ドバイに約160階建て超高層ビル完成という報道。「約」って? (哲




2010N16句(前日までの二句を含む)

January 0612010

 松の内妻と遊んでしまひけり

                           川口松太郎

うまでもなく「松の内」は正月七日まで。古くは十五日までが松の内とされていたが、幕府の命令もあって短縮されたのだという。また三が日を過ぎると、松をはずす地方が増えた時期もあったらしい。今や、三が日どころか元旦も休まず営業する大型店さえ、珍しくなくなってしまった。のんびりとした正月気分など、時代とともにアッという間にどこかへすっとんで行ってしまった。たちまち慌ただしい日常に舞い戻ってしまう。でも、やはり日本の正月は正月である。若者はそわそわと繁華街へくり出して行く。けれど、たいていの女房持ちはゆっくり家にいて過ごすことが多いのではないか。掲出句の夫婦は、何をして遊んだのかは知らないが、「遊んでしまひけり」……やるべき仕事もあったにもかかわらず、ついうかうかと日を過ごしてしまったという後悔とともに、「まあ、松の内だもの」という微苦笑がちょっぴり感じられる。子や孫、あるいは友だちと遊ぶのではなく、妻と遊んだところにこそ、この句のポイントがあり味わいがある。大方の人が、新年早々の意気込みとは別に、うかうかと時間をやり過ごしてしまうケースが多いのも松の内。落語家だけは高座で1月中は「おめでとうございます。本年もどうぞご贔屓に……」と連呼しつづけている。作家・松太郎の妻・三益愛子は、「母もの映画」で往時の人々の涙をさらった名女優。晩年はがらりと一転して舞台の「がめつい奴」で、がめつい「お鹿婆さん」役で活躍し、テアトロン賞などを受賞した。平井照敏編『新歳時記』(1990)所載。(八木忠栄)


January 0512010

 セーターに猫の毛付けしまま帰す

                           西澤みず季

謡にある通り、猫は寒がりであるから、冬ともなれば人間の膝の上だろうが、うっかり脱ぎ捨てた洋服の中だろうがお構いなしに、より暖かい場所を探し求める。というわけで猫を飼っていると、どんなに注意していてもどこかしらに猫の毛が付いているものである。電車のなかで居眠りした友人がはっと目をさましたとき「隣の人がなにしてたと思う?」と言う。愛らしい女性がもたれかかってきたのだから喜んでいたのかと思いきや、「すごく嫌そうに、わたしのコートから移動した猫の毛を一本一本取ってたの」だそうだ。猫の毛は細くてなかなか取りにくい。だからこそ、家庭内に不穏な騒動を持ち込む原因にもなりかねない。掲句の女心がちょっぴりのいたずらなのか、はたまた浮気な男へのきつい一撃なのか、どちらにしてもその後が気になる一句である。猫を飼っている人としか付き合わないから大丈夫、などとゆめゆめ油断めされるな。かの友人は「うちの猫の毛じゃない」ということもすぐに分かると言っていた。〈雪渓を見上ぐる鳥の顔をして〉〈極月の万の携帯万の飢餓〉『ミステリーツアー』(2009)所収。(土肥あき子)


January 0412010

 獅子頭ぬぎてはにかむ美青年

                           片山澄子

子舞の句には、獅子頭をぬいだときのものが結構ある。舞そのものを詠んだ句は非常に少ない。つまり獅子舞は鑑賞する芸ではないのかもしれない。しかし皮肉なことに、舞う人の多くはそう思ってはいない。だから「はにかむ」のだ。学生時代の終りごろに、よく京都・千本中立売の安酒場に出入りした。このあたりは、かつては水上勉の『五番町夕霧楼』でも知られる西陣界隈の大きな色町・盛り場だった。私が通ったのは売春禁止法が施行された少しあとだったので、街は衰退期に入っていたのだけれど、それでもまだ色濃く名残りは残っていて、行く度にドキドキするような雰囲気があった。獅子舞の青年と知りあったのは、そんな安酒場の一つだった。句にあるような美青年ではなかったけれど、この時期になると獅子頭を抱えて街を流していて、ときどき一服するために店に入ってくるのだった。カウンターの奥にそっと商売道具を置き、コップ酒をあおる彼の姿は、それこそドキドキするほど格好が良かった。いつしか口をきくようになり、ほとんど同じ年頃だったが、彼の全国放浪の話を聞くにつけ「大人だなあ」と感心することばかり。句の青年は由緒正しい獅子舞の伝統を踏まえた芸人の卵であることがうかがわれ、微笑ましい限りだけれど、彼のほうは芸人というよりもチンピラヤクザに近かったのであって、芸もへったくれもなかったのではなかろうか。でも、そんな裏街道を行く彼の生き方に共感を覚え、彼が好きだったのは、あながち若年のゆえだけとは言えない何かがあったからだと思う。その後の私が社会人としてのまっとうな職業を外れた背景には、彼に象徴される裏通り特有の人生観にも影響されたところがあったような気がする。もうすっかり名前も忘れてしまったけれど、彼のほうはその後どう生きただろうか。新年早々掲句を読んで、そんなことをほろ苦く思い出したのだった。最近は、飲み屋街で獅子舞を見かけることもなくなった。もう商売としては時代遅れなのだ。往時茫々である。『未来図歳時記』(2009)所載。(清水哲男)




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