2006N5句

May 0152006

 制帽を正すメーデーの敵視あつめ

                           榎本冬一郎

語は「メーデー」で春。言わずとしれた労働者の祭典だ。日本では、1920年(大正九年)に上野公園で行われたのが最初である。掲句は警官の立場から詠んだ句で、まだ「闘うメーデー」の色彩の濃かったころの作句だ。現在のメーデーはすっかり様変わりしてしまい、警官の側にもこうした緊張感は薄れているのではあるまいか。変わったといえば、連合系のようにウイークデーの五月一日を避ける主催団体も出てきた。メーデー歌にある「全一日の休業は、社会の虚偽を打つものぞ」の精神を完全に見失ったという他はない。リストラに継ぐリストラを無策のままにゆるし、先輩たちが獲得した五月一日の既得権までをも放棄した姿は、現今の労働者の実際にも全くそぐわないものだ。むろん警官も労働者だが、せめて警官が「制帽を正す」ほどの緊張感のあるメーデーにすべきであろう。戦後すぐのNHKラジオが、メーデー歌の指導までやったという時代が嘘のようだ。宮本百合子の当時の文章に、こうある。「メーデーの行進が遮るものもなく日本の街々に溢れ、働くものの歌の声と跫足とが街々にとどろくということは、とりも直さず、これら行進する幾十万の勤労男女がそれをしんから希望し、理解し実行するなら、保守の力はしりぞけられ、日本もやがては働く人民の幸福ある国となる、その端緒は開かれたということではないだろうか」。いまとなっては、このあまりに楽天的な未来への読みの浅さが恨めしくなってくる。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


May 0252006

 メーデーへ全開の天風おくる

                           辻田克巳

語は「メーデー」で春。二日つづきのメーデー句。「増俳」のこの十年間で、同じ季語の句を二日つづけたことはないはずだが、昨日、およそ四半世紀ぶりにメーデーに参加してきたので、まあ、その後遺症ということでして……(笑)。いや、「参加」ではなくて「見学」程度だったかな。掲句のように、まさに好天。ずいぶんと暑かったけれど、木陰に入ると優しく涼しい「風」が吹いていた。久しぶりにメイン会場に行ってみて印象深かったのは、昔に比べて極端に赤旗の数が減ったことだった。旗の数そのものは多いのだけれど、グリーンだとかブルーだとかと、マイルドな色彩の旗が八割くらいを占めていただろう。人民の血潮を象徴した赤い色は、もはや「平和」な時代にそぐわないということなのか。この現象は、現在の日本の労働組合のありようを、それこそそのまま象徴しているかに思えた。もう一つ、強く印象づけられたのは、私の若い頃とは違い、若者の参加者が極端に減っていることだった。男も女も、たいていが四十代後半以上と見える人たちばかりで、わずかに某医療施設から参加したという若い女性の看護士グループが目立っていた。ここにも、現今の労働組合活動の困難さがかいま見られて、寂しく思ったことである。会場で歌われた歌でも、私が知っていたのは「がんばろう」一曲のみ。かつての三池争議で盛んにうたわれた歌だ。どんなイベントであれ、様変わりしていくのは必然なのではあろうが、「全開の天」の下、しばし私は複雑な心境にとらわれたまま立っていたのであった。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


May 0352006

 風船をふくらます目に力あり

                           岸 ゆうこ

語は「風船」で春。「風車(かざぐるま)」も春の季語だが、なぜ両者は春なのだろうか。手元の歳時記を何冊か見てみると、それぞれにもっともらしい解説がなされている。なかでちょっと不可解だったのは、平井照敏編の河出文庫版に載っている「子供たちの春らしい玩具で、楽しいものである。明治二十三年上野公園でおこなわれたスペンサーの風船乗り以来のもの」という記述だ。スペンサーの風船乗りとは、スペンサーというイギリス人が気球に乗り、空中で曲芸を披露したショーである。これが大変な人気を呼んで、翌年には尾上菊五郎が歌舞伎の舞台に乗せたことでも有名だ。たしかに気球も風船には違いないけれど、俳句で言う風船のイメージとはあまりにかけ離れていて、スペンサーの風船乗りから季語ができたという平井説は納得できない。しかもこのショーがおこなわれたのは、十一月のことであった。ここは一つ、もう少し気楽に考えて、風船や風車をあえて四季のどれかに分類するのであれば、「なんとなく」春が似つかわしそうだくらいにしておいたほうがよさそうだ。さて、掲句は子供が真剣に風船をふくらませている図である。言われてみれば、なるほどと納得できる。風船をふくらますのには、理屈をこねれば「目の力」などはいらない。けれども、目にも力が入るのだ。誰でもが日常的に心当たりのあるシーンなのだが、それをこのように俳句にしたのは作者がはじめてだろう。なにもとっぴな発想をしなくとも、ちゃんとした俳句は詠めるという具体例としてあげておきたい。『炎環・新季語選』(2003)所載。(清水哲男)


May 0452006

 生えずともよき朝顔を蒔きにけり

                           高浜虚子

語は「朝顔蒔く」で春、「花種蒔く」に分類。朝顔は、八十八夜の頃が播種に最適とされる。ちょうど今頃だ。昨年は蒔くのを忘れたので、今日あたり蒔こうかと思っている。といっても、土を選んで買ってきたりするのは面倒なので、垣根のわきに適当に蒔くだけだ。べつに品評会にでも出すわけじゃないから、その後の世話もほとんどしないはずである。まさに掲句のごとく「生えずともよき朝顔」というわけだ。虚子の気持ちは、一応は蒔いておくけれど、生えなければそれでもよし、生えてくれれば儲けものといったところだろう。まことにいい加減ではあるが、期待しないその分だけ、生えてきて花が咲いてくれたときには、とても嬉しい。内心では、ちゃんと生えてほしいのだ。でも、はじめから期待が高過ぎると、うまく育たなかったときの落胆度は大きいので、こういう気持ちでの蒔き方になったということだろう。うがった見方をしておけば、種蒔きだけではなく、このような気持ちでの物事への処し方は、虚子という人の処世術全般に通じていたのではないかと思う。断固貫徹などの完璧主義を排して、何事につけても、いわば融通無碍に、あるいは臨機応変に対応しながら生きてゆく。桑原武夫の第二芸術論が出て来たときに、「ほお、俳句もとうとう『芸術』になりましたか」とやり過ごした態度にしても、その一つのあらわれだったと見てよさそうだ。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


May 0552006

 東京のきれいなことば子供の日

                           西本一都

語は「子供の日」で夏。作者がどこの土地の人かは知らない。句から推して、東京からは大分遠い地方の在住なのだろう。自宅にか、近所の家にか、ゴールデンウイークなので、東京の子が遊びに来ている。その子の話す「東京のことば」に、なんと「きれい」なのだろうと聞き惚れている図だ。むろん、どんな地方の言葉でも、きちんと話せば「きれい」なのではあるが、掲句の「きれい」は、耳慣れない東京弁のチャキチャキした歯切れの良さを言っているのだと思う。ラジオなどから聞こえてくる「ことば」を、そのまま話すことへの物珍しさも手伝っての、新鮮な印象も含まれている。「きれいなことば」という平仮名表記が、その子の話し振りを彷佛とさせて心地良い。ところで表記といえば、国が定めている五月五日の祝日表記は「子供の日」ではなく、「こどもの日」である。これはそれこそ小さい「こども」にも読めるようにという配慮からでもあるのだろうが、それだけの理由からではなさそうだ。というのも、昔から「こども」ならぬ「子供」という漢字表記には差別的だという声が強いからである。とくに教育福祉関係などでは「子供」の「供」は「お供」の意なので,親の従属物を連想させるという理由から「子ども」と書くことが多い。しかし、「ども」だと「豚ども」「野郎ども」などの蔑視発想につながるから、それも駄目で、むしろ「子供」のほうがマシだと言う人もいて,てんやわんや。戦後すぐの「大民主主義」の時代に、それらの意見を考慮した結果、「こどもの日」に落ち着いたというのが、実際のところであったような気がする。『新日本大歳時記・夏』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


May 0652006

 汽罐車の煙鋭き夏は来ぬ

                           山口誓子

語は「夏は来ぬ」で「立夏」。暦の上では、今日から夏である。東京辺りの今年の春は、いかにも春らしい日というのが少なかったけれど、ゴールデンウイークに入ってからは今度は一挙に夏めいてきた。まさに「夏は来ぬ」だ。陽光燦々、新緑が目に鮮やか、気持ちの良い風も吹いてくる。そんな立夏の様相を、掲句は「汽罐車(きかんしゃ)の煙」の「鋭さ」に認めている。春のとろりとした大気とは違い、五月初旬のそれは澄み切っている。ために、万物のエッジが鮮明に見えるのだ。だから、同じ汽罐車の煙でも、輪郭がはっきりしていて鋭く感じられる。自然の景物に夏らしさを認めるのは普通のことだから、この発想はとても新鮮であり、しかも無理がないところに作者の腕前が発揮されている。それにしても当たり前のことながら、こうした情景に接しなくなって久しくなった。たまにテレビなどの映像で見ることはあっても、やはり実際の鉄路を驀進する黒い巨体の迫力には遠く及ばない。それに映像には匂いがないので、あの汽罐車の煙独特の煤煙の匂いが嗅げないのも残念だ。あの匂いが流れてくると、なにやら頭の中がキーンとなったものだ。掲句からそうした匂いまでをも自然に思い起こせる人たちは、もはやみな還暦を越えてしまった。すなわち世の中にとっては、去り行くものは日々にうとしということになる。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


May 0752006

 近景に薔薇遠景にニヒリスト

                           喜田礼以子

語は「薔薇」で夏。我が家の庭の薔薇が、二輪咲いた。ろくに手入れもしないのに、毎年この時期になると、真紅の花を咲かせてくれる。赤い薔薇の花言葉には「情熱」「熱烈な恋」などがあるそうだが、いかにもという感じだ。見ていると、圧倒されそうな気持ちになる。赤い薔薇にまともに対峙するには、つくづく若さと体力とが必要だなと思う。単なる花だとはいっても、薔薇にはあなどり難い迫力がある。その情熱的な花を作者は近景に置き、遠景にニヒリストを置いてみせた。すなわち近くの情熱に配するに、遠いニヒリズムだ。ニヒリズムとは何か。ニーチェによれば、「徹底したニヒリズムとは、承認されている最高の諸価値が問題になるようでは、生存は絶対的に不安定だという確信、およびそれに加えて、“神的”であり、道徳の化身でもあるような彼岸ないしは事物自体を調製する権利は、われわれには些(いささ)かもないという洞察のことである」。とかなんとかの理屈はともかくとして、この遠近景の配置は、とどのつまりが作者の人生観を示しているのだろう。掲句を読んだ人の多くは、おそらくこの遠近景を試しにひっくり返してみるに違いない。ひっくり返してみたくなるような仕掛けが、この句には内包されているからだ。ひっくり返して、また元に戻してみると、そこにはくっきりと作者の人生に対する向日的な明るい考え方が浮かび上がってくるというわけだ。なかなかのテクニシャンである。『白い部屋』(2006)所収。(清水哲男)


May 0852006

 薫風に民謡乗せて集塵車

                           梅崎相武

語は「薫風(くんぷう)」で夏、「風薫る」に分類。青葉のなかを吹き抜けるすがすがしい風だ。さて、ゴールデンウイークが終わった。今日から、日常の生活リズムが戻ってくる。連休中は不規則だったり休みだったりしたゴミの収集も、平常通りとなる。お馴染みのメロディとともに回ってくる「集塵車」に、日常を感じる人は多いだろう。作者の暮らす地域(兵庫県尼崎市)の集塵車は「民謡」を流しながら回ってくるようだが、これは全国的にも珍しいのではなかろうか。詳しく調べたわけではないけれど、たいていの自治体では子どもなどにも親しめる童謡系のメロディを採用しているという印象が強い。民謡のタイトルはわからないが、薫風に乗って民謡の節が聞こえてくるのは素敵だ。粋でもある。とはいえ、まさかお座敷歌なんてことはないだろうから、もともとが戸外の歌であった労働の歌が心地良い風に乗って流れてくる情景を、読者はそれこそすがすがしい気持ちで想像することができる。ところで、我が自治体の三鷹市の集塵車は無音だ。無音のままにやってきて、無音のままに去ってゆく。むろん騒音公害を避けるための処置とはわかるのだが、うっかり集積所に出すのを忘れたりしたときなどには不便である。気がついてあわてて出しに行くと、もう去ったあとだったりして、がっかりだ。ただ三鷹市の場合は、連休中も、ゴミの収集は平常通りに行われた。不規則収拾になるのは年末年始だけなので、その意味から考えると,集塵車の無音にも騒音防止以上の理由があるとは言えるのだが……。『南雨』(2006)所収。(清水哲男)


May 0952006

 山河また一年経たり田を植うる

                           相馬遷子

語は「田植」で夏。今日あたりも、掲句の感慨をもって、田植えに忙しい農家も多いだろう。子供心にも、この季節になるたびに「また一年経たり」の思いはあった。学校は農繁期休暇となり、小さい子はともかく、小学校も四年生くらいになると、みな田圃に出て植えたものだ。田植えは人手を要するので、集落の人々が協力してその地の田を順番に植えることになっており、自分の家の田だから、呑気にマイペースで植えるというわけにはいかない。どこの家の田圃であろうとも、植える時間などは一定の決まりのもとで行われていた。したがってまだ暗いうちに起き、日の出とともに田圃に入るのだったが、夏というのに早朝の田水の冷たかったの何のって、しびれて感覚がなくなるほどだった。畦から苗束がひとわたり投げ入れられると、いよいよはじまる。はじまったら、ただ黙々と植えてゆく。おしゃべりは、余計なエネルギーの浪費だからだ。はじめのうちは、田に苗を挿し込み,それをぐいと泥のなかでねじるのが難しい。しっかりねじこまないと、根付く前に浮いてきてしまう。そのうちにコツがのみこめ、なんとかいっちょまえに植えられるようにはなるのだが、なんといっても辛いのは前屈みの姿勢をつづけることからくる腰の痛みだ。ときどき腰をのばしてとんとんと叩く図は、まるで老人だった。だから、十時と三時の休憩とお昼の時間の待ち遠しかったこと。そんなだったから、大人であろうが子どもであろうが、田植えの夜は泥のように眠ったものだった。そして休暇後に学校に提出する日記には、「今日は田植えをしました。明日はもっと働きたいと思います」と書いたのである。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


May 1052006

 裏口にいつも番犬柿の花

                           いのうえかつこ

語は「柿の花」で夏。まだ少し早いかもしれないが、関東あたりではそろそろ咲きはじめてもよい頃である。さて、いつ通りかかっても、ひっそりとしている家がある。我が家の近所にもある。番犬がいるのだから、誰かは住んでいるのだろうけれど、日常的にあまり人の気配というものが感じられない。昼間は家族がみんな外出しているのか、あるいは老夫婦あたりが静かに暮らしているのだろうか。なんとなく、気になる。そして、この番犬はいつも退屈そうにうずくまっているような感じだ。傍を通っても、べつだん吠えるでもなく睨みつけるでもない。といって愛想良く尻尾を振るでもないという、いささか覇気に欠ける犬なのだろう。もう、相当な年寄り犬なのかもしれない。そんな番犬のいる裏庭に、今年も「柿の花」が咲きはじめた。地味な花である。黄色がかった小さな白い花が、枝々の葉の根元に点々と見え隠れしている。この地味な花と気力の無い犬と、そして裏口と……。これだけの取り合わせから、この家のたたずまいのみならず、近所の情景までもが浮き上がってくるところに、掲句の妙味と魅力がある。さらりとスケッチをしただけなのに、この句の情報量はかなりのものだ。俳句ならではの力があり、作者もよくそのことを承知して詠んでいる。『馬下(まおろし)』(2004)所収。(清水哲男)


May 1152006

 行く道も気づけばいつか帰り道

                           高野喜久雄

季句。作者は鮎川信夫、田村隆一らと同じ「荒地」の詩人で、この五月一日に七十八歳で亡くなった。訃報に接して、高野さんがホームページを持っておられたことを思い出し、行っていろいろと読んでいくうちに、掲句を含む「寒蝉10句」を見つけたのだった。決して上手な句ではないけれど、亡くなられた現実を背景にして読むと、切なさがこみあげてくる。自分では希望を抱いて前進してきたつもりの道が、「気づけばいつか帰り道」だったとは……。一般的には、高齢者によくある感慨の一種とも取れようが、よく知られた初期詩編の「独楽」に書かれているように、このような「気づき」は若い頃からの作者に特有のものだった。「独楽」全行を引いておく。「如何なる慈愛/如何なる孤独によっても/お前は立ちつくすことが出来ぬ/お前が立つのは/お前がむなしく/お前のまわりをまわっているときだ//しかし/お前がむなしく そのまわりを まわり/如何なるめまい/如何なるお前の vieを追い越したことか/そして 更に今もなお/それによって 誰が/そのありあまる無聊を耐えていることか」。そして、もう一句。この詩をもっと作者自身に引き寄せて書けば、こういうことになるのだろう。「彫りながら全てを木屑にかえす朝」。……ご冥福をお祈りします。合掌。「高野喜久雄HP・詩と音楽の出会い」所載。(清水哲男)


May 1252006

 目覚めるといつも私が居て遺憾

                           池田澄子

季句。その通りっ、異議なしっ。「私」は邪魔くさい、「私」は面倒だ。「目覚める」ことは我にかえることだからして、毎朝「我」の存在にに気づかされる「私」は、それだけでもう、かなり疲れてしまう。「私」だから満員電車に乗って会社や学校に行かなければならないのだし、「私」だからみんなのパンを焼いたりゴミを出したりしなければならないのだ。この事態は、まことにもって極めて「遺憾(いかん)」なことではないか。「遺憾」とは、「思い通りにいかず心残りなこと。残念。気の毒」[広辞苑第五版]の意だ。この言葉は政治家の無責任な常套語みたいになっているので、その感じで読めば、掲句は滑稽な感じにも読める。だが、ある長患いの人が言っていた。「朝になると、病人の自分に嫌でも気づかされるんですよ。で、がっかりするんです。眠っている間に見る夢は、元気な時代のものが多くて、とても楽しいのに」と。また、ある高齢者は「夢の中ではスタスタと歩いている自分がいるんです。でも、目が覚めるとねえ……」とつぶやいた。こうした読者にとっては、掲句はとても切実で、切なく真に迫ってくるだろう。作者の池田さんには、早起きは苦手だとうかがったことがある。なにも好きこのんで、朝っぱらから「遺憾」な思いをすることはない、ということからなのだろう(か)。『たましいの話』(2005)所収。(清水哲男)


May 1352006

 藤房の中に門灯点りけり

                           深見けん二

語は「藤(の)房」で春、「藤」に分類。美しい情景だ。このお宅では,門の上方から藤の蔓を寄せて垂らしているのだろう。たそがれどきになり門灯が点(とも)ると、いまを盛りの藤の花房を透かして、それが見えるのだ。藤の花も門灯も、ぼおっと霞んだように見え、それらが晩春のおぼろな大気の醸し出す雰囲気と溶け合って,さながら一幅の絵のごとしである。下手の横好きで写真に凝っている私としては、一読、撮りたいなあと思ってしまった。ただし、露出の具合が難しそうで、まず私ではとても上手には撮れないだろう。まごまごしているうちに、日が暮れてしまうだろう。近所に藤ならぬ薔薇の門を構えているお宅があって、今年も間もなく見事な花々が開く。これを昼間の明るい光線で撮っても、絵葉書みたいな平凡な写真になりそうなので、結局一度も撮ったことはない。で、掲句を知ったときに「これだっ」と興奮したけれど、念のためにと確かめに行ってみたら、門灯のない門だった。密集して咲く薔薇の花と門灯と……。これはこれで、掲句とは違った美しさが出るはずなので、残念至極である。いずれどこかで偶然に、そんな門構えの家を見つけるしか手段はない。揚句に戻れば、この構えの家を発見したときに、作者の練達をもってすれば、もう句は八分どおり成っていたも同然と言えようから、その意味では写生俳句と写真とはよく似ているところがある。いずれも発見する眼が大切であり、しかしその眼は一日にしては成らない。『日月』(2005)所収。(清水哲男)


May 1452006

 その後は雨となりたる桐の花

                           土谷 倫

語は「桐の花」で夏。好きな花だ。近くで見るよりも、遠くにぼおっと淡い色に霞んでいるほうが、私の好みには合う。掲句の花は、むろん遠景か近景かはわからないが、なんとなく遠景のそれのような気がする。それも雨にけぶっているとあっては、ますます私の感性は柔らかく刺激される。「その後は」の「その」が何を指しているのかは、これまたわからないのだけれど、この言い方はきわめて俳句的な省略の仕方によっている。私の読んだ感じでは,何か、とても心地良い体験のできた何かなのだと思われた。ある種の会合でもよし、また友人などとの交流でもよし。でも、ひょっとすると「その」は不祝儀かもしれないのだが、しかし葬儀にしても人が心地良く対するのは珍しいことではあるまい。そして「その」何かが終わって外に出てみたら、知らないうちに暖かい雨になっていて、充足した心で何気なく遠くを見やった先に、桐の花が美しくも淡く咲いていたというのである。このときに、「その」と省略された対象と桐の花の淡い紫色とは照応しあい溶けあって、読者の感性や想像力をそれこそ柔らかく刺激するのである。清少納言は「紫に咲きたるはなほおかしきに」と、この花を愛でた。平安期の昔から、どれほどの人が桐の花に癒されてきたことか。句の雨があがれば、郭公も鳴きだすだろう。初夏は、まことに美しい季節だ。『風のかけら』(2006)所収。(清水哲男)


May 1552006

 さなぶりに灯してありぬ牛小屋も

                           鏑木登代子

語は「さなぶり(早苗饗)」で夏。田植えを終えた後で、田の神を送る祭のこと。「さなぶり」の他にも、「さのぼり」「さなぼり」あるいは「しろみて」などと地方によって呼び名があり、私のいた山口県山陰の村では「どろ(泥)おとし」と言っていた記憶がある。「さなぶり」の「さ」は田の神をあらわし、その神が天にのぼっていくというので「さなぼり」「さのぼり」と言ったらしい。「どろおとし」はそのものずばりで、労働の際の泥をきれいに落とそうという意味だろう。この日の行事にもいろいろあったようだが、句のそれは、私の田舎と同じように、みんなで集まっての酒宴である。早い話が、慰労会だ。大人たちがまだ明るい時間から酔って歌などをうたっていた様子を、覚えている。句は、そんな酒宴のお裾分けということで、普段は暗い牛小屋にも「ごくろうさん」と、電気をつけてあるというわけで、心温まる情景だ。ただし、現代ではおそらくこのような「早苗饗」を行う地方は無くなっているのではあるまいか。昔の田植えは、集落あげての共同作業だったけれど、マシンが田圃に入る時代となっては、その必要もない。必然的に骨休めの時も場所も、各戸でばらばらである。そして、もはや農耕牛もいないのだから、掲句の世界も存在しない。こと農業に関しては、とても昔は良かったなどとは言えないのだが、早苗饗のような伝統行事が次々に消えていくのは、私などにはどうしても寂しく思えてしまう。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


May 1652006

 はつなつや父が革砥をつかふ音

                           大島雄作

の「革砥(かわと・かわど)」をはじめて見たのは、理髪店でだった。細長い短冊状の革が吊るしてあって、おやじさんがシュッシュッと音をさせながら、カミソリを研いでいた。刃物研ぎといえば普通の砥石しか知らなかったので、はじめは何をしているのだろうと訝しく思ったものだ。が、プロの研ぎ師は砥石で研いだあとに、その革砥で最後の細かい仕上げをするのだと聞いて納得。もっとも革砥を使うのはプロに限ったことではなく、昔はこれで、髭剃り用のカミソリを研いでいた一般の人もいたようだ。夏目漱石に「變な音」という入院体験を書いた小文がある。病室で目覚めると、毎朝のように隣室から山葵おろしで大根をするような妙な音がして、気になって仕方がない。そのうちに隣室の患者がいなくなると、音も絶えてしまった。で、あとで看護婦に聞いてわかったことには、それは患者の足の火照りを和らげるために、彼女が胡瓜をすっては冷していた音だった。ところが、その病人もまた、毎朝漱石の部屋から聞こえてくる「變な音」が気になって,よく看護婦に何の音かと尋ねたのだという。それが実は、漱石が「(自動)革砥」で安全カミソリを研ぐ音だったという話である。前置きが長くなったが、掲句の「父」は若かりし日の父だろう。そして、やはり朝のカミソリ研ぎのシュッシュッという音なのだ。「はつなつ」の清々しい雰囲気を音で描き出したところが素敵だし、また同時に元気だった頃の父親を懐かしんでいるところに哀感を覚える。『鮎笛』(2005)所収。(清水哲男)


May 1752006

 もめてゐるナイターの月ぽつねんと

                           清水基吉

語は「ナイター」で夏。和製英語だ。英語では「night game」と言う。なんとなく「er」をくっつけて、英語っぽい表現にすることが好まれた時代があった。六十年安保のころには「スッター」だの「マイター」だのという言葉すらあったのだから、笑ってしまう。おわかりでしょうか。いずれも学生自治会用語で、「スッター」は謄写版でビラを印刷する(刷る)人のこと、「マイター」はそうして印刷されたビラを街頭で撒く人のことだった。さて、掲句は「ナイター」見物の一齣だ。昔の後楽園球場だろうか。ドームはなかった時代の句だから、当然空も見えている。審判の判定をめぐってか、あるいは今で言う「危険球」か何かをめぐってか、とにかくグラウンドで「もめてゐる」のだ。おそらくはどちらかの監督の抗議が執拗で、なかなか引き下がらない。最初のうちはどう決着がつくのかと注視していた作者も、そのうちに飽きがきたのだろう。もうどうでもいいから、早くゲームを再開してくれ。そんな気持ちでグラウンドから目を離し、なんとなく空を見上げたら、そこには「ぽつねんと」月がかかっていた。地上の野球とは何の関係もない月であるが、目の前のもめ事に醒めてしまった作者の目には、沁み入るように見えたにちがいない。大袈裟な言い方かもしれないが、このときの作者には一種の無常観が芽生えている。確かに大観衆のなかの一人ではあるのだけれど、一瞬ふっと周囲の人間がみなかき消えてしまったような孤独感。そんな味の滲み出た佳句である。『清水基吉全句集』(2006)所収。(清水哲男)


May 1852006

 背を流す人を笑いて母薄暑

                           大菅興子

語は「薄暑(はくしょ)」で夏。句集から察するに、作者のご母堂はいわゆる「認知症」の方のようだ。介護の「人」に、入浴させてもらっている。でもその「母」は、何が可笑しいのか、その「人」のことを笑っているのだ。この笑いは、もしかすると「嗤い」に近い無遠慮な「笑い」なのかもしれない。このような事情と状況からして、夜ではなく、まだ明るい時間の入浴だろう。表は汗ばむような陽気で、ときおり緑の風も心地良く吹いている。これで母が何事もなく健康でいてくれさえしたら、もうそれ以上望むことなどは何もないのに……。作者のやり場のない思いが、哀感とともにじわりと伝わってくる。作者をよく知る鈴木明(「野の会」主宰)が掲句について、句集の序文で次のように書いており、この解説にも感銘を受けた。「この利己的ともいえる母を作者は許している。母の老いを切なく許すのだ。しかもけっして人には言えぬこと。しかし俳句という定型詩がその彼女を解放する。老いた母親同様に自由の精神を彼女にふるまう。ここで思っていても言えなかったことを俳句で言えたのだ。そのことで、いままで見えなかった精神世界がひらかれたと、私は思う。興子俳句はこうして前進する。真に、文芸のめざす視野がひらけてくる」。俳句ならではの表現領域が確かにあることを、この文章で再確認させられたことであった。『母』(2006)所収。(清水哲男)


May 1952006

 日をにごり棒で激しくたたく鶏

                           高岡 修

季句。ただ「日をにごり」という措辞からすると、梅雨時の蒸し蒸しとした午後の一刻がイメージされる。むろん、想像句だろう。決して愉快な句ではないけれど、この情景も人間の持つ一面の真実を表現している。どろんとした蒸し暑さのなかで、不意に湧いてきたサディスティックな衝動。その衝動のおもむくままに、そこらへんにいた罪もない無心の「鶏(とり)」を棒で激しくたたいている。そして、このこと自体はフィクションであっても、「たたく」という行為は覚えのあるものなので、句のイメージのなかに入り込んだ作者は、自分の発想に惑乱しているのだ。鶏相手の打擲(ちょうちゃく)だから、力の優位性は一方的なのであるが、一方的であればあるほど、たたく側に生まれてくるのは一種の恐怖心に近い感情である。少年時代に短気だった私はよく腹を立て、小さくて弱い子をたたいたこともあるので、たたいているうちに湧いてくる恐怖心をしばしば味わった。凶暴な自分に対する恐れの気持ちも少しはあるが,それよりもこのまま狂気の奈落へと転落してしまいそうな、曰く言い難い滅茶苦茶な心理状態に溺れていきそうな恐怖心だった。掲句は、そうしたわけのわからない人間の感情的真実を、一本の棒と一羽の鶏とを具体的に使うことで、読者に「わかりやすく」手渡そうとしているのだと読んだ。『蝶の髪』(2006)所収。(清水哲男)


May 2052006

 青春や祭りの隅に布団干し

                           須藤 徹

語は「祭(り)」。俳句で「祭」といえば夏のそれを指し、古くは京都の「葵祭」のみを言った。他の季節の場合には「秋祭」「春祭」と季節名を冠する。その葵祭や東京の神田祭も過ぎ、昨日から明日までは浅草の三社祭である。夏の祭とはいっても、各地の大きな祭礼はたいてい初夏の間に終わってしまう。掲句を読んで、京都での学生時代を思い出した。京都に住んでいると、春夏秋冬にいろいろな祭りや行事があるけれども、二十歳そこそこの私には、そのほとんどに関心が持てなかった。とくに京都の場合は多くが観光化しているので、人出だけがやたらに多く、ちゃんと見るなんてことはできなかったせいもある。が、それ以上に、祭りだと言って浮かれている人々と一緒になりたくないという、おそらくは「青春」に特有の偏屈さが働いていたためだと思う。句のように、なんとなく街中が浮いた感じの「祭りの隅」にあって、そんな祭りを見下す(みくだす)かのように、布団干しなどをしている自分の姿勢に満足していたのである。今となっては、素直に出かけておけばよかったのにと後悔したりもするのだが、しかし、そうはしないのが「青春」の青春たる所以であろう。何でもかでも無批判に、世間の動きにのこのこと付き従っているようでは、若さが泣こうというものだ。掲句はそこまで強く言っているわけではないが、青春論としてはほぼ同じアングルを持っている。遠くからの笛や太鼓の音が、青春に触れるとき、若さはまるで化学反応を起こすかのように、しょぼい布団干しなどを思いついたりするのである。『荒野抄』(2005)所収。(清水哲男)


May 2152006

 ヴィオロンの反逆の唄の流しかな

                           相島虚吼

語は「流し(ながし)」で夏。夏の夜、花街や料亭のあたりを流して歩く新内ながしや声色ながしのこと。多く二人連れで、注文を受けると、三味線を弾き新内をうたったり、拍子木と銅鑼で声色を真似たりする。といっても、私は新内ながしにも声色ながしにもお目にかかったことはない。たしか鈴木清順の映画の一場面で、新川二郎が新内ながしを演じていたのを見たことがあるきりだ。私が夜の街で遊びはじめたころには、たいていがギターながしで、たまに句のような「ヴィオロン(ヴァイオリン)」弾きがいたのを覚えている。彼らのレパートリーは、なにせ酒席での歌という条件があるから、硬派のそれでもせいぜいが軍歌どまりで、「反逆の唄」とはいかにも珍しい。どんな曲だったのだろうか。ヴァイオリンの哀切な、そしてながし特有の癖のあるスキルで弾かれるレジスタンスの唄に、作者は「ほお」と耳を傾け,いつしか聞き惚れていったのだろう。「反逆の唄」とは言い難いが、二昔ほど前のドイツの酒場で「リリー・マルレーン」を弾いてもらったことがあるので、私に掲句はそのときの印象とダブッて感じられた。ながしは酔客相手の、言うなれば「人間カラオケ」だったわけで、カラオケのような上手な演奏はできなかったけれど、その若干の下手さ加減にまた何とも言えぬ味があったものだ。句の主人公もまた、下手な演奏であるがゆえに、気合いの入った「反逆」魂を作者に切々と訴えかけたのだったろう。それこそカラオケに駆逐されてしまった彼らは、いったいどこに消えていったのだろうか。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


May 2252006

 五月晴ピアノの横の母の杖

                           吉野のぶ子

語は「五月晴」で夏。慣行上「梅雨晴」に分類しておくが、もはや五月晴は本来の意味から遠く離れて使われている。本意は、じめじめとした梅雨のなかの晴れ間を言った。が、現在では新暦五月の晴天を言うことになってしまったので、「五月晴」とは言っても、昔のそれのように、久方ぶりの晴天に弾むような嬉しさを表現する言葉ではなくなってしまった。季語にもいろいろあるが、「五月晴」のように極端に本意がずれてしまった例は、そんなにはないだろう。掲句の場合は、どちらの本意に添っているのかわからないけれど、句意からすると、現代のそれと読むのが妥当かと思われる。五月という良い季節を迎えてはいるのだが、ピアノの横には「母の杖」がぽつねんと置かれたままなのだ。ということは、作者の母は連日の好天にもかかわらず、外出していないことをうかがわせる。このピアノもおそらく若かりし日の母が弾いていたものだろうし、杖は脚が少し不自由になりかけたときに、母が使って外出していたものである。すなわち、若い頃にはビアノを弾くようなモダンで活発だった彼女が、だんだんと弱ってきて、しかしそれでも杖をついて外出していたというのに、それも今はかなわなくなった。そのことを、ビアノの横の杖一本で表現し得たところが俳句的であるし、母についての作者の感情を何も述べていないところに、読者は想像力を刺激され、何かもっと具体的に言われるよりも切なくなるのである。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


May 2352006

 更衣して忘れものせし思ひ

                           柴田多鶴子

語は「更衣(ころもがえ)」で夏。旧暦時代には四月一日、衣服だけではなく、室内の調度や装飾の類を夏のものに更新することを言った。新暦になってからは六月一日にするところが多くなったが、昨日の「asahi.com」に、こんな記事が出ていた。「神戸市灘区の松蔭中学・高校の女子生徒たちが22日、一足早く衣替えをし、夏服で登校した。神戸市内の今朝の最低気温は平年より3度高い19.2度。半袖の白いワンピースに身を包んだ生徒たちは、朝から照りつける初夏の日差しを浴びながら、学校までの長い上り坂を元気に歩いた」。女生徒たちの写真も添えられていて、まさに「夏は来ぬ」の感じだった。福永耕二に「衣更へて肘のさびしき二三日」があるが、どうなんだろう。私などは福永の句に同感するけれど、まだ若さの真っ只中にある女生徒たちにとっては、半袖の「肘のさびしさ」よりも開放感から来る嬉しさのほうが強いのではなかろうか。ただ、いくら若くても、掲句のような気持ちにはなるだろう。昨日までの冬の制服の厚みや重さが突然軽くなるのだから、それこそ「二三日」の間は、毎朝ように何か「忘れもの」をしたような頼りない気分が、ふっと兆してきそうな気がする。学校の制服制度の是非はともかく、もはや当事者ではなくなった私などには季節の変化を知ることができ、また一つの風物詩として、毎夏新鮮な刺激として受け止めている。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


May 2452006

 夏の日の匹婦の腹にうまれけり

                           室生犀星

語は「夏の日」。「匹婦(ひっぷ)」とは、いやしい女の意だ。作者は自身で何度も書いているが、父の正妻ではない女性の子であった。いま私は、犀星の最後の作品『われはうたへどもやぶれかぶれ』を読んでいる。年老いて身動きもままならぬ自分を、徹底的に突き放して書いた、すさまじい私小説だ。掲句もそうであるように、作家としての犀星の自己暴露は、終生首尾一貫していた。生まれてすぐに生家の体面上、他家にやられた作者にはほとんど母親の記憶がない。わずかな記憶は、「殆醜い顔に近い母親だった」ことくらいだ(『紙碑』)。この句に触れて、娘の室生朝子が書いている。「犀星は膨大な作品を残したが、そのなかで数多くの女性を描いた。(中略)ひとつの作品のなかで生きる女は、犀星の心の奥に生きている、形とはならない生母像と重なり合いながら、筆は進んでいく。犀星はどのように難しいプロットを小説のために組み立てるよりは、好きなように女を書く楽しみのなかに、苦しみと哀しみが重なり合っていたのではないかと思う。/この一句は犀星の文学を、あまりにもよく表している、すさまじい俳句である」。犀星は幻の実母の死を、父親の先妻に告げられて知った。彼女は、こう言ったそうだ。「あれは食う物なしに死んだのです」。つまり、餓死ということなのか。それにしても、いかに憎い相手だったとしても、故人を指して「あれ」とはまた、すさまじい言い方だ。犀星という作家は、そんなすさまじい体験を逆手に取って、珠玉のような作品をいくつも書いたのだった。まことに、すさまじい精神力である。『鑑賞現代俳句全集・第十二巻』(1981)所載。(清水哲男)


May 2552006

 光りかけた時計の表梅若葉いま

                           北原白秋

語は「若葉」で夏。ちなみに「柿若葉」「椎若葉」「樫若葉」という季語はあっても、「梅若葉」の季語はない。やはり、何と言っても梅は花が第一だからだろう。しかし、それを承知で「梅若葉」とやったところに、白秋の少しく意表を突き新味を出そうとするセンスが感じられる。「時計」は柱時計で、窓際近くに掛けられている。そこに折りからの初夏の日差しがとどいて文字盤が「光りかけ」、窓から見える梅は若葉の盛りだ。柿若葉のように葉に艶はないけれど、いかにも生命力の強そうな感じの葉群が見えている。状況からして午前中も早い時間の光景であり、活力のある一日のはじまりが告げられている。白秋らしい明るい句だ。大正末期の作と推定され、白秋はこの時期に集中して自由律俳句を書いたが、以降は短歌に転身してしまう。体質的に、情を抒べられる短歌のほうが似合ったのだろう。このあたりのことを考えあわせると、五七五の定型句ではなく自由律を好んだ理由もわかるような気がする。「梅若葉」で、もう一句。「飯の白さ梅の若葉の朝」。朝の食卓に、梅若葉の清々しくも青い影が反射している様子だ。ただ、私には「飯の白さ」が気にかかる。米騒動が起きたほどの米価高騰時代の作としては、白秋は単なる彩りに詠んだつもりかもしれないが、当時の読者のなかにはむかっと来た者も少なくはなかったはずだからだ。『竹林清興』(1947)所収。(清水哲男)


May 2652006

 売られゆくうさぎ匂へる夜店かな

                           五所平之助

語は「夜店」で夏。作者は、日本最初の本格的なトーキー映画『マダムと女房』や戦後の『煙突の見える場所』などで知られる映画監督だ。俳句は、久保田万太郎の指導を受けた。掲句はありふれた「夜店」の光景ながら、読者に懐かしくも切ない子供時代を想起させる。地べたに置かれた籠のなかに「うさぎ」が何羽か入っていて、それを何人かの子どもらが取り囲んでいる。夜店の生き物は高価だ。ましてや「うさぎ」ともなれば、庶民の子には手が届かない。でも、可愛いなあ、飼ってみたいなあと、いつまでも飽かず眺めているのだ。このときに、「うさぎの匂へる」の「匂へる」が、「臭へる」ではないところに注目したい。近づいて見ているのだから、動物特有の臭いも多少はするだろうが、この「匂へる」に込められた作者の思いは、「うさぎ」のふわふわとした白いからだをいとおしく思う、その気持ちだ。「匂うがごとき美女」などと使う、その「匂」に通じている。この句を読んだとたんに、おそらくは誰もがそうであるように、私は十円玉を握りしめて祭りの屋台を覗き込んでいた子どもの頃を思い出した。そして、その十円玉を祭りの雑踏のなかで落としてしまう少年の出てくる映画『泥の川』(小栗康平監督)の哀切さも。『五所亭句集』(1069)所収。(清水哲男)


May 2752006

 柿若葉青鯖売りの通りけり

                           田中冬二

語は「柿若葉」て夏。花よりも葉の美しさを愛でる人が。圧倒的に多い植物だ。この葉が土蔵の横あたりで光りだすと、まさに「夏は来ぬ」ぬ実感がわく。そこに、寒い間は足が遠のいていた「青鯖売り」が通りかかった。やっと陽気がよくなったので、遠い山道を歩いてやってきたのだ。これからいつもの夏のように柿の葉陰で荷を開くのだろう。まだ青鯖は見えていないのだけれど、作者はもう、柿の青葉に照り映える鯖の青さを感じている。私にも体験があるのでわかるのだが、山国に暮らす人には、とりわけ海の魚の色は目にしみるものだ。このように田中冬二は色使いの上手な詩人で、たとえば「雪の日」という短い詩は。次のように書き出されている。「雪がしんしんと降つてゐる/町の魚屋に/赤い魚青い魚が美しい/町は人通りもすくなく/鶏もなかない 犬もほえない……」。揚句とは季節感が大いに異なるが。「雪の白」と「魚の青や赤」の対比が、実に良く効いている。『鑑賞現代俳句全集・第十二巻』(1981)所載。(清水哲男)


May 2852006

 クレヨンの黄を麦秋のために折る

                           林 桂

語は「麦秋、麦の秋」で夏。子どものころの思い出だ。ちょうど今頃の田園風景を写生していて、一面の麦畑を描くのに「クレヨンの黄」を頻繁に、しかも力を込めて描いていたので、ポキリと折れてしまった。「しまった」と思ったが、もう遅い。仕方なく、折れて短くなったクレヨンで描きつづけたのだろう。短いクレヨンは描きにくいということもあるが、子どもにとってのクレヨンは貴重品だから、まずは折ってしまったそのことに、とても動揺したにちがいない。それが証拠に、大人になっても作者はこうして、麦秋の季節になるとそのことを思い出してしまうのだから……。そんな子ども時代の失敗も、しかしいまでは微笑しつつ回顧することができる。過ぎ去れば、すべて懐かしい日々。年齢を重ねれば重ねるほどに、この思いは強くなってゆく。そういえば、昔のクレヨンは色数が少なかった。私の頃には、せいぜいが10色か12色。なかには6色なんてのも、あったっけ。だから、折ってしまうと余計に悲しくなったわけだが、私の娘の小学生時代になると、色数も増え豪華になった。娘がはじめてクレヨンを買った日に、私はしばらくうっとりと眺めた記憶がある。『銅の時代』(1985)所収。(清水哲男)

{掲句の解釈}読者の方から、わざとクレヨンを折って、すなわちエッジを立てて麦の穂を描いた。と、体験談をいただきました。そうですね、「麦秋のために」の「ために」は、「わざわざ」という意味を含みますから…。「麦秋のせいで」と解釈した私の解釈は、ゆらいできました。


May 2952006

 草刈女朝日まぶしく人を見る

                           西村公鳳

語は「草刈女(くさかりめ)」で夏、「草刈」に分類。牛馬の飼料や堆肥にするために、草刈は夏の大切な農作業の一つだった。たいていは、早朝に刈ったものだ。朝早くのほうが草が濡れているので、鎌が使いやすいということもあるが、それよりも日が高くなると暑いからという理由のほうが大きいだろう。主に、女性の仕事だった。この句は、そんな草刈の一場面だ。早朝なのでめったに人も通らないから、たまに通りかかると、鎌の手を休めて「誰かしらん」と顔を上げるのである。すると、朝の低い太陽が目に入って「まぶしく」、ちょっと目をしばたかせながら「人」、つまり作者を見たのだった。いかにも農村の朝らしい、清々しくも人間味のある情景ではないか。草刈といえば、坪内稔典が近著の『季語集』(2006・岩波新書)に、こんなことを書いている。「かつて私が勤務していた京都教育大学では、年に二度、教職員と学生が総出でキャンパスの草刈りをした。乏しい予算をカバーするためにはじまった草刈りだが、予算のことなどを忘れ、みんなが半日の草刈りを楽しんだ」。この件を読んで、私は少年期に同じような体験をしたことを思い出した。ただし「総出」でではなく、似たような学校の事情からだったと思うが、それぞれの生徒に草を刈って学校に持参するようにと「宿題」が出た。みんな文句の一つも言わずに持っていったけれど、あれらの草を売った代金はいくらぐらいになって、何のために使われたのだろうか。父兄にはおそらく報告があったのだろうが、いま、不意にそれを知りたくなった。けっこう重労働だっもんなあ……。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


May 3052006

 セルむかし、勇、白秋、杢太郎

                           久保田万太郎

語は「セル」で夏。薄手のウールのことで、初夏の和服に用いられ、肌触りが良く着心地が良い。。明治になって織られはじめ、一時大流行したという。掲句には「『スバル』はなやかなりしころよ」の前書きがある。「セル」を着る季節になって、作者はその大流行の時期に文芸誌「スパル」で活躍した何人もの文人たちを、懐かしく思い出している。「勇」は歌人の吉井勇のことだが、あるいは句の三人がセルを着て写っている写真があるのかもしれない。石川啄木が編集長だった創刊号が出たときには、作者は十歳くらいであったから、その後の多感な少年期にリアルタイムで「スバル」を読み、大いに刺激を受け啓発されたのだったろう。しかも、その執筆メンバーの、なんとはなやかで豪華だったことか……。この他にも、森鴎外がいたし与謝野晶子がいたし、若き高村光太郎も参加していた。この句には、いかにも文壇好きという万太郎の体質が出ているけれど、ひるがえってもはや後年、こうして懐旧されることもないだろう現代の文学界に対して、こういう句を読むと寂しさを覚える。なかで「俳壇」だけは現在でもかろうじて健在とは言えそうだが、しかし半世紀後くらいにこのように懐かしんでくれる読者がいるだろうかと思うと、はなはだおぼつかない。その要因としては、むろん明治や大正とは違い、メディアの多様化や受け手の関心の細分化などがあるとは思う。が、しかしジャンルとしては昔のままの文学様式はまだ生きているのだから、そこには志や情熱の熱さの往時との差があるのかもしれない。物を書いて飯が食えなかった時代と食える時代との差。そう考えることもできそうだ。俳誌「春燈」60周年記念号(2006年3月)所載。(清水哲男)


May 3152006

 釘文字の五月の日記書き終る

                           阿部みどり女

語は「五月」。五月も今日でおしまいだ。今年の五月は天候不順のせいで、いわば消化不良状態のままで終わってゆく。日記をつけている人なら、毎日の天気の記載欄を見てみると、あらためて「晴れ」の日の少なかったことに驚くだろう。それはともかく、掲句は句集の発行年から推して、作者八十代も後半の作かと思われる。「釘文字」は、折れ曲がった釘のように見える下手な文字のことだ。もちろん謙遜も多少はあるのだろうが、しかし九十歳近い年齢を考えると、その文字に若き日のような流麗さが欠けているとしてもおかしくはない。つまり、やっとの思いで文字を書いているので、金釘流にならざるを得ないということだと思う。そんな我ながらに下手糞な文字で、ともかく五月の日記を書き終え、作者はふうっと吐息を漏らしている。そして、そこで次に浮かんでくる感慨は、どのようなものであったろうか。一般的に、高齢者になればなるほど時の経つのが早いと言われる。作者から見れば、まだ息子の年齢でしかない私ですら、そんな感じを持っている。すなわち、もう五月が終わってしまい、ということは今年もあっという間に半分近くが過ぎ去ったことに、なにか寂寞たる思いにとらわれているのだろう。このときに「釘文字」の自嘲が、寂寞感を増すのである。句の本意とは別に、この句は読者に読者自身の文字のことを嫌でも意識させる。私のそれは、学生時代にガリ版を切り過ぎたせいだ(ということにしている)が、かなりの金釘流だ。おまけに筆圧も高いときているから、流麗さにはほど遠い文字である。若い頃は、文字なんて読めればいいじゃないかと嘯いていたけれど、やはり謙虚にペン習字でもやっておけばよかったと反省しきりだ。が、既にとっくに遅かりし……。『月下美人』(1977)所収。(清水哲男)




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