9条改憲阻止、国民投票法不要、樺美智子追善。「6月15日国会デモ」の知らせが届いた。




2006N523句(前日までの二句を含む)

May 2352006

 更衣して忘れものせし思ひ

                           柴田多鶴子

語は「更衣(ころもがえ)」で夏。旧暦時代には四月一日、衣服だけではなく、室内の調度や装飾の類を夏のものに更新することを言った。新暦になってからは六月一日にするところが多くなったが、昨日の「asahi.com」に、こんな記事が出ていた。「神戸市灘区の松蔭中学・高校の女子生徒たちが22日、一足早く衣替えをし、夏服で登校した。神戸市内の今朝の最低気温は平年より3度高い19.2度。半袖の白いワンピースに身を包んだ生徒たちは、朝から照りつける初夏の日差しを浴びながら、学校までの長い上り坂を元気に歩いた」。女生徒たちの写真も添えられていて、まさに「夏は来ぬ」の感じだった。福永耕二に「衣更へて肘のさびしき二三日」があるが、どうなんだろう。私などは福永の句に同感するけれど、まだ若さの真っ只中にある女生徒たちにとっては、半袖の「肘のさびしさ」よりも開放感から来る嬉しさのほうが強いのではなかろうか。ただ、いくら若くても、掲句のような気持ちにはなるだろう。昨日までの冬の制服の厚みや重さが突然軽くなるのだから、それこそ「二三日」の間は、毎朝ように何か「忘れもの」をしたような頼りない気分が、ふっと兆してきそうな気がする。学校の制服制度の是非はともかく、もはや当事者ではなくなった私などには季節の変化を知ることができ、また一つの風物詩として、毎夏新鮮な刺激として受け止めている。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


May 2252006

 五月晴ピアノの横の母の杖

                           吉野のぶ子

語は「五月晴」で夏。慣行上「梅雨晴」に分類しておくが、もはや五月晴は本来の意味から遠く離れて使われている。本意は、じめじめとした梅雨のなかの晴れ間を言った。が、現在では新暦五月の晴天を言うことになってしまったので、「五月晴」とは言っても、昔のそれのように、久方ぶりの晴天に弾むような嬉しさを表現する言葉ではなくなってしまった。季語にもいろいろあるが、「五月晴」のように極端に本意がずれてしまった例は、そんなにはないだろう。掲句の場合は、どちらの本意に添っているのかわからないけれど、句意からすると、現代のそれと読むのが妥当かと思われる。五月という良い季節を迎えてはいるのだが、ピアノの横には「母の杖」がぽつねんと置かれたままなのだ。ということは、作者の母は連日の好天にもかかわらず、外出していないことをうかがわせる。このピアノもおそらく若かりし日の母が弾いていたものだろうし、杖は脚が少し不自由になりかけたときに、母が使って外出していたものである。すなわち、若い頃にはビアノを弾くようなモダンで活発だった彼女が、だんだんと弱ってきて、しかしそれでも杖をついて外出していたというのに、それも今はかなわなくなった。そのことを、ビアノの横の杖一本で表現し得たところが俳句的であるし、母についての作者の感情を何も述べていないところに、読者は想像力を刺激され、何かもっと具体的に言われるよりも切なくなるのである。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


May 2152006

 ヴィオロンの反逆の唄の流しかな

                           相島虚吼

語は「流し(ながし)」で夏。夏の夜、花街や料亭のあたりを流して歩く新内ながしや声色ながしのこと。多く二人連れで、注文を受けると、三味線を弾き新内をうたったり、拍子木と銅鑼で声色を真似たりする。といっても、私は新内ながしにも声色ながしにもお目にかかったことはない。たしか鈴木清順の映画の一場面で、新川二郎が新内ながしを演じていたのを見たことがあるきりだ。私が夜の街で遊びはじめたころには、たいていがギターながしで、たまに句のような「ヴィオロン(ヴァイオリン)」弾きがいたのを覚えている。彼らのレパートリーは、なにせ酒席での歌という条件があるから、硬派のそれでもせいぜいが軍歌どまりで、「反逆の唄」とはいかにも珍しい。どんな曲だったのだろうか。ヴァイオリンの哀切な、そしてながし特有の癖のあるスキルで弾かれるレジスタンスの唄に、作者は「ほお」と耳を傾け,いつしか聞き惚れていったのだろう。「反逆の唄」とは言い難いが、二昔ほど前のドイツの酒場で「リリー・マルレーン」を弾いてもらったことがあるので、私に掲句はそのときの印象とダブッて感じられた。ながしは酔客相手の、言うなれば「人間カラオケ」だったわけで、カラオケのような上手な演奏はできなかったけれど、その若干の下手さ加減にまた何とも言えぬ味があったものだ。句の主人公もまた、下手な演奏であるがゆえに、気合いの入った「反逆」魂を作者に切々と訴えかけたのだったろう。それこそカラオケに駆逐されてしまった彼らは、いったいどこに消えていったのだろうか。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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