May 132010
まむしぐさ蛇口をすこし開けてをり
新妻 博
まむし草は山野草のひとつで有毒植物と、植物図鑑に記載がある。写真を見るとすっぽり伸びた花茎には紫の文様があり、それがまむしの柄と似通っているため、この名前がつけられたらしい。毒々しく赤い実がびっしりと詰まっている様子を見てもあまり気持ちのよい植物に思えない。一説ではまむしの出るところに生えているのでこの名前がついたともあり、あまり陽の当らないうっそうとした場所に顔を出すのだろう。それにしても掲句を読んで水道の蛇口って「蛇の口」って書くんだな、と改めて気付かされた。毎日「蛇の口」から出される水で煮炊きし、顔を洗い、口を漱いでいるわけだ。銀色に光る蛇口をすこしひねる何気ない動作も「まむし草」という植物と取り合わされることで、木下闇に三角の頭をもたげて口を少し開けている毒蛇と連想がかぶって、おどろおどろしい光景が映し出される。使い慣れている言葉も定型を生かした取り合わせによって迷宮へ降りてゆく入口が開くようで、こうした句を読むたび尽きせぬ興味を感じさせられる。『立棺都市』(1995)所収。(三宅やよい)
May 122010
皿の枇杷つぶらつぶらの灯なりけり
和田芳恵
枇杷の白い花が咲くのは冬だが、その実は五〜六月頃に熟す。枇杷の木は家屋敷内に植えるものではない、という言い伝えを耳にしたことがある。しかし、家のすぐ外に植えてある例をたくさん目にする。オレンジ色の豆電球のような実がびっしりと生(な)るのはみごとだけれども、緑の濃い葉の茂りがどことなく陰気に感じられてならない。その実一つ一つは豆電球のようないとしい形をしていて、まさしく「つぶらつぶらの灯」そのものである。食べる前に、しばし皿の上の「つぶら」を愛でている、の図である。あっさりとした甘味が喜ばれる。皮がぺろりとむけるのも、子供ならずともうれしく感じられる。それにしても、つぶらな実のわりに種がつるりとして、不釣り合いに大きいのは愛嬌と言っていいのかもしれない。「枇杷の種こつんころりと独りかな」(角川照子)という句を想う。千葉や長崎、鹿児島のものが味がよいとされるが、千葉では種無し枇杷を開発しているようだ。あの大きめの種が無いというのは、呆気ない気がするなあ。枇杷は山ほど食べたいとは思わないけれど、年に一度は旬のものを味わいたい。樋口一葉研究でよく知られた芳恵は、志田素琴について数年俳句を学んだことがあるという。夏の句に「ほととぎす夜の湖面を鋭くす」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)
May 112010
横顔は猛禽のもの青葉木菟
茨木和生
青葉木菟は初夏にやってきて、秋に帰る梟科の鳥である。夜行性だが、青葉のなかで時折その姿を見ることもある。丸顔に収まった大きな目で小首を傾げる様子など、なんとも愛くるしいが、大型昆虫類を捕食する彼らはまた立派な猛禽類なのだ。数年前になるが、明治神宮を散歩していたときのこと。この木の上に青葉木菟のすみかがあると教えてもらった。「声も姿もしないのにどうしてわかるのだろう」と不思議だったが、木の根本を見て了解した。そこには腹だけもがれた蝉の死骸が散らばっていたのだ。可愛らしい丸顔に収まったくちばしは、正面から見る限り小さく存在感が薄いものだが、横向きになれば見事に湾曲したそれは、肉を引きちぎったり、掻き出したりすることに特化した鷹や鷲に通じるかたちがはっきりわかる。まだ羽を震わせているような蝉の残骸に、青葉木菟の横顔をしかと見た思いであった。〈雲の湧くところにも家栗の花〉〈青空の極みはくらし日雷〉『山椒魚』(2010)所収。(土肥あき子)
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