2008N412句(前日までの二句を含む)

April 1242008

 ふらここの影の止つてをりにけり

                           木村享史

らんこ、とは考えてみればまことにそのまんまな名前である。ポルトガル語に由来するなど、その語源は諸説あるようだが、ぶら下がって揺れる様子から名付けられたという気が確かにする。広辞苑で「ふらここ」と引くと、「鞦韆」の文字と共に「ぶらんこ。ぶらここ。しゅうせん。」と出る。他に、半仙戯、ゆさわり、など、さまざまな名前を持つぶらんこが春季である本意は、四月三日の鑑賞文で三宅さんが書かれているように、のどやかでのびやかな遊具としての特性からだろう。春休みの間は一日中揺れていたぶらんこ。新学期が始まった公園では、ぶらんこを勢いよく漕ぐにはまだ幼い子供達とその母親に、ゆっくりした時間が流れている。昼どき、ベンチで昼休みを過ごす人に春の日がうらうらと差す。その日ざしは、葉の出始めた桜の葉陰からこぼれ、ジャングルジムにシーソーに、そしてぶらんこに明るい影を落としている。たくさんの子供達に、時にはおとなに、その名の通り仙人になったような浮遊感を与え続けているぶらんこの、しんとした影。春昼を詠んで巧みである。『夏炉』(2008)所収。(今井肖子)


April 1142008

 海棠の花くぐりゆく小径あり

                           長谷川櫂

代でも俳句が描く情趣の大方は芭蕉が開発した「わび、さび」の思想を負っている。そこには死生観、無常観が根底にある。そこに自らの俳句観を置く俳人は現世の諸々の様相を俳句で描くべき要件とは考えない。現実の空間や時間を「超えた」ところにひたすら眼を遣ることを自己のテーマたらむとするのである。その考え方の表れとして例えば「神社仏閣」や「花鳥諷詠」が出てくる。どう「超える」かの問題や、現実に関わらない「超え方」があるのかどうかは別にして、そういうふうに願って作られる作品があり、そういう作品に惹かれる読者が多いこともまた事実である。いわゆる文人俳句といわれるものや詩人がみずから作る俳句の多くもまたこの類である。自己表現における「私」と言葉とのぎりぎりの格闘に緊張を強いられてきた人は、俳句に「私」を離れた「諷詠」を求めたいのかもしれない。作者は生粋の「俳人」。世を捨てる「俳」の在り方に「普遍」を重ねてみている。句意は明瞭。『季別季語辞典』(2002)所載。(今井 聖)


April 1042008

 明日出会ふ子らの名前や夕桜

                           中田尚子

週の月曜日あたりに入学式のところが多かったのか、真新しいランドセルを背負った小学生やだぶついた制服を着た中学生と時折すれちがう。入学式には満開の桜が似合いなのに、東京の桜はほとんど散ってしまった。温暖化の影響で年々桜の開花は早まっているらしく、赤茶けた蘂ばかりになってしまった枝が少しうらめしい。我儘な親と躾けられない子供にかき回される教育現場が日々報道されているけれど、初めて出会う子供達の名前を出席簿に確かめる担任教師の期待と不安は昔と変わらないのではないか。明日に入学式を控えて先生も少し緊張している。これから卒業までの年月をともに過ごす子供達である。育てる楽しさがあると同時に巣立つまでの責任は重い。時に感情の対立もあるかもしれないが、そのぶつかり合いから担任とそのクラスの生徒達だけが分かち合える喜びや親しさも生まれてくる。生徒の側からみても最初に受持ってもらった先生は幾つになっても懐かしいものだ。明日胸を高鳴らしてやって来る子供達が入る校舎の窓に、咲きそろう桜が色濃く暮れてゆく。入学式前日の教師のつぶやきがそのまま句になったような優しさが魅力だ。「俳句年鑑」(角川2008年度版)所載。(三宅やよい)




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