May 212007
一ト電車早くもどりし新茶かな
加藤覚範
現代の大都市の電車だと「一ト電車(ひとでんしゃ)」早く乗ったくらいでは、帰宅時間はそんなには変わらない。掲句はたぶん戦後まもなくか戦前の作句だろうから、作者がたとえ東京在住だったとしても、「一ト電車」違えばかなり帰宅時間は違ったはずである。この日は仕事が順調に進み、作者は定時に退社できたのだろう。滅多にないことなのだ。だから、いつもより一台早い時間の電車に乗って帰宅できた。通勤圏が一時間くらいであれば、家に着いてもまだ外はほんのりと明るい。それだけでもなんだか得をしたような気分の上に、奥さんが思いがけない「新茶」を淹れてくれたのだ。それを上機嫌で飲んでいる心情が、「新茶かな」の「かな」に、よく暗示されている。今年ももうこんな季節になったのかと、早い帰宅による気分の余裕がその感慨を増幅して、しみじみと新茶を味わっているというわけだ。私には帰宅後すぐに茶を飲む習慣はないけれど、今年からはじめた勤め人生活のおかげで、作者の心情はとてもよく理解できる気がする。こういうことは俳句でなければ書けないし、また書いたからといって別にどうということもないのだが、一服の「新茶」の魅力とはおそらくこうした表現にこそ込める価値があるのだと思う。句を読んで思わず「新茶」を喫したくなった読者であれば、おわかりいただけるにちがいない。『俳諧歳時記・夏』(1951・新潮文庫)所載。(清水哲男)
May 202007
覗きみる床屋人なし西日さす
加藤楸邨
引越しをした先で、ゆっくりと見慣れない街並みを眺めながら地元の床屋を探すのは、ひとつの楽しみです。30分も歩けばたいていは何軒かの床屋の前を通り過ぎます。ただ、もちろんどこでもいいというものではないのです。自分に合った床屋かどうかを判断する必要があるのです。ドアを開け、待合室の椅子に座り、古い号の週刊文春などをめくっているうちに呼ばれ、白い布を掛けられ、散髪がはじまります。髪を切る技術はどうでもよいのです。要は主人が、必要以上に話しかけてこないことが肝心なのです。さて掲句です。「覗きみる」と言っているのですから、ただ通りすがったのではなく、頭を刈ってもらおうと思ってきたのでしょう。もし待っている人が多かったら、また出直そうとでも思っていたのかもしれません。ドアの硝子越しに覗けば、意外にも中にはだれも見えません。すいているからよかったと思う一方で、薄暗い蛍光灯の下の無人の室内が妙にさびしくも感じられます。深く差し込んだ西日だけが、場違いな明るさを見せています。床屋椅子(と呼ぶのでしょうか)も、わが身の体重をもてあますように、憮然として並んでいます。床屋の主人とは長年の付き合いなのでしょうか。月日と共にお互いに年齢を加え、外に立つ「三色ねじり棒」も、同じように古びてきました。ただ頭を刈りに来たのに、なぜか急にせつない思いに満たされ、いつもの扉が重くて開けられないのです。『昭和俳句の青春』(1995・角川書店)所載。(松下育男)
May 192007
簡単に通り過ぎたる神輿かな
劔持靖子
二年前、神幸祭の当日に神田明神界隈を歩いた。少しまとまった数の俳句を作る目的の一人吟行である。神輿、汗、熱気、祭太鼓に祭笛、などいかにもそれらしい連想が頭の中をめぐる。しかし実際には、鳥居の前の桐の花や、すれ違う洗いざらしの祭袢纏、どこからかかすかにきこえる風鈴の音に気持がいってしまう。これじゃなあ、それにしても御神輿はどこなのかしら、と思ってふと見ると、細い路地の向こうを通過中である。あわてて路地をぬけて後ろ姿を見送った。この句の作者は、私のように無計画ではない。神輿の通る道端の最前列に陣取って今か今かと待っていたのである。由緒ある祭の立派な御神輿が近づいてくるのが見える、そして目の前を汗と熱気のかたまりが通過、やはり後ろ姿を見送ったのだろう。案外あっけなかったなあ、という、ふと我に返ったような気持を、簡単に、と感情をこめずに叙したところに余韻が生まれている。通り過ぎたる、というのを、祭後(まつりあと)の寂寥感にも通ずる、と読むこともできるのかもしれないが、私には、もっとあっけらかんとした明るさと、逆に熱気に包まれた神輿の勇壮な姿が見えてくる。簡単に、という上五は、それこそ簡単には浮かばない。二十代前半からの句歴四十年の作者ならではだろう。同人誌「YUKI」(2007・夏号)所載。(今井肖子)
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