「口語の時代は寒い」(荒川洋治)。それよりも、もっと寒いいまの時代。(哲




2008N1112句(前日までの二句を含む)

November 12112008

 冬隣裸の柿のをかしさよ

                           坪内逍遥

は急ぎあしで深まり、もう冬はすぐそこ。葉っぱもほとんど落ち尽くした木に、まだ残っている柿の実の姿であろう。色も変わってしまって今にも落ちそうである。柿の実は当然裸であるわけだが、この場合、あえて「裸」と言いたいくらいに寒々とした眺めなのである。たまたまとり残されrた柿は、特に落ちたいわけでも残りたいわけでもなかろうが、どこやら未練たっぷり枝にしがみついているようで、なるほど、可笑しいと言えば可笑しい裸んぼの風情である。およそ明治の文豪らしからぬ着眼が、可笑しく感じられる。ここで「あはれ」や「さびしさ」と表現してしまったのでは月並俳句になってしまう。「をかしさよ」はさすがである。逍遥は六十歳を過ぎてから短歌とともに、俳句を始めたのだという。したがってなまなましい野心もなく、折にふれての感懐を詠んだ句が多い。俳句は眦(まなじり)を決するというよりも、それでいいのだ、とも言える。逍遥には「そそり立つ裸の柿や冬の月」という句もある。「そそり立つ」と、柿の孤高を映した表現がいかにも可笑しい。逍遥は「裸の柿」に寒々とした可笑しさと同時に、愛しさも感じていたのではあるまいか。『歌・俳集』(1955)所収。(八木忠栄)


November 11112008

 胎児いま魚の時代冬の月

                           山田真砂年

児は十ヵ月を過ごす母胎のなかで、最初は魚類を思わせる顔から、両生類、爬虫類を経て、徐々に人間らしい面差しを持つようになるという。これは系統発生を繰り返すという生物学の仮説によるものであり、掲句の「魚の時代」とはまさに生命の初期段階を指す。母なる人の身体にも、まだそう大きな変化はなく、ただ漠然と人間が人間を、それも水中に浮かぶ小さな人間を含んでいる、という不思議な思いを持って眺めているのだろう。おそらくまだ愛情とは別の冷静な視線である。立冬を迎えると、月は一気に冷たく締まった輪郭を持つようになる。秋とははっきりと違う空気が、この釈然としない胎児への思いとともに、これから変化するあらゆるものへの覚悟にも重ってくる。無条件に愛情を持って接する母性とはまったく違う父性の感情を、ここに見ることができる。〈秋闌けて人間丸くなるほかなし〉〈虎落笛あとかたもなきナフタリン〉『海鞘食うて』(2008)所収。(土肥あき子)


November 10112008

 寺寒し肉片のごと時計垂れ

                           今井 勲

もほとんど帰ってしまった通夜の席ではなかろうか。冬の寺はだいたいが寒いところだが、夜が更けてくるにつれ、しんしんと冷え込んでくる。私にも経験があって、火の気の無い冬の寺で夜明かしするには、とりあえずアルコールでも補給しないことには辛抱しきれないのであった。線香の煙を絶やさないように気配りすることくらいしかやることもなく、所在なくあたりを見回していた作者の目にとまったのは、いささか大きめな掛け時計であった。何もかもが動きを止めているようなしんとした堂内で、唯一動いている時計。それが作者には、肉片のように生々しく思えたのだろう。ここで私などは、どうしてもダリの描いた柔らかい時計、溶ける時計を思い出してしまうが、作者にも無意識にせよ、ダリの絵の情景と交叉するところがあったに相違ない。寺の調度類は総じて固く見えるから、ひとり動いている時計がそれだけ柔らかく見えたとしても不思議ではないと思う。もう少し突っ込んで考えてみれば、死者の棺を前にして、故人との思い出深い時間が直線的な時系列的にではなく、だらりと垂れた時計のように行きつ戻りつ歪んで思えてきたということなのかもしれない。いずれにしても、読後しばらくは、それこそ「肉片のごと」生々しく心に引っかかって離れない句ではある。遺句集『天樂』(2008・非売)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます