Zq句

June 2062007

 梅漬けて母より淡き塩加減

                           美濃部治子

い頃から梅干甕は、お勝手の薄暗く湿ったあたりにひっそりと、しかし、しっかりと置かれ、独特の香りをうっすらとただよわせていた。赤紫蘇を丹念に揉んでしぼりこんでは、くりかえし天日に干す作業。そうやって祖母が作った梅干は、食紅を加えた以上に鮮やかな真ッ赤。そしてすこぶる塩が強く酸っぱいものだった。食が進み、梅干一個で飯一膳が十分に食べられた。今も食卓では毎食梅干を絶やさないが、市販の中途半端に薄茶色のものや食紅を加えたものは願いさげ。自家製の梅干は祖母から母、母から妻へと何とか伝授されている。食事にきりっとアクセントをつける梅干一個の威力。減塩が一般化してきて、祖母より母、母より娘の作る料理の塩加減は、確実に淡くなってきている。塩加減がポイントである梅干もその点は例外ではない。さて掲出句。かつて母が丹精して作っていた梅干の塩辛さをふと思い出し、「でもねえ・・・」と自分に言い聞かせながら、漬けた梅干を試食しているらしい様子はむしろほほえましい。自分(娘)ももうそんなに若くはなく、母の年齢に近いのだろう。梅干にはその家なりの伝来の塩加減や色具合もあって、それがちゃんと引き継がれているだろうけれど、塩加減はやはり時代とともに少々変化してくるのはやむを得ない。治子は古今亭志ん生の長男・金原亭馬生(十代目。1982年歿)夫人。馬生も俳句を作ったが、治子は黒田杏子に師事し、本格的な句を残して昨年十一月に亡くなった。ほかに「十薬にうづもれをんな世帯なる」「去るものは追はず風鈴鳴りにけり」など。『ほほゑみ』(2007)所収。(八木忠栄)


March 1632011

 すこしだけ振子短くして彼岸

                           美濃部治子

分の日(三月二十一日)の前後三日間を含めた一週間がお彼岸。だから、もうすぐ彼岸の入りということになる。彼岸の入りを「彼岸太郎」「さき彼岸」とも呼び、彼岸の終わりを「彼岸払い」「後の彼岸」などとも呼ぶ。昼と夜の長さが同じになり、以降、昼の時間が徐々に長くなって行く。人の気持ちにも余裕が戻る。まさしく寒さも彼岸まで。それにしても振子のある時計は、一般の家庭からだいぶ姿を消してしまった。ネジ巻きの時計は、もっと早くになくなってしまった。振子の柱時計のネジをジーコジーコ、不思議な気持ちで巻いた記憶がまだ鮮やかに残っている。時計の振子を「すこしだけ」短くするという動きに、主婦のこまやかな仕草や、何気ない心遣いがにじんでいる。治子は、十代目金原亭馬生の愛妻で、落語界では賢夫人の誉れ高い人だった。酒好きの馬生がゆっくり時間をかけて飲む深夜の酒にも、同じ話のくり返しにも、やさしくじっとつき合っていたという証言がある。馬生の弟子たちは、この美人奥さんを目当てに稽古にかよったとさえ言われている。馬生は一九八二年に五十四歳の若さで惜しまれて亡くなり、俳句を黒田杏子に教わった治子は二〇〇六年、七十五歳で亡くなった。他に「初富士や両手のひらにのるほどの」がある。彼岸といえば、子規にはご存知「毎年よ彼岸の入に寒いのは」がある。『ほほゑみ』(2007)所収。(八木忠栄)


April 0242014

 掃除機を掛けつつ歌ふ早春賦

                           美濃部治子

子は十代目金原亭馬生の奥さん。つまり女優池波志乃の母親である。いい陽気になってきて部屋の窓を開け放ち、掃除機を掛ける主婦の心も自然にはずんで、春の歌が口をついて出てくる。♪春は名のみの風の寒さや/谷のうぐいす歌は思えど……。掃除をしながら歌が口をついて出てくるのも、春なればこそであろう。大正2年、吉丸一昌作詩、中田章作曲によるよく知られた唱歌である。治子は昭和6年生まれの主婦だから、今どきのちゃらちゃらした歌はうたわなかったかもしれない。考えてみれば、落語家の家のことだから、掃除は弟子たちがやりそうなものだが、馬生夫婦は弟子たちには、落語家としての修業のための用しかさせないという主義だった。だから家のことはあまりやらせなかったというから、奥さんが洗濯や掃除をみずからしていたのだろう。志乃さんがそのことを証言している。いかにも心やさしかった馬生らしい考え方、と納得できる。治子は黒田杏子の「藍生」に拠っていたが、平成18年に75歳で亡くなった。春の句に「職業欄無に丸をして春寒し」がある。『ほほゑみ』(2007)所収。(八木忠栄)




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