2008N11句

November 01112008

 卓拭いて夜を切り上げるそぞろ寒

                           岡本 眸

年の秋の印象は、月が美しかったことと、昨年に比べて秋が長い、ということ。そして、日中はいつまでも蒸すなあ、と思っているうちに、朝晩ぐっと冷えてきた。やや寒、うそ寒、そぞろ寒など、秋の冷えの微妙な表現。秋冷、冷やか、を過ぎて、どれも同じ程度の寒さというが、語感と心情で使い分けるようだ。うそ寒の、うそ、は、薄(うす)、が転じたものだが、語感からなのか、なんだか落ち着かない心情がうかがえ、そぞろ寒、は、漫ろ寒、であり、なんとなく寒い感じ。この、なんとなく、が、曖昧なようで妙な実感をともなう。秋の夜、いつの間にか虫も鳴かなくなったね、などと言いながらつい晩酌も長くなる。さてそろそろ、と、食器を片付け食卓をすみずみまで拭く。きびきびとしたその手の動き、拭き終わった時にもれる小さいため息。今日から十一月、と思っただけで、やけに冬が近づいた気のする今夜あたり、こんなそぞろ寒を実感しそうだ。『新日本大歳時記 秋』(1999・講談社)所載。(今井肖子)


November 02112008

 子蟷螂生まれながらの身の構え

                           松永昌子

が家には、今年で5歳になる犬(ヨークシャーテリア)がいます。むろん成犬ですが、からだはいつまでも小さく、散歩時に抱っこをして歩いていると、永遠に子供でいるような錯覚を覚えてしまいます。両腕で抱えて顔を寄せると、きまって顔をなめてきますが、そのたびに、なんと大きく口が裂けているものかと、自分の顔とは違った形に、あらためて驚きます。生き物というものは、ものみな種としての固有の形を持っており、そのことの驚きを感じればこそ、自分とは異なる生き物をいとおしく思う気持ちは、さらに増してきます。本日の句も、感じ方の根は同様のところにあるのではないでしょうか。子供の蟷螂(かまきり)は、まだ生まれたばかりなのに、すでに蟷螂の形をし、親と同じような姿で、鎌を空に上げています。その不可思議さを、あたらしい驚きとして、あるいは生きることの静かな悲しみとして、あらためて受け止める姿勢を、わたしは嫌いではありません。「読売俳壇」(「読売新聞」2008年10月27日付)所載。(松下育男)


November 03112008

 よく喋る女に釣瓶落の日

                           飯田綾子

いぶんと古い言い回しに思えるが、山本健吉が提唱して定着したというから、「釣瓶落(し)」はかなり新しい季語なのだ。でも、もうそろそろ廃れる運命にはあるだろう。肝心の「釣瓶(つるべ)」が消えてなくなってしまったからだ。日常的に井戸から釣瓶で水を汲んだことのある人も、みんな高齢化してきた。句意は明瞭だ。暗くなる前にと思って買い物をすませてきた作者だったが、家の近所でばったり知り合いの主婦と出会ってしまった。そこで立ち話となったわけだが、この奥さん、とにかくよく喋る人で、なかなか話が終わらない。最初のうちこそ機嫌よく相槌など打ってはいたものの、だんだん苛々してきた。そのうちに相槌も曖昧になり生返事になってきたというのに、相手はまったく頓着せず、油紙に火がついたように喋りつづけている。なんとか切り上げようとタイミングを計っているうちに、ついに釣瓶落しがはじまって、あたりは薄暗くなってくる。冷たい風も吹き出した。しかしなお、延々と喋りやめない「女」。夕飯の支度などもあり、気が気でない作者のいらだちは、他人事だから可笑しくもあるけれど、当人はもう泣きたい思いであろうか。結局、別れたのは真っ暗になってからだったのかもしれない。滑稽味十分、情けなさ十分。とかくこの世はままならぬ。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


November 04112008

 十一月自分の臍は上から見る

                           小川軽舟

には「へそまがり」「臍(ほぞ)を噛む」など、身体の中心にあることから派生したたくさんの慣用句がある。そして、掲句の通り、確かに自分の臍は、鏡に映さない限り、普段真上から見下ろすものだ。身体の真ん中にある大切な部位に対して「上から見る」の視線が、掲句にとぼけた風合いを生んでいる。自分の身体を見ることを意識すると、足裏のつちふまずはひっくり返してしか見ることはできないし、お尻は身体をひねってやっぱり上からしか見ていない。つむじやうなじなど、自分のものであるはずなのに、どうしたって直接見ることのかなわない場所もある。十一月に入ると、今年もあとたった二ヵ月という焦燥感にとらわれる。年末というにはまだ早いが、今年のほとんどはもう過ぎていった。上から眺める臍の存在が、十一月が持つとらえどころのない不安に重なり、一層ひしゃげて見えるのだった。〈夜に眠る人間正し柊挿す〉〈偶数は必ず割れて春かもめ〉『手帖』(2008)所収。(土肥あき子)


November 05112008

 それぞれに名月置きて枝の露

                           金原亭世之介

秋の名月をとうに過ぎ、月に遅れて名月の句をここに掲げることを赦されよ。芭蕉や一茶の句を挙げるまでもなく、名月を詠んだ句は古来うんざりするほど多い。現代俳人・中原道夫は「名月を載せたがらざる短冊よ」と詠んだ。掲出句は月そのものを直に眺めるというよりは、何の木であれ、その枝にたまっている露それぞれに宿っている月を観賞しているのである。雨があがった直後にパッと月が出た。この際「名月」と「露」の季重なり、などという野暮を言う必要はあるまい。実際にそのように枝の露に月が映って見えるかどうか、などという野暮もよしましょう。露ごとに映った月、露を通した月は、直に眺める月よりも幻想的な美しさが増幅されているにちがいない。露の一粒一粒が愛らしい月そのものとなって連なり輝いている。名月で着飾ったような枝そのものもうれしそうではないか。「置きて」がさりげなく生きている。名月の光で針に糸を通すと裁縫のウデが上達する、という言い伝えがあるらしい。うまいことを風流に言ってみせたものである。世之介は10代目馬生(志ん生の長男。志ん朝の実兄)に入門し、勉強熱心な中堅落語家として、このところ「愛宕山」や「文七元結」などの大ネタで高座を盛りあげてくれている。「かいぶつ句集」43号(2008)所載。(八木忠栄)


November 06112008

 立冬のクロワッサンとゆでたまご

                           星野麥丘人

ロワッサン、と聞くと私などは長年親しんだ女性雑誌の名前が思い浮かぶ。ちょっと小粋なパンの名前が醸し出すおしゃれなイメージに期待して命名されたのだろう。確かにこのパンの名前にはアンパンやメロンパンとはひと味違うよそいきの雰囲気がある。掲句はもちろん三日月形のパンそのものだろうが、このクロワッサンはおいしそうだ。かさこそ音をたてる落葉道を散歩していると、店先からパンを焼く香ばしい匂いが流れてくる。思わず買ってしまったパンのぬくみを紙袋に感じつつ帰宅。濃くいれた熱いコーヒーにゆで玉子を添えて朝の食卓を囲む。そんなシーンを思い描いた。パリパリと軽いクロワッサンの感触とつるりと光るゆでたまごの取り合わせも素敵だ。一見何の技巧もなく見えるが、これだけの名詞を並べるだけで立冬の朝の気分をいきいき感じさせている。この句集には「立冬の水族館の大なまず」(「なまず」は魚偏に夷の表記)などの楽しい句もあって、気負いなく寒い冬を受け入れようとする作者の自在な心持が感じられる。『雨滴集』(1996)所収。(三宅やよい)


November 07112008

 月の庭子の寝しあとの子守唄

                           上村占魚

人公は、母であり妻である女性ととるのがふつうだろう。庭で子守唄を唄っている。背中に子がいなければ庭に出る理由が希薄なので、これは子守のときの情景である。子は首を垂れてすっかり寝落ちているのに、母はそれに気づいていても唄をやめない。寝てしまったあとも続いている子守唄は母というものの優しさの象徴だ。月、庭、子、寝、子守唄。素材としての組み合わせを考えると、どうみても陳腐にしか仕上がらないようなイメージの中で、「寝しあとの」でちゃんと「作品」に仕上げてくるのは、技術もあるが、従来の情緒のなぞりだけでは詩にならぬとの思いがあるからだ。無条件な愛。過剰なほど溢れ出る愛。この句のテーマは「母」あるいは「母の愛」。季題「月」は背景としての小道具。『鮎』(1992)所収。(今井 聖)


November 08112008

 二の酉の風の匂ひと思ひけり

                           佐藤若菜

年一の酉は、朝のテレビのニュースにもなる、今年は十一月五日。二の酉が十七日、三の酉まであって二十九日、そして一の酉と二の酉の間に立冬。風がかおるといえば、緑の頃のすがすがしさをいう薫風だが、この句は二の酉の頃の風、冬を実感し始める風だ。冬の匂いというと、子供の頃使っていた、ブルーフレームという石油ストーブの匂いを思い出す。今はストーブは使っていないが、少し前まで近所にあったラーメン屋の前を通ると、真夏でもなぜか灯油の匂いがして、炎天下汗をふきながら、そのたびにふと冬を思い出した。匂いの記憶というのも人それぞれだろうなと思いながら句集を読んでいたら〈三月の森の匂ひをまとひ来し〉。二の酉の風の匂ひ、三月の森の匂ひ。その具体的な叙し方が、匂いの記憶を呼び起こし、読み手の中に季感をもたらしてゆく。『鳥のくる日』(2001)所収。(今井肖子)


November 09112008

 生きるの大好き冬のはじめが春に似て

                           池田澄子

人の入沢康夫がむかし、「表現の脱臼」という言葉を使っていました。思いのつながりが、普通とは違うほうへ持っていかれることを、意味しているのだと思います。もともと創作とはそのような要素を持ったものです。それでも脱臼の度合いが、特に気にかかる表現者がいます。わたしにとって俳句の世界では、池田澄子なのです。読んでいるとたびたび、「読み」の常識をはずされるのです。それもここちよくはずされるのです。「生きるの大好き」と、いきなり始める人なんて、ほかにはいません。特に「大好き」の「大」が、なかなか言えません。もちろん内容に反対する余地はなく、妙に幸せな気分になるから不思議です。生死(いきしに)について、どのように伝えようかと、古今の作家が思い悩んでいるときに、この作者はあっけらかんと、直接的なひとことで済ましてしまいます。では、なんでも直接的に対象に向かえばよいのかというと、それほどに単純なものではなく、ものを作るとは、なんと謎に満ちていることかと思うわけです。ともあれ、読者としては気持ちよく関節をはずされていれば、それでよいのかもしれません。『角川俳句大歳時記 冬』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


November 10112008

 寺寒し肉片のごと時計垂れ

                           今井 勲

もほとんど帰ってしまった通夜の席ではなかろうか。冬の寺はだいたいが寒いところだが、夜が更けてくるにつれ、しんしんと冷え込んでくる。私にも経験があって、火の気の無い冬の寺で夜明かしするには、とりあえずアルコールでも補給しないことには辛抱しきれないのであった。線香の煙を絶やさないように気配りすることくらいしかやることもなく、所在なくあたりを見回していた作者の目にとまったのは、いささか大きめな掛け時計であった。何もかもが動きを止めているようなしんとした堂内で、唯一動いている時計。それが作者には、肉片のように生々しく思えたのだろう。ここで私などは、どうしてもダリの描いた柔らかい時計、溶ける時計を思い出してしまうが、作者にも無意識にせよ、ダリの絵の情景と交叉するところがあったに相違ない。寺の調度類は総じて固く見えるから、ひとり動いている時計がそれだけ柔らかく見えたとしても不思議ではないと思う。もう少し突っ込んで考えてみれば、死者の棺を前にして、故人との思い出深い時間が直線的な時系列的にではなく、だらりと垂れた時計のように行きつ戻りつ歪んで思えてきたということなのかもしれない。いずれにしても、読後しばらくは、それこそ「肉片のごと」生々しく心に引っかかって離れない句ではある。遺句集『天樂』(2008・非売)所収。(清水哲男)


November 11112008

 胎児いま魚の時代冬の月

                           山田真砂年

児は十ヵ月を過ごす母胎のなかで、最初は魚類を思わせる顔から、両生類、爬虫類を経て、徐々に人間らしい面差しを持つようになるという。これは系統発生を繰り返すという生物学の仮説によるものであり、掲句の「魚の時代」とはまさに生命の初期段階を指す。母なる人の身体にも、まだそう大きな変化はなく、ただ漠然と人間が人間を、それも水中に浮かぶ小さな人間を含んでいる、という不思議な思いを持って眺めているのだろう。おそらくまだ愛情とは別の冷静な視線である。立冬を迎えると、月は一気に冷たく締まった輪郭を持つようになる。秋とははっきりと違う空気が、この釈然としない胎児への思いとともに、これから変化するあらゆるものへの覚悟にも重ってくる。無条件に愛情を持って接する母性とはまったく違う父性の感情を、ここに見ることができる。〈秋闌けて人間丸くなるほかなし〉〈虎落笛あとかたもなきナフタリン〉『海鞘食うて』(2008)所収。(土肥あき子)


November 12112008

 冬隣裸の柿のをかしさよ

                           坪内逍遥

は急ぎあしで深まり、もう冬はすぐそこ。葉っぱもほとんど落ち尽くした木に、まだ残っている柿の実の姿であろう。色も変わってしまって今にも落ちそうである。柿の実は当然裸であるわけだが、この場合、あえて「裸」と言いたいくらいに寒々とした眺めなのである。たまたまとり残されrた柿は、特に落ちたいわけでも残りたいわけでもなかろうが、どこやら未練たっぷり枝にしがみついているようで、なるほど、可笑しいと言えば可笑しい裸んぼの風情である。およそ明治の文豪らしからぬ着眼が、可笑しく感じられる。ここで「あはれ」や「さびしさ」と表現してしまったのでは月並俳句になってしまう。「をかしさよ」はさすがである。逍遥は六十歳を過ぎてから短歌とともに、俳句を始めたのだという。したがってなまなましい野心もなく、折にふれての感懐を詠んだ句が多い。俳句は眦(まなじり)を決するというよりも、それでいいのだ、とも言える。逍遥には「そそり立つ裸の柿や冬の月」という句もある。「そそり立つ」と、柿の孤高を映した表現がいかにも可笑しい。逍遥は「裸の柿」に寒々とした可笑しさと同時に、愛しさも感じていたのではあるまいか。『歌・俳集』(1955)所収。(八木忠栄)


November 13112008

 正午すでに暮色の都浮寝鳥

                           田中裕明

京の夕暮れは早い。この地にずっと住んでいる人には違和感のあるセリフかもしれないが、鹿児島、山口、大阪、と移り住んできた身には4時を過ぎればたちまち日が落ちてしまう東のあっけない暮れ方は何ともさびしい。体感だけでなく、この時期の日の入りを調べてみると、東京は16時38分、大阪は16時57分、鹿児島は17時22分と40分以上の差がある。この都では3時を過ぎればもう日が傾きはじめる。関西に住み馴れた作者にとっても、たまに訪れる東京の日暮れの早さがとりわけさみしく思えたのかもしれない。この俳人の鋭い感受性は、太陽が天辺にある華やかな都会の真昼にはや夕暮れの気配を感じとっている。その物悲しい心持ちがおのが首をふところに差し入れ、波に漂いながら眠る水鳥に託されているようだ。すべてがはぎとられてゆく冬は自然の実相がこころにせまってくるし、自分の内側にある不安をのぞきこむ気分になる。この句を読んで、頼りなく感じていた日暮れの早さが、自分の人生の残り時間を映し出しているような、心持になってしまった。『夜の客人』(2005)所収。(三宅やよい)


November 14112008

 尾へ抜けて寒鯉の身をはしる力

                           加藤楸邨

邨の東京文理科大学国文科時代の恩師能勢朝次が昭和三十年に逝去。氏は、楸邨のライフワークとなった芭蕉研究の師であり「寒雷」創刊号にも芭蕉論を寄稿している。前書きに「能勢朝次先生永逝 三句」とあるうちの一句。この句だけを見たら、追悼の句と思う読者がどれほどいようか。およそ追悼句というものは、渡り鳥だの露だの落花だののはかないイメージを持つ花鳥風月に故人への思いを託して詠うというのが古来より今日までの定番になっているからだ。しかし考えてみれば故人と、故人の死を悲しむ者とのかけがえのない一対一の関係と思いを定番の象徴を用いて納得しうるものか。黒い太い寒鯉の胴をぐいとちからが抜けていく。大いなるエネルギーの塊りが今鯉を離れたのだ。こういう時はこう詠むべきだとの因習、慣習を排して、一から詩形の広さを測り、そのときその瞬間の自分の実感を打ちつける。楸邨の俳句に対する考え方の原点がここにも見られる。『まぼろしの鹿』(1967)所収。(今井 聖)


November 15112008

 鷹去りていよいよ鴨の小春かな

                           坊城俊樹

本伝統俳句協会が作っているカレンダーがあるのだが、我が家ではこれをトイレにかけている。協会員の入選句やインターネット句会の方の作品の他、虚子他の色紙や短冊がカラー印刷されているのをトイレに、というのも気が引けるが、毎日つぶさにゆっくり読めるので私には最適なのだ。掲出句は、十一月のページに載っていて、十月分をぺりっと破いた瞬間、短冊の文字が目に飛び込んできた。小春か、いい言葉だな、と思ってあらためて読むと、鷹、鴨、と合わせて季題が三つ。いずれも弱い季題ではないのにもかかわらず、うまく助け合って、きらきらとした小春の句となっている。景は鴨の池だろう、もしこれが、鴨に焦点を当てて、鷹去りていよいよ鴨の日和かな、などとしてしまうと、鷹と鴨が対立しておもしろみがなくなってしまう。あえて、小春かな、と、大きくつかんだことで、三つの季題が助け合い、まことに小春という一句になった。なるほど、と毎日拝見している。(今井肖子)


November 16112008

 短日や一駅で窓暗くなり

                           波多野惇子

語は短日で、冬です。つり革につかまりながら、窓の外を見るともなく見ていたのでしょうか。前の駅で停車していたときには、夕暮れの駅舎の形や、遠くの山並みがはっきりと見えていたのに、つぎの駅についたときにはもう、とっぷりと暮れており、駅の灯りもまぶしげに点灯しています。むろん、駅と駅の間にはそれほどの距離があったわけではなく、だからこそ、日の暮れの早さに驚きもしているわけです。そういえば、わたしの働くオフィスには、前面に空を映した大きなガラス窓があり、最近は窓の外が、午後もすこし深まると、にわかに暗くなります。まさに「いきなり」という感じがするのです。冬の「時」は徐々に流れるのではなく、性急に奪い去られるものなのかもしれません。「一駅」という語は、その後ろに、駅と駅の間に流れ去って行く風景をそのまま想像させてくれる、うつくしい語です。句が横の向きへ走りさっていってしまうような、名残惜しさを感じます。うしなうことのさみしさを、読むことのできる季節になりました。『角川俳句大歳時記 冬』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


November 17112008

 葱買ひにゆくだけのことペダル踏む

                           フレザー文枝

りたてて上手な句ではないし、ましてや凄い句でもない。でも私が着目したのは、ほとんど習慣になっている自分の行為を客観視してみたところだ。葱であろうが大根や人参であろうが、それを買いに行くのに自転車を使う。そういうことは多くの人が日常的にやっていることだし、何の変哲もないことではあるのだけれど、作者はペダルを漕ぎながら、多分ふと自分はいま、何のために自転車に乗って急いでいるのだろうかと思ってしまった。たかが葱二三本を買うために、一生懸命ペダルを踏んでいる自分をあらためて意識してみて、なんだか可笑しいような不思議なような気分になっているのである。人はふつう、自分の行為をいちいち見張るようにして生きているわけではない。とくに習慣や癖などについては、無自覚であるのが当たり前だろう。しかしこの句のように、その無自覚な部分に自覚の光を当ててみると、なかなかに面白い発見やポエジーが潜んでいないとも限らない。案外、揚句の視線は句作りの盲点かもしれないと思ったのだ。作者は故人。片仮名の姓は、夫君がアメリカ人だったことによる。句集は娘さんが「ママ、あなたの句集ですよ」と纏めたものである。『バラ百本』(私家版・2008)所載。(清水哲男)


November 18112008

 ミッキーの風船まるい耳ふたつ

                           今井千鶴子

日ミッキーマウス80歳の誕生日。ミッキーマウス俳句を探したため、季節外れはご容赦ください。ディズニーランドで販売しているキャラクターの形の風船は、うっかり勢いで買ってしまって、帰りの電車で後悔するもののひとつである。園内を一歩出れば、徐々に日常を取り戻すのと比例するように、手にした風船にも微妙な違和感を覚え始める。かぶりモノなどと違って鞄にしまうこともできず、「夢の国」のなかのものを連れ出してはいけない、という教訓めいた気分にさせられる。他に〈年玉の袋のミッキーマウスかな 嶺治雄〉もあり、すっかり日本に定着している傘寿のミッキー翁であるが、手元にある『別冊太陽子どもの昭和史(昭和十年〜二十年)』を見ると、昭和9年から11年にかけてミッキーマウスそっくりの赤い半ズボンを履いたミッキーラッシュがあったようだ。アメリカ直輸入のミッキーマウスもすでに天然色のトーキー映画で登場し、各地で子どもたちが映画館へ押しかけていたというが、彼らが大事に繰り返し読んでいた漫画の世界では、著作権から離れた和製ミッキーがミニー嬢ともりそば食べたり、日本刀振り回して山犬退治をしたりしていたのだ。昨年中国のニセモノキャラクタ−がニュースになっていたが、どちらのミッキーもなんだかとっても生き生きして見え、愛すべきキャラクターのアジアでの生い立ちを垣間見た思いがしたのだった。『過ぎゆく』(2008)所収。(土肥あき子)


November 19112008

 哲学も科学も寒き嚔哉

                           寺田寅彦

(くさめ)とは、さても厄介な漢字である。この漢字をさらりと書いてのける人は果たして何人いらっしゃるか? くさめ、くしゃみ、くっさめ、はくしゃみ・・・・いろいろな呼び方があって、思わずくさめをしたくなるようなにぎやかさである。嚏は通常、冷気が鼻の粘膜を刺激することで出るわけだが、それだけではなくアレルギー性の嚏もある。しかし、咳とちがって悲壮感とかやりきれなさはない。それはさておき、寅彦はご存知のように地球物理学者にして文学者。筆名は吉村冬彦。掲出句で「文学も科学も・・・・」としなかったのは、今さら「文学がお寒い」と詠ったところで始まらない、という気持ちがあったのか、と愚考するが、いかがなものか。「寒き嚏」ではなくて「寒き」で切れる、と解釈することもできそうだけれど、その場合、すっきり切ろうとするならば「寒し」だろう。ここでは哲学や科学を、嚏と同等なものと茶化したとらえ方をしているのだろう。「寒き嚏」とはくどいとか何とか、決まってとやこう云々する人もいるだろうが、そのあたりのことは十分承知したうえで、寅彦はこう言い切ったのではないか。哲学が寒いのも、科学が寒いのも、季候の次元の問題などではない。ノーベル科学賞受賞者が日本で今年四人も出たことを知ったら、寅彦は掲出句を修正しただろうか? 寅彦は第五高等学校時代(熊本)に、俳句を見てもらいに漱石先生を頻繁に訪ね、「ホトトギス」に掲載された。蛇足だが、寅彦一家を題材にしたマキノノゾミの芝居「フユヒコ」は大傑作。『俳句と地球物理』(1977)所収。(八木忠栄)


November 20112008

 林檎買ひくる妻わが街を拡大せり

                           磯貝碧蹄館

は「拡大せり」の部分である。そのまま読めば林檎を買ってきた妻が自分が住んでいる街を大きくするのだろうが、いったいどんな具合なのだろう。魚眼レンズで覗いたように巨大な妻と林檎がいびつに大きく句の全面へ張り出してくるようだ。しかし、今までつまらなく見えていた街を拡大するのは「妻」だけでなく妻が抱えている「林檎」の鮮烈な色と香りなのだろう。林檎はいつだって暗い世相や街を明るくしてきた。戦後の荒廃した街には並木路子の「リンゴの唄」が流れ、うちひしがれた人々を力づけたというし、北原白秋の「君かへす朝の敷石さくさくと雪は林檎の香のごとく降れ」の短歌などは、林檎の香りを雪と結びつけたモダンな抒情を描き出している。くすんだ現実から別次元の世界へ拡大してくれるのが、赤くつやつやとした林檎の力と言えないだろうか。この句にはそんな林檎を抱えて自分の元へ帰ってきてくれた妻への賛歌とともに詠まれているように思う。『磯貝碧蹄館集』(1981)所収。(三宅やよい)


November 21112008

 数へ日や数へなほして誤たず

                           能村登四郎

句が老年の芸だという説に一理ありと思うときはこういう句を見たとき。年も押し詰まったころ、残りの日々を数える。そんな句は山ほどある。そもそもそれが季語の本意だから。だが、「誤たず」(あやまたず)はほんとうに老年でないと出てこない表現だろう。花鳥諷詠を肯定する若い人の句で一番疑問に思うのは、素材のみならず感受性も老齢のそれに合わせていると思うとき。例えば「煤逃げ」とか「女正月」とかの季語をいかにもそれらしい情緒で四十、五十の人が詠うときだ。ナイトシアターで洋画の社会派サスペンスなんか観てる「自分」が、俳句を詠む段になるといきなり水戸黄門やありきたりのホームドラマや青春ドラマの情緒設定を描く。自分が観ても、感動もしない情緒を「俳句」となると肯定してしまうその神経がわからない。この句、「誤たず」には真実がある。同時代的と言っていいかどうか。「自分」の感性と、生きている時間の関わりに嘘がない。『芒種』(1999)所収。(今井 聖)


November 22112008

 汲みたての水ほのめくや冬桜

                           三橋迪子

開という言葉はあまり似合わない冬桜だが、ご近所のそれは日に日に花を増やして咲き続けている。最初の一輪を見てからもうずいぶん経つが、立ち止まって眺めている人はほとんどいない。白く小さい花は花期の長さも梅に似ているが、まさに〈冬桜野の梅よりも疎なりけり 沢木欣一〉の風情だ。掲出句の背景はそんな冬桜のある庭。ほのめく、という、淡さを思わせる言葉によって、冬桜の静かなたたずまいが思われる。そう感じてから、あらためて、ほのめくの主語は何かな、と考えると、やはり水か。水がほのめく、とはどんな様子なのか。おそらくこの水は、水道からバケツに汲まれたのではなく、井戸から手桶へ汲み上げられたのだろう。寒いと、汲みたての井戸水にはわずかにぬくもりが感じられる。外気が冷たければ、はっきりとではないが、なにかゆらゆらとたちのぼるようにも思われる。そんな水の質感が、ほのめく、で表現されているのだろう。ほのめく、には、ほのかに見える、の他に、ほのかに匂う、の意味もあるというが、この場合は前者と思う。本棚でふと目にとまった濃淡の茶に白のラインが、紙本来の美しさと、なんとなく冬を感じさせる装丁の「俳句歳時記(藤原たかを編)」(2000・ふらんす堂)所載。(今井肖子)


November 23112008

 自動ドア閉ぢて寒雲また映す

                           松倉ゆずる

動的に動くものに対して、わたしはなかなか慣れることができません。自動改札では、いくども挟まれたことがありますし、自動的に出てくるはずの水道も、蛇口の下にどんなに手をかざしても、水が出てこないことがあります。本日の句に出てくる自動ドアも、ものによって開くタイミングが異なり、開ききるまえに前にすすんで、ぶつかってしまうことがあります。それはともかく、この句を読んで思い浮かべたのは、ファーストフード店の入り口でした。つめたく晴れ渡った空の下の、繁華街の一角、人通りの多い道に面した店の自動ドアは、次から次へ出入りする人がいて、なかなか閉じることがありません。それでもふっと、人の途切れる瞬間があって、やれやれと、ドアは閉じてゆきます。そのガラスドアに、空と、そこに浮かぶ冬の雲の姿がくっきりと浮かんでいるのが見えます。やっと戻ってきてくれた空と雲も、早晩、人の通過に奪い去られてしまうのです。次にやってくる客は、自動ドアの中の雲に足を踏み入れて、店に入ってゆくのです。『角川俳句大歳時記 冬』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


November 24112008

 煙草火の近づいてくる寒夜かな

                           盛生高子

くて真っ暗な淋しい夜の道である。肩をすぼめるようにして家路を急いでいると、ちらっと遠くに小さな赤い火の玉のようなものが見えた。何だろう。目を凝らすと、だんだんそれは明滅しながら近づいてくる……。なあんだ、煙草の火か。作者はそう納得して一瞬ほっとはしたものの、しかしながら、なんとなく不気味な感じは拭えない。体感的な寒さに、心理的なそれが加わった図だ。誰にも似た経験はあるだろうけれど、暗闇から煙草の火が近づいてくるのは結構こわいものがある。明滅するからなのだ。近づいてくるのが懐中電灯の明かりだったら、さして不気味ではないけれど、煙草の火は暗くなったり明るくなったりするだけにこわい。つまり火の明滅の正体はわかっていても、その明滅は人の息遣いを伝えるものであるから、かなり生々しく「人」を意識してしまうことになるのである。夜の道で人の息遣いを感じさせられているこわさが、よりいっそう周囲の寒さを助長してくるという句だ。ところで、闇の中で煙草を吸うのは、同じ状況で饅頭を食うのと同様に、ちっとも味がしないと言ったのは開高健だった。逆に、饅頭とは違い、闇の中でも煙草だけは美味く感じると書いているのは古井由吉である。私は美味い派だが、あなたが煙草好きならば、どちら派でしょうか。『現代俳句歳時記・冬』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


November 25112008

 枇杷咲くや針山に針ひしめける

                           大野朱香

語は枇杷の花。今頃が盛りといえば盛りの花だが、夕焼け色の美しい果実に引きかえ、人間に愛でられる可能性を完全に否定しているような花群は、本当にこれがあの枇杷になるのか、と悲しくなるほど地味な姿だ。一方、針山に針が刺されていることに別段不思議はないのだが、先の尖った針がびっしりと刺さっている様子もなにかと心を騒がせる。これらのふたつは「ひしめける」ことによって、まったく違う質感であるにも関わらず、お互いに触れ合っている。群れ咲く枇杷の花は決して奥ゆかしくもなく陰気で、どちらかというと貪欲な生命力さえも感じられる。針山という文字から地獄を連想される掲句によって、それは地獄に生える木なのだと言われれば、なんとなく似合う風情もあるように思えてしまう。と、ここまで書いて、これでは枇杷の木に対してあんまりな誹謗をしているようだが、そのじつ枇杷の実は大好物である。果実が好ましいあまり、花も美しくあって欲しかったという詮無い気持ちが本日の鑑賞の目を曇らせている。〈ダッフルコートダックスフンドを連れ歩き〉〈年の湯や両の乳房のそつぽむき〉『一雫』(2008)所収。(土肥あき子)


November 26112008

 木の葉降り止まず透明人間にも

                           望月昶孝

格的な冬の訪れである。木の葉があっけなく降るがごとくに盛んに散っている。地上に降る。つまり地上に住むわれら人間に降りかかってくる。それどころか、じつは私たちのすぐ傍らにいるかもしれない透明人間にも、降りかかって止まない。透明人間ゆえに、木の葉は何の支障もなく降りかかっているにちがいない。ものみな透けるような時季に、懐かしい響きをもつ透明人間をもち出したところに、この俳句のおもしろさと緊張感が立ちあがってきた。透明人間の存在そのものが、それとなく感じられる冬の訪れの象徴のように思われる。いや、この季節、人々は着ぶくれているけれども、それこそ透け透けの透明人間になってしまっている、と作者はとらえているのかもしれない。葉をなくしてゆく樹木も、次第に透き通ってゆくように感じられる。「木の葉降り止まず」で想起されるのは、加藤楸邨の名句「木の葉ふりやまずいそぐないそぐなよ」である。作者には、おそらく楸邨の句も意識のなかにあったと思われる。両句は「透明人間」と「いそぐないそぐなよ」がそれぞれのポイントになっている。昶孝には「地虫出づ兵馬俑を引き連れて」の句もある。昶孝は詩人で、詩人たちの「ハイハット句会」のメンバー。俳号は暢孝。「長帽子」70号(2008)所載。(八木忠栄)


November 27112008

 言ひかへてみてもぱつちに違ひなし

                           平石和美

月だったか、この欄で阪神の選手のインタビューに出てきた「必死のパッチ」という言葉について話題になっていた。そのことについて大阪の友人と話したが、さして深い意味はなく冬下着のパッチとの語呂合わせであるまいか、という結論に落ち着いた。「ぱつち」という言葉にはパチパチたたく音がその響きに感じられて何となく威勢がいい。ロングパンツ、スパッツ「ぱつち」を現代風に言い換える言葉はいくらでもあるだろうが、股引であることに変わりはない。おじいさんのラクダの股引とブランドもののロングパンツの違いはどこにもない。句の通り気取ってみてもぱっちはぱっちなのだ。このあたり関西弁のあっけらかんとした物言いに関西出身の私などは「ほんと、そうやねぇ」と相槌を打ちたくなる。キャミソールやタンクトップで過ごしていた娘たちも「ばばシャツ貸して」と、お願いに来るこのごろの寒さ、颯爽と街をゆく若者たちがいつ頃から「ぱつち」をお召になるのか、興味は尽きない。『桜炭』(2004)所収。(三宅やよい)


November 28112008

 さも貞淑さうに両手に胼出来ぬ

                           岡本 眸

は「ひび」。出来ぬは「出来ない」ではなくて「出来た」。完了の意。「胼ありぬ」なら他人の手とも取れるから皮肉が強く風刺的になるが、「出来ぬ」は自分の手の感じが強い。自分の手なら、これは自嘲の句である。両手に胼なんか作って、さも貞淑そうな「私」だこと。自省、含羞の吐露である。「足袋つぐやノラともならず教師妻」は杉田久女。貞淑が抑圧的な現実そのものであった久女の句に対し、この句では貞淑は絵に描いた餅のような「架空」に過ぎない。貞淑でない「私」は、はなっから自明の理なのだ。含羞や自己否定を感じさせる句は最近少ない。花鳥や神社仏閣に名を借りた大いなる自己肯定がまかり通る。含羞とは楚々と着物の裾を気にする仕種ではない。仮面の中に潜むほんとうの自分を引きずり出し、さらけ出すことだ。『季別季語辞典』(2002)所収。(今井 聖)


November 29112008

 近々と山のまなざし冬ごもり

                           手塚美佐

日「水と俳句」という宇多喜代子氏の講演を拝聴する機会があったのだが、その中で氏は、「祖母はいつも、山は水のかたまりだ、と言っていた」と話された。不動の山に息づいている水の鼓動。雪に覆われていても、すっかり枯れ山となっていても、冬の山は、ただ眠っているわけではないのだと、あらためて気づかされた。掲出句の作者は、冬日のあたる縁側にいるのだろうか。山そのものが間近にあるわけではなく、じっと見ているうちに、山と共に暮らしているということを、山の存在を感じた、というのだろう。まなざし、の語に、命の源としての山を敬う心持ちが感じられる。この句は、『筆墨 俳句歳時記 冬・新年』(2002・村上護編著)より。この歳時記には、多くの作者自筆の色紙や短冊が掲載されている。掲出句の色紙は、中央に、山のまなざし、が高く置かれて語りかけてくる。作者の個性が強調され興味深い。(今井肖子)


November 30112008

 欲しきもの買ひて淋しき十二月

                           野見山ひふみ

聞に折り込まれたチラシに興味がなくなったら、欝(うつ)の前兆だと、かつて聞いたことがあります。特にスーパーの安売りのチラシに目を凝らしているうちは、生きることに貪欲な証拠であり、サラダ油の値段を比較することが、大げさに言うなら、生きることの勢いにつながっているのかもしれません。本日の句に詠まれている「欲しきもの」とは、しかし、もうすこし高価なものなのでしょうか。長年欲しいと思い続けていたものを、決意して買ったあとの、ふっと力の抜けた感覚が、見事に詠まれています。その店を通るたびに、いつかは買おうと思っていたのです。幾度も迷ったあげく、なにかのきっかけがあって、手に入れてはみたものの、心はなぜか満足感に満たされることがありません。むしろ、買いたいと思うものがなくなったことの淋しさのほうが、強く感じられるのです。12月といえば、クリスマスプレゼントや年末の買い物などがあり、また、多くの会社ではボーナスの支給される時期でもあり、「買いて淋しき」という言葉が、素直に結びつきます。街はクリスマスのイルミネーションで明るすぎるほどに輝き、そのまぶしさがいっそう、個人の影を色濃くしているようです。『角川俳句大歳時記 冬』(2006・角川書店)所載。(松下育男)




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