gT句

May 1452007

 麦秋の人々の中に日落つる

                           吉岡禅寺洞

後平野の「麦秋」を見てきた。博多から鹿児島本線で南下して久留米に至る間の景色だから、正確にはちょっぴり佐賀平野も含まれるのかもしれないが、ともかく東京などでは見られない有無を言わせぬ広大な面積の麦の秋だった。作者は福岡の人だったので、句の情景もこのあたりのものだろうか。大勢の人々が麦刈りにいそしむ夕景だ。広大な麦畑の彼方で、日が没しようとしている。その広大さは「人々の中に」という措辞に暗示されているのであって、澄んだ初夏独特の空気もまた、同時に詠み込まれている。巧みな表現と言わざるを得ない。そして秋の落日とは違い、この季節にはゆっくりと日が没してゆくので、たとえばミレーの「落ち穂拾い」のような寂寥感はないのである。むしろ逆に、明日もまた明るくあるだろうという気分のする句であって、そこもまた心地よい作品だ。ご存知とは思うが、吉岡禅寺洞は無季句を提唱し、結社「天の川」を主宰、昭和11年に日野草城、杉田久女とともに「ホトトギス」、すなわち虚子から除名された俳人だ。掲句はそれ以前のものと思われるが、この句からもわかるように、「ホトトギス」にとっては口惜しくも惜しまれる才能であったには違いない。『俳諧歳時記・夏』(1951・新潮文庫)所載。(清水哲男)


February 2822010

 白菜の孤独 太陽を見送つている

                           吉岡禅寺洞

菜は冬の季語ですが、「白菜の孤独」といわれれば、どんな季節にも所属させる必要はないのかなと思います。これを句と見るか、あるいは一行詩と見るかについては、人それぞれに考え方は異なるでしょう。でも、ジャンルがあって後の作品、などというものは本来あるはずもなく、どちらだろうが読むものの感性に触れてくるものがあれば、それでかまわないわけです。真ん中にある空白は、現代詩であるならば助詞が入ったのかもしれません。あるいは句であるならば、取り払われるべきものなのでしょう。ゆるんだ助詞を入れることを拒み、しかしここにはしっかりとしたアキが必要なのだという、強い意志が感じられます。「見送っている」という、遠いまなざしのためにも、この距離は必要だったのかもしれません。太陽を見送るほどの孤独には、どこか狂気に近いものを感じます。それはおそらく、この句の雰囲気が、吉増剛造の詩の一節、「彫刻刀が、朝狂って、立ち上がる」を思い出させるからかもしれません。『俳句大観』(1971・明治書院)所載。(松下育男)




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