2009N11句

November 01112009

 月夜つづき向きあふ坂の相睦む

                           大野林火

を書こうとするときには、最初から遠くを見るのではなく、できるだけ近くの、小さなものから書いてゆこうと心がけています。細かいものを、正確に文字にうつすのが創作の間違いのない道筋であると、いつの頃からか確信を持ってきました。抽象的な概念を、大上段に振り回して事の真理を作品化してみようなどという行為が、少なくともわたしには、手にあまるものであると、経験から学んできたからです。だからなのでしょうか。大きな世界を、しっかりと描ききった作品を見ると、うらやましくもなり、それだけで深い感銘を受けてしまいます。今日の句も、坂が向き合う姿をダイナミックに描いて、わたしたちの前に示してくれています。むしろ俳句という、これだけ小さな世界だからこそ、大きなものを描くことに適しているのかもしれません。穏やかな秋の夜に、小さな商店街の並ぶ一本の谷を挟んで、二つの坂道が両側へ上っています。「相睦む」の一語が、読者へやさしく傾斜してくれています。『日本名句集成』(1992・學燈社)所載。(松下育男)


November 02112009

 淋しくて燃ゆるサルビアかも知れず

                           山田弘子

のサルビアが好きだ。とくに、この季節の……。多くの歳時記では夏の季語とされているが、花期は長く、まだ盛んに咲きつづけている。他の植物がうら枯れていくなかで、その朱を極めたような様子には、どういうわけか淋しさを感じてきた。絶頂は既にして没落の兆しを孕んでいるからなのだろうか。長年こんな感じ方は私だけのものかと思っていたら、掲句があった。「かも知れず」とあるからには、作者もまた、自分だけの感性だろうかといぶかっているようにも思える。私にしてみれば、ようやく同志を得た心持ちがしている。サルビアといえば、だいぶ以前に女子大生三人組の「もとまろ」が歌っていた「サルビアの花」がある。失恋の歌だ。♪いつもいつも思ってた サルビアの花を あなたの部屋の中に投げ入れたくて……。私くらいの年齢には、こんなセンチな歌詞はもう甘ったる過ぎるのだけれど、淋しい歌にサルビアを持ってきた感覚はなかなかのものだと思う。ただし、作詞者はサルビア自体には淋しさを感じていない。むしろ元気な花と失恋との取り合わせから、淋しさを演出している。さて、早いもので季節は十一月。間もなく、さすがのサルビアの朱も消えてしまう。『彩・円虹例句集』(2008)所載。(清水哲男)


November 03112009

 手が翼ならば頭は秋の風

                           守屋明俊

日「文化の日」は、一年に数日ある晴れの特異日。予報では降水率10%だが、最高気温が東京で15度とかなり低い。11月に入ると、空にはしっとりした秋と硬質な冬のストライプがあって、冬の層がみるみる厚くなっていくように思える。くっきりと筋目のついているような秋の空気を、両手で撹拌しながら深呼吸してみれば、なんとなく宙に浮くような気分が味わえる。空を飛ぶ鳥たちには、翼を上下させるはばたき飛行のほか、翼を広げたまま宙を滑るように飛ぶ滑空など、さまざまな飛び方があるという。しかし、どれも頭は矢印の先のように進行方向を指している。秋の風に小さな頭をもぐりこませるようにして、それぞれの目的地を目指しているのだと頭上を仰げば、飛び交う鳥たちの残した軌跡のような雲が青空に描かれていた。ところで、掲句によって合点がいったことがある。それは、天使の絵には肩甲骨のあたりから大きな翼が生えており、合唱コンクール定番の「翼をください」の歌詞でも背中に鳥の翼が欲しいと歌われるが、掲句もいうように、翼は人間の腕にかわるものであるはずだ。想像上の姿とはいえ、腕も翼も持つというのは少し欲張りすぎやしないだろうか。人魚を描くとき、足のほかに尾を付けることがないのに、不思議なことである。〈母校とは空蝉の木が鳴くところ〉〈稲妻や笑ひの絶えぬ家ながら〉『日暮れ鳥』(2009)所収。(土肥あき子)


November 04112009

 汽車道と国道と並ぶ寒さ哉

                           内田百鬼園

車道とはレトロな呼び方である。今なら「鉄道」とか、せいぜい「電車道」だろう。私などは幼い頃から呼びなれた「汽車道」という言葉が、ついつい口をついて出ることがある。だって高校通学では「汽車通(つう)」という言い方をしていたのだから。汽車ではなく、車輛不揃いな田舎の電車で通う「汽車通」だった。掲出句における作者内田百鬼園先生の位置は国道にいてもいいわけだが、ここは電車ではなくて汽車に乗っていると思われる。旅を頻繁にして「阿房列車」シリーズの傑作がある内田百鬼園であり、しかも明治四十二年の作だから、ここは汽車に乗っているとしたほうが妥当であろう。車内は暖房が少々きいていたか否か、いずれにせよ外の寒さに比べればましである。鉄道と国道が不意に寄り添う場所があるものだ。あれは妙におかしさを覚える。国道を寒そうに身を縮めて歩いている人を、車窓から眺めているのだろうか。あるいは人影はまったくないのかもしれない。車中の人は旅の途中であり、寒々とした田舎の風景が広がっているのだろう。汽車道と国道とが身を寄せ合っていることで、いっそう寒さが強く感じられる。「汽車道」という響きも寒さをいや増してくる。内田百鬼園は岡山一中(第六高等学校)時代に、国語教師・志田素琴に俳句を学んだ。掲出句は「六高会誌」に発表された。同年同誌に発表された句に「この郷の色壁や旅しぐれつつ」「埋火や子規の句さがす古雑誌」などがある。『百鬼園句帖』(2004)所収。(八木忠栄)


November 05112009

 巻き貝からのりだす羊富士新雪

                           竹中 宏

週のはじめよりぐっと気温が下がり冬めいてきた。札幌からは初雪の報が届いた。関東ではさすがに雪はまだだが、遠くに臨む富士山は白い雪をかぶっている。東京で見る富士は裾野の部分は隠れて空中に白く雪をかぶった山頂が浮いているように見える。掲句では羊の白さと冠雪をダブらせているのだろう。くるりと巻いた巻き貝から羊がのりだす絵柄は不思議かつユーモラス。それぞれの言葉が紡ぎだすイメージに読み手を立ち止まらせつつ次元の違う世界の手触りを紡ぎだすことが句の狙いなのだろう。句集には最大限に読み手の想像力を見積もった言葉の連鎖で綴られた句が並び読み解くのは難しい。こういう句はあらかじめ落とし所をきめて作られる句とは違い、おそらくは作者も言葉を探り当てながら進んでいく。どこで完成を見切るかが作り手の技といえるかもしれない。『アナモルフォーズ』(2003)所収。(三宅やよい)


November 06112009

 雪の降る町といふ唄ありし忘れたり

                           安住 敦

現というものが事実をそのまま写すことは有り得ないことで、俳句もまたノンフィクションであることは自明の理だという一見正しい論法で入ると「写生」蔑視に通じる。水原秋桜子以降の流れはそういう「自明の理」を持ち出す方向だった。「新興俳句」の流れはノンフィクション説を奉じて今日に至っている。ほんとうにそうだろうか。ものを写す、現実、事実をまるごと写せるはずもないのに写そうとすること。それが俳句という詩形を最大限に生かす方法であると子規は直感したのではなかったか。もうひとつ、表現の持つエネルギーに対していわば負のエネルギーが俳句にある。これも詩形から来る俳句の固有のものだ。それは枯淡とか俳諧の笑いとか神社仏閣詠ではなくて、こういう句だ。「忘れたり」の真剣さは大上段の青春性に対抗して、正調「老人文学」の要だろう。技術の確かな、感覚の鋭敏な、博学の若手がどんなに頑張っても及ばない世界だ。作者最晩年の作品。『現代俳句』(1993)所収。(今井 聖)


November 07112009

 初冬の徐々と来木々に人に町に

                           星野立子

きなり真冬の寒さかと思えば、駅まで足早に歩くと汗ばむほどの日もあり、季節の変わり目とはいえ、めまぐるしい一週間が過ぎて、今日立冬。その間に月は満ちたが、暁の空に浮かぶ満月はすでに透きとおった冬色だった。立子は、冬の気配が近づいてから立冬、初冬と過ぎてゆく十一月を特に好んだという。なつかしい匂いがする、とも。掲出句にあるように、いち早く黄葉して散る桜を初めとして、木々の色の移り変わりにまず冬を感じるのは、都会の街路樹でも同じだろう。落ち葉風にふかれ襟元を閉じて歩く人。そして町全体がだんだん冬めいてくることを、どこか楽しんでいるような作者。「初冬の徐々と来(く)」といったん切って、それから町がじんわり冬になっていく様を詠んでいるが、字余りで、一見盛りだくさんなようだけれど、リズムよく、「徐々」感が伝わってくる。この句に並んで〈柔かな夜につゝまれて初冬かな〉とある。なるほど好きな季節だったのだな、と思った。「立子四季集」(1974・東京美術)所載。(今井肖子)


November 08112009

 更くる夜や炭もて炭をくだく音

                           大島蓼太

太(りょうた)は江戸中期の俳人です。今では、この句のように炭を手にすることはめったにありませんが、江戸期にもどらずとも、わたしが子供の頃にはまだまだ暖房の主役でした。炭団(たどん)の丸さをてのひらに感じたり、練炭の蓮根のような形状を見つめていたり、もう日常では目にしなくなっただけに、懐かしさがつのります。この句の炭は、棒状の木炭のようです。昨今は暖房だけではなく、浄化作用やら脱臭作用やらで、さまざまな用途にも使われていますが、やはりもとは、人をあたためるためにあったもの。使い道はあくまでもわかりやすく、わたしたちの生活にはなくてはならないものでした。また、この句を読んでいてはっと思ったのが、「炭もて炭をくだく」のところ。なるほどそのものを道具にしてそのものを割る、ということがあるのだなと、妙に感心してしまいます。炭と炭があたったときの甲高い音。どうってことのないことなのに、なぜかひどくひきつけられます。自身をくだき、くだかれる音から、しばらくは心がはなれられません。『日本名句集成』(1992・學燈社)所載。(松下育男)


November 09112009

 小春日の子らの遊びは地より暮れ

                           若林卓宣

の情景は、もうセピア色の世界になってしまった。日暮れ時に限らず、いまどき外で遊ぶ子らの姿はめったに見られない。ましてや「ご飯ですよおっ、いい加減に帰ってらっしゃい」なんて母親の呼び声は、とっくのとうに消滅してしまった。実際に暗くなるまで夢中になって遊んだ子供時代を持たない人には、この句の味はわかるまい。そうだった。「地より暮れて」くるのだった。遊び道具などなかった私の子供のころに流行ったのは「釘倒し」だ。たいていの家には転がっていた五寸釘を持ち出して、まず一人がそれを地面に投げつけて突き立てる。次の順番の子が、それを目がけて釘を打ちつけ、倒せば勝ちという単純な遊びだ。やり方は単純だけれど、なかなかに技術も必要で、物すごく面白い。みんな止められずに、もう一回もう一回と遊んでいるうちにだんだんと暗くなってくる。そしてこの遊びの醍醐味は、日暮れとともにやってくるのである。釘と釘が衝突すると、明るいうちには見えなかった火花の散る様子が見えてくるからだ。動物は火を見ると興奮するそうだが、ヒトの子とて例外ではない。暮れた地に火花を散らしているうちに、誰もがエクスタシーめいた感覚にとらわれる。こうなるともう止められないが、そこに無情な母親の声。一人減り二人減りして、止むを得ずゲームは終了となるのだった。懐かしいなあ、みんな貧しかったが、あの頃が人生の黄金時代だったと今にして思う。昭和二十年代の話である。『現代俳句歳時記』(1989・千曲秀版社)所載。(清水哲男)


November 10112009

 焼き上がる鯛焼きのみなこちら向き

                           小川春休

前の蕎麦屋はたい焼きも販売するが、夏の間はずっと休みである。そしてある日「たい焼き始めました」の看板が出ると、風がぐっと冷たくなったことに気づく。久しぶりに再会するたい焼きは鉄板の上でほかほかと休んでいた。鉄板には、ずらりといっぺんに焼けるタイプと、一尾ずつ焼くタイプがあり、たい焼き通は前者を養殖もの、後者を天然ものと呼び分けているらしい。一尾ずつの焼き型は、くるくるとひっくり返す把手側が口先となっており、掲句の通り、焼き手に向かって焼き上がる格好となる。とはいえ、客の視線で、店先のウインドウに全員口先を並べているという姿を想像するのも、今まさにこちら側に飛び出しそうな勢いがあってなんとも楽しい。ところで、たい焼きはどこから食べるか。このたびわたしはこちら向きにしたたい焼きをまじまじと見つめ、とってもセクシーなくちびるに気づき、思わずぱくっと頭から食べた。そののちたい焼きの心理テストなるものを見つけた。頭派か尻尾派の二者択一と決め込んでいたが、背びれや腹びれから食べる人もいるそうで、さらには半分に割って尻尾から、などと、きわめて少数派の意見まで網羅され、あまりにも無責任な解説ながら大いに笑ってしまった。頭派は行動力はあるがやり方が雑…。おそらくいつも頭から食べているのだと確信した。『銀の泡』(2009)所収。(土肥あき子)


November 11112009

 憎まるゝ役をふられし小春かな

                           伊志井寛

一月に入って寒さは、やはり厳しくなってきたけれど、思いがけない暖気になって戸惑ってしまう日もあったりする。そんな時はうれしいようでありながら、あわててしまうことにもなってしまう。「小春」は「小六月」とも「小春日和」とも呼ばれる。日本語には「小正月」「小股」「小姑」など、「小…」と表現する言葉があってなかなか奥床しい。伊志井寛は新派のスターとして舞台にテレビに活躍した。この句の場合、どんな芝居のどんな役柄なのかはわからないけれど、この名優にして「憎まるゝ役」をふられたことに対する当惑と、小春日和に対する戸惑いが、期せずしてマッチしてしまった妙味が感じられて、どこか微笑ましさも感じられる。役者にとっては憎まれ役だからいやとか、良い役だからうれしいとか、そんな単純な反応はあるまい。憎まれ役だからこそむずかしく、レベルの高い演技が必要とされて、やりがいがある場合もあるだろう。そこに役者冥利といったものが生じてくる。「厳冬」でも「炎暑」でもなく、穏やかな「小春」ゆえに「憎まるゝ役」も喜ばしいものに感じられてくるわけだ。松本たかしの句に「玉の如き小春日和を授かりし」がある。平井照敏編『新歳時記』(1989)所収。(八木忠栄)


November 12112009

 拾ひたる温き土くれ七五三

                           山西雅子

うすぐ七五三。近くの神社で晴れやかな着物にぼっくり下駄で歩く女の子や、ちっちゃな背広に臙脂のネクタイをしめた男の子と会えるかもしれない。普段は身軽な格好であちこちを飛び回っている子供たち、最初は嬉しくても着なれない衣装の窮屈さにだんだん不機嫌になることも多い。神主さんのお祓いまでの順番待ちや記念撮影の準備など、こうした祝い事には待ち時間がつきものだ。晴れ着を着た子が手持無沙汰に日向にかがみこんで足元の土を手でいじっている。おとなに手をひかれあちこち歩いて草臥れてしまったのだろうか。七五三と言えば、晴れ着姿や千歳飴に目がいきがちだけど、日溜りにしゃがみこんだ子供が手にすくった土くれの温もりは何気ない動作を背後から見守るやさしい親のまなざしにも通じる。神社に降り注ぐ小春の日差しに佇む親とその膝元にしゃがむ幼子。子の成長を寿ぐ特別な日の親子のひとときが映像となって浮かびあがってくる。『沙鴎』(2009)所収。(三宅やよい)


November 13112009

 大枯野拾へば動く腕時計

                           蜂谷一人

谷一人(はちやはつと)さんの句画展で展示されていた作品。捨てられていた時計を拾うと秒針が動きだした。枯野と腕時計、この大小の対象だけでもひとつの情趣はあるのだが、作者は形の対照とバランスに動きを入れて焦点を転換し生命感を象徴させた。「動く」があるためにこの句は人間の存在の確かさを描き出している。何々すればという条件を述べるのは俳句では成功しがたいと言われている。この句はその定説に挑戦している面もある。(今井 聖)


November 14112009

 三つといふほど良き間合帰り花

                           杉阪大和

り花、とただいえば桜であることが多いというが、いまだ出会ったことがない。上野の絵画展の帰りに、桜並木を見上げて探したこともあるが、立ち止まって一生懸命見つけるというのもなんだか違うかなあ、と思ってやめた。枯れ色の庭園を歩いていて、真っ白なつつじの帰り花がちょこんと載っているのに出会うことはよくある。いかにも、忘れ咲、という風情で、個人的にはあまり好きでないつつじの花にふと愛着の湧く瞬間だ。掲出句の帰り花は、桜なのだろう。花をとらえる視線を思いうかべると、一つだと点、二つだと線、三つになると三角形、つまり面になって、木々全体にふりそそぐ小春の日差が感じられる。確かにそれをこえると、あちらにもこちらにも咲いていてまさに、狂い咲き、の感が強くなりそうだ。以前、俳句の中の数、について話題になった時、蕪村の〈五月雨や大河を前に家二軒〉は、調べの問題だけでなく、一軒ではすぐ流されそうだし、三軒だと間が抜ける、という意見になるほどと思ったことがある。そのあたり、ものによっても人によっても微妙に違いそうだ。「遠蛙」(2009)所収。(今井肖子)


November 15112009

 叱られて次の間へ出る寒さかな

                           各務支考

務支考(かがみしこう)も江戸期の俳人です。とはいうものの、本日の句を読む限りは、当時だけにあった物や言葉が入っているわけではなく、いつの世でも通用する句になっています。叱られることはもちろんつらいことでありますが、片や、叱ることも心の大きな負担になります。相手の反省を求めて頭ごなしにモノを言う、という立場のあり方には、多くの人がそうであるように、私も性格的にどうもなじめません。それでも会社に長く勤めていれば、そのうち管理職になってしまうわけであり、否が応でも部下を叱らなければならないことがあります。さて、本日の句。叱られて、いかにもしょんぼりと帰ってくる人の丸まった背中が見えるようです。そのしょんぼりが、次の部屋の床の冷たさ(あるいは畳でしょうか)に触れて、さらに悲しい震えにつながってきたのでしょう。なにがあったのか知る由もありませんが、だれしも間違いはあるもの。言葉もかけられないほどの意気消沈振りに、できたら帰りに赤提灯にでも、誘ってあげたいと思ってしまいます。『日本名句集成』 (1992・學燈社)所載。(松下育男)


November 16112009

 かたつむり紅葉の中に老いにけり

                           大串 章

見だろうか。実見にせよ想像にせよ、いまの季節に「かたつむり」に着目したセンスの良さ。紅葉との取り合わせが、実に鮮烈だ。俳句に限らず、こうしたセンスを生かせる能力は天性のものと言ってよいだろう。勉強したり努力したりして、獲得できるものではない。ここらへんが、人間の面白さであり味である。紅葉の盛りのなかで、かたつむりがじっとしている。梅雨ごろにはノロマながら這い回っていたのに、いまは死んだように微動だにしていない。かたつむりの生態は知らないけれど、寒さのゆえにじっとしているというよりも、作者は老いたがゆえだと断定する。根拠は無い。無いが、その様子にみずからの老いてゆく姿(このとき作者は五十代後半)を投影して、近未来の自分のありように重ね合わせている。これは頭ででっち上げた詠みではなくて、ごく自然に口をついて出てきたそれである。章句の良さは、情景から思わずも人生訓などを引き出しそうになる寸前で詠みを止めてしまうところだ。最近は、とくにそう感じることが多い。これもまたセンスなり。数多ある紅葉句のうちでも、秀抜な一句である。『天風』(1999)所収。(清水哲男)


November 17112009

 ここよりは獣道とや帰り花

                           稲畑廣太郎

り花は、小春日和のあたたかさに、春咲く花がほころびることをいう。「狂い咲き」という表現もあるが、これを「帰ってきた花」と見るのは、俳句特有の趣きだろう。先日奥多摩の切り通しを歩いたときに、車道とはずいぶん違うルートをたどることに気づいた。尾根伝いに切り開かれた道は、どこも身幅ほどで険しく、人間が足だけを使って往来していた時代には、獣たちも共用していたと思わせる小暗さと荒々しさがあった。そして山道は車道で唐突に分断され、道路には「動物とびだし注意」の一方的な警告がやけに目についた。掲句では、この先の小径は獣道なのだろうとつぶやいた言葉に、ほつと咲く季節はずれの花が、人と獣の結界をより鮮やかに、心優しくイメージさせる。思いがけない花の姿は、冬の足音をあらためて感じさせ、獣道を通う生きものたちの息づかいがこの奥にあることを予感させる。そしてまた獣の方も、この花を目印に人出没注意、と心得ているようにも思えてくるのだ。同句集には〈小六月猫に欠伸をうつされし〉もあり、こちらは思いきり人間界にくつろぐ獣の姿。これもまた小春日が似合うもののひとつである。『八分の六』(2009)所収。(土肥あき子)


November 18112009

 炬燵して語れ真田が冬の陣

                           尾崎士郎

の時季、北国ではもう炬燵が家族団欒の中心になっている。ストーブが普及しているとはいえ、炬燵にじっくり落着いてテコでも動かないという御仁もいらっしゃるはずである。広い部屋には炬燵とストーブが同居しているなどというケースも少なくない。日本人の文化そのものを表象していると言える。「真田が冬の陣」とは、言うまでもなく真田幸村が大坂城で徳川方を悩ませた「冬の陣」のことをさす。その奮戦ぶりを「語れ」という、いかにも歴史小説家らしい着想である。幸村はその後、「夏の陣」で戦死する。私は小学生の頃、炬燵にもぐり込んで親戚の婆ちゃんから怖い話も含めて、昔話を山ほど聞いた思い出がある。しかし、その九割方はすっかり忘れてしまった。炬燵の熱さだけが鮮明に残っているのは我ながら情けない。大学一年の頃は、アパートのがらんとした三畳間で電気炬燵に足をつっこんで、尾崎士郎の「人生劇場」(これまで十数回映画化されている)をトランジスターラジオにかじりついて毎夜聴いていた。古臭い主題歌に若い胸を波立たせていたっけなあ。物語をじっくり話したり聴いたりするのには炬燵こそ適している、と思うのは私が雪国育ちのせいかもしれない。士郎は俳句を本格的に学んだわけではなかった。他に「うららかや鶏今日も姦通す」がある。蕪村には「腰ぬけの妻うつくしき炬燵かな」。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


November 19112009

 縄跳びの入口探す小春かな

                           河野けいこ

学生のころ休み時間になるたび教室の戸口の脇にぶら下げてある大縄を持って校庭へ駆けだしたものだ。今の学校でも運動会などで大縄跳びが学年対抗の種目になっているところも多いのか、クラス全員揃って跳んでいる姿をときどき目にする。それにしても「お嬢さん、おはいんなさい」と歌で誘われても回る大縄へ横から滑り込むタイミングはなかなか難しい。身体でリズムをとりながらひょいと入らないと縄をひっかけてしまう。なんせ中で友達が3人4人跳びながら待っているのだから中断させるわけにはいかない。ヒュンヒュンと地面を打って縄を回す音が間近になり、一瞬をねらってとび込む緊張感。ああ、そういえばあれは縄跳びの入口を探していたのかもしれない。やわらかな小春日和の中でタイミングをうかがってまだとび込めずにいる子を見かけたら「あそこに入口があるよ」そっと教えてあげよう。『ランナー』(2009)所収。(三宅やよい)


November 20112009

 冬帽子脱ぎおけば灯にあたたまる

                           上野さち子

光灯でも電球でもいい。最近は暑くならない灯火もあるらしいが、よく知らない。夏は電球の暑さでさえ不愉快だが冬はその温熱で心までほのぼのと感じられる。外を歩いてきてすっかり冷たくなった冬帽が灯火の熱を受けてしだいに暖かくなる。それは体感というより気持ちの問題だろう。作者没年の作品であることを考えると、冷えた冬帽が作者の人生に見えてくる。最後にあたたかさに出会えたやすらぎを思う。「俳句年鑑」(2002)所載。(今井 聖)


November 21112009

 落葉掃く音の聞こえるお弁当

                           木原佳子

弁当、いい響きの言葉だ。現在、自分で作って勤め先に持っていくお弁当は、何が入っているか当然承知しているから、開ける時のわくわく度はぐっと低いが、それでも、さてお昼にするか、とお弁当箱の蓋を開ける時は、ほんわかとした気持ちになる。この句のお弁当は、どこで食べているのだろう。とある小春日和の公園あたりか。落ち葉は、それこそ散り始めてから散り尽くすまで、ひっきりなしに降り続く。そして落ち葉を掃く音は、少しやわらかく乾いている。ひたすら掃く、ひたすら落ちる、ひたすら掃く。冬を少しづつ引きよせるように続くその音を聞くともなく聞きながら、日溜りで開くお弁当はなんとも美味しそう。省略の効いた一句の中で、お弁当、の一語が、初冬を語って新鮮に感じられた。「俳句同人誌 ありのみ 第二号」(2009)所載。(今井肖子)


November 22112009

 くさめして我はふたりに分れけり

                           阿部青鞋

あ、こういう見方もあるんだなと、感心しながら本日の句を読んでいました。クシャミというもの、あらためて考えてみれば、たしかに奇妙なものです。体を二つに折り曲げて、自分が破裂するように出てくるものなんて、ほかには思いあたりません。だからでしょうか、俳句だけではなく、現代詩の中でも時折登場します。長い詩の最後に、大きな空の下でクシュンとすれば、不思議な余韻が生み出され、どことなく孤独感や切なさをかもし出します。今日の句も、なかなか印象的です。クシャミの衝撃で、自分が二人にはがれたと書いてあります。アップルパイでもあるまいに、クシャミひとつでそう簡単にはがれてはたまりませんが、もちろんここは理屈ではなく。分かれたふたりが、あわててひとつに戻る姿でも思い浮かべながら、楽しく読んでいればよいのでしょう。『日本名句集成』(1992・學燈社)所載。(松下育男)


November 23112009

 吊革に双手勤労感謝の日

                           長田和江

人の様子ではなく、自分のことを詠んだと見るほうが味わい深い。作者は女性だ。女性が双手(両手)で吊革につかまる姿はあまり見かけない。よほど疲れているのだろう。サービス業なのだろうか。とにかく祝日でも休めない職に就いている。今朝もいつもの時刻に出勤のため、電車に乗っている。いつもとは違って車内はだいぶ空いており、双手で吊革につかまるほどの余裕はある。そこで思わずも自然に双手で吊革をつかんでいる自分に、気がついた。あらためて、疲労している自分を確認した。周囲には行楽地に向かうとおぼしき家族連れなどもいて、ああ休みたいなと思う気持ちが込み上げてくる。そういえば、吊革にすがっている自分の姿は、そんな気持ちを天に向かって祈りを捧げているようではないか。微苦笑している作者の顔が目に浮かぶ。まったくもって同情したくなってくるけれど、しかしこの不景気、この就職難時代のことを思えば、作者はまだまだ幸せなほうである。いま「勤労感謝の日」という言葉が最も身にしみているのは、ただいま失職中の人たちなのではなかろうか。働きたくても働けない。一日も早く、そんな状況が消えてなくなりますように。『現代俳句歳時記・秋』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


November 24112009

 地下鉄に息つぎありぬ冬銀河

                           小嶋洋子

下鉄というものは新しいものほど深いという。一番最近開通した近所を走る「副都心線雑司が谷駅」など、地上から約35mとあり、その深さをビルに換算すると…。想像するだに息苦しくなる。ここまで深いと、始発駅から終点まで地上に出ることなく黙々と地下を行き来するのみだが、古株の「丸ノ内線」になると時折地上駅がある。ことに東京ドームを横目にする後楽園駅のあたりは、どこか遊園地の続きめいた気持ちにさせる区間だ。おそらく電車も地下から地上へ視界が開ける瞬間に息つぎをして、また地下へと潜っているのではないか、という掲句の気分もよく分かる。東京の地下鉄の深さを比較するのにたいへん便利な東京地下鉄深度図を見つけた。まだ副都心線が網羅されていないのが惜しいが、前述の「雑司が谷駅」付近はほとんど「永田町駅」クラスの深海ならぬ深都市層を走っていることとなる。眺めているうちに、息つぎを知らない不憫な副都心線の一台一台をつまみあげて、冬の夜空を走らせてあげたい気持ちになってきた。〈跳箱の布の手ざはり冬旱〉〈地球史の先端にゐる寒さかな〉『泡の音色』(2009)所収。(土肥あき子)


November 25112009

 枯菊や日々に覚めゆく憤り

                           萩原朔太郎

かなる植物も、特に花を咲かすものは盛りを過ぎたら、その枯れた姿はひときわ無惨に映る。殊に菊は秋に多くの鑑賞者を感嘆させただけに、枯れた姿との落差は大きいものがある。しかも季節は冬に移っているから、いっそう寒々しい。目を向ける人もいなくなる。掲出句には「我が齢すでに知命を過ぎぬ」とあるのだが、自分も、知命=天命を知る五十歳を過ぎて老齢に向かっている。そのことを枯菊に重ねて感慨を深くしているのだろう。若い頃の熱い憤りにくらべ、加齢とともにそうした心の熱さ、心の波立ちといったものがあっさりと覚めていってしまうのは、朔太郎に限ったことではない。朔太郎は昭和十年に五十歳をむかえている。この年に『純正詩論』『絶望の逃走』『猫町』等を刊行している。前年には『氷島』を、翌年には『定本青猫』を刊行している。知命を過ぎてから、この句がいつ書かれたのかという正確な時期は研究者にお任せするしかないが、朔太郎が五十一歳になっていた昭和十一年二月に「二・二六事件」が起きている。事件の推移を佐藤惣之助らとラジオで聴いて、こう記している。「二月二十六日の事件に関しては、僕はただ『漠然たる憤り』を感じてゐる。これ以上に言ふことも出来ないし、深く解明することもできない。云々」(伊藤信吉・年譜)。その「憤り」だったかどうか? 他に「笹鳴や日脚のおそき縁の先」がある。平井照敏『新歳時記』(1989)所収。(八木忠栄)


November 26112009

 白菜のうちがわにいるお母さん

                           小枝恵美子

くなって白菜がおいしい季節になった。二つに裂いた白菜を大きな樽や甕いっぱいに漬けこんでいくのは日本でも韓国でも一家の主婦が中心になってする仕事。日差しのあふれる冬の午後、日に当てるべく白菜を自分のまわりにいっぱいに並べて干しているお母さんがいる。「うちがわ」という表現はそんな場所とともに、白菜を食べたときじわった染み出すうまみに母を感じることも含まれるのかもしれない。白菜や大根を漬けるだけの場所も余裕もない都会とは違って、地方の庭先や納屋の手前では今日もうずたかく積まれた白菜をいくつもいくつも並べてせっせと働いているお母さんがいるに違いない。掲句を読んでおいしい白菜漬が食べたくなった。「白葱がねむいねむいと煮えている」「恋人は美人だけれどブロッコリー」など句集にはおいしそう、かつユニークな冬野菜が並んでいる。『ベイサイド』(2009)所収。(三宅やよい)


November 27112009

 出雲発最終便の咳の人

                           鈴木鷹夫

間では神無月が出雲では神在月。旧暦十月十一日から十七日まで出雲で開かれる会議に出席された神々は十八日に「神等去出」(からさで)祭に送られて元の国々にお帰りになる。咳をしている最終便の人はひょっとしたら最後に帰る神さまかもしれない。「出雲」という地名がどういう効果をもたらすか、作者は十分に計算し尽くして用いている。詩人としての才を感じさせるのはこういうところだ。「俳句研究年鑑」(2003)所載。(今井 聖)


November 28112009

 人々をしぐれよ宿は寒くとも

                           松尾芭蕉

日、十一月二十八日は陰暦では十月十二日。ということは芭蕉の忌日、と「芭蕉句集」を読んでみた。初冬の雨ならなんでも時雨というわけではない、高野素十の〈翠黛(すいたい)の時雨いよいよはなやかに〉の句にあるように、降ってはさっと上がり、日が差すこともあるのが時雨、東京では本当の時雨には出会えない、と言われたことがある、え〜そんなと思ったがそうなのだろうか。一方、芭蕉と時雨というと挙げられる、宗祇の〈世にふるもさらにしぐれの宿りかな〉のしぐれは、冷たく降る無情の雨という気がするが、いずれにしても、強く太く降る雨ではないのだろうという気はする。掲出句を読んだ時、寒くてもさらにしぐれよとは、と思ったが、解説には「ここに集まった人々に時雨して、この集いにふさわしい侘しい趣をそえよの意」とある。雨風をしのげれば十分というその頃の宿、寒ければ寒いまま、静かに時雨の音を聞いていたのだろう。「芭蕉句集」(1962・岩波書店)所載。(今井肖子)


November 29112009

 唇で冊子かへすやふゆごもり

                           建部涼袋

週も江戸期の俳句です。冊子は「さうし」とフリガナがあります。つまりは本のことです。この句、読めば誰しも微笑まずにはいられません。ああこういうことってあるな、と古い人ならたいてい思いあたります。コタツにでも入っているのでしょうか。手は布団の中で温められている最中であり、よっぽどのことがない限り、冷たい外気などへはさらしたくありません。でも弱ったことに、読んでいる本のページをめくらなければなりません。さあどうしよう、ということでコタツから出ているもので動くものならなんでも使えということで、急きょ唇が動員されたというわけです。まあ、自分の体ですから、どこをどう使おうと勝手といえば勝手ですが、たしかにだらしない姿です。読んでいる本の内容も、自ずと知れてくるというもので、少なくとも精神を高めるようなものではないようです。最後に置かれた「ふゆごもり」という季語が、なんとも大げさで、さらに笑いを誘います。『日本名句集成』(1992・學燈社)所載。(松下育男)


November 30112009

 寄鍋にうるさき女奉行かな

                           湯浅苔巌

に「鍋奉行」と言う。鍋に具を入れる順番から煮え加減や食べ方にいたるまで、まことに細かく指示を出しつづけて「うるさい」。私などは無精だから「どうだっていいじゃん」と大人しくしているが、こういう句を詠む人もまた、鍋にはかなりの自信があるのだろう。しかし上には上がいるというのか、相手が女性ゆえに遠慮しているのか、彼女の指図にいちいちかちんと来ているのだが、何も言えないでいる。流儀が根本的に違うのだ。だからただただ腹立たしく、うるさいのである。と言って、べつに彼女を憎むほどでもないのであって、そのうちに諦めが肝心と悟ってゆく。ちょっとした宴会のちょっとした出来事。俳句でなければ、人はこんなことは書けないし書かない。まこと庶民の文芸である。でも逆に口うるさい鍋奉行がいてくれないと、すぐに鍋の中はぐちゃぐちゃになるし、荒涼としてくる。うるさくても、助かるのである。それこそ逆に、こんな句もある。「寄鍋を仕切るをとこのゐるもよし」(近藤庸美)。こちらは、女性ならではのありがたさを感じている。料理といえば女。それが「をとこ奉行」のおかげで、何もしなくてもよいからだ。今日で十一月もお終い。本格的な鍋料理の季節に入ってゆくが、腕を撫している奉行たちも大勢いることだろう。山田弘子編『彩・円虹例句集』(2008)所載。(清水哲男)




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