December 312009
人類に空爆のある雑煮かな
関 悦史
スーザン・ソンタグの「他者の苦痛へのまなざし」(みすず書房)に次のような記述がある。「戦争や殺人の政治学にとりまかれている人々に同情するかわりに、彼らの苦しみが存在するその同じ地図の上にわれわれの特権が存在し、或る人々の富が他の人々の貧困を意味しているように、われわれの特権が彼らの苦しみに連関しているのかもしれない一われわれが想像したくないような仕方で―という洞察こそが課題であり、心をかき乱す苦痛の映像はそのための導火線にすぎない。」人類はどこに向かおうとしているのか。テレビの空爆の映像を雑煮を食べながら見ている私たちの日常。距離的にも実感も遠いその感覚を俳句で表現するのは難しいが、年神に供えるめでたい雑煮が空爆と並べられることでうっそりとした不安の影をつくる。間尺に合わない言葉に触発されて今まで意識もしなかった「雑煮」の字面に荒んだ風景が滲む。パレスチナ、ガザ地区への空爆で始まり、政権交代、デフレ、貧困、に揺れた2009年も今夜で終わり、明日からは新しい年がはじまる。「新撰21」(2009)所載。(三宅やよい)
December 302009
大年や沖遥かなる波しぶき
新藤凉子
とうとう今年も、今日を入れて二日を残すのみとはなりにけり――である。大年(おおとし)とは十二月三十一日のこと。山本健吉の『季寄せ』では、こう説明されている。「年越と同じく、除夜から元旦への一年の境を言う。正月十四日夜の小年(こどし)にたいする言葉。だが大晦日そのものをも言う。大年越」。さらには「大三十日」「おほつごもり」とも呼ばれる。今日三十日は「つごもり」。年も押し詰まったある日、はるか海上を見渡せば、沖合にいつもと変わりなく白い波しぶきがあがっている。一年のどん詰まりとはるかなる沖合(まさに時間と空間)の対比が、句に勢いを加えている。大きさとこまやかさ。数年前の夏のある日、友人たちと熱海にある凉子のマンションに招かれたことがあった。ビールを飲んでは、見晴らしのいい大きなガラス窓から、海上はるかに浮かぶ初島を飽かず眺望していた。もしかして、作者はあの島を眺めていて、波しぶきを発見したのかもしれない。大晦日になって、妙にこせこせ、せかせかしないおおらかな句である。いかにも凉子の人柄が感じられる。ほかに「冬帽子母のまなざし蘇る」というこまやかな句もある。正岡子規には「漱石が来て虚子が来て大三十日」というゼイタクな句もある。『平成大句会』(1994)所載。(八木忠栄)
December 292009
熱燗や無頼の記憶うすれたる
大竹多可志
仕事納めもとともに、忘年会続きのハードな日々も落ち着き、29日は年末とはいえ、ぎりぎりの普通の日。押し詰まる今年と、迫り来る来年に挟まれた不思議な一日である。ぽかんと空いたひとりの夜に、熱燗の盃を手にすれば、湧きあがるように昔のことなども甦ってくるものだろう。作者は昭和23年生まれ。一般に「団塊の世代」と呼ばれるこの世代といえば「戦後復興経済とともに成長し、大学紛争で大暴れ」といったステレオタイプが強調されることもあり、掲句の「無頼の記憶」もまた、すごぶる武勇伝が潜んでいそうだが、その向こう見ずな時代を熱く語る頃を過ぎたのだという。しかし「うすれた」と「忘れた」とは大きく違う。忘れたくない気持ちが「うすれた」ことを悲しませているのだ。分別を身につけた現在のおのれにわずかに違和を感じつつ、まぎれもなく自分そのものであった無頼時代の無茶のあれこれが、他人事のように浮かんでは消えていく冬の夜である。〈冬の午後会話つまれば眼鏡拭く〉〈団塊の世代はいつも冬帽子〉『水母の骨』(2009)所収。(土肥あき子)
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