谷口千吉監督が亡くなった。子供の頃に見た『銀嶺の果て』は忘れ難い。悼。(哲




2007N112句(前日までの二句を含む)

November 02112007

 ロボットの腋より火花野分立つ

                           磯貝碧蹄館

集『未哭微笑』(みこくみしょう)の中の作者の近作。鉄人28号や鉄腕アトム(かなり古いけど)のような人の形をしたロボットを思い浮かべてもいいし、工場で何かの加工や組立に用いられている複雑な形の機械ロボットでもいい、自動的に動く機械のはざまから火花が出て用途に具するわけである。外は台風の兆がある。現代と自然との力技の調和が感じられる。これまでの情緒とすればミスマッチ。しかし、旧情緒と現実の風景がぶつかれば、必ずそこに違和感が生じる。そこからの造型や新ロマンの構築が見せ場。ミスマッチをマッチにする作者の力が問われる場面である。作者は一九二四年生まれ。この世代、多くは戦後に「社会性」や「職場俳句」の洗礼を受け「前衛」に若き情熱を燃やすが、時代の変遷とともに、花鳥諷詠か、それもどきに転ずる。もちろん最初から花鳥諷詠一徹の方もいる。どちらにしても加齢とともに、季題中心、自然諷詠中心の「やすらぎ」にからめとられていくわけである。肉体と精神のエネルギーが失われ、「自己」を俳句に乗せるのがシンドくなったとき、「楽になろうよ」と花鳥諷詠がポンと肩をたたく。その手を振り切って「今の自己」を俳句に打ち付けて同時代の新しいポエジーに挑戦する。そういう作者のこういう句にこそ本物の詩人の魂が存する。『未哭微笑』(2007)所収。(今井 聖)


November 01112007

 空箱の中の青空神の留守

                           高橋修宏

う今日から11月。年齢を重ねるごとに一年が過ぎるのがどんどん早くなる。秋たけなわの10月。年も押し詰まり気ぜわしい12月の間に挟まれて、秋と冬の移行期にある11月はぽかっと空白感の漂う月。11月を迎えるたびに「峠見ゆ十一月のむなしさに」という細見綾子の句が心に浮かんでくる。空箱の中に青空がある景色は不思議で作り物めいている。が、オフィス街のビルを空箱と考えてその窓々にうつる青空を見上げていると、なるほどビルの中に青空があるようだ。反対に青空を映しているオフィスの内にいて窓から外を見ると、果てもない青空に封じ込められている気がする。「の」と「の」の助詞の連続に外側から見る青空と内側から見る青空がだまし絵のようにひっくりかえる。たたけばコンと音がしそうに乾いた冬空はベルギーの画家ルネ・マグリットが好んで描いた空のイメージ。どこかウソっぽく見える青色はこの画家が描く空と質感が似通っている。「神の留守」は陰暦十月の異名。日本全国八百万の神が出雲大社へ参集し、日本の神社の神様が不在になる月。そんな物語めいた季語が句の雰囲気とよく調和しているように思える。『夷狄』(2005)所収。(三宅やよい)


October 31102007

 無駄だ、無駄だ、/大雨が/海のなかへ降り込んでいる

                           ジャック・ケルアック

藤和夫訳。原文は「Useless,useless,/theheavyrain/Drivingintothesea」の三行分かち書きである。特に季語はないけれど、秋の長雨と関連づけて、この時季にいれてもよかろう。たしかに海にどれほどの大雨や豪雨が降り込んだところで、海はあふれかえるわけではなく、びくともしない。それは無駄と言えば無駄、ほとんど無意味とも言える。ケルアックは芭蕉や蕪村を読みこんでさかんに俳句を作った。アレン・ギンズバーグ同様に句集もあり、アメリカのビート派詩人の中心的存在だった。掲出句を詠んだとき、芭蕉の「暑き日を海に入れたり最上川」がケルアックの頭にあったとも考えられる。この「無駄だ・・・」は、単に海に降りこむ大雨の情景を述べているにとどまらず、私たちが日常よくおかすことのある「無駄」の意味を、アイロニカルにとらえているように思われる。その「無駄」を戒めているわけでも、奨励しているわけでもなさそうだけれども、「無駄」を肯定している精神を読みとらなくてはなるまい。この句はケルアックの『断片詩集(ScatteredPoems)』に収められている。同書で俳句観をこう記している。「(俳句は)物を直接に指示する規律であり、純粋で、具象的で、抽象化せず、説明もせず、人間の真のブルーソングなのだ」。これに対し、自分たちビート派の詩は「新しくて神聖な気違いの詩」と言って憚らないところがおもしろい。佐藤和夫『海を越えた俳句』(1991)所載。(八木忠栄)




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