあるから、句の作者もまた、栞ひもから時間をさかのぼって、過去の自分をいろいろと思い出しているのではあるまいか。「春燈」には他の季節よりも少しはなやいだ感じを受けるが、それだけに逆に、作者の内心には愁いのような感情が生起しているのでもあろう。はるばると来つるものかな。ちらりと、そんな感慨もよぎっているのだろう。ところで、この栞ひもを出版業界の用語では「スピン」と言う。そしてご存知だろうか、文庫本でスピンをつけているのは、現在では新潮文庫だけである。手元にある方は見ていただきたいが、この文庫のもう一つの特徴は、ページの上端部の紙が不ぞろいでギザギザのままになっていることだ。これはスピンをつけるためにカットできない造本上の仕様なのであり、若者のなかにはこのギザギザが汚いと言う者もいるらしいが、文庫本であろうとスピンがついていたほうがよほど便利なことを知ってほしいと思う。それに私などには反対に、あのギザギザはお洒落にさえ思えるのだが。俳誌「西北の森」(第57号・2006年3月)所載。(清水哲男)


April 2542006

 相合傘の雫や春の鶴揺れて

                           鳥居真里子

語は「春の鶴」。ということになるが、はて「春の鶴」とは、どういう鶴を作者はイメージしているのか。秋に渡来し越冬した鶴は、春になると北に帰っていく。これを俳句では「引鶴(ひきづる)」と言い、春の季語としているが、この渡り鶴のことだろうか。「春の雁」という季語は定着しているので、その応用かもしれない。便宜上、当歳時記では「引鶴」に分類してはおくが、北海道に生息する「丹頂」は留鳥で渡らない。これもまた立派に「春の鶴」と言えるわけで、悩ましいところだ。それはさておき、一読、美しい句だと感じた。「相合傘」とはまた古風な物言いだけれど、むろん作者はそれを承知で使っているわけで、十分に効果的である。柔らかい春の雨のなか、肩を触れ合うようにして一本の傘に入って歩いている男と女。傘からは雨の「雫(しずく)」が垂れてきて、その雫を通して「春の鶴」が見えているのである。雫が垂れてくるたびに、鶴の姿はレンズを通したようにぼおっと揺れて拡大され、雫が落ちてしまうとその姿は遠くに去ってしまう。実際にはそんなふうには見えていなくても、句の作者の意図を汲めば、そうした美的な構図が浮かんでくる。相合傘は古風だけれど、句自体は雫を透かすという視点を得て、見事に新鮮でありロマンチックだ。いつまでも、このまま歩いていたい。傘の二人は、きっとそう思っているだろう。「俳句界」(2006年5月号)所載。(清水哲男)


April 2642006

 春日遅々男結びの場合は切る

                           池田澄子

語は「春日(はるび)」、「春の日」に分類。春の日光と春の一日を指す二つの場合があるが、掲句では後者である。のどかに長い春の一日だ。すなわち時間はたっぷりあるのだけれど、なにせ「男結び」は固くてほどきにくいから、無駄な努力はやめてハサミでぷっつりと切ることにしている。でも、それが「女結び」だったら、きちんとほどくことも決めている。そういう意味だろう。癇癪を起こすというほどではないのだが、「切る」という気短さと悠々たる「春日遅々」の時間の流れとの対比が絶妙だ。こういう句は、あるいはいまの若者には理解されないかもしれない。彼らの多くは紐は切るものだし、包装紙などは破るものだと心得ているらしいからである。だが、作者や私の若い頃は違った。紐はていねいにほどき、包装紙なども破らずに皺をのばして保存しておき、いまどきの言葉で言えば「再利用(リサイクル)」するように教え込まれていた。だから、物の豊かな時代になってもその習慣から抜けきれず、小さな包みの細い紐一本を切るにさえ勇気を必要としたのである。そうして保管してきた紐や包み紙がいっぱいたまっているのは、間違いなく私の年齢くらいから上の世代の戸棚や引き出しなのだ。したがって掲句を読んで、瞬間的に「ア痛ッ」と思わない世代には、句の含んでいる一種のアイロニーは伝わらないだろう。この決然たる「勇気」の味を賞味できないだろう。「俳句」(2006年5月号)所載。(清水哲男)


April 2742006

 春田より春田へ山の影つづく

                           大串 章

語は「春田(はるた)」。まだ苗を植える前の田のことで、掲句の情景では、水も豊かにきらきらとさざ波を立てている。車窓風景だろう。行けどもつづく春の田に、沿った山々が同じような影を落としている。単調ゆえの美しさ、いつまでも見飽きない。「自由詩」を書いてきた私などには、このような句に出会うと、まぎれもない「俳句」が確かにここにあるという感じを受ける。この情景を同様に詩に書くことは可能だろうが、しかし掲句と同様の美しさを描き出すことは難しいと思う。少なくとも私の力では、無理である。書いたとしても、おそらくはピンボケ写真のようになってしまい、この句のように視線が移動しているにもかかわらず、春田に写る山影を一つ一つかっちりと捉えて、読者に伝える自信はない。また、そういうことが頭にあるので、たまに作句を試みるときにも、この種の題材を敬遠してしまうということも起きてくる。どうしても、まずは自由詩の窓から風景や世間を覗く癖がついているので、そこからポエジーの成否を判断してしまうからだ。詩人の俳句がおうおうにしてある種のゆるみを内包しがちなのは、このあたりに原因があると思われる。そこへいくと掲句の作者などは、もうすっかり俳句の子なのであるからして、俳句様式が身体化していると思われるほどに、詩人がなかなか手を触れられない題材を自在に扱って、ご覧の通りだ。句柄は地味だが、ここで「俳句」は最良の力を発揮している。『大地』(2005)所収。(清水哲男)


April 2842006

 学やめし汝が苗札のローマ字よ

                           古島壺菫女

語は「苗札(なえふだ)」で春。畑や花壇に種を蒔いたり苗を植えたときに、品種の名前を書いた小さな木の札を立てておく。最近はあまり見かけなくなったが、小学校などの花壇や農園には健在だ。どんなふうに芽生え、どんなふうに生長するのかを待ち受け、見守っているようで微笑ましい。掲句では、その苗札がローマ字で表記されている。作者は「学やめし汝(な)」の母親か姉だろうか。「学やめし」は「学」を放棄したという意味ではなく、家庭の事情で上の学校に行くことを断念したという意味だ。いつごろの句か不明だが、まだ猫も杓子も(失礼)が高校や大学に行ける時代ではなかったころの作句だろう。当人も勉強が好きで、周囲もできることなら上級学校に行かせてやりたいと思っていたのが、そうはならなかった。進学をあきらめて、家業の農業を継いでいる。それも、継いでからはじめての春だ。そんな彼の書いた苗札の文字は、みな横文字だった。でも英語や学名ではなくて、日本語表記でも構わないところを、ローマ字で書いてあったのだ。洒落っ気からではあるまい。すなわち英語などの横文字への憧れが、彼をしてローマ字で書かしめたとしか思えない。なんという「いじらしさ」。作者はしばし、苗札のローマ字をみつめ、目を潤ませていたにちがいない。「ローマ字よ」の「よ」に、作者の複雑な思いの全てがこもる。『俳諧歳時記・春』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


April 2942006

 個展より個展へ銀座裏薄暑

                           鷹羽狩行

語は「薄暑(はくしょ)」で夏。初夏の候の少し暑さを感じるくらいになった気候を言うが、四月中旬ごろから「薄暑」を覚えることは多い。銀座は画廊の多い街だ。一丁目から八丁目まで、おそらく二百廊以上はあるのではなかろうか。とくに銀座裏の通りの一画には、軒並みにひしめいていると言っても過言ではない。そんなにあるのに、よく商売になるなと感心させられてしまうが、それほどに銀座は昔から、裕福な好事家や趣味人が集まる土地だったというわけだ。私のサラリーマン第一歩は芸術専門誌の編集者だったので、銀座にはよく通った。掲句のように「個展から個展へ」とネタ探しに歩き回り、若かったにもかかわらず、あまりの画廊の多さに辟易したことを覚えている。句の作者は、むろんネタ探しなどではなく、楽しんで見て回っているのだ。ひんやりとした画廊を出て、また次の画廊へと向かう。とりわけてこれからの季節は、この間の「薄暑」がとても嬉しく感じられる。おあつらえ向きに「銀座の柳」の新緑でも目に入れば、気分はますます良くなってくる。「画廊から画廊へ」と詠み出した軽快なテンポが、作者の上機嫌を見事に描き出していて心地よい。私だったら、しばらく見て回った後は、天井の高い「ライオン」の本店で生ビールといきたいところだけれど、このときの作者はどうしたのだろう。ああ、久しぶりに銀座に出かけたくなってきた。『地名別鷹羽狩行句集』(2006)所収。(清水哲男)


April 3042006

 春落葉病めば帰農の悔つのる

                           斎藤惣弥

語は「春落葉」。「落葉」といえば冬の季語だが、これは春になってから木々の葉の落ちること。常磐木(ときわぎ)の古葉などが、ほろほろと落ちる。華やかな春に感じられる侘しさである。作者は一度農業を捨てて、都会で働いていた。が、何らかの事情があって、再び故郷に戻り農業に就いたのである。都会に出たのは、元来が病弱だったためかもしれない。それが一大決心をして「帰農」したのだったが、激しい労働がたたってか、病いを得てしまった。農業が体力勝負であることは、サラリーマンのそれの比ではない。とりわけて農繁期に寝込んでしまうようなことがあったら、季節は待ってくれないから、その年の前途は絶望的である。「やっぱり、俺に帰農は無理だったか」。悔いて事態が動くわけでもないけれど、焦る気持ちのなかで、ますます「悔つのる」ばかりだ。健康なときには気にも止めなかった「春落葉」が、我が身心の痛みに重なって見え、やけに侘しい。最近では「定年帰農」などとと言い、定年退職後にサラリーマンから農業に転ずる人が増えているようだが、この場合は病いも大敵だが、老いの問題もあなどれない。私の田舎の友人はみな農業のプロだけれど、老いに抗して働くことの辛さは相当なもののようだ。農作業が機械化されたとはいっても、たとえばその機械を山の上の畑に運び上げるのには人力が必要である。それが、加齢とともに苦しくなってくる。農業の楽しさばかりが語られる昨今だが、資本である身体の病いや老いについても、掲句のようにもっと語る必要があるだろう。『俳諧歳時記・春』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)




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