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December 11122006

 昼の雪どこかが違ふ写真のかほ

                           谷さやん

者は四国の松山市在住。めったに雪の降らない温暖の地だから、降ってくると、そぞろ気持ちがざわめいてくる。雪国の人とは裏腹に、なんだか嬉しいようなそわそわするような、どこか明るいざわめきである。句のシチュエーションは二通りに読め、一つは「昼の雪」が写真に写りこんでいる場合と、もう一つはいま外で実際に雪が降っていて、誰かの写真を見ている場合だ。私は後者と読んでおく。この写真は、見慣れた写真だ。いささか観光案内めくが、たとえば松山市にある子規記念館の子規の肖像写真である(むろん、そうと決まったわけじゃないけれど)。誰でも知っている有名なあの写真の前を通りかかって、ふと足が止まった。平生なら見るともなく見て通り過ぎる写真なのだが、「おや」と気になり、しげしげと見つめてみると、「かほ」が「どこか違って」いるように見えたというのだ。こんな「かほ」だったかなあ、どこか違うなあと、もう一度見つめ直している。理屈をこねれば、違っているのは写真ではなくて、雪による作者の気分と、物理的には館内に注ぐ外光とだ。この二つの要素が重なって、見慣れた写真がそうではないように思えてくる。すなわち揚句は、暖国の雪の日の気持ちのざわめきようを「写真のかほ」の見え方を通して間接的に表現しているのであり、こういうことは俳句でしか言えないという意味でも、なかなかの佳句だと思う。『逢ひに行く』(2006)所収。(清水哲男)


January 0412007

 初夢や耳深くして人の波

                           谷さやん

の中の風景にも思えるが、現実に作者がいるのは雑踏の中だろう。身動きの出来ない賑わいに身を揉まれつつ、数日前に見た初夢をぼんやりと思い出している。「耳深くして」という表現から、連れもおらず一人で下を向いて人波に揺られている情景が想像できる。初詣なら、境内にぎっしり詰まった参拝の列が移動するたび身体ごと前へ押し出されてゆく。列についている人達の声がすぐ近くで話しているのに遠くから聞こえてくるように思えるのは自分の想いに沈んでいるからだろうか。その雰囲気は目覚めのとき、雀の声や新聞配達のバイクの音などが夢の底に滑り込んできて、ゆっくり現実に浮上してゆく感じとどこか似ている。「初夢」は元日、または正月二日に見る夢。吉凶を占う意味もあり、普段夢に無頓着な人も気になるところだろう。曖昧模糊とした夢の輪郭は思い出そうとしても、もろく消え去ってしまう。夢を辿りつつ夢に漂っているわたしと、雑踏の只中にあるわたし。現実と夢との境目があるからこそ「耳深くして」と、感覚の内部に入り込む表現が生きてくるのだろう。この言葉が「初夢」「人の波」と異質な空間を結びつけ、句に幻想的な味わいを醸し出しているように思う。『逢ひに行く』(2006)所収。(三宅やよい)




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