2007N9句

September 0192007

 焼跡にまた住みふりて震災忌

                           中村辰之丞

正十二年九月一日の未明、東京にはかなりの風雨があったという。そして夜が明けて雨はあがり、秋めく風がふく正午近く、直下型大地震が関東地方を襲ったのだった。その風が、東京だけで十万人を越える死者を数える悲劇を生む要因となった大火災に拍車をかけることになるとは、思いもよらなかったにちがいない。作者が歌舞伎役者であることを思えば、代々生まれも育ちも東京だろう。焼跡に、とあるので、旧家は焼失したのかもしれない。年に一度巡り来る震災忌、その惨状が昨日のことのようによみがえってくる。そして、失われた風景や人々を思う時、流れた月日の果てに今ここに自分が生きているということを複雑な思いでかみしめているのだ。また、の一語が、作者の感慨を伝え、さまざまな感情や年月をふくらませる。その後、再び東京が焼け野原になる日が来ることもまた、思いもよらなかったであろう。関東大震災から八十年以上、どんどん深くなる新しい地下鉄、加速する硝子の高層ビルの建設ラッシュの東京で、今日一日はあちこちで防災訓練が行われる。ずっと訓練だけですめば幸いなのだが。「俳句歳時記」(1957・角川書店発行)所載。(今井肖子)


September 0292007

 縄とびの縄を抜ければ九月の町

                           大西泰世

年の夏の暑さは尋常ではありませんでした。昔は普通の家にクーラーなどなかったし、わたしが子供の頃もたしかに暑くはありました。しかしそのころの夏は、どこか、見当の付く暑さでした。今年の、39度とか40度とかは、どう考えても日本の暑さとは思えません。そんな記録尽くめの夏も、時が経てば当然のことながら過ぎ去ってゆきます。掲句、こんなふうに出会う9月もよいかなと、思います。遠くに、縄跳びをしている子供たちの姿が見えます。夕方でしょうか。縄を持つ子供が両側に立って、大きく腕をまわしています。一人、一人と順番に、その縄に飛び込んでは、向こう側へ抜けてゆく、その先はもう9月をしっかりと受け止めた町なのです。縄跳びの縄が、新しい季節の入り口のように感じられます。飛び上がる空の高さと、9月という時の推移の、両方を感じさせる気持ちのよい句です。陽が沈むのが日に日に早くなり、あたりも暗くなり始めました。今日の遊びもおしまいと、誰かが言い、縄跳びの縄は小さく丸められます。帰ってゆく子供たちのむかう家は、もちろんあたらしい季節の、中にあるのです。『現代の俳句』(2005・角川書店)所載。(松下育男)


September 0392007

 颱風のしんがりにして竿竹屋

                           青木恵美子

近は夏でもやってくるが、「颱風(台風)」は秋の季語だ。ちょうどいま今年の9号が、はるか太平洋沖を西南西に向かって進んでいる。掲句は上陸した台風が思う存分荒れ狂って去っていった後の情景。ともに強かった風雨がぴたりと止んで、にわかに嘘のように日も射してきた。窓を開けて表を見ると、まだ木々からはぼたぼたと水滴が落ちており、あたりには吹き飛ばされた植木鉢やゴミ屑などが散乱している。やれやれ後片づけが大変だなと思っていると、どこからともなく竿竹屋の売り声が流れてきた。まるで颱風など来なかったかのような、のんびりとした売り声だ。ほっとさせられるようなその声に、思わずも作者は微笑したのであろうが、しかし身に付いた俳句的な物の見方が微笑を微笑のままでは終わらせなかった。すなわち、竿竹屋もまた颱風のウチと捉えたのである。竿竹屋は颱風で傷んだ竿竹などの買い替え需要を狙っているのだからして、やはりこれは颱風とは切り離せないと思ったのだ。「しんがり」が、実に良く作者の心持ちを表している。俳句的滑稽味に溢れ、しかも人情のありどころを的確に述べた秀句である。『玩具』(2007)所収。(清水哲男)


September 0492007

 帯結びなほすちちろの暗がりに

                           村上喜代子

集中〈風の盆声が聞きたや顔見たや〉〈錆鮎や風に乗り来る風の盆〉にはさまれて配置されている掲句は、越中八尾の「おわら風の盆」に身を置き、作られたことは明らかであろう。三味線、太鼓、胡弓、という独特の哀調を帯びた越中おわら節にあわせ、しなやかに踊る一行は、一様に流線型の美しい鳥追い笠を深々と被っている。ほとんど顔を見せずに踊るのは、個人の姿を消し、盆に迎えた霊とともに踊っていることを示しているのだという。掲句からは、町を流す踊りのなかで弛んだ帯を、そっと列から外れ、締め直している踊り子の姿が浮かぶ。乱れた着物を直すことは現世のつつしみであるが、ちちろが鳴く暗がりは「さあいらっしゃい」と、あの世が手招きをしているようだ。身仕舞を済ませた踊り子は、足元に浸み出していくるような闇を振り切り、また彼方と此方のあわいの一行に加わる。昨日が最終日の「おわら風の盆」。優麗な輪踊りは黎明まで続けられていたことだろう。長々と続いた一夜は「浮いたか瓢箪/軽そうに流れる/行く先ゃ知らねど/あの身になりたや」(越中おわら節長囃子)で締めくくられる。ちちろの闇に朝の光りが差し込む頃だ。『八十島』(2007)所収。(土肥あき子)


September 0592007

 片耳は蟋蟀に貸す枕かな

                           三笑亭可楽(七代目)

蟀(こおろぎ)は別称「ちちろむし」とも「いとど」とも。古くは「きりぎりす」とも呼ばれ、秋に鳴く虫の総称でもあったという。今やコンクリートの箱に棲まう者にとって、蟋蟀の声は遠い闇のかなたのものとなってしまった。片耳を「蟋蟀に貸す」といった風流(?)などとっくに失せてしまった今日この頃である。部屋の隅か廊下で、あるいは小さな家の外で、蟋蟀がしきりに鳴いている。まだ寝つかれないまま、寝返りをうっては、聴くともなくその声に耳かたむけている風情である。「枕かな」がみごとであり、素人ばなれした下五ではないか。蚊も蝿も含めて、虫どもはかつて人と共存していた。「片耳はクーラーに貸す枕かな」と、おどけてみたくもなる昨今の残暑である。落語家の可楽は若い頃から俳句を作り、六百句ほどを『佳良句(からく)帳』として書きとめておいた。ところが、あるとき子規の『俳諧大要』を読んだことから、マッチで気前よく自分の句集を燃やしてしまったという。そのとき詠んだ句が「無駄花の居士に恥づべき糸瓜哉」。安藤鶴夫によれば、可楽は色黒で頬骨がとがった彫りの深い顔だけれども、愛敬がなく目が鋭かった。人間も芸も渋かった。そんな男がひとり寝て蟋蟀を聴いているのだ。昭和十九年に自宅の階段から落ちて三日後に亡くなった。行年五十七歳。六〇年代に聴いた八代目可楽の高座もやはり渋くて暗かったけれども、私はそこがたまらなく好きだった。安藤鶴夫『寄席紳士録』(1977)所載。(八木忠栄)


September 0692007

 いま倒れれば鶏頭の中に顔

                           渡辺鮎太

っと固まって咲く鶏頭は、はかなげな秋の花と違いどこか不気味な面持ちをしている。もともとは熱帯アジア原産で、古く日本へ渡来したと辞書にあるから長い間観賞用の花として愛好されてきたのだろう。この花を気持ち悪く思う私にはどこが良くて花壇に植えられているのかさっぱりわからない。「いま倒れれば」といきなり始まる唐突な出だしは前のめりに倒れそうになった瞬間心をよぎった言葉なのか、それとも起こりそうもない状態を仮定しての言葉なのか。いずれにしても「ば」のあとに続く事柄が、「鶏頭の中に顔」で切れているヘンさ加減が鶏頭嫌いの私にとってはとても気になる。まっすぐ立っている鶏頭を顔で押し分けながら倒れこんでゆくシーンは柔らかそうなコスモスなどに倒れこむより現実的でちょっと毒を含んでいるように思える。鶏頭の中に顔があるシュールで大胆な構図も面白いが、実際に自分の顔が倒れこんでゆく場面を想像してみると、たくましい茎は直立したまま曲がりそうにないし、ばちばち顔に当たる葉も痛そうだ。鶏頭を詠むのに花から離れて詠むのではなく、自分の身体を倒してみる。しかも物が当たるのに一番避けたい顔を持ってきたことで句に生々しさが生まれ、鶏頭の異様な感触を際立たせたように思う。『十一月』(1998)所収。(三宅やよい)


September 0792007

 団栗を拾ひしあとも跼みゐる

                           石田郷子

べられるわけでもなく、団栗を拾うことにはさしたる現実的な意味はない。子供が遊びのために拾うか、大人がなんとなく拾うか。これを前者、子供の動作と受け取ると平凡な風景だろう。遊ぶために団栗を拾っている子供が、その姿勢のまま、虫の動きやら別の植物やら地上のもろもろの様子に気づいて見入っている。そこには子供の好奇心の典型があるだけで新鮮な詩情は感じられない。僕は後者、大人の句と取りたい。考えごとをしながら俯き加減に歩いていて、ふと、散らばっている団栗に目をやる。男は一瞬考えごとを中断して跼(かが)み込み、一個の団栗を手にする。手にした後、かがんだまま、またもとの思考の中に戻るのである。人間の動作の多くは合理性の中で行われるわけではない。日常的行動の端々は不合理や非条理に満ち満ちている。この句のようなひとつのカットが人間というものの複雑さを浮き彫りにする。『石田郷子作品集1』(2005)所収。(今井 聖)


September 0892007

 露しぐれ捕はれ易き朝の耳

                           湯川 雅

は一年中結ぶものだが、夜、急に冷え込む秋の初めに多く見られることから秋季。露しぐれ、とは、夜のうちに木々に宿った露が、朝になってしたたり落ちるのをいう。晩夏から初秋にかけて、花野に色が増える頃、高原などではことさら朝露が匂う。早朝、ゆっくり息を吸って、瑞々しい大気を体中に行き渡らせると、まず五感がくっきりと目覚めてくる。そして、おもむろに息を吐く。すると、かすかな朝の虫、鳥の声、風音と共に、ぱらぱらとしたたり落ちる露の音が耳に届いてくる。細やかで透明な秋の音。露しぐれは、これだけで情景を言いおおせてしまう感のある言葉であり、ともすれば情に流されやすく、一句にするとその説明に終わってしまう可能性もある。また、澄んだ朝の空気の中では音がよく聞こえる、というのも誰もが感じることだ。この句の場合、捕はれ易き朝の耳、という少し理の克った、耳を主とした表現が、露しぐれの音と呼応しつつ、常套的な説明からふっとそれたおもしろさを感じさせる。俳誌「ホトトギス」(2002年3月号)所載。(今井肖子)


September 0992007

 颱風へ固めし家に児のピアノ

                           松本 進

摩川のほとり、大田区の西六郷に住んでいた頃、台風が来るというと、父親は釘と板を持って家を外から打ち付けたものでした。ある年、ちょうど家の改築をしている時に大きな台風がやってきて、強い風に家が揺れ、蒲団の中で一晩中恐い思いをしたことがあります。掲句の家庭にとっては、まだそれほど状況は差し迫ってはいないようです。台風に備えて準備を終えた家の中で、子供が平然とピアノを弾いています。狭い日本家屋の、畳の一室にどんと置かれているピアノが目に浮かぶようです。この日は台風の襲来を前に、窓を閉め、更に雨戸を閉め、外部への隙間という隙間を埋めたわけです。完璧に外の物音を遮断した中で、ピアノの音が逃げ場もなく、部屋の内壁に響き渡っています。流麗にショパンでも弾いてくれるのならともかく、ミスタッチを繰り返すバイエルをえんえんと聴かされるのは、家族とはいえ忍耐が要ります。それでも、数日後にレッスンが予定されているのなら、台風が来ていようと、子供にとってその日の練習は欠かせません。ピアノのおさらいという「日常」に、時を選ばず襲ってくる「日常の外」としての颱風。その対比が句を、奥深いものにさせています。『角川俳句大歳時記 秋』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


September 1092007

 秋草の押し花遺りて妻の忌や

                           伊藤信吉

者は詩人として著名だった。父親(美太郎)が俳句を趣味としていたので、作句はその遠い影響だろうか。あるいは師であった萩原朔太郎や室生犀星の影響かもしれない。亡くなる前年には、地元(群馬県)の俳誌「鬣TATEGAMI」にも同人参加している。信吉はこの頃になって弟の秀久と相談し、父親と息子二人の合同句集の発刊を計画したのだったが、制作半ばで他界した。九十五歳(2002年8月3日)。掲句は妻を亡くして、だいぶ経ってからの作だろう。いわゆる遺品などはすっかり片づけられており、妻を偲ぶよすがになる具体物はないはずだったのだが、ある日古い本のページの間からだろうか、ひょっこり故人の作った「押し花」が出てきた。こういうものは、遺品のたぐいとは違って、なかなかに整理しづらい。立派に故人の制作物だからである。以後、作者は大切に保管し、妻の命日がめぐってくるたびに飽かず眺め入ったのだろう。上手な句とは言えないけれど、第三者から見れば何の変哲もない一葉の押し花に見入る老人の姿に、名状し難い切なさを感じる。あえて下五に置かれた「妻の忌や」の「や」に万感の情がこめられている。伊藤秀久編『三人句集』(2003・私家版)所載。(清水哲男)


September 1192007

 何の実といふこともなく実を結び

                           山下由理子

花(やいとばな)、臭木(くさぎ)、猿捕茨(さるとりいばら)。いささか気の毒な名前を持つこの草花たちは、目を凝らせばわりあいどこにでも見つかるものだが、正確な名を知ったのは俳句を始めてからのことだ。そして、これらが驚くほど美しい実を付けることもまた、俳句を通して知ったのだった。歳時記を片手に周囲を見回せば、植物学者が苦心惨憺、あるいは遊び心も手伝ったのであろう草木の名前に、微笑んだり吹き出したりする。しかし、掲句は名前を言わないことで優しさが際立った。作者はもちろんその名を知っていて、あえてどれとなく実を結ぶ眼前の植物を、大らかに抱きとめるように愛でているのであろう。作者の目の前では確かに名前を持つさまざまな植物が、ここでは結んだ実としてのみ存在する。分類学上の名前を与えられてなかった時代にも、同じように花を咲かせ、また実っていたことだろう。先日の台風が通り過ぎ、いつもの散歩道にも固いままの銀杏や柘榴など、たくさんの実が散乱していた。頭上の青い葉の蔭に、若々しい実りがこんなにも隠されていたとは思いもよらぬことだった。掲句を小さく口ずさみ、青い実をひとつ持ち帰った。〈抱きしめて浮輪の空気抜きにけり〉〈変わらざるものは飽きられ水中花〉『野の花』(2007)所収。(土肥あき子)


September 1292007

 東京の寄席の灯遠き夜長かな

                           正岡 容

句に「ふるさと」のルビが振ってある。正岡容(いるる)は神田の生まれ。よく知られた寄席芸能研究家であり、作家でもあった。小説に『寄席』『円朝』などがあり、落語の台本も書いた。神田っ子にとっては、なるほど東京はふるさと。しかも旅回りではなく、空襲をよけて今は遠い土地(角館)に来ている。秋の夜長、東京の灯がこよなく恋しくてならない。東京生まれの人間にとって、この恋慕は共感できるものであろう。まして「ふるさと」と呼べるような東京が、まだ息づいていた昭和二十年のことである。敗戦に近く、東京では空襲が激化していた。容は四月、五月の空襲により、羽後の山村に四ヵ月ほど起臥した。さらにその後、角館へ寄席芸術に関する講演に赴いた折、求められて掲出句を即吟で詠んだ。そういう背景を念頭において読むと、「寄席の灯」の見え方もしみじみとして映し出される。人々はせめてひとときの笑いと安息を求めて、その灯のもとに肩寄せあっているはずであり、容にはその光景がくっきりと見えている。もちろん同時期に、「寄席の灯」どころではなく、血みどろになって敗戦末期の戦地を敗走し、あるいは斃れていった東京っ子、空襲の犠牲になった東京っ子も数多くいたわけである。容は句の後に「わが郷愁は、こゝに極まり、きはまつてゐたのである・・・・」と書き付けている。深川で詠んだ「春愁の町尽くるとこ講釈場」「君が家も窓も手摺も朧かな」などの句もある。『東京恋慕帳』(1948)所収。(八木忠栄)


September 1392007

 月影の銀閣水を飼ふごとし

                           藤村真理

めて銀閣をみたときは金閣の華やかさに比べて質素で地味なそのたたずまいに物足りなさを感じた。それはきっと昼間だったからで、金閣が太陽の化身だとすれば、銀閣は夜の世界を統べているのかもしれない。銀閣の前に設えた白砂の庭は銀沙灘と呼ばれ波に見立てた筋目がくっきりとつけられており、傍らには月を愛でるため作られた二つの向月台がある。「月影」は月の光そのものと、月の光に映し出された物の姿と、辞書にはある。掲句の場合は冴え冴えとした月に照らし出された銀閣のたたずまいを表しているのだろう。白砂には石英が含まれており、月光を受けるときらきら反射するらしい。「水を飼ふごとし」と表されたその様は、夜の銀閣が月の光に波音をたてる白砂の水を手なずけているようだ。趣向を凝らした言い方ではあるが、現実を超えた幽玄な銀閣の姿を言い表すには、このくらい思い切った表現を用いても違和感はない。いつも観光客の肩越しにしか見られない場所であるが、夜中にそっと忍び込んで月明かりの銀閣を見てみたい。そういう気分にさせられる句である。『からり』(2004)所収。(三宅やよい)


September 1492007

 颱風の蝉を拾へば冷たかり

                           佐野良太

の死んでいる姿には、哀れというより、どこか志を果たし得たような印象がある。地上に出てくるだけでも大変なのにという思いが重なるからだ。颱風が原因で死んだわけではないから、蝉に同情することはない。颱風も蝉の死も自然の営為が粛々と進行しているにすぎない。蝉の亡骸の冷たさもまた。この句、そういう意味では即物非情の句というべきだろう。表記を分析すれば、颱風、蝉、冷と季語が三つ入っている。一句に季語が一つという「原則」をうるさく言い出したのは、むしろ近年のことだ。子規も虚子もこれについては比較的寛容だったはず。自身の作も含めて。表記のことでもう一つ。「拾へば」があるが、何々すれば、という条件の「ば」を使わないよう指導する指導者も多い。条件の「ば」を使うと往々にして原因と結果を強調する内容となり、散文化して俳句の特性が薄れるというのがその理由である。季語を二つ以上使うと往々にして焦点が分散して散漫になるからなるべく使わぬ方が無難だという指導。「ば」を使うと往々にして散文化するからなるべく使わぬ方が無難だとする指導。「なるべく」と「無難」が重なっていつの間にかタブーになる。俳句にはそんなタブーがいっぱいある。タブーが多いと俳句は芸事化(或いはゲーム化)し、一番得をするのは、タブーを避けて「無難」化する技術に長けた師匠とベテランということになる。かくて、タブーの多用はヒエラルヒーの安泰につながっていく。最近は、季語一つの「原則」を逆手にとって、一句に季語を二つ入れることに腐心する俳人もいると聞くがこれもどうか。タブーをつくることと同様、そんな「技術」にも事の本質はないのではないか。講談社版『日本大歳時記』(1981)所載。(今井 聖)


September 1592007

 身に入むや秒針進むとて跳る

                           菅 裸馬

に入む(身にしみる)、冷やか、などは秋季となっているが、人の情けが身にしみたり、冷やかな目で見られたり、となると一年中あることだ。確かに、しみる、冷やか、共に、語感からして、ほのぼのとあたたかくはないが。身に入む、については、もともと季節は関係なく、人を恋い、もののあわれを感じる言葉であったのが、源氏物語に「秋のあはれまさりゆく風の音、身にしみけるかな」という件もあり、次第に秋と結びついていったという。秋風が、人の世のあわれや、人生の寂寥感を感じさせる、ということのようだ。そんなしみじみとした感情を、秒針の動きと結びつけた掲句である。目には見えない時間、夢中で過ごせばあっという間、じっと待っていると足踏みをする。アナログ時計の秒針の動きは、確実に時が過ぎていることを実感させる。じっと見ていると、たしかに跳ねる、一秒一秒、やっと進んでいるかのように。そんな秒針の動きに、無常感を覚えつつ、ふと自分自身を重ねているのかもしれない。「俳句大歳時記」(1964・角川書店)所載。(今井肖子)


September 1692007

 秋風のかがやきを云ひ見舞客

                           角川源義

昨年の年末に、鴨居のレストランで食事をしているときに、突如気持が悪くなって倒れてしまいました。救急車で運ばれて、そのまま入院、検査となりました。しかし、検査の間も会社のことが気になってしかたがありません。それでもベッドの上で、二日三日と経つうちに、気に病んでいた仕事のことが徐々に、それほど重要なことではないように思われてきました。病院のゆったりとした時間の流れに、少しずつ体がなじんできてしまっているのです。たしかに病室の扉の内と外とには、別の種類の時間が流れているようです。掲句では、見舞い客が入院患者に、窓の外の輝きのことを話しています。とはいっても、見舞い客が、ことさらに外の世界を美しく話したわけではないのでしょう。ただ、たんたんと日常の瑣末な出来事を語って聞かせただけなのです。見舞い客が持ち込んだ秋風のにおいに輝きを感じたのは、別の時間の中で育まれた病人の研ぎ澄まされた感覚のせいだったのです。おそらくこの患者は、長期に入院しているのです。秋風のかがやきを、もっともまぶしく受け止められるのは、秋風に吹かれることのない人たちなのかもしれません。入院患者のまなざしがその輝きにむかおうとしている、そんな快復期のように、わたしには読み取れます。『現代の俳句』(2005・角川書店)所載。(松下育男)


September 1792007

 毎日が老人の日の飯こぼす

                           清水基吉

日「敬老の日」は、かつては「老人の日」と言った。この句は、その当時の作句だろう。その前は「としよりの日」だった。年月が経つうちに、だんだん慇懃無礼な呼び方に変わってきたわけだ。それはそのまま、国家の老人政策のありように対応している。いいじゃないか、「こどもの日」があるんだから「としよりの日」だって。でも、そのうちに「こどもの日」も改称されて、「こどもを大事にする日」「こどもを愛する日」なんてことになるかもしれない。最近の世情からすると、これもまんざら冗談とは言い切れまい。歳をとるといろいろな場面で、こんなはずではなかったがという失敗をやらかすようになる。飯をこぼすのもその一つで、私もときどき娘から叱られている。何故、こぼすのか。よくわからないけれど、幼児がこぼす原因とは根本的に違うようだという感じはある。幼児は経験不足からこぼすのであり、老人はたぶん経験に追いつかない身体機能の低下のせいで齟齬を来すのだ。おまけに、そのことを意識するから、かえって失敗が多くなる。無意識では満足に飯も口に運べなくなるのが、老人である。今日はそういう人たちを大事にするようにと、国家が定めた日だ。こんな祝日は、海外にはないそうだ。「毎日が老人の日」である作者にとっては、自嘲的にならざるを得ないのである。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


September 1892007

 道なりに来なさい月の川なりに

                           恩田侑布子

に沿って来いと言い、月が映る川に沿って来いと言う。それは一体誰に向かって発せられた言葉なのだろう。その命令とも祈りともとれるリフレインが妙に心を騒がせる。姿は一切描かれていないが、月を映す川に沿って、渡る鳥の一群を思い浮かべてみた。鳥目(とりめ)という言葉に逆らい、鷹などの襲撃を避け、小型の鳥は夜間に渡ることも実際に多いのだそうだ。暗闇のなかで星や地形を道しるべにしながら、鳥たちは群れからはぐれぬよう夜空を飛び続ける。遠いはばたきに耳を澄ませ、上空を通り過ぎる鳥たちの無事を祈っているのだと考えた。しかし、その健やかな景色だけでは、掲句を一読した直後に感じた胸騒ぎは収まることはない。どこに手招かれているのか分からぬあいまいさが、暗闇で背を押され言われるままに進んでいるような不安となり、伝承や幻想といった色合いをまとって、おそろしい昔話の始まりのように思えるからだろうか。まるで水晶玉を覗き込む魔女のつぶやきを、たまたま聞いてしまった旅人のような心もとない気持ちが、いつまでも胸の底にざわざわとわだかまり続けるのだった。〈身の中に大空のあり鳥帰る〉〈ふるさとや冬瓜煮れば透きとほる〉『振り返る馬』(2006)所収。(土肥あき子)


September 1992007

 二人行けど秋の山彦淋しけれ

                           佐藤紅緑

葉狩だろうか。妻と行くのか、恋人と行くのか。まあ、恋多き紅緑自身のことだとすれば後者かも。それはともかく、高々と澄みわたった秋空、陽射しも空気も心地よい。つい「ヤッホー!」と声をあげるか、歌をうたうか、いずれにせよ山彦がかえってくる。(しばらく山彦なんて聴いていないなあ)山彦はどこかしら淋しいひびきをもっているものだが、秋だからなおのこと淋しく感じられるのだろう。淋しいのは山彦だけでなく、山を行く二人のあいだにも淋しい谺が、それとなく生じているのかもしれない。行くほどに淋しさはつのる。春の「山笑ふ」に対して、秋は「山粧ふ」という。たとえみごとな紅葉であっても、「粧ふ」という景色には、華やぎのなかにもやがて衰える虚しさの気配も感じられてしまう。秋の山を行く二人は身も心もルンルン弾んでいるのかもしれないが、ルンルンのかげにある山彦にも心にも、淋しさがつきまとっている。ここは「行けば」ではなくて「行けど」が正解。紅緑が同時に作った句に「秋の山女に逢うて淋しけれ」もある。両方をならべると、「いい気なものだ」という意見も出るかもしれない。されど、紅緑先生なかなかである。紅緑は日本派の俳人として子規に師事したが、俳句の評価はあまり芳しくなく、やがて脚本・小説の世界へ移り、「あゝ玉杯に花うけて」で一世を風靡した。句集に『俳諧紅緑子』『花紅柳緑』があり、死の翌年(1950)に『紅緑句集』が刊行された。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


September 2092007

 長き夜の楽器かたまりゐて鳴らず

                           伊丹三樹彦

誌「青群」に収録された伊丹三樹彦と公子の「神戸と新興俳句」の対談が面白い。十代の頃より日野草城の主宰する「旗艦」に参加した三樹彦が新興俳句の勃興期をリアルタイムで経験した話を収録している。少年だった三樹彦は数ある俳誌の中で俳句雑誌らしからぬダンスホールやヨットの見える鎧窓などをデザインしたハイカラな表紙に引かれ「旗艦」に参加したという。戦前の神戸は横浜と並ぶ国際港で、異国文化が真っ先に入ってくる場所でもあったので、モダンなものを詠み易い雰囲気があったのだろう。川名大の「新興俳句年表」を調べると、掲句は昭和13年の作になっている。「周りはもうみんな灯を消してしまっているのに、その楽器店だけは煌々と照らしておりまして、音を発する楽器がまったく音を発しない。そういう存在になって、なんとなく不気味であるというふうな…」という印象のもとに書かれた句であると対談の中で作者が述べている。年表には同時期の作として「燈下管制果実の黒き種を吐く」が並んでいるので、今のように灯りが煌々とつく街にある楽器店とは様子が違うのだろう。部屋の隅に鳴らない楽器が固まって置かれている情景を想像するだけでも説得力のある句であるが、時代を語る夫妻の対話をもとに句の背景を知って読み返すとまた違う印象があり、貴重な資料であると思う。俳誌「青群」(第5号 2007/09/01発行)所載。(三宅やよい)


September 2192007

 汝を泣かせて心とけたる秋夜かな

                           杉田久女

分の心の暗部を表白する俳句が、大正末期の時代の「女流」に生まれていたのは驚くべきことである。厨房のこまごまを詠んだり、自己の良妻賢母ぶりを詠んだり、育ちの良い天真爛漫ぶりを演じたり、少し規範をはみ出すお転婆ぶりを詠んだり、当時のモガ(モダンガール)を気取ったりの作品は山ほどあるけれど、それらは、どれも「男」から見られている「自分」を意識した表現だ。それは当時の女流の限界であって、そういう女流を求めていた男と男社会の責任でもある。今においては、「女流」なんて言い方は時代錯誤と言われそうだが現代俳句においてどれほど意識は変革されたのか。ここからここまでしか見ないように、詠わないようにしましょうと啓蒙し、自分は自在に矩を超えて詠んだ啓蒙者のいた時代は終わった。自ら進んで規範に身をゆだね啓蒙される側に立つのはもうやめよう。男も女も。われらの前にはただ空白のキャンバスが横たわっているのみである。『杉田久女句集』(1951)所収。(今井 聖)


September 2292007

 桔梗の咲く時ぽんといひさうな

                           千代尼

当にそうだ、と読んだ瞬間思ったのだった、確かに、ぽん、な気がする。ききょう(きちこう)の五弁の花びらは正しく、きりりとした印象であり、蕾は、初めは丸くそのうちふくらみかけた紙風船ようになり、開花する。一茶に〈きりきりしやんとしてさく桔梗かな〉の一句があるが、やはり桔梗の花の鋭角なたたずまいをとらえている。千代尼は、加賀千代女。尼となったのは、五十二歳の時であるから、この句はそれ以降詠まれたものと思われる。そう思うと、ふと口をついて出た言葉をそのまま一句にしたようなこの句に、才色兼備といわれ、巧い句も多く遺している千代女の、朗らかで無邪気な一面を見るようである。時々吟行する都内の庭園に、一群の桔梗が毎年咲くが、紫の中に数本混ざる白が、いっそう涼しさを感じさせる。秋の七草のひとつである桔梗だけれど、どうも毎年七月頃に咲いているように思い、調べてみると、花の時期はおおむね、七月から八月初めのようで、秋草としては早い。そういえば、さみだれ桔梗といったりもする。今年のようにいつまでも残暑が続くと、今日あたり、どこかでまだ、ぽんと咲く桔梗があるかもしれない。「岡本松濱句文集」(1990・富士見書房)所載。(今井肖子)


September 2392007

 夕刊に音たてて落つ梨の汁

                           脇屋義之

を食べた汁が新聞に落ちる、それだけのことを描いただけなのに、読んだ瞬間からさまざまな思いが湧いてきます。句というのは実に不思議なものだと思います。たしかに梨を食べるのは、日が暮れた後、夕食後が多いようです。一日の仕事を終えてやっと夕飯のテーブルにつき、軽い晩酌ののち、ゆっくりと夕刊を開きます。そこへ、皿に載った四つ切の梨が差し出されます。蛍光灯の光が、大振りな梨の表面を輝くばかりに照らしているのは、果肉全体にゆき渡ったみずみずしさのせいです。昨今の政治情勢でも読みふけっているのでしょうか。「こんなふうに仕事を放り投げられたら、ずいぶん楽だろうなあ」とでも思っているのでしょうか。皿のあるあたりに手を伸ばし、梨の一切れを見もせずに口に運び、そのままかぶりつきます。思いのほか甘い汁が口を満たし、その日の疲れを薄めるように滲みてゆきます。意識せずに口を動かす脇から、甘い汁がこぼれ落ち、気が付けば新聞を点々と黒く染めています。静かな夜に好きな梨を食することができるというささやかな幸せが、新聞記事の深刻さから、少しだけ守ってくれているように感じられます。『角川俳句大歳時記 秋』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


September 2492007

 それとなく来る鶺鴒の色が嫌

                           宇多喜代子

句の技法用語では何と言うのか知らないが、たまにこういう仕掛けの句を見かける。まず「それとなく来る」のは「鶺鴒(せきれい)」だ。読者は「そう言えば鶺鴒は『それとなく』来る鳥だな」とすぐに合点して、それこそ「それとなく」次なる展開を待つ。で、「鶺鴒の色」と来ているから、ここでおそらくは読者の十人が十人ともに、この句の行方がわかったような気にさせられてしまう。鶺鴒には「石叩き」の異名もあるように、尾の振り方に特長があり、俳句でも尾の動きを詠んだ句が多いのだが、作者はあえてそれを避け、「色」の美しさや魅力を言うのだろうと思ってしまうのだ。ところが、あにはからんや、作者はその「色が嫌(いや)」とにべもないのだった。すらすらっと読者を引き込んできて、さいごにぽんとウッチャリをくらわせている。つまり、読者の予定調和感覚に一矢報いたというわけだ。世のつまらない句の大半は、季語などを予定調和的にしか使わないからなのであって、そういう観点からすると、掲句はそうした流れに反発した句、凡句作者・読者批判の一句とも言えるだろう。よく言われることだが、日本語には最後まで注意を払っていないと、とんでもない誤解をすることにもなりかねない。俳句も、もちろん日本語だ。ただそれにしても、鶺鴒の色が嫌いな人をはじめて知った。勉強になった(笑)。「俳句」(2007年10月号)所載。(清水哲男)


September 2592007

 露の夜や星を結べば鳥けもの

                           鷹羽狩行

から人間は星空を仰ぎ、その美しさに胸を震わせてきた。あるときは道しるべとして、またあるときは喜びや悲しみの象徴として。蠍座、射手座、大三角など、賑やかだった夏の夜空にひきかえ、明るい星が少ない秋の星座はちょっとさびしい。しかし、一大絵巻としては一番楽しめる夜空である。古代エチオピアの王ケフェウスと妻カシオペアの美しい娘アンドロメダをめぐり、ペガサスにまたがった勇者ペルセウスとお化けクジラの闘い。この雄大な物語りが天頂に描かれている。さらに目を凝らせば、その顛末に耳を傾けるように白鳥や魚、とかげが取り囲み、それぞれわずかに触れあうようにして満天に広がっている。星と星をゆっくりと指でたどれば、そのよわよわしい線からさまざまな鳥やけものが生まれ、物語りが紡ぎだされる。「アレガ、カシオペア」と、いつか聞いたやわらかい声が耳の奥にあたたかくよみがえる。本日は十五夜。予報によればきれいな夜空が広がる予定である。地上を覆う千万の露が、天上の星と呼応するように瞬きあうことだろう。『十五峯』(2007)所収。(土肥あき子)


September 2692007

 大花野お尋ね者の潜むなり

                           三沢浩二

の草花が咲き乱れている広大な野である。いちめんの草花に埋もれるようにしてお尋ね者が潜んでいるという、ただそれだけのことだが、この「お尋ね者」を潜ませたところに作者の手柄がある。今はあまり聞かない言葉だけれど、読者はその言葉に否応なくとらえられてしまう。昔も今も世を憚るお尋ね者はいるのだ。さて、いかなるお尋ね者なのかと想像力をかきたてられる。そのへんの暗がりや物陰に潜む徒輩とちがって、大花野が舞台なのだから大物で、もしかして風流を解する徒輩なのかもしれない。そう妄想するとちょっと愉快になるけれど、なあに小物が切羽詰って逃げこんだとする解釈も成り立つ。草花が咲き乱れている花野はただ美しいだけでなく、どこかしら怪しさも秘めているようでもある。浩二は岡山県を代表する詩人の一人だった。「お尋ね者」に「詩人」という“徒輩”をダブらせる気持ちも、どこかしらあったのかもしれない――と妄想するのは失礼だろうか。年譜によると、浩二は昨年七十五歳で亡くなるまでの晩年十年間ほど俳句も作り、俳誌で選者もつとめた。追悼誌には自選238句が収録されている。掲出句の次に「悪人来菊人形よ逃げなさい」という自在な句もならぶ。橋本美代子には「神隠るごとく花野に母がゐる」の句がある。この「母」は多佳子であろう。花野には「お尋ね者」も「母」も潜む。「追悼 詩人三沢浩二」(2007)所載。(八木忠栄)


September 2792007

 銀河から鯨一頭分の冷え

                           大坪重治

は体長が20〜30メートルに達する巨大な海の生き物。現実にいる動物だが、その全容を見た人は少ないだろう。このごろは近海で鯨ウォッチングが出来るらしいが、運よくめぐり合えたとしても海面からのぞくのは頭とか尾の一部だろうし、犬や猫のようにこのぐらいと手を広げて大きさを示せるものでもない。日常から遠く、どこか夢のある生き物だ。その鯨と銀河の意外な結びつきがいい。一頭分の鯨の嵩を「冷え」の分量に喩えているのも面白い。肉眼で銀河を見るには街から遠い山奥でないと無理だろう。人里はなれた場所で首が痛くなるぐらい頭をそらして見上げる。目がまわりの暗さに慣れるにつれ、空の真ん中を流れる光の帯がだんだん濃くなってくる。闇に浮かび上がってくる数知れぬ星々に日々追われる現実時間と次元の違う時空間が広がる。冬の冷たさは足元からきりきり這い登ってくるが、この句の「冷え」は銀河のきらめきが秋の夜の冷気になって降りてくるみたいだ。鯨の深みある黒く大きな身体のつるつるした肌触り。冷えの分量を「鯨一頭分」と言い切ったことで銀河から泳ぎ出た鯨が夜空そのものになって見上げる人に覆いかぶさるようであり、銀河の冷気が鯨に形を変えてプレゼントされたようにも感じられる。『直』(2004)所収。(三宅やよい)


September 2892007

 籾殻より下駄堀り出してはき行きし

                           中田みづほ

秋の農家の風景。「写生」は瞬間のカットにその最たる特性をみるが、この句のような映像的シーンの中での時間の流れも器に適合したポエジーを提供する。掘って、出して、履いて、歩いていく。一連の動作の運びが、この句を読むたびに再生された動画のように読者の前に繰り返される。生きている時間が蘇る。同様の角度は、高野素十の「づかづかと来て踊子にささやける」や「歩み来し人麦踏をはじめけり」も同じ。みづほと素十が同じ東大医局勤務だったことを考え合わせるとこの符合は興味深い。僕らが日常的に目にしていながら、「感動」として記憶に定着しないひとこま、つまりは目にしていても「見て」いない風景を拾い出すことが、自己の「生」を実感することにつながる。そこに子規が見出した「写生」の本質があると僕自身は思っている。見たものを写すという方法を嗤う俳人たちがいる。無限の想像力で、言葉の自律性を駆使して創作すればいいのだと。ならば聞こう、それらを用いて、籾殻の中から下駄を掘り出すリアリティに匹敵できるか。そこに俳句における「写生」理念の恐ろしいほどの強靭さがある。講談社版『日本大歳時記』(1981)所載。(今井 聖)


September 2992007

 一人湯に行けば一人や秋の暮

                           岡本松濱

週鑑賞した千代尼の句の出典として、この『岡本松濱句文集』を開いた。婦人と俳句、という題名で書かれたその一文は興味深く、千句あまりの松濱本人の句も読み応えがある。これはその中の一句なのだが、初めに読んだ時、銭湯に行く作者を思い浮かべた。日々の暮らしの中の、それほど深刻ではないけれど、しんみりとした気分。話し声、湯をかける音が反響する銭湯で、他の客に混じってぼんやり湯に浸かっている、どこかもの寂しい秋の夕暮、と思ったのだった。そうすると、行けば、がひっかかるかな、と思いつつ、句集を読み終え、飯田蛇笏、渡辺水巴の追悼文を読み進み、そして野村喜舟の文章を読んだところで、それは勘違いと分かった。この時、松濱は東京で妻と二人暮らし。喜舟が初めてその家を訪ねた時、ちょうど妻が銭湯へ行っていて一人であったという。それを聞いて、喜舟は、この句を思い出した、と述懐している。そういうことか。そう思って読むと、ふっと一人になった作者は、灯りもつけずに見るともなく窓の外を見ていると思えてくる。しんとした二人暮らしの小さな家のたたずまいと共に、暮れ残る空の色が浮かぶのだった。申し訳なし。句集に並んで〈仲秋や雲より軽き旅衣〉。仲秋の名月も満月も、美しい東京だった。「岡本松濱句文集」(1990・富士見書房)所載。(今井肖子)


September 3092007

 口中へ涙こつんと冷やかに

                           秋元不死男

語は「冷やか」です。秋、物に触れたときなどの冷たさをあらわしています。しかし、この句が詠んでいるのはどうも、秋の冷やかさというよりも、個人的な出来事のように感じられます。なにがあったのかはわかりませんが、目じりから流れ出た涙が、頬を伝い、口へ入ってゆくことに不思議はありません。しかし、口をわざわざ「口中」と言っているところを見ると、かなりの量の涙が口の中へ落ちていったようです。それにしても、「こつん」という擬声語がここに出てくることには、ちょっと驚きます。そもそもこの「こつん」という語は、かたい物が当たってたてる音です。作者はそれを知って使っているわけですから、作品への思いいれは、この語に集中していると言えます。涙をかたいものとして感じる瞬間、というのはどのような場合なのでしょうか。涙さえかたいものとして感じるほどに、頬も、口の中も、敏感になっているということなのでしょうか。もしそうならば、あながち「冷やかに」が季節と無縁とは言い切れません。自身の存在を、季節の移ろいのようにやるせなく感じる時、湧き出た涙はその人にとって、かたく感じるものなのかもしれません。『角川俳句大歳時記 秋』(2006・角川書店)所載。(松下育男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます