圧迫骨折で入院中の父の検査が終了。今日、医師の診断を聞きに行く。(哲




2010N617句(前日までの二句を含む)

June 1762010

 冷房のなかなか効かぬ男かな

                           渋川京子

場に男と女が争う原因のひとつがこれではないか、一読おかしくなった。クールビズの影響か、この頃はノーネクタイのサラリーマンをよく見かけるが、外回りから帰るやいなや暑い暑いと設定を「強」にして吹きつける冷風を浴び書類で顔を仰いだりする。体感温度そのものが違うのか家での冷房も「なかなか効かぬ男」と冷えすぎる女との間で闘いが浮上してくる。そんな背景も踏まえつつ、気が効かないのか態度がでかいのか、まわりが冷ややかな視線を向けているのに、そんな雰囲気をものともしない男を冷房の効かない男にかけているようで、何ともユーモラス。それでも、この「男」の部分を「女」に変えると洒落にならないように思う。女が男をからかうと同時に寄りかかる気分もあって、そのあたりの機微がこの句の味わいを演出しているのだろう。『レモンの種』(2009)所収。(三宅やよい)


June 1662010

 雨霽(は)れて別れは侘し鮎の歌

                           中村真一郎

ったい誰との「別れ」なのだろうか。俳句として、そのへんのことにはあまりこだわらなくてもよいのかもしれない。けれども、誰との「別れ」だから侘しいのだ、という理屈がついてまわっても仕方があるまい。真一郎が敬愛していた立原道造は、大学を卒業して建築事務所に勤めたが、健康を害して追分村のかの油屋で療養していた。道造に声をかけられた真一郎は、同じ部屋でひと夏を過ごした。けれども、翌年の夏には道造はすでに亡き人になっていた。そんな背景があって、同年輩の詩人たちと道造追悼の歌仙を巻いたおり、掲句はその発句として作られたという。「鮎の歌」は道造が生前に出版したいと考えていた連作物語集である。そうした掲句の背景を知っておけば、改めて句の意味や解釈などを縷々述べる必要はあるまい。雨が降っているより、霽(は)れたからこそ侘しさはいっそう強く感じられるのだ。真一郎には「薔薇の香や向ひは西脇順三郎」という句もある。堀辰雄は中村真一郎を「山九月日々長身の友とあり」と詠んでいる。真一郎という人は長身・洒脱の人だったし、氏が酒場などで語るどんな話にせよ、人を飽きさせない魅力と好奇心に富んでいたことを思い出す。見かけによらず気さくな人だった。『俳句のたのしみ』(1996)所載。(八木忠栄)


June 1562010

 受付に人のとぎれし水中花

                           高木聰輔

まで気づかなかった水中花のボトルが見えた瞬間に、さきほどまでの混雑ぶりがあらわになる。現在を描くことで過去を連想させている。水中花が感じさせる無機質な冷たさと、ゆったりともひしめくとも見える生々しい感触は、通り過ぎた時間をそのまま封じ込めているようで、どこかこころもとなく眺めている作者の視線を感じさせる。「受付」とはまたその中に座る人の存在を予感させるものでもある。入口から始まるスムーズな動線は、来訪者をまっすぐに受付へ導き、さらに希望の場所へとさばいていく。分岐の現場はなかなか定石通りにはいかず、臨機応変や当意即妙という豊かな経験からくる対応が求められながら、「受付嬢」というきらびやかな言葉が残るように、若さや美しさも同時に要求されるのも事実であろう。容姿端麗で礼儀正しく、忙しいときでも暇なときでも常ににっこりと座っていなければならないことを思うと、水中花のわずかなゆらぎが受付嬢の屈託のようにも見えてくる。『籠枕』(2010)所収。(土肥あき子)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます