Vq句

December 09122006

 赤く蒼く黄色く黒く戦死せり

                           渡辺白泉

車の中での高校生らしき二人連れの会話。「日本とアメリカって戦争したことがあるんだって」「うそ〜、それでどっちが勝ったの?」……つい最近知った実話である。そんな彼等が修学旅行で広島へ長崎へ、遺された悲惨な光景に涙を流す。しかしそれは映画を観て流す涙と同質のものであり、やがて乾き忘れられていくのだ。体験していないというのはそういうことだろう。かくいう私も昭和二十九年生まれ、団塊の闘士世代と共通一次世代のはざま、学生運動すら体験していない。〈白壁の穴より薔薇の国を覗く〉〈立葵列車が黒く掠めゐる〉〈檜葉の根に赤き日のさす冬至哉〉鮮やかな色彩が季題を得て、不思議な感覚で立ち上がってくる白泉の句。しかし掲句にあるのは、燃えさかり、溢れ出し、凍え、渦巻く、たとえようもない慟哭に包まれた光景であり、それは最後に燃え尽きて暗黒の闇となり沈黙するが、読むものには永遠に訴え続ける。前出の会話は、宇多喜代子さんがとある講座で話されていたのだが、その著書『ひとたばの手紙から・戦火を見つめた俳人たち』の中で初めてこの句にふれ、無季だからと素通りすることがどうしてもできなかった。季題の力が、生きとし生けるものすべてに普遍的に訪れる四季に象徴される自然の力だとすれば、その時代には、生きているすべての命にひたすら戦争という免れがたい現実が存在していた。今は亡き、藤松遊子(ゆうし)さんの句を思い出す。〈人も蟻も雀も犬も原爆忌〉『ひとたばの手紙から』(2006・角川学芸出版)所載。(今井肖子)


April 0742007

 水に置く落花一片づつ白し

                           藤松遊子

年も桜の季節が終わってゆく東京である。思わぬ寒波がやってきたり、開花予想が訂正されたり、あたふたしているのは人間。一年かけて育まれたその花は、日に風に存分に咲き、雨に散りながら、土に帰ってゆく。蕾をほどいた桜の花弁は、わずかな紅をにじませながら白く透き通っている。その花びらが水面に浮かび、流れるともなくたゆたっている様子を詠んだ一句である。珍しくない景なのだが、水に置く、という叙し方に、一歩踏み込んだ心のありようを感じる。「浮く」であれば、状態を述べることになるが、「置く」。置く、を辞書で調べると、あるがままその位置にとどめるの意。さらに、手をふれずにいる、葬るなどの意も。咲いていることが生きていることだとすれば、枝を離れた瞬間に、花はその生命を失う。水面に降り込む落花、そのひとひらひとひらの持つ命の余韻が、作者の澄んだ心にはっきりと見えたのだろう。今は水面に浮き、やがて流され朽ちて水底に沈む花片。自然の流れに逆らうことなくくり返される営みは続いてゆく。白し、という言い切りが景を際だたせると共に、無常観を与えている。遺句集『富嶽』(2004)所収。(今井肖子)


July 1372013

 まみゆるは易し涼風ある限り

                           上迫和海

松遊子に〈涼しさは淋しさに似て夜の秋〉があるが、涼し、と、淋し、はどこか通じるものがある気がする。涼風の中にいるとき人は、なんとなく遠い目をしてそこに身をゆだねる。心地よい中に、どこか遠くへ誘われるような心地がするからだろうか。掲出句、作者にどんな思い出があるのかはわからないが、深い哀悼の心と愛情、穏やかな中に静かな決意のようなものも感じられる。二度と会うことはできないけれど、ここに来てこうして涼風の中にいると、その人の声が聞こえるような気がしてくるのだ。涼風の一つの姿がそこにある。『句集 四十九』(2012)所収。(今井肖子)




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