December 142009
ライオンが検査でゐない冬日向
北大路翼
動物園でのそのまんま句。しかも、この作者にしてはいやに古風な詠みぶりにも写る。しかし、よく考えてみると、やはりこの句はすこぶる現代的なのであった。一言で言えば、それは対象への関心の希薄性にある。ライオンが詠まれているけれど、べつに作者はライオンを見物する目的で、ここにいるのではないだろう。なんとなくぶらりと入った動物園なのだ。だから、たぶん「検査のため不在」という張り紙を見ても「ああ、そうか」と思っただけなのであり、それ以上の関心は示していない。そのことよりも、暖かい「冬日向」にいられることのほうが、よほどラッキーと思えている。いまや、世の中はイベントだらけだ。早い話がそもそも家庭でのテレビがイベントの倉庫であるし、一歩表に出れば商店街の大安売りなども同類である。つまり好むと好まざるとに関わらず、現代の生活にイベントはつきものとなってしまった。なかでも動物園などは、昔からイベントの常設会場だ。でも昔は珍しい動物に会えるのを楽しみにドキドキしながら入園したものだが、最近は三歳の幼児でも昔の子ほど興奮しているようには見られない。つまり、国民総イベント慣れの時代となったわけだ。このようにイベントに慣らされた感受性には、そこに何かが欠落していたとしても、すぐにテレビのチャンネルを切り替えるがごとく、欠落そのものを忘れてしまう。と言うか、あきらめてしまう。どんどんチャンネルを切り替えてゆく。少しく大げさに言えば、そうしなければ身が持たないからである。この句は作者が意識しているのかどうかは別にして、そうした極めて現代的な感受性が働いた結果の産物なのであり、ここに切り取られている時空間は、昔の俳人ではとても意識できないそれであることだけは間違いのないところだろう。ちっとも古風ではなく、実は新しいのである。『セレクション俳人・新撰21』(2009)所載。(清水哲男)
December 132009
かがみ磨ぎ寺町のぞくおちばかな
建部巣兆
いつだったか、だいぶ昔のとあるいちにちに、タクシーに乗ってぼんやりと窓から外を見ていたことがあります。まだ30代の若い頃で、事情があって住む家をさがしていました。松戸駅からほど近い小路を、ゆっくりと曲がろうとする車の中で、一瞬天地が激しく傾いたような感覚を持ちました。車が角を曲がる瞬間に、確かに大地が斜めに競りあがり、商店が空中に高く浮きあがったのです。車内にしがみつくようにして瞬間的に目を閉じ、そのあとで落ち着いて目を凝らせば、曲がり角のちょうど曲がり目のところに、大きな鏡が置いてありました。鏡、という言葉を見ると、あのころの不安定な心持を思い出します。今日の句は、鏡磨ぎという職業の人が、落ち葉の積もる寺町へ入っていったという、ただそれだけのことを詠んでいます。昔は鏡も金属でできていましたから、刀や包丁のように、表面を磨ぐ職業があったのでしょう。「かがみ」と「寺」のイメージが支えあって、落ち着いた美しい句になっています。落ち葉が敷き詰められている地面を手で払えば、その下には、深く空を映した鏡が張られている。そんな印象を持たせてくれる句です。『日本名句集成』(1992・學燈社)所載。(松下育男)
December 122009
耳剥ぎに来る風のあり虎落笛
加古宗也
今これを書いている間もずっと、ヒューという音がし続けている。現在仮住まい中のマンションの五階、南に向いた振り分けの部屋のうち東側の六畳間、他の部屋ではこの音はしない。いろいろ試してみた。サッシを少し開けると、太めに音色が変わり、思いきり開けると音は止む。玄関を始め、家のどこかを開けるとこれまた音は止む。いくらそ〜っとサッシを閉めても、風はうっかり見逃すということはなく、この部屋のサッシのわずかな隙間に気づいて、もの悲しげな音をたて続けるのだ。昼は別の部屋の窓を少し開けておけば音はしないが、寒くなってきたので夜はそうはいかない。目を閉じて聞いていると、虎落笛(もがりぶえ)のようでもある、やや単調だけれど。それにしても、掲出句の、剥(は)ぐ、は強烈だ。「虎」の字とも呼び合って、まさに真冬の烈風を思わせる。それこそ窓をうっかり開けたら、突然恐ろしいものが飛び込んできそうだが、吹き荒れる木枯を聞き恐いものを想像しながら、ぬくぬくと布団をかぶっているのは、これまたちょっと幸せでもある。原句の「剥」は正字。「俳句歳時記 第四版 冬」(2007・角川学芸出版)所載。(今井肖子)
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