2008N6句

June 0162008

 噴水に真水のひかり海の町

                           大串 章

つの視点を、この句から感じることができます。まずは首を持ち上げて、「見上げる」視点です。空へ向かって幾度も持ち上げられて行く噴水を、下から見上げています。おそらく公園の一角でしょう。歩いていたら突然目の前に水が現れる、ということ自体がわたしたちにはうれしい驚きです。それまでの時間がしっとりと湿ってくるような感じがするものです。その水を明るい空へ放り投げてしまおうと、初めて考えたのはいったい誰だったのでしょうか。もう一つの視点は、上空から町と、その向うに広がる海を「見下ろす」ものです。晴れ上がって、どこまでもすがすがしい空気に満ちた、清潔な町並みと、静かに打ち寄せる波が見えてきます。言うまでもなくこの句の魅力は、噴水が真水であることの発見にあります。そんなことは当たり前じゃないかという思いは、その後に海と対比されることによって、気持ちのよい納得に導かれるのです。理屈はどうあれ、透き通った二つの視点を与えられただけで、わたしは句に接するうれしさでいっぱいになるのです。『角川俳句大歳時記 夏』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


June 0262008

 口笛のさびしき玉蜀黍の花

                           中嶋憲武

語は「玉蜀黍(とうもろこし)の花」で夏。歳時記に載っているくらいだから、昔はポピュラーな花だったのだろうが、いまではめったに見ることがない。以前は都会でも、庭の塀添いなどに植えている家庭もよくあった。雄花と雌花とがあるけれど、この場合はいまごろ咲きはじめる雄花だろうか。茎のてっぺんに、まことに地味な放射状の花が開く。秋に実るのは雌花のほうである。句を読んで、少年時代を思い出した。我が家の芋畑やトマト畑の片側三畝くらいだったろうか、玉蜀黍を育てていて、その成長ぶりはいまでも思い出すことができる。他の野菜類に比べれば、抜群に背が高くなり、子供の背丈などはすぐに越えてしまう。けれども、なぜか生長の勢いというものがあまり感じられず、とても孤独な雰囲気を漂わせる植物なのだ。なんとなく申し訳なさそうに、肩をすぼめている感じ。花もまた同様であって、すみませんすみませんという感じ。この句の「さびしき」は「口笛」にも「玉蜀黍の花」にもかけられているが、作者が感傷的になっているのはむろんだとしても、それよりも玉蜀黍の存在感そのものが「さびしき」という形容にぴったりなので、私は立ち止まってしまったという次第。玉蜀黍をよく知る人でないと、こんな具合には詠めないと思った。「豆の木」(2008年4月・第12号)所載。(清水哲男)


June 0362008

 ばかてふ名の花逞しや能登荒磯

                           棚山波朗

キダメギクやジゴクノカマノフタなど、気の毒な名を持つ植物は多いが、作者の故郷能登では浜辺の植物ハマゴウ(浜栲)を「バカノハナ」と呼ぶそうだ。一時期を福井県三国に暮らした三好達治に『馬鹿の花』という詩があり「花の名を馬鹿の花よと/童べの問へばこたへし/紫の花」と始まることから、北陸一帯での呼称のようだ。ハマゴウは浜一面を這うように茂り、可憐な紫色の花を付ける。(「石川の植物」HP→ハマゴウ)花は香り高く、葉や実は生薬となり、また乾燥させた葉をいぶして蚊やりとして使用したりと、生活にもごく密着していたはずの植物が、どうしてこんな名前を持つことになったのだろう。さらに言えば、当地の方言で「ばか」を意味する言葉は「だら」を一般的に用いるということもあり、「ばか」という言葉そのものにもどことなく疎外された語感を伴う。掲句では、作者が哀れな名を持ちながら砂浜を一心に埋める花にけなげなたくましさを感じ、また険しい能登海岸の表情をひととき明るくする花の名が「ばか」であることに一抹の悲しみや、わずかな自嘲も含まれているように思う。命名の由来にはあるいは、灼けた砂の上に、誰も見ていないのに、馬鹿みたいにこんなに咲いて…、といういじらしさが込められているのかもしれない。『宝達』(2008)所収。(土肥あき子)


June 0462008

 満山の青葉を截つて滝一つ

                           藤森成吉

書に「那智の滝」とある。滝にもいろいろな姿・風情があるけれど、那智の滝の一直線に長々と落ちるさまはみごとと言わざるを得ない。すぐそばでしぶきを浴びながら見あげてもよし、たとえば勝浦あたりまで離れて、糸ひくような滝を遠望するのも、また味わいがちがって楽しめる。新緑を過ぎて青葉が鬱蒼としげる山から、まさにその万緑をスパッと截り落とさんばかりの勢いがある。「青葉」「滝」の季重なり、などというケチくさい料簡など叩き落す勢いがここにはある。余計なことは言わずに、ただ「截つて」の一言で滝そのものの様子やロケーションを十二分に描き出して見せた。いつか勝浦から遠望したときの那智の滝の白い一筋が、静止画の傑作のようだったことが忘れられない。ドードーと滝壺に落ちる音が、彼方まで聞こえてくるようにさえ感じられた。「青葉を截つて」落ちる滝が、あたりに強烈な清涼感を広げている。ダイナミックななかにも、「滝一つ」と詠むことで一種の静けさを生み出していることも看過できない。よく似た句で「荒滝や満山の若葉皆震ふ」(夏目漱石)があるが、こちらは「荒」や「震ふ」など説明しすぎている。成吉には「部屋ごとに変はる瀬音や夏の山」という句もあるが、澄んでこまやかな聴力が生きている。左翼文壇で活躍した成吉は詩も俳句も作り、句集『山心』『蝉しぐれ』などがある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


June 0562008

 きんいろのフランス山の毛虫かな

                           星野麥丘人

から毛虫は嫌われ者だ。小学校の頃、葉桜の下で鬼ごっこをして教室へ帰ってきたら回りにいた友達が突然きゃーきゃー騒ぎだした。真っ黒な毛虫が私の肩にひっついていたのだけど遠巻きに騒ぐだけで誰もとってくれない。その思い出があるから今も葉桜の下を通るときには首をすくめて足早に通る。なぜかその毛虫がこの句ではすてきに思える。夕焼けを浴びてきんいろに光っている毛虫はおとぎ話の主人公のように何か別のものに変身しそうだ。インターネットで調べるとフランス山は横浜港を一望できる「港の見える丘公園」の北側部分を指すらしいが、それを知らなくとも「フランス山」という名前からは童話的世界の広がりが感じられる。夕暮れ時の山の中でたまたま眼にした毛虫が夕日を浴びてきんいろに光っていただけかもしれないが、読み手の私には嫌いだった毛虫に別の表情が加わったように思う。『亭午』(2002)所収。(三宅やよい)


June 0662008

 漁師等にかこまれて鱚買ひにけり

                           星野立子

取県の米子から境港に向かう途中の弓ヶ浜は砂浜の海岸で、初夏になると投げ釣りの釣り人が波打ち際に並ぶ。鱚、めごち、ハゼが主な釣果。朝と夕方がよく釣れる。浜辺まで家から五百メートルほどだったので、僕も登校前の早朝、よく釣りに行った。思いきり投げて、あとは海底をリールで引きずりながらあたりを待つ。鱚は上品な外見で魚体の白色に光の角度で虹の色が見える。この句、漁港の朝市だろうか。地元の漁師たちに囲まれて旅行者の女性が鱚を買っている。旅行者は新鮮な鱚に目を奪われているが、漁師たちはこの旅行者の方を物珍しそうに見ている。鱚釣りをしていた中学生の頃、「キス」という発音が恥ずかしくて言いにくかった。米子弁で「キス釣りに行かいや」と言うだけで赤面したりしてたんだな。馬鹿だね、中学生って。講談社版『日本大歳時記』(1981)所載。(今井 聖)


June 0762008

 緑蔭や光るバスから光る母

                           香西照雄

を一読する時間というのは、ほんの数秒、ほとんど一瞬である。そこで瞬間の出会いをする句もあれば、一読して、ん?と思い、もう一回読んでなるほどとじんわり味わう句もある。時には、あれこれ調べてやっと理解できる場合も。この句は、一読して、情景とストーリーと作者の思いが心地良く伝わってきた。緑蔭は、緑濃い木々のつくる木陰。そこで一息ついた瞬間、木陰を取り囲む日差し溢れる風景が、ふっと遠ざかるような心持ちになるが、緑蔭のもつ、このふっという静けさが、この句の、光る、のリフレインを際だたせている。作者は緑蔭のバス停にいるのか、それとも少し離れた場所で佇んでいるのか。バスの屋根に、窓ガラスに反射する太陽と、そのバスから降りてくる母。まず、ごくあたりまえに、光るバス、そして、光る母。光る、という具体的で日常的な言葉が、作者の心情を強く、それでいてさりげなく明るく表現している。『俳句歳時記第四版・夏』(2007・角川学芸出版)所載。(今井肖子)


June 0862008

 足跡は一歩にひとつ作り雨

                           桑原三郎

り雨という、なんとも品のよい言葉に目がとまりました。歳時記の解説によりますと、「屋根などから水道水を雨のように庭に降らせて涼を作り出すこと」とあります。夏の盛りの日の照りつけている道を、暑さに耐えながら一歩一歩と歩いている人に、ふと、水しぶきが当たります。顔を上げてみれば、ある一軒の家の屋根からきらきらと冷たい水が降り注いでいる、そんな意味なのでしょうか。「足跡は一歩にひとつ」までは、なんでもない日常の中で、ひたむきに生きている人の姿を象徴しているようにも読めます。こつこつと生きてゆく日々には、特に何が起きるわけでもありません。そんな折、ちょっとした非日常の輝きに満ちた驚きが訪れることがある、それが「作り雨」によってあらわされているのではないのでしょうか。一歩にひとつという、当然のことをことさらに言うことで、日々の耐え忍ぶさまが巧みに表現されています。さらに、「作り雨」の「作る」が、「足跡」にもかかっているようにも見えますが、そこまで解釈を広げてしまうと、私にはもう手に負えません。ともあれ「作り雨」、美しい言葉です。『角川俳句大歳時記 夏』(2006・角川書店) 所載。(松下育男)


June 0962008

 継ぎ接ぎて延ばすいのちや梅雨に入る

                           清水基吉

者はこの三月の末に亡くなった。享年八十九。ちょうど一年前の句だ。「継ぎ接ぎて」と、「つぐ」に別々の漢字をあてたところに、この年齢ならではの実感を読み取ることができる。「継ぐ」は親からさずかった命の自然的な継承を意味し、「接ぐ」には入院治療など本人の意思で延命をはかってきたことを指している。両者あいまっての寿命というわけだが、そんな一種のあがきのなかで、今年も梅雨の季節を迎えたと言うのである。この年齢まで来ると、もはや梅雨が鬱陶しいだとか憂鬱だとかという心情的なレベルは越えていて、作者はただ季節の移り変わりの様子に呆然としているかのようである。生きてまた、今年も梅雨を迎えてしまったか……。それはしかし感慨でもなく、ましてや詠嘆でもなく、作者はただうずくまるようにして、そのことを自分に言い聞かせている。高齢の人の偽りのない気持ちがよく出ていて、読者はそこに救われるのである。この句を収めた最後の句集を、作者は生きて見ることはできなかった。『惜別』(2008)所収。(清水哲男)


June 1062008

 海底のやうに昏れゆき梅雨の月

                           冨士眞奈美

雨の月、梅雨夕焼、梅雨の蝶など、「梅雨」が頭につく言葉には「雨が続く梅雨なのにもかかわらず、たまさか出会えた」という特別な感慨がある。また、前後に降り続く雨を思わせることから、万象がきらきらと濡れて輝く様子も思い描かれることだろう。夕暮れの闇の不思議な明るみは確かに海底の明度である。空に浮かぶ梅雨の月が、まるで異界へ続く丸窓のように見えてくる。ほのぼのと明けそめる暁を「かはたれ(彼は誰)」と呼ぶように、日暮れを「たそかれ(誰そ彼)」と呼ぶ。どちらも薄暗いなかで人の顔が判別しにくいという語源だが、行き交う誰もが暗がりに顔を浸し輪郭だけを持ち歩いているようで、なんともいえずおそろしい。昼と夜の狭間に光りと影が交錯するひとときが、梅雨の月の出現によって一層ミステリアスで美しい逢魔時(おうまがとき)となった。〈白足袋の指の形に汚れけり〉〈産み終へて犬の昼寝の深きかな〉〈噛みしめるごまめよ海は広かつたか〉俳句のキャリアも長い作者の第一句集『瀧の裏』(2008)所収。(土肥あき子)


June 1162008

 蛞蝓の化けて枕や梅雨長き

                           高橋睦郎

や、蛞蝓(なめくじ)の本物になど、なかなかお目にかかることはできなくなった。じめじめした梅雨どき、まあ、今なおいるところにはいるけれど。睦郎の連載「百枕」については、2007年7月にも一句とりあげてコメントしたのでくり返さない。その後媒体に変更があって、現在は小澤實の「澤」に連載されている。掲出句は「梅雨枕」という題のもとに十句発表されたなかのもの。この句とならんで「此處はしも蛞蝓長屋梅雨枕」の一句がある。「蛞蝓長屋」は古今亭志ん生が昔住んだ、知る人ぞ知る「なめくじ長屋」を指している。業平橋近くの湿地帯に建てられたこの長屋に、赤貧洗うが如き志ん生は蛞蝓や蚊柱に悩まされながら、家族と昭和三年から七年間ほど住んだ。一晩で蛞蝓が十能にいっぱいとれたという伝説的な長屋。蛞蝓はおカミさんの足に喰いつき、塩などかけても顎で左右によけて這い、夜にはピシッピシッと鳴いた、と志ん生は語っていた。睦郎は好きだったという志ん生や「なめくじ長屋」にもふれているが、蛞蝓が「枕」に化けるというのだから豪儀な句ではないか。この枕、気持ち悪さを通り越して滑稽千万な味わいがある。「なめくじ長屋」の縁の下あたりには、枕ほどの大きさの蛞蝓の主(ぬし)が息を潜めていたかもしれない。蛞蝓が化けたら、いかにも昔風のごろりとした枕にでもなりそうだ。まさしく梅雨どきのヌラッと湿った枕。「梅雨長き」は時間的長さだけではなく、お化け蛞蝓の「長さ」でもあろう。梅雨・蛞蝓・黴――それらを通過しなければ、乾いた夏はやってこない。「澤」(2008年6月号)所載。(八木忠栄)


June 1262008

 蛇使ひ淋しい時は蛇を抱き

                           藤村青明

くじけるときに、ぬくもりのあるものを抱くと心が安らぐ。犬にせよ、猫にせよ毛のふわふわした温かい動物は言葉を話さずとも抱きしめれば体温で心を慰めてくれる。その感触からいえば蛇は淋しいときに抱くのに適した動物と思えない。忌み嫌われる動物の代表格だった蛇もこの頃は匂いがない、手がかからないと無機質を好む人達のペットに人気と聞くが、蛇好きの人はまだ少数派だろう。掲句で言えば「抱く」という言葉に違和感がある。あんなつるりとして細いものを抱こうとしても身体と体の隙間があいてすーすー風が吹き抜けてゆくではないか。抱けば抱くほどそのもどかしさに淋しさがつのるではないか。蛇は抱くというより身体に巻きつかせるのがせいぜいだろう。並みの感覚でいえば「抱く」のに悪寒をさそう対象が選択されていることがまず読み手の予想を裏切る。平凡な日常からは遠い世界に棲む蛇使いが抱きしめる蛇は真っ白い蛇が似合いだ。その不思議な映像がしんとした孤独を感じさせる。叙情あふれる詩性川柳を書き綴った作者だが、実生活は不遇で、若くして須磨海岸で溺死したという。『短歌俳句川柳101年』(1993)所載。(三宅やよい)


June 1362008

 ほととぎすすでに遺児めく二人子よ

                           石田波郷

日は6月11日、2日前の夜12時ごろ、ほととぎすの声を聞いた。ここは横浜市磯子区洋光台。山を削って造った新興の住宅地であり、付近はまだまだ緑が多い。夜中に何で鳥が鳴くんだろうと不思議に思って確認したのだった。鳥はしばらく鳴いていた。鳴き声を聞いて、歳時記にあった「テッペンカケタカ」を思い出した。間違いないと思った。僕は山陰の田舎育ちなので、ほととぎすもどこかで必ず聞いていると思うのだが、これと意識したことはない。ほととぎすを聞いて句に詠もうと思うと、他の鳥ではないこれぞまさにほととぎすだという句を詠みたくなる。声の特徴やら空間の季節感やらを素材にして。季題を句のテーマにするということはそういうことだ。その季題の「らしさ」が出るように努める。しかし、そこに「自分」が生きなければ、季題をうまく詠むゲームになってしまわないか。波郷のテーマは自己の境涯に向ける眼と二人子の哀れ。ホトトギスは空間を演出する重要な小道具としての役割。なんとしても夜空のあの声を詠もうと思っていた僕はこの句を思い出し、ホトトギスを聞いて感動している自分のことを詠もうと考えてみた。『惜命』(1950)所収。(今井 聖)


June 1462008

 もの言はず香水賣子手を棚に

                           池内友次郎

田男に、〈香水の香ぞ鉄壁をなせりける〉の句がある。ドレスアップして汗ひとつかいていない美人。まとった香水の強い香りが、彼女をさらに近寄りがたい存在にしているのだろうか。昨今は、汗の匂いの気になる夏でも、そこまで強い香水の香りに遭遇することはほとんどないが、すれ違いざまに惹かれた香りの記憶がずっと残っていたりすることはある。この句は昭和十二年作、「銀座高島屋の中を歩き回った」時詠んだと自注がある。その頃の売り子、デパートガールは、今にも増して女性の人気職業だったというから、まだ二十代の友次郎、商品よりもデパートガールについ目が行きがちであったことだろう。客が香水の名前を告げると、黙って棚のその商品に手を伸ばす彼女。どこに何が置いてあるか熟知しており、迷う様子はない。友次郎は、彼女のきりっとした横顔に見惚れていたのかもしれない。そして、後ろにある棚に伸ばした二の腕の白さに、振り向きざまに見えた少しつんとした表情に、冷房とはまた違った涼しさを感じたのだろう。香水そのものを詠んでいるわけではないけれど、棚に手を伸ばすのは、やはり香水売り子がぴたっとくる。『米壽光来』(1987)所収。(今井肖子)


June 1562008

 御手打の夫婦なりしを更衣

                           与謝蕪村

士言葉についての話題を、しばしば聞くことがあります。本も出ているようです。別の世界のようでいて、でもまったく違ったものとも思えない。地続きではあるけれども、不思議な位置にある世界です。いつもの慣れきった日常を新鮮に見つめなおす契機になるようにと、いまさらながら光をあてられてしまった言葉なのでしょう。まさか、「おぬし」とか「せっしゃ」と日々の会話で使うわけにもいかないでしょうが、その志や行いは、江戸しぐさに限らず、日々の行動に取り入れることの出来るものもあります。句の、「御手打(おてうち)」も、今は使われることのなくなった武士社会の言葉です。本当だったら許されることのなかった夫婦、というのですから、自然に思い浮かぶのは密通の罪でしょうか。隠れて情を通じ合っていた男と女が、何らかの理由によって「御手打」を許され、夫婦となって隠れ住んでいるもののようです。それでもかまわないという思いで結ばれた二人の気持ちが、どれほどに烈しいものを含んでいようとも、季節は皆と同じようにめぐってきます。夏になれば更衣(ころもがえ)もするでしょう。句の前半に燃え上がったはげしい情が、更衣一語によって、いっきに鎮められています。『日本の四季 旬の一句』(2002・講談社)所載。(松下育男)


June 1662008

 タイガースご一行様黴の宿

                           山田弘子

っ、なんだなんだ、これは。「失敬な」と思うのは、むろんタイガース・ファンだ。いつごろの句かはわからないが、私はこの「黴(かび)の宿」を比喩と見る。つまり遠征中のタイガースが黴臭く冴えない宿に泊まっているのではなくて、弱かった頃のタイガースの成績の位置がなんだか黴の宿に宿泊しているみたいだと言うのだろう。万年最下位かビリから二番目。実際にどんな宿に泊まっても、そこもまた黴の宿みたいに思えてしまえる、そんな時期もありました。作者は関西の人ゆえ、たぶん阪神ファンだと思うが、あまりの不甲斐なさに可愛さあまって憎さが高じ、つい自嘲を込めた皮肉の一つも吐いてしまったというわけだ。今季のタイガースにとてもこんなことは言えないが、ここにきての三連敗はいただけない。こういう句を作られないように、明後日からの甲子園ではあんじょうたのんまっせ。虚子に一句あり。「此宿はのぞく日輪さへも黴び」。こんなに黴レベルの高い宿屋には、二度と泊まらないですみますように。『彩・円虹例句集』(2008)所載。(清水哲男)


June 1762008

 標本へ夏蝶は水抜かれゆく

                           佐藤文香

虫が苦手なわたしは、掲句によって初めて蝶のHPで採取と収集の方法を知った。そこにはごく淡々と「蝶を採取したら網の中で人差し指と親指で蝶の胸を持ち、強く押すとすぐ死にます」とあり、続いて「基本的に昆虫類の標本は薬品処理する必要がありません。日陰で乾かせばすぐにできあがります」と書かれていた。こんな世界があったのだ。虫ピンというそのものズバリの名の針で胸を刺され、日陰でじっと乾いていく蝶の姿を思うと、やはり戦慄を覚えずにはいられない。掲句はこの処理の手順を「水抜かれ」のみで言い留めた。命、記憶、痛み、恐怖のすべてを切り捨て、唯一生の証しであった水分だけで全てを表現した。出来上がった美しい標本を眺めながら考えた。丸々太った芋虫から、蛹のなかで完全にパーツを入れ替え、全く別な肢体を得る蝶のことである。今までの劇的な変化を考えれば、水分をすっかり抜かれることくらい造作もないことで、永遠の命を得るために標本への道を、蝶が自ら選択しているのではないのかと。〈朝顔や硯の陸の水びたし〉〈へその緒を引かれしやうに鳥帰る〉『海藻標本』(2008)所収。(土肥あき子)


June 1862008

 ひそと動いても大音響

                           成田三樹夫

季にして大胆な字足らず。舞台の役者の演技・所作は、歌舞伎のように大仰なものは要求されないが、ほんの少しの動きであれ、指一本の動きであれ、テンションが高く張りつめた場面であれば、あたかも大音響のごとく舞台を盛りあげる。大声やダイナミックな動きではなく、小さければ小さいほど、ひそやかなものであればあるほど、逆に観客に大きなものとして感じさせる。舞台の役者はその「ひそ」にも圧縮されたエネルギーをこめ、何百人、何千人の観客にしっかり伝えるための努力を重ねている。たかだか十七文字の造形が、ひそやかな静からゆるぎない巨きな動を生み出そうとしている。舞台上の静と動は、実人生での静と動でもあるだろう。特異な存在感をもった俳優として活躍した三樹夫は、舞台のみならず映画のスクリーン上の演技哲学として、こうした考え方をしっかりもっていたのであろう。ニヒルな存在感を「日本刀のような凄みと色気を持ち合わせた名脇役」と評した人がいた。三樹夫は惜しくも五十五歳で亡くなった。私は縁あって告別式に参列した際、三樹夫に多くの俳句があって遺稿句集としてまとめたい、という話を耳にした。死の翌年に刊行された。「鯨の目人の目会うて巨星いず」「友逝きて幽明界の境も消ゆ」などの句がならぶ。インテリで文学青年だった。掲出句はどこやら尾崎放哉を想起させる。「大音響」といえば、富澤赤黄男に「蝶墜ちて大音響の結氷期」があった。皮肉なことに、赤黄男のほうが演技している。『鯨の目』(1991)所収。(八木忠栄)


June 1962008

 どうしても子宮に手がゆくアマリリス

                           松本恭子

んなで聞こう/楽しいオルゴールを/ラリラリラリラ/しらべはアマリリス(『アマリリス』岩佐東一郎作詞)アマリリスの名前を知ったのは教室で習った唱歌からだったが、実際に花を見たのはだいぶ後からだったように思う。このあいだ歩いた茗荷谷の細い路地では大きな赤い花を咲かせたアマリリスの鉢植えが戸口のあちこちに置かれていた。「子宮」という生々しい言葉に一瞬ぎょっとなるけど、アマリリスという優しい花の名前が幾分その衝撃を和らげている。「どうしても子宮に手がゆく」という表現に女に生まれ女の身体に向き合っている哀しみにも似た感情が託されているのだろう。デビューのときにはレモンちゃんの愛称で親しまれ、そのすがすがしい青春性が話題になった作者だが、掲句を含む句集では「私」の感情を中心に身体を通して対象をとらえる主情的な俳句が多かったように思う。「白昼夢機械いぢれば声の出る」「どこまでもゆけると思ふ夜の鹿」『夜の鹿』(1999)所収。(三宅やよい)


June 2062008

 蹴らるる氷拾ふは素手の舟津看護婦

                           岩田昌寿

常の一瞬が鋭く切り取られている。なんでもない風景を切り取って俳句にすることは難しい。切り取られた瞬間が偶然にも「詩」となるのはまさに奇跡である。舟津という看護婦の名は偶然得られたもの。氷が蹴られたものであることも、拾うのが素手であることも何でもないことだが、書かれてみるとそれぞれの動きも感覚も必然に思えてくる。先入観に支配された我々がこういう偶然を手にするのは意図しても難しい。場面に演出を加えてもその段階で「効果」を謀るからおよそ過去の堅実な「部品」や「組み合わせ」を用いることになる。こういう句を生み出せる方法は三つある。一つ目は自分が否応もなく異常な状態に置かれること。例えば病気末期の状況。二つ目は精神に異常をきたすこと。三つ目は先入観を捨て去って、初めて出会ったものを見るようにいつもの風景を見られること。藤の花の美しさを詠むのではなく、活けた藤の花房と畳との距離を詠んだ子規は一つ目のタイプ。病状が子規をして視覚に固執せしめた。この句の作者は二つ目のタイプ。多摩の精神病院で四一歳の生涯を終えている。両者を望まねば三つ目のタイプになるしかないが、そんな天才はいまだに知らない。「写生」とは恐ろしいほど難しい方法である。「俳句研究」(1977年8月号)所載。(今井 聖)


June 2162008

 しんしんと離島の蝉は草に鳴く

                           山田弘子

京は今梅雨真っ盛りだが、昨年の沖縄の梅雨明けは六月二十一日、今年はもう明けたという。梅雨空は、曇っていても、雨が降っている時でさえ、なんとなくうすうす明るい。そんな空をぼんやり見ながら、その向こうにある青空と太陽、夏らしい夏を待つ心持ちは子供の頃と変わらない。東京で蝉が鳴き始めるのは七月の梅雨明け前後、アブラゼミとニイニイゼミがほとんどで、うるさく暑苦しいのだが、それがまた、こうでなくちゃとうれしかったりもする。この句の蝉は、草蝉という草むらに棲息する体長二センチほどの蝉で、離島は、宮古島だという。ずいぶんかわいらしい蝉だなあと思い、インターネットでその鳴き声を聞いてみた。文字で表すと、ジー、だろうか。鳴き始めるのは四月で、五月が盛りというからもう草蝉の時期は終わっているだろう、やはり日本は細長い。遠い南の島の草原、足元から蝉の声に似た音が立ちのぼってくる。聞けば草に棲む蝉だという。いち早く始まっている島の夏、海風に吹かれ、草蝉の声につつまれながら佇む作者。しんしんと、が深い情感を与えている。句集名も含め、蝉の字は、虫偏に單。『草蝉』(2003)所収。(今井肖子)


June 2262008

 退職の言葉少なし赤き薔薇

                           塚原 治

い頃は、人と接するのがひどく苦手でした。多くの人が集まるパーティーに出ることなど、当時の自分には想像もつかないことでした。けれど、勤め人を35年もしているうちに、気がつけばそんなことはなんでもなくなっていました。社会に出て働くということは、単に事務を執ることだけではなく、職場の人々の中に、違和感のない自分を作り上げる能力を獲得することでもあります。ですから、たいていの人は知らず知らずのうちに、人前で挨拶をしろといわれれば、それなりに出来るようになってしまうものです。しかし時には、何年勤めても、そういったことに慣れることのできない人がいます。この句を読んで感じたのは、もくもくと働いてきた人が、定年退職を前に、最後の挨拶を強いられている場面でした。その人にとっては、何十年間を働きあげることよりも、たった一度の人前での挨拶のほうが、苦痛であったのかもしれません。幾日も前から、その瞬間を考えては悩んでいたのです。言葉につまる当人を前に、周りを囲んでいる人たちも気が気ではないのです。言葉などどうでもいい、もうなにも言わなくてもいいからという思いでいっぱいなのです。はやく大きな拍手でたたえて、見事に咲き誇った薔薇を、熱く手渡したかったのです。「朝日俳壇」(「朝日新聞」2008年6月16日付)所載。(松下育男)


June 2362008

 いつせいに子らゐなくなる夏座敷

                           金子 敦

戚一同が集まっての法事の座敷だろうか。私にも何度も体験はあるが、故人にさして思い入れがない場合には、ゆっくりと進行する決まりごとに、大人でもいらいらするときがある。ましてや子供にとっては退屈千万。窓の外は日差しが強く、室内が明るいだけに、余計に苛々してしまうのだ。それでも神妙なふりをして坊さんの読経などを聞いているうちに、やっと式次第が終了し、さあ子供は外で遊んできてもいいよということになる。むろん、しびれをきらしていた子供らはまさに「いっせいに」外に出て行ってしまう。残る子なんて、いやしない。なんということもない情景ではあるけれど、この句は実は大人も同時に解放された気分が隠し味になっているのであって、そこらへんが実に巧みに詠まれている。余談めくが、しかし何かとわずらわしい子供らがこういう場所に集まることそれ自体が、この親族一同にとっての盛りの時期だったことが、後になるとよくわかってくる。少子化ということもあり、こんな情景も今ではなかなかお目にかかれなくなってきているのかもしれない。『冬夕焼』(2008)所収。(清水哲男)


June 2462008

 邪悪なる梅雨に順ひをれるなり

                           相生垣瓜人

ひは、従うの意。毎日続く邪悪な雨に渋々従っているのだという作者には、他にも〈梅雨が来て又残生を暗くせむ〉〈梅雨空の毒毒しきは又言はじ〉〈卑屈にもなるべく梅雨に強ひられし〉と、よほど梅雨の時期がお嫌いだったようである。雲に隠れた名月を眺め、炎天にわずかな涼しさを詠み取る俳人に「あいにくの天気はない」というが、これもやせ我慢や強がりから出る言葉だろう。そこに風雅の心はあるのだと言われれば納得もするが、たまには「嫌いは嫌い」とはっきり言ってくれる句にほっとし、清々しさを感じることもある。『雨のことば辞典』(倉嶋厚著)に「雨禁獄(あめきんごく)」という言葉を見つけた。大切な日に雨ばかり降ることに立腹した白河院が、雨を器にいれて牢屋に閉じ込めた故事によるという。雨乞い、晴乞い、ひいては生け贄をもってうかがいを立てるなど、天災にはきわめてへりくだったやり方が採用されていた時代に、なんと大上段の構えだろう。しかし、この八つ当たり的な措置に愛嬌と童心を感じるのも、また掲句に浮かぶ微笑と等しいように思う。『相生垣瓜人全句集』(2006)所収。(土肥あき子)


June 2562008

 蝋の鮨のぞく少女のうなじ細く

                           高見 順

にかぎらず、レストランのウィンドーにディスプレイされている食品サンプルの精巧さには驚かされる。みごとなオブジェ作品である。昔は蝋細工だったが、現在は塩化ビニールやプラスチックを素材にしているようだ。食品サンプルはもともと日本独自のものであり、その精巧さはみごとである。目の悪い人には本物に見えてしまうだろう。掲出句の「蝋の鮨」は鮨屋のウィンドーというよりは、鮨からラーメンまでいろいろ取りそろえているファミリー・レストラン入口のウィンドーあたりではないか。蝋細工のさまざまなサンプルがならんでいるなかで、とりわけおいしそうな鮨に少女は釘付けになっているといった図である。たとえファミリー・レストランであるにしても、鮨の値段は安くはない。食べたいけれど、ふところと相談しているか、またはその精巧さに感心しているのかもしれない。作者は店に入ろうとしてか、通りがかりにか、そこに足を止めている少女の細いうなじが目に入った。少女の見えない表情を、うなじで読みとろうとしている。作家らしい好奇心だけでなく、やさしい心がそこに働いている。どこかしらドラマの一場面のようにも読めそうではないか。鮨と細いうなじの清潔感、それを見逃さない一瞬の小さな驚きがここにはある。江戸前の握り鮨は、鬱陶しい雨期や炎暑の真夏にはすがすがしい。高見順が残した俳句は少ないが、小説家らしい句。鮨の俳句と言えば、徳川夢声に「冷々と寿司の皿ある楽屋かな」、桂信子に「鮨食うて皿の残れる春の暮」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


June 2662008

 ほうたると息を合はせてゐる子かな

                           西野文代

い頃は高度成長で町中の川は汚れきっており、初めて蛍を見たのはかなり遅かった。真っ暗な道で青白く光るものが胸の辺りを横切ったときには、うわっとばかりにのけぞってしまった。一匹だけ飛んできた蛍は今まで見たどんな灯りにもない冷たい色を帯びていて都会育ちの私には少し不気味だった。掲句の子供はそんな私と違い蛍と馴染みのようだが、どんな場所で蛍と向き合っているのだろう。川の傍らの草に止まっているのを見つけたのか、それとも明りを消した部屋の蛍籠だろうか。「蛍」を「ほうたる」と少し間延びしたゆるやかな音を響かせることで、蛍にじっと見入っている子供がその光にあわせて深く息を吸っては、吐いている時間が伝わってくる。読み手も自分の息を「ほうたる」と、ゆっくりしたリズムに重ねてみることでその様子を実感をもって想像できる。テレビの音も車の音もしない、ただしんとした闇のなか光で語りかけてくる蛍との豊かな対話をこの子は味わっているのだろう。『ほんたうに』(1990)所収。(三宅やよい)


June 2762008

 初夏の街角に立つ鹿のごと

                           小檜山繁子

つのは自分。恐る恐る周囲を確かめるように、きらきら輝く初夏の光の中に立つ。街も鹿も清新な気に満ちている。昭和六年生れの小檜山さんは、結核療養中二十四歳で加藤楸邨に師事。重症だったので療養所句会には車椅子で出席した。青春期の大半を療養所で送ったひとが、街角に立つ「自分」をどれほど喜びと不安に包まれた存在として見ているかがうかがわれる。言葉の印象としては角と鹿が、かど、つの、鹿という連想でつながる。一句表記の立姿も鹿の象徴のようにすっきりしている。別冊俳句「平成俳句選集」(2007)所載。(今井 聖)


June 2862008

 蚊遣香文脈一字にてゆらぐ

                           水内慶太

年ぶりだろう、金鳥の渦巻蚊取線香を買ってきた。真ん中の赤い鶏冠が立派な雄鳥と、青地に白い除虫菊の絵柄が懐かしい。緑の渦巻の中心を線香立てに差し込んで火をつける。蚊が落ちる位なのだから、人間にも害がないわけはないな、と思いながら鼻を近づけて煙を吸ってみる。記憶の中の香りより、やや燻し臭が強いような気がするが、うすい絹のひものように立ち上っては、ねじれからみ合いながら、夕暮れ時の重い空気に溶けてゆく煙のさまは変わらない。長方形に近い断面は、すーと四角いまま煙となり、そこから微妙な曲線を描いてゆく。作者は書き物をしていたのか、俳句を詠んでいたのか、考えることを中断して外に目をやった時、縁側の蚊取り線香が視野に入ったのだろうか。煙がゆらぐことと文脈がゆらぐことが近すぎる、と読むのではなく、蚊を遣る、という日本古来の心と、たとえば助詞ひとつでまったく違う顔を見せる日本語の奥深さが、静かな風景の中で響き合っている気がした。〈海の縁側さくら貝さくら貝〉〈穴を出て蜥蜴しばらく魚のかほ〉〈星祭るもつとも蒼き星に棲み〉など自在な句がちりばめられている句集『月の匣(はこ)』(2002)所収。(今井肖子)


June 2962008

 居るはづの妻消えてゐし昼寝覚め

                           平石保夫

通の読み方をするなら、この句はほほえましい光景として受け止められるのでしょう。連日のつらい通勤から、やっとたどり着いた休日なのに、勤め人というのはなぜか朝早く目が覚めてしまうのです。そのために昼過ぎにはもう、朝の元気は消えうせ、眠くて仕方がありません。腕枕をしながらテレビでも見ようものなら、5分とたたずに眠ってしまいます。いつもなら、「こんなところで邪魔ねえ」と、早々に起こされるところが、なぜか今日はぐっすり眠らせてもらえたようです。なんだか頭の芯まですっきりするほどに眠ってしまったのです。窓の外を見れば、すでに夕暮れが訪れてきています。部屋の電気も消え、まわりには何の物音もしません。どうしてだれもいないのだろうと、だるい体で考えをめぐらせているのです。読みようによっては、「消えて」の一語が、ちょっとした恐怖感をかもし出しています。でも奥さんは単に、夕飯の買い物にでも出かけたか、あるいは何かの用事があって外出しているだけなのでしょう。さびしさとか、取り残されているとか、そんな感じの入り込む余地のない、おだやかで、堅実な日々のしあわせを、この句から感じ取れます。『鑑賞歳時記 夏』(1995・角川書店)所載。(松下育男)


June 3062008

 草刈奉仕団が帝国ホテルより

                           高千夏子

えっ。「草刈」と「帝国ホテル」とは、なんともそぐわない取り合わせだ。一瞬そう思ったけれど、ははあんと納得。これから草刈奉仕に出かける先は、間違いなく皇居だろう。皇居では常時、勤労奉仕希望者を募集している。仕事は除草,清掃,庭園作業などだそうだ。15名以上60名までの団体であれば、誰でも申し込むことができる。奉仕期間は連続した四日間だから、地方からの奉仕者は近辺に宿泊しなければならない。したがって、なかにはこんなふうに帝国ホテルに泊まる人たちがいても不思議ではない。奉仕ついでに東京見物もかねてとほとんど物見遊山気分なのである。それにしても、まさかみなさん手に手に草刈鎌を持っていたとは考えにくいから、いったいどんないでたちだったのかが気になる。普通に考えれば奉仕団と染め抜いた旗かたすきを携えていたと思われるが、違うかな。いずれにしても皇居奉仕と帝国ホテルとは、俳句的にはつき過ぎにはならないけれど、観念的にはえらくつき過ぎていて、にやりとさせられてしまった。『審版・俳句歳時記』(雄山閣出版・2001)所載。(清水哲男)




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