ミろし句

April 2642010

 山峡の底に街道桐の花

                           平野ひろし

う咲いている地方もあるだろう。桐の花は遠望してこそ美しい。ちょうど、この句のように。花の撮影を得意とする人のなかでも、このことをわかっている人は少ないようだ。クローズアップで撮っても、それなりに美しくは見えるけれど、しかしやはり遠目に見る美しさにはかなわない。桐の花の季節には、野山は青葉若葉で埋め尽くされる。だから、桐の花はいつでもそうした鮮やかな緑に囲まれているわけで、遠望することにより、さながら紫煙のごとくにぼおっと煙って見える理屈だ。つまり桐の花の美は、周囲の鮮明な緑によっていっそう引き立てられるのである。その周囲の強い緑色は、桐の花をどこかはかなげに見せる効果も生む。北原白秋の第一歌集『桐の花』に書きつけられた「わが世は凡て汚されたり、わが夢は凡て滅びむとす。わがわかき日も哀楽も遂には皐月の薄紫の桐の花の如くにや消えはつべき。……」は、白秋が桐の花の美的特質をよく把握していたことを示しているだろう。掲句の作者も「山峡の底」を鳥瞰することで、みずからの美意識を表白しているのだ。百年も二百年も時間が止まってしまったかのようなこの光景は、霞んだ紫の桐の花が巧まずして演出しているわけで、その光景を即座に切り取って見せた作者の感性には、描かれた光景とは裏腹になかなか鋭いものがある。「俳句界」(2010年5月号)所載。(清水哲男)




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