June 1762008

 標本へ夏蝶は水抜かれゆく

                           佐藤文香

虫が苦手なわたしは、掲句によって初めて蝶のHPで採取と収集の方法を知った。そこにはごく淡々と「蝶を採取したら網の中で人差し指と親指で蝶の胸を持ち、強く押すとすぐ死にます」とあり、続いて「基本的に昆虫類の標本は薬品処理する必要がありません。日陰で乾かせばすぐにできあがります」と書かれていた。こんな世界があったのだ。虫ピンというそのものズバリの名の針で胸を刺され、日陰でじっと乾いていく蝶の姿を思うと、やはり戦慄を覚えずにはいられない。掲句はこの処理の手順を「水抜かれ」のみで言い留めた。命、記憶、痛み、恐怖のすべてを切り捨て、唯一生の証しであった水分だけで全てを表現した。出来上がった美しい標本を眺めながら考えた。丸々太った芋虫から、蛹のなかで完全にパーツを入れ替え、全く別な肢体を得る蝶のことである。今までの劇的な変化を考えれば、水分をすっかり抜かれることくらい造作もないことで、永遠の命を得るために標本への道を、蝶が自ら選択しているのではないのかと。〈朝顔や硯の陸の水びたし〉〈へその緒を引かれしやうに鳥帰る〉『海藻標本』(2008)所収。(土肥あき子)


August 2482013

 ふれて紙の表か裏か天の川

                           佐藤文香

、天の川を検索して出てくる画像と、子供の頃見ていた天の川の印象はかなり違う。満天の星空を仰いだ記憶の中の天の川は、川というより確かにミルキーウェイ、白くうすく流れていて、あの天の川の向こう側からこっちが透けて見えるかな、と思ったほどだった。そのうち天の川の向こう側、つまり裏側は無いのだ、と学習する。目に見えていながら実体がない、掲出句はそんな理屈を言っている訳ではないだろうが、メビウスの輪など持ち出すまでもなく、ひょいと返したパンケーキは裏が表に表が裏に、表と裏はあやうく不確かな存在である。たとえば水彩画の画用紙、少しざらっとした方が概ね表だが表裏は別として、指にふれたその感覚だけは確かなものなのだ。『俳句』(2013年8月号)所載。(今井肖子)


April 2342015

 たんぽぽを活けて一部屋だけの家

                           佐藤文香

ンポポは野原で明るい日差しを受けて輝く花、摘んできてもだんだん首を垂れてしぼんでしまう。例えば母親のために子どもがタンポポを摘んで、はいと渡す。渡された花はコップに挿されて母親の胸を暖かくする。たわむれに持ち帰るたんぽぽはそんな光景を想像させる。掲句では野の花を「活ける」、一部屋なのに「家」という言い回しに殺風景なアパートの一室を満たしている若さを感じる。「家」と呼ぶのは自分を同じ時間と空間を共有する相手があってこそのもの。そんな「君」との恋愛がこの句の下敷きにあるのだろう掲句が収められている句集には定型のリズムをはずれての句またがりをはじめ様々な試みが見られる。これなら短歌やほかの詩形でもと思わないでもないが、俳句でこそ詠むことでこの人独自の世界を築こうとしているのだろう。『君に目があり見開かれ』(2014)所収。(三宅やよい)


October 15102015

 電球や柿むくときに声が出て

                           佐藤文香

学校のとき高いところにある電球を取り換えるのに失敗して床に取り落としたことがある。「あっ」と手元が滑ったとき落下してゆく電球と粉々に割れる様までスローモーションのようにはっきり見えた。それ以来電球の剥き出しの無防備さが気になって仕方なかった。背中がむずがゆくなってくるほどだ。掲載句は「電球や」ではっきり切れているのだけど、柿をむく行為と、電球のつるりと剥き出し加減が通底している。そして「声が出て」は読み手に意味付けなく手渡されているのだけど、何かしらエロチックなものを想像してしまう。俳句に色気は大事である。柿の句でこんな句は見たことがないし、この句を読むたび身体の奥が痛くなる。言葉の配列の不思議が強く印象に残る句である。『君に目があり見開かれ』(2015)所収。(三宅やよい)




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