2008N8句

August 0182008

 泳ぎより歩行に移るその境

                           山口誓子

観写生といわれる方法から従来の俳句的情趣を剥ぎ取ったらどうなるかという実験的な作品。ものをそのまま文字に置き換えて「客観的に写生する」ことの論理的矛盾を嗤い言葉から発する自在なイメージを尊重するようにとの主張から「新興俳句」が出発したが、その「写生」批判は実は、従来の俳句的情趣つまり花鳥諷詠批判が本質だったと僕は思う。俳句モダニストたちの写生蔑視の中には誓子のこんな句は計算外だった。平泳ぎでもクロールでもいい。水の表面を泳いでいる肢がある地点で地につく。その瞬間から歩行が始まる。水中を縦割りにして泳者を横から見ている視点がある。水面は上辺。遠浅の海底が底辺。底辺は陸に向かって斜めに上がりやがて上辺と交わる。そこが陸である。肢は、二辺が作る鋭角の中を上辺に沿って移動し、ある時点で底辺に触れる。こんな「写生」をそれまでに誰が試みたろうか。ここにはまったく新しい現代の情緒が生み出されている。『青銅』(1962)所収。(今井 聖)


August 0282008

 涼しやとおもひ涼しとおもひけり

                           後藤夜半

し。暑い夏だからこそ、涼しさを感じることもまたひとしお、と歳時記にある。朝涼、夕涼、晩涼、夜涼から、風涼し、星涼し、灯涼し、鐘涼しなど、さまざまなものに、ひとときの涼しさを詠んだ句は多い。涼し、は、読むものにわかりやすく心地よい言葉であり、詠み手にとっても、使いやすく作りやすい。それにしてもこの句は、さまざまな小道具や場面設定がいっさい無い。暑さの中を来て木陰に入ったのか、あ、涼しい、とまず思う瞬間があり、それから深く息を吐きながら、やれやれ本当に涼しいな、と実感しているのだろう。その、短い時間の経過を、涼しや、と、涼し、で表現することで、そこに感じられるのはぎらぎらとした真夏であり、涼し、という季題の本質はそこにあるのかとも思えてくる。作られたのは昭和三十九年、東京オリンピックが開催された年の七月。炎天下、新幹線を始めさまざまな工事は最終段階、暑さと熱さでむせかえるような夏だったことだろう。『脚注シリーズ後藤夜半集』(1984)所収。(今井肖子)


August 0382008

 平均台降りて夏果てとも違ふ

                           中原道夫

ういえば先日朝日新聞に、清水哲男さんが日本の詩歌はスポーツをきちんと扱っていないと書いていました。なるほどと思っているところに、この句と出会いました。平均台というと、なぜか女子のスポーツです。中学生のときに、体育館の中で、跳び箱の順番を待ちながら、女子が平均台の上で苦労している姿をぼんやりと見ていたものです。夏であれば、体育館の開け放たれた扉の外には、空高く入道雲が盛り上がっていたことでしょう。この句が詠んでいるのは、平均台の上での動きそのものではなく、演技が終わって後のほっとした瞬間です。中空から足を地に下ろす、その時の心情が、閉じられようとする季節に重ねて詠われています。季語は「夏果て」、夏の終わるのを惜しむ気持ちです。ただ、句は夏果てとも違ふと、締めくくっています。この否定は、競技に燃焼しつくせなかったことを表しているのでしょうか。あるいは、季節に取り残した大切なものが別にあるということでしょうか。身体だけではなく、句の結末も、あやうげに中空に浮かんでいるようです。『角川俳句大歳時記 夏』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


August 0482008

 まっすぐにきて炎天の鯨幕

                           大島得志

夏の葬儀は辛い。もう四十年も昔のことになるが、仕事仲間のカメラマンが交通事故で死んだ。ついその前日に、仕事の段取りを打ち合わせたばかりだった。そのときの彼はすこぶる上機嫌で、それもそのはず、長い間欲しかった車を中古ではあったが、ようやく手に入れたと言い、それに乗って撮影に行ってくからとはりきっていた。カメラマンは荷物が多いので、たしかに車はないよりもあったほうがよいだろう。そして、別れてから二十四時間経ったか経たないかのうちに訃報が入り、思わず電話をくれた相手に「ウソだろ」と問い返していた。しかし、それは現実だった。センターオーバーで他の車と衝突し、即死状態だったという。しかも運転席の彼の横に、彼はお母さんを乗せていた。親孝行も兼ねてのドライブだったのだ。幸い、母堂は一命をとりとめたということだったが、その後のことは知らない。三十歳にも満たない短い生涯だった。葬儀はめちゃくちゃに暑い日で、小さな都営住宅の自宅で行われたこともあり、私は黒い服のままほとんど炎天の道端に立ち尽くして出棺まで見送った。汗という汗はすべて出尽くしてしまい、襲ってくる眩暈に耐えての参列だった。恋人らしき若い女性が泣いていた様子以外、何も覚えていないのは、そんな猛暑のせいである。そういうこともあったので、この句は実感としてよくわかる。遠慮も逡巡もなく、葬儀の場に「まっすぐにきて鯨幕」に向かうとは、あまりの暑さに「鯨幕」の陰に救いを求めたいという心理が優先しての措辞だ。暑い日でなければ、おもむろに鯨幕の向こうに入っていくのだが、そんなに悠長に構えてはいられなかった作者の心情がよく出ている。『現代俳句歳時記・夏』(学習研究社・2004)所載。(清水哲男)


August 0582008

 白服の胸を開いて干されけり

                           対馬康子

い空白い雲、一列に並んだ洗濯物。この幸せを象徴するような映像が、掲句ではまるで胸を切り裂かれたような衝撃を与えるのは、単に文字が作り出す印象ではなく、そこに真夏の尋常ではない光線が存在するからだろう。白いシャツの上に自ら作りだす黒々とした影さえも、灼熱の太陽のもとでは驚くほど意外なものに映る。この強烈なエネルギーのなかで、なにもかも降参したように、あるものは胸を開き、あるものは逆さ吊りにされて、からからと乾いていくのである。しかし、お日さまをよく吸って、すっかり乾いた洗濯物の匂いは格別なもの。最近発売されている柔軟剤に「お日さまの香り」というのを見つけた。早速試してみたらどことなくメロンに近いものを感じるが、お日さまといえばたしかにお日さま。それにしても太陽の香りまで合成されるようになっている現代に、ただただ目を丸くしている。〈異国の血少し入っている菫〉〈初雪は生まれなかった子のにおい〉〈死と生と月のろうそくもてつなぐ〉『天之』(2007)所収。(土肥あき子)


August 0682008

 蟇ひたすら月に迫りけり

                           宮澤賢治

るからにグロテスクで、人にはあまり好かれない蟇(ひきがへる)の動作は鈍重で、叫んでも小石を投げつけてもなかなか動かない。暗い藪のなかで出くわし、ハッとして思わず跳びすさった経験がある。その蟇が地べたにバタリとへばりついているのではなく、「月に迫りけり」と大きなパースペクティブでとらえたところが、いかにも賢治らしい。ピョンピョンと跳んで月に迫るわけではない。バタリ・・・バタリ・・・とゆっくり重々しく迫って行くのだろう。「ひたすら」といっても、ゆっくりとした前進であるにちがいない。蟇には日の暮れる頃から活動する習性があるという。鈍重な蟇と明るい月の取り合せが印象的である。もしかしてこの蟇は、銀河鉄道でロマンチックに運ばれて行くのだろうか。そんな滑稽な図を考えてみたくもなる。賢治に「春―水星少女歌劇団一行」という詩があり、「向ふの小さな泥洲では、ぼうぼうと立つ白い湯気のなかを、蟇がつるんで這つてゐます」という、蟇の登場で終わっている。賢治は少年期から青年期にかけて、さかんに短歌を作ったけれども、俳句には「たそがれてなまめく菊のけはひかな」という作品もある。彼の俳句については触れられることが殆どなく、年譜に「村上鬼城『鬼城句集』が出版され、・・・・愛好して後半作句の手引きとし揮毫の練習に用いた」(大正六年・二十一歳)と記されている程度である。蟇といえば、中村草田男の代表句の一つ「蟾蜍(ひきがへる)長子家去る由もなし」を思い出す。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


August 0782008

 膝に乗る黒猫の愚図夜の秋

                           坪内稔典

になると昼の暑さが遠のき一足先に秋が到着したように涼やかな夜風が吹き抜けてゆく。今日から暦のうえでは「秋」に移行するわけだけど、とりわけこの頃の季感にこの季語が似つかわしく思われる。日中は毛だらけの猫がそばに寄ってくるだけでも疎ましいが、そよそよと吹く風に汗もひき、ふと膝に寂しさを覚えるとき、座り込んでくる猫の重みもうれしい。俊敏な動きの猫の名が「愚図」というのも面白いが、「黒」と「愚」の字の並びにたっぷりとした夜の闇が猫に化身したごとき不思議が感じられる。出だしの「膝」と結語「秋」のイ音がくぐもった音を連続させた全体の調子を引き締めている。「ほかのあらゆる類似の言葉を拒んでその特別に選ばれた言葉どおりくりかえし口誦されることを望んでいる」とは高柳重信の言葉だが、リズミカルな口誦性とイメージの豊かさはこの作者のどの句にも共通する特色だろう。『京の季語・夏』(1998・光村推古書院)所載。(三宅やよい)


August 0882008

 ビール抜き受け止めたりな船の人

                           相島虚吼

誌「ホトトギス」の俳人のいろいろな意味で問題提起の作品。この句、ビールそのものを言わずして船上のビールを思わしめている点は熟練の技を感じさせる。ところで、ビール抜きなどというものはない。あるのは栓抜きである。ところが栓抜きというと季題にならないから無理をして造語を作ってビール抜きという。ではそんなに無理をしてビール抜きといえば季題になるかというとこれは微妙なところでしょう。ビール抜きというものが存在するとしても、ビールといわないかぎりそこにビールは存在しない。ビール抜きがあるのだからビールは言わずもがなということになるのなら、季題は無くとも季節感さえあればいいということになる。「ホトトギス」はそんなことは認めていないでしょう。それとも字面でビールという字があれば季題になるというのであれば鰯の缶詰でも桜の紋章でも季題になる。それは違うでしょう。「写生」というのは季題諷詠なのか、「もの」そのものを凝視するのか、はたまた受け止めた「人」を活写するのか。さあ、どっちなんだと「ビール抜き」が言っている。『新歳時記増訂版虚子編』(1951)所載。(今井 聖)


August 0982008

 八月の月光部屋に原爆忌

                           大井雅人

爆忌は夏季だが、立秋を間に挟むので、広島忌(夏)長崎忌(秋)と区別する場合もある・・・というのを聞きながら、何をのん気なことを言っているんだろう、と思った記憶がある。もちろんそれは、何ら異論を挟むような問題ではないのだけれど。原爆投下、終戦、玉音放送から連想されるのはやりきれない夏だと母は言う、だから夾竹桃の花は嫌いだと。昭和二十年八月六日、愛媛県今治市に疎開していた母は、その瞬間戸外にいて、一瞬の閃光につつまれた。その光の記憶は、六十三年経った現在も鮮明であるという。その時十三歳であったと思われる作者に、どんな記憶が残っているのかはわからないけれど、輪郭が際立ち始めた八月の月の光と、原爆の、想像を絶する強烈な光は、かけ離れているようでどこか呼応する。八月という言葉の持つ重さが、その二つを結びつけているのだろうか。『新日本大歳時記』(2000・講談社)所載。(今井肖子)


August 1082008

 物音は一個にひとつ秋はじめ

                           藤田湘子

読、小さなものたちが織り成す物語を思い浮かべました。人間たちが寝静まったあとで、コップはコップの音を、スプーンはスプーンの音を、急須は急須のちいさな音をたて始めます。語るためのものではなく、伝えるためのものでもなく、単にそのものであることがたてる「音」。もちろんこの「物音」は、人にもあてがわれていて、一人一人がその内側で、さまざまな鳴り方をしているのです。季語は「秋はじめ」、時期としては八月の頃をさします。まだまだ暑い日が続くけれども、季節は確実に秋へ傾いています。その傾きにふと聞こえてきたものを詠んだのが、この句です。秋にふさわしく、透明感に溢れる、清新な句になっています。気になるのは、「一個」と「ひとつ」という数詞。作者の中にひそむ孤独感を表現しているのでしょうか。いえそうではなく、この「一個」と「ひとつ」は、しっかりと秋の中に、自分があることの位置を定めているのです。『角川俳句大歳時記 秋』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


August 1182008

 家はみな杖にしら髪の墓参

                           松尾芭蕉

参はなにも盆に限ったことではないが、俳句では盆が供養月であることから秋の季語としてきた。芭蕉の死の年、元禄七年(1694年)の作である。句の情景は説明するまでもなかろうが、作者にしてみれば、一種愕然たる思いの果ての心情吐露と言ってよいだろう。芭蕉には兄と姉がおり、三人の妹がいた。が、兄の半左衛門には子がなくて妹を養女にしていたのだし、芭蕉にもなく、あとの姉妹の子も早逝したりして、このときの松尾家には若者はいなかったと思われる。残されて墓参に参加しているのは、年老いた兄弟姉妹だけである。それぞれが齢を重ねているのは当たり前の話だから、あらためてびっくりするはずもないのだけれど、しかし実際にこうしてみんなが墓の前に立っている姿を目撃すると、やはりあらためて愕然とするのであった。この句の「みな」の「杖」と「しら髪(が)」は老いの象徴物なのであって、白日の下にあってはその他の老いの諸相も細部に至るまで、あからさまにむき出しにされていたことだろう。松尾家、老いたり。朽ち果てるのも時間の問題だ。このときの芭蕉は体調不良だったはずだが、、猛暑のなか、かえって頭だけは煌々と冴えていたのかもしれない。矢島渚男は「高齢者家族の嘆きを描いて、これ以上の句はおそらく今後も出ないことであろう」(「梟」2008年8月号)と書いている。同感だ。(清水哲男)


August 1282008

 山へゆき山をかへらぬ盆の唄

                           小原啄葉

仕事に行ったきり帰ってこない者を恋う歌なのだろうか。具体的な歌詞を知るために、まずは作者の出身である東北地方最古といわれる盆踊り唄「南部盆唄」から調べてみた。ところが、これがもうまったく不思議な唄だった。「南部盆唄」はまたの名を「なにゃとやら」と呼ばれ、「なにゃとやらなにゃとなされのなにゃとやら」と、文字にするのも困難を極めるこの呪文のような文句を、一晩中繰り返し唄い踊るのだった。しかし、元々盆唄とは歌詞は即興であることも多く、その抑揚そのものが土地へとしみ渡っているように思う。「なにゃとやら」と続くリズムを土地の神さまへ納めているのだろう。掲句の盆唄もまた、山を畏怖する土地に伝承されている唄と把握すればそれ以上知る必要はないのだ。抑揚のみの伝搬を思うと、今、やたらと耳につき、思わず口ずさんでいることすらあるメロディーがある。「崖の上のポニョ」。このメロディーもまた、やはりなにか信仰につながるような現代に粘り付くメロディーがあるように思い当たるのだった。〈草の中水流れゐる送り盆〉〈精霊舟沈みし闇へ闇流る〉〈あらくさに夕陽飛びつく二十日盆〉句集名『而今』は「今の一瞬」の意。道元禅師の「山水経」冒頭より採られたという。(2008)所収。(土肥あき子)


August 1382008

 神宮の夕立去りて打撃戦

                           ねじめ正一

宮球場だから東京六大学野球でもいいわけだけれど、豪快な「打撃戦」であろうから、ここはプロ野球のナイターと受けとりたい。ヤクルト対阪神か巨人か。ドーム球場では味わえない、激しい夕立が去って幾分ひんやりしたグランド上で、さてプレー再開というわけである。選手たちが気をとり直し、生き返ったように、中断がウソだったように派手な打撃戦となる。夕立が両チームに喝を入れたのであろう。スタンドにも新たな気合が加わる。夕立であれ、停電であれ、思わぬアクシデントによる中断の後、試合内容が一変することがよくある。夕立に洗われた神宮の森も息を吹き返して、球場全体が盛りあがっているのだろう。その昔、神宮球場の試合が夕立で中断しているのに、後楽園球場ではまったく降っていないということが実際にあった。夕立は局地的である。ドーム球場では味わえなくなった“野の球”が、神宮では今もしっかりと生きているのはうれしい。長嶋茂雄ファンの正一は、「打撃戦」のバッター・ボックスに、現役時代の長嶋の姿を想定しているのかもしれない。掲出句は雑誌の句会で、正客として招かれた正一が投じたなかの一句。席上、角川春樹は「『夕立』を使った句の中でも類想がない。佳作だよ」と評している。ほかに「満月を四つに畳んで持ち帰る」「ちょん髷を咲かせてみたし豆の花」などに注目した。「en-taxi」22号(2008年6月)所載。(八木忠栄)


August 1482008

 戦死せり三十二枚の歯をそろへ

                           藤木清子

は学徒出陣で海軍に配属され、鹿児島県の志布志湾に秘密裡に作られた航空基地で敗戦の日を迎えた。同年齢の義父は、広島の爆心地で被爆した後郷里に戻り静養していた。九死に一生を得た二人とも戦争についてほとんど語らなかったが、戦死した同世代の青年達をいつも心の片隅において生涯を過ごしたように思う。祖国の土を踏むことなく異国の地で果てた若者たちはどれほど無念だったろう。私が小さい頃、街には戦争の傷痕がいたるところに残っていた。向かいの病院は迷彩色を施したままであったし、空襲の瓦礫が山積みになった野原もあった。戦後63年を経過し、戦争の記憶は薄れつつある。三十二枚の健康な歯をそろえながら飢えにさいなまれ、南の島や大陸で戦死した青年達の口惜しさは同時代を生きたものにしかわからないかもしれない。そうした人々への愛惜の気持ちがこの句を清子に書かせたのだろう。事実だけを述べたように思える言葉の並びではあるが、「そろへ」と中止法で打ち切られたあとに、戦死したものたちの無言の声を響かせているように思う。『現代俳句』上(2001)所載。(三宅やよい)


August 1582008

 花火見る暗き二階を見て通る

                           池内たけし

火見るでは切れない。花火を見ている顔が並ぶ暗い二階を見て通るという内容。顔は見えないかもしれない。顔が見えなくても花火を見ているであろうことは声でわかるのかもしれない。もし「見る」で切れるとするならば、作者は花火と暗い二階を同時に(或いは連続して)見ていることになる。同時に見るのは無理だし、連続して見てもそこに詩情は感じられない。これはやはり花火を見ないで二階を見ているのだ。花火を見ているのは二階の人。花火を見ずとも音は聞こえる。花火の炸裂音の中で作者は暗い二階を見上げる。花火に浮き立つ世の人々を冷笑的に見ているのか。花火賛歌ではない内面的な角度がある。何か人目をひくものの前でそこに見入る人を見ている人が必ずいる。見る側に立つのはいいが、見られる側に立つのはなんとなく気持ちが悪い。見ている側に優越的な気持ちを持たれているようでもあるし。もし逆の立場で、二階で花火を見ている自分が下から見られていると感じたら、いっそう楽しそうに花火見物の自分をみせつける奴と、どこ見てんだよと睨み返す奴がいるんだろうな。僕はやっぱり後者だな。楽しんでる顔を冷静に見られるのは嫌だな。『新歳時記増訂版虚子編』(1951)所載。(今井 聖)


August 1682008

 ぼろぼろな花野に雨の降りつづけ 

                           草間時彦

野というと、子供の頃夏休みの何日かを過ごした山中湖を思い出す。早朝、赤富士を見ようと眠い目をこすりながら窓を開けると、高原の朝の匂いが目の前に広がる花野から飛び込んで来た。それは草と土と朝露の匂いで、今でも夕立の後などに、それに近い匂いがすると懐かしい心持ちになる。花野は、自然に草花が群生したものなので、夏の間は草いきれに満ちているだろう。そこに少しずつ、秋の七草を始め、吾亦紅や野菊などが咲き、草色の中に、白、黄色、赤、紫と色が散らばって花野となってゆく。この句の花野は、那須野の広々とした花野であるという。そこに、ただただ雨が降っている。雨は、草の匂いとこまごまとした花の色を濃くしながら降り続き、止む気配もない。降りつづけ、の已然止めが、そんな高原の蕭々とした様を思わせ、ぼろぼろな、という措辞からするともう終わりかけている花野かもしれないが、その語感とは逆に逞しい千草をも感じさせる。同じ花野で〈花野より虻来る朝の目玉焼〉とあり、いずれもイメージに囚われない作者自身の花野である。『淡酒』(1971)所収。(今井肖子)


August 1782008

 異国語もまじる空港秋暑し

                           後藤軒太郎

港の、高い天井の下にいると、なぜか自分がとるにたりない存在のように感じられてきます。通常は出会えない大きな空間に放り出されて、気後れがしてしまうのかもしれません。先日も見送りのために成田空港に行ってきましたが、家族にかける言葉も、いつもと違って、どこかうわっつらなものになってしまうのです。この句を読んで、あの日に感じたことをまざまざと思い出していました。「異国語」の「異」は、言葉だけではなく、心の中の違和感をも表しているようです。旅立つ人、見送る人、双方が日常の時間から切りはなされて緊張しているのです。耳元では、アジア系の、どこともわからない国の話し言葉が聞えてきます。「いってらっしゃい」と手を振って、一人きりになったあと、帰宅のために空港のバス停に向かいました。空港の建物から突き出ている大きな庇の向うには、依然として真夏の陽射しが強く照りつけていました。まさに本日あたりは、盆休みの行楽から多くの人が帰ってくるのでしょう。混雑する空港で、汗をぬぐいながら母国語にほっとして、暑い日常の日々に少しずつ戻って行くのです。『角川俳句大歳時記 秋』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


August 1882008

 喪服着てガム噛みゐたり秋の昼

                           星川木葛子

儀に出かけるために、喪服に着替えた。しかし、家を出るにはまだ少し時間がある。煙草を喫う人ならばここで一服となるところだろうが、作者はガムを噛んで時間をつぶすことにした。煙草でもガムでも、こういうときのそれは、べつに味を求めて口にするわけではない。ただ漫然と時間をつぶす気持ちになれなくて、何かしていなければ気がすまない状態にある。そしてたまたま手近にあったガムを噛んだのだが、噛めば噛んだで、口中の単純な反復行為は、噛んでいないときよりも、故人のあれこれを思い出す引き金のようになる。まあ、一種の集中力が口中から精神にのりうつってくるというわけだ。いっそうの喪失感が湧き上がってくる。その意味で、喪服とガムはミスマッチのようでいて、そうではないのである。煙草を喫うよりも、噛みしめる行為が伴うので、余計に心には響くものがある。時はしかも秋の昼だ。外光はあくまでも明るく、空気は澄んでいる。人が死んだなんて、嘘のようである。葬儀に向かう心情を、あくまでも平凡で具体的な行為に託しながら捉えてみせた佳句と言えよう。おそらくは誰だって、比喩的に言えば、ガムを噛んでからおもむろに葬式に臨むのである。『現代俳句歳時記・秋』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


August 1982008

 本といふ紙の重さの残暑かな

                           大川ゆかり

さは立秋を迎えてから残暑と名を変えて、あらためてのしかかるように襲ってくる。俳句を始めてから知った「炎帝」という名は、火の神、夏の神、または太陽そのものを指すという。立秋のあとの長い長い残暑を思うと、炎帝の姿にはふさふさと重苦しい長い尻尾がついていると、勝手に確信ある想像していたのだが、ポケモンに登場する「エンテイ」は「獅子のような風格。背中には噴煙を思わせるたてがみを持つ」とされ、残念ながら尻尾には言及されていない。掲句は残暑という底なしの不快さを、本来「軽さ」を思わせる「紙」で表現した。インターネットから多くの情報を得るようになってから、紙の重さを忘れることもたびたびある現代だが、「広辞苑」といって、あの本の厚みを想像できることの健やかさを思う。ずっしりと思わぬ重さに、まだまだ続く残暑を重ね、本の重さという手応えをあらためて身体に刻印している。〈泳ぐとはゆつくりと海纏ふこと〉〈月朧わたくしといふかたちかな〉〈あきらめて冬木となりてゐたりけり〉『炎帝』(2007)所収。(土肥あき子)


August 2082008

 打水や下駄ぬぎとばし猶も打つ

                           土師清二

昼、都心の舗道を汗を拭き拭き歩いていると、いつも思う――どこまでもつづくコンクリート装置が、必要以上の暑熱を容赦なく通行人や街に照り返している! 異常としか言いようのないこの都市という装置は、人間にとってはたまったものではない。その二日後、私は佃と月島の路地を歩いていた。行く先々に施された打水。暑いけれどホッとして、居住民のごく自然な心遣いが思われる。この街では家々が、人々がお隣同士、水を打ちながら有機的につながっているのだ、と私には思えた。おそらくそういうことなのだろう。そういう街もまだあるにはある。わが家の前の道路に水を打つ、という習慣がまだ生きていることが、妙にうれしく感じられた。「下駄ぬぎとばし」ながら、これでもかこれでもかと水を打っている人は、短パン姿であれ、ステテコ姿であれ、また甚兵衛姿のおっさんであれ、「猶も打つ」という表現から、きわめて暑い日の打水であることが想像できる。ちょっと滑稽にも感じられるその様子に、暑さに精一杯対抗している勢いがあふれている。「砂絵呪縛」などの大衆小説で活躍した清二には句集『水母集』があり、村山古郷は「俳句ずれのしない新鮮な味がある」と評している。ほかに「花火消えて山なみわたる木霊かな」「午睡する足のやりばのさだまらぬ」などの句がある。『水母集』(1962)所収。(八木忠栄)


August 2182008

 西日から肉体的なスポーツカー

                           山崎十死生

しく照りつける西日のなかから飛び出したようにスポーツカーがぐんぐんこちらに近づいてくる。「肉体的な」という意表をついた形容に、ひたすら速く走ることを目的にした車とたくましいランナーの姿が重なる。その言葉の働きが通常は暑苦しく嫌な「西日」をエネルギッシュな躍動感あふれるイメージに仕立て直している。同じ角度からの視線は類型的な句しか生み出さないが、異質な言葉のぶつかりが季語の違った側面を引き出してくる。季語も時代にあったニュアンスを付け加え、更新されてゆくものだろう。アメリカングラフティ以来、スポーツカーは1960年代に青春を過ごした若者の憧れだった。若い頃は生活に追われて車どころじゃなかった人が、定年後真っ赤なフェアレディZを購入しニコニコ顔で運転席に乗っている写真を新聞で見たことがある。今の若者たちはそれほどカッコいい車に魅力を感じているように思えない。もはや彼らにとって「スポーツカー」は時代がかった言葉かもしれない。(作者は2001年、十死生を十生へ改号した。)『俳句の現在2』(1983)所載。(三宅やよい)


August 2282008

 新涼や豆腐驚く唐辛子

                           前田普羅

句で擬人法はいけないと習う。いつしか自分も人にそう説いている。なぜいけないか。表現がそのものの在りようから離れて安易に喩えられてしまうからだ。「ような」や「ごとく」を用いた安易な直喩がいけないと教わるのと同じ理屈である。しかしよく考えてみると罪は「擬人法」や「直喩」にあるのではなくて「安易な」点にある。両者は安易になりがちなので避けた方がいいという技術のノウハウがいつしか禁忌に変わる。「良い句をつくる効率的で無難な条件」からはねられた用法が「悪しき」というレッテルを貼られるのである。豆腐が、添えられた唐辛子に驚いているという把握は実に新鮮で素朴な感動を呼ぶ。俳句の原初の感動が「驚き」にあるということを改めて思わせてくれる。こういう句は造りが素朴なので、類型を生みやすい。そうか、このデンで行けばいいのかなどと思って、パスタ驚く烏賊の墨などと作るとそれこそが安易で悪しき例証となる。『新歳時記増訂版虚子編』(1951)所載。(今井 聖)


August 2382008

 別れとは手を挙げること鰯雲

                           原田青児

年の八月七日早朝、立秋の空にほんのひとかたまりの鰯雲を見た。朝焼けの秋立つ色に染まる鰯雲をしばらく見ていたのが午前五時過ぎ、小一時間の朝の一仕事を終えて再び見た時には消えていた。それから半月後の旅先。一面の稲田を青い稜線が取り囲む広い空に、すじ雲が走り、夏雲が残り、鰯雲が広がっていた。帰京してこの句を読み、その見飽きることのなかった空が思い出される。別れ際というと、会釈する、手を振る、握手する、見つめ合う、抱き合う等々、その時の心情や状況によってさまざまだろう。そんな中、手を挙げる、から連想されるのは、高々と挙げた手を思いきり左右に振って、全身で別れを惜しむ人の、だんだん遠ざかる姿だ。その手の先に広がる鰯雲の大きな景が、別れを爽やかなものに昇華させているのか、より深い惜別の思いとなってしみるのか、読み手に託されているようでもある。『日はまた昇る』(1999)所収。(今井肖子)


August 2482008

 行き先の空に合わせる夏帽子

                           田坂妙子

語は夏帽子。帽子をかぶるという行為にはいろいろな理由があるのでしょうが、わたしの勤め先には、電話中も会議中も常に野球帽をかぶっている男性社員がいます。見た目を気にしてなのか、別に特別な理由があるのか、知る由もありません。ただ、この句の帽子には明確な理由があります。暑さや日ざしを防ぐためという実用の面から見るならば、帽子はたしかに夏がふさわしいようです。句の意味はわかりやすく、行く場所や時間によって、着てゆく服を選ぶように、行き先によって帽子を変えているのです。面白いのは対象が、人や場所ではなく、その上に広がる「空」であることです。空の色や光の加減によって、どの帽子にしようかと悩んでいます。なんとも美しく、きれいに透き通った悩みです。帽子を選んでいる部屋でさえ、中空に浮かんでいるような気分にさせられます。発想の中に「空」の一語が入り込んできただけで、これほどに読んでいて気持ちよくなるものかと、空の力にあらためて感心してしまいます。「朝日俳壇」(「朝日新聞」2008年8月18日付)所載。(松下育男)


August 2582008

 秋灯洩れるところ犬過ぎ赤児眠る

                           金子兜太

務からの帰宅時だろう。若い父親である作者はまだ外にいて、我が家の窓から燈火の光が洩れているのに気がついている。その薄暗い光のなかを犬が通りすぎていく。昔は犬は放し飼いが普通だったから、この犬に不気味な影はない。通行人と同じような印象である。この様子は実景だが、室内で「赤児眠る」姿は見えているはずもなく、こちらは想像というよりも「そのようにあるだろう」という確信である。あるいは「そのようにあれよ」という願望だ。一つの灯をはさんでの室外と室内の様子を一句にまとめたアイディアは斬新とも言えようが、しかしよく考えてみると、誰でもが本当は実際にこういうものの見方をしていることに気づかされる。そこを具体的に言ってみせたたところが、作者の非凡である。句が訴えてくる情感は、これまた誰にでも覚えのある「ホーム、スイート・ホーム」的なそれだ。帰宅時に家の灯がついているだけで心やすまる上に、新しい命の赤ん坊もすくすくと育っているのだから、ひとり幸福な感情にとらわれるのは人情というものである。ましてや、季節は秋。人恋しさ、家族へのいとしさの情感を、巧まずして「秋灯」が演出してくれている。そんな秋も間近となってきた。第一句集『少年』(1955)所収。(清水哲男)


August 2682008

 八月のからだを深く折りにけり

                           武井清子

を二つに折り、頭を深く下げる身振りは、邪馬台国について書かれた『魏志倭人伝』のなかに既に記されているという長い歴史を持つ所作である。武器を持っていないことを証明することから生まれた西洋の握手には、触れ合うことによる親睦が色濃くあらわれるが、首を差し出すというお辞儀には一歩離れた距離があり、そこに相手への敬意や配慮などが込められているのだろう。掲句では「深く」のひとことが、単なる挨拶から切り離され、そのかたちが祈りにも見え、痛みに耐える姿にも見え、切なく心に迫る。引き続く残暑とともに息づく八月が他の月と大きく異なる点は、なんとしても敗戦した日が重なることにあるだろう。さらにはお盆なども引き連れ、生者と死者をたぐり寄せるように集めてくる。掲句はそれらをじゅうぶんに意識し、咀嚼し、尊び、八月が象徴するあらゆるものに繊細に反応する。〈かなかなや草のおほへる忘れ水〉〈こんなふうに咲きたいのだらうか菊よ〉〈兎抱く心にかたちあるごとく〉『風の忘るる』(2008)所収。(土肥あき子)


August 2782008

 ざくろ光りわれにふるさとなかりけり

                           江國 滋

のように詠んだ作者の「ふるさと」とはどこなのか。出生地ではないけれども、「赤坂は私にとってふるさと」と滋は書いている。その地で幼・少年期を過ごしたという。「赤坂という街の人品骨柄は、下下の下に堕ちた」と滋は嘆いた。詠んだ時期は1960年代終わり頃のこと。その後半世紀近く、その街はさらに際限なく上へ横へと変貌を重ねている。ここでは、久しぶりに訪ねた赤坂の寺社の境内かどこかに、唯一昔と変わらぬ様子で赤々と実っているざくろに、辛うじて心を慰められているのだ。昔と変わることない色つやで光っているざくろの実が、いっそう街の人品骨柄の堕落ぶりを際立たせているのだろう。なにも赤坂に限らない。この国の辺鄙だった「ふるさと」は各地で多少の違いはあれ、「下下の下に堕ちた」という言葉を裏切ってはいないと言えよう。いや、ざくろの存在とてあやういものである。ざくろと言えば、私が子どもの頃、隣家との敷地の境に大きなざくろの木が毎年みごとな実をつけていた。その表皮の色つや、割れ目からのぞくおいしそうな種のかたまり――子ども心に欲しくて欲しくてたまらなかった。ついにある夜、意を決してそっと失敬して、さっそく食べてみた。がっかり。子どもにはちっともおいしいものではなかった。スリリングな盗みの記憶だけが今も忘れられない。滋は壮絶な句集『癌め』を残して、1997年に亡くなった。弔辞を読んだ鷹羽狩行には「過去苦く柘榴一粒づつ甘し」の句がある。『絵本・落語風土記』(1970)所収。(八木忠栄)


August 2882008

 行く夏を鶏の匂いの父といる

                           南村健治

っと昔、近所の人に連れられて山深い田舎に遊びに行った。楽しく過ごしたのだけど、夜の暗さと家の内外に濃く漂っている匂いにはどうしても慣れることができなかった。おとなになって園芸用の鶏糞の匂いをかいだとき、むかし寝泊りした農家の記憶がよみがえってきた。あの家に漂っていた匂いは土間のすぐ脇にあった鶏小屋の匂いだったのだろう。朝になるとおじさんが木の柄杓のようなもので、まだぬくい卵をとってきて掌にのせてくれた。闘鶏用の鶏も育てていて、一回負けた鶏は使い物にならないので潰して食べると言っていた。卵を採り、鶏糞を畑に撒き、いらない鶏を潰して食べるのはその家の主人にとってごくありふれたことだったのだろう。「鶏の匂いの父」はそんなふうに鶏とともに生活してきた人の匂い。作者とともに晩夏の時間を過ごしている父は回想の父なのか、現在の父なのか。どちらにしても夏が過ぎれば鶏の匂いのする父は残り、匂わない息子は別の場所へと帰ってゆく。そうだとしても、一緒にいる今はとりたてて話すこともなく二人ぼやっとテレビなんぞを見ているのかもしれない。『大頭』(2002)所収。(三宅やよい)


August 2982008

 秋出水家を榎につなぎけり

                           西山泊雲

水で舟を岸辺に繋ぐくらいの発想しか通常は出てこない。それは自分の中に累積したイメージで作ろうとするからだろうな。イメージは自由に拡がると思うと大間違い。想像の方が先入観に縛られて古い情趣まみれの世界しか生み出せない。言葉だけをいじって清新なイメージを紡ごうと四苦八苦したあげく他ジャンルの表現を借用してモダンを気取ることになる。「馬酔木」の出発以来俳句は「見て作る」か「アタマで作る」かのせめぎあいだった。表現はすべてアタマで作るのだなんてことは言わずもがな。要は「もの」のリアルをまず起点に置くかどうかということ。こういう句を見ると両者のせめぎあいははっきり決着がついた感がある。家をつなぐ。榎につなぐ。どちらもアタマでは作れない。こんなリアルは見ることの賜物。『新歳時記増訂版虚子編』(1951)所載。(今井 聖)


August 3082008

 うすうすとしかもさだかに天の川

                           清崎敏郎

のところ吟行中、五七、または七五、で終わってしまうことがある。その十二音は、すっと浮かびその時は生き生きしているが、取って付けたような上五、下五をつけることになると、すぐに色褪せて捨てることになってしまう。結局、あれこれ考えて、「しかも」まとまらない。接続詞としての「しかも」の場合、広辞苑によると、(1)なおそのうえに。(2)それでも、けれども。(1)の例文としては、「聡明でしかも美人」。(2)は、「注意され、しかも改めない」とある。今の話は(2)か。掲出句の場合、うすうす、と、さだか、は、それだけとりあげると逆の意味なのだが、感覚的には(1)と思う。星々のきらめきに比べるとぼんやりしている天の川の、確かな存在感。それが十二音でぴたりと表現されている。子供の頃、天の川の仄白い流れを見つめながら、この中でリアルタイムで生きている星がどの位あるのだろうと、よく思った。直径十万光年という途方もない大きさの銀河系の中で、ちっぽけでありながら、今ここに確かに存在している自分。あれこれ考えているうち、めまいがしてくるのだった。このところ不穏な驟雨に見舞われているが、日本列島は細長い。明日が新月の今宵、満天の星空とさだかな天の川を、きっとどこかで誰かが見上げることだろう。『脚注シリーズ 清崎敏郎集』(2007)所収。(今井肖子)


August 3182008

 擲てば瓦もかなし秋のこゑ

                           大島蓼太

ういう状況で、瓦を擲(なげう)つなどということがあるのでしょうか。今でこそ瓦を手に取る機会などめったにありませんが、作者は江戸期の俳人ですから、道端に、欠けた瓦がいくらでも落ちていたのでしょう。何かしらのうっぷんでも溜まっていたものと見えます。せめてからだをはげしく動かすことで、少しでも吐き出したい感情があったのです。でも、怒りにまかせて物を投げつけても、心がすっきりするわけではありません。瓦があたって響く音が、むしろ悲しみを増してしまったようです。硬くて軽い瓦は、ぶつかることによって、秋の空に高く悲しい音をたてています。石でも、木切れでもなく、瓦を詠みこんだことで、音の質が限定され、秋の空気とひとりでに結びついてきます。と、ここまで書いてきてふと思ったのですが、ここで投げているのは瓦ではなく、小石で、その小石が建物の屋根の上の瓦にあたって、秋の音を立てているのではないでしょうか。そのほうが句の視線が上のほうへ向かって、音も、よりすっきりと聞こえてきそうです。『角川俳句大歳時記 秋』(2006・角川書店)所載。(松下育男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます