古い漫画本など郷愁を売る店「マンダラケ」中野店のオーナメント。(哲




2009N125句(前日までの二句を含む)

December 05122009

 落日の中より湧いて鶴となる

                           坂口麻呂

者は鹿児島在住であった。この句は、鶴の渡来で名高い、出水(いずみ)での一句。鶴が渡ってくると、当地を何回も訪れていた。この日は、昼間どこかに遊びに行った鶴が戻ってくるのを夕方待っていたのだという。西の空をひたすら見つめているうち日も暮れかかり、大きな夕日が沈んでゆく。そろそろかなと思ったその時、赤くゆらめく太陽に、わずかな黒い点点が見えたかと思うと、思いがけないほどの速さで、それらが鶴となって作者に向かって飛来して来たのだ。落日、の一語が、深い日の色と広い空、さらにふりしぼるような鶴唳をも感じさせる。自然の声を聞くために、毎日40分の散歩を欠かさなかったという作者だが、この秋、突然亡くなられた。この句は、南日本新聞の南日俳壇賞受賞句(2003.4.18付)。あっと目を引くというのではないけれど、しっかりとした視線と表現が魅力的な、南日俳壇常連投句作家で、私はファンの一人だった。どちらかというと出不精で、鶴の飛来はもちろん、あれもこれも知らないことの多すぎる自分を反省しつつ、合掌。(今井肖子)


December 04122009

 テレビに映る無人飛行機父なき冬

                           寺山修司

画「網走番外地」は1965年が第一作。この映画が流行った当時世間では学生運動が真っ盛り。高倉健が悪の巣窟に殴りこむ場面では観客から拍手が沸いた。世をすねたやくざ者が義理と人情のしがらみから命を捨てて殴りこむ姿に全共闘の学生たちは自分たちの姿を重ねて共感し熱狂したのである。この映画はシリーズになり18作も撮られた。数年前、監督の石井輝男さんにお話をうかがう機会があった。監督自身の反権力の思いがこの作品に反映している点はありませんかという問に監督はキョトンとした顔で、まったくありません、映画を面白くしようと思っただけですという答が返ってきた。実は「豚と軍艦」の山内久さんや「復讐するは我にあり」の馬場當さんからも同じ質問に同じ答が返ってきた。文学、芸術、自己投影、自己主張というところから離れての娯楽性(エンターテインメント)。良いも悪いもこれを商業性というのか。寺山修司の俳句にも同じ匂いがする。ここにあるのは「演出」の見事さ。作者の「私」を完全に密閉した場所でそれが成功するのは俳句ジャンルでは珍しい。『寺山修司俳句全集』(1986)所収。(今井 聖)


December 03122009

 風になりたし鶴の絵本をひろげいる

                           酒井弘司

い切り寒い日に氷のかけらをこぼしながら餌をついばむ鶴を見に行きたい。この句を読んでふと思った。鹿児島県出水、山口県八代には何度か足を運んで鶴を見に行った。山裾まで開けた田圃に飛来する鶴は灰色がかった鍋鶴で、群れになって飛ぶ姿はたくましい渡り鳥という印象だった。野生の丹頂鶴はまだ見たことがない。親の膝にのって絵本を読んでいるのだろうか、ひろげている絵本が鶴の翼を思わせる。「風になりたし」とつぶやいているのは誰なのだろう。鶴の絵本を食い入るように眺めている子供とも考えられるし、絵本の鶴と一体化した子を背後からささえる親ともとれる。ともに絵の中を飛ぶ鶴をはげます風になってお話の中に入り込んでいるのかもしれない。美しい舞鶴のイメージとともに鶴と風の関係に想像が膨らむ一句である。『谷風』(2009)所収。(三宅やよい)




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