リ貸子句

June 2462010

 アロハシャツ似合へる夫の余生かな

                           木村たみ子

生を辞書で引くと「一生で(最盛期を過ぎて)残った命、生活」とある。いつからを余生と呼ぶのか、それを区切るのはあくまで本人だろうが、会社を退職し、毎日が日曜日という生活になじんでくるとこの言葉が実感として響いてくるかもしれない。現役時代はほとんどの時をネクタイと背広で過ごして、服装には無頓着な男の人も多い。退職して家にいるようになるとどんな格好をして過ごすのだろう。昔だとステテコにシャツのご隠居が夕涼みしている姿が定番として思い浮かぶが、団塊の世代はジーパンとスニーカーであちらこちら駆け回りそう。掲句のアロハシャツは夫自身の好みで選んだのか、家族からのプレゼントか。緑や赤の派手な模様の入ったアロハシャツを着こんで、籐椅子でカメラなどをいじっている夫。最後の「かな」の詠嘆にそのような静かな時間を二人で共有する喜びが表されているように思う。『水の音』(2009)所収。(三宅やよい)


February 0322011

 恐るべき年取豆の多きかな

                           木村たみ子

さい頃は豆の数が少ないのが不満だった。自分よりたくさん豆がもらえる兄や姉が羨ましく、年をとるたび掌に乗せる豆が増えるのが嬉しかった。いつからだろう豆の数が疎ましくなったのは。「恐るべき」というぐらいだから片手に山盛りだろうか。子供たちも大人になった今は鬼の面をかぶることも豆まきをすることもなくなった。試しに年の数だけ手に乗せると溢れそうである。「鬼は外」と大きな声で撒くに恥ずかしく、ぽりぽり齧るには多すぎて、まさに「恐るべき」豆の多さである。「死にたしと時には思へ年の豆」高橋龍の句のように自分の年齢へ辛辣な批判を加えてみるのもひとつの見方だろうが、山盛りの豆に怖気つつ、又ひとつ豆を加えられる無事を感謝したい。『水の音』(2009)所収。(三宅やよい)




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