June 272010
さくらんぼ笑で補ふ語学力
橋本美代子
笑は「えみ」と読みます。季語はさくらんぼ。いったいよくもこれほどかわいらしいものが世の中にあるものかと思うほどに、色艶も、大きさも、手と手をつなぎあっているその姿も、完璧な果物です。一生こんなものを眺めていられるなら、さぞや楽しい人生だろうと思うわけですが、この句はそれほどに楽な状況ではなくて、おそらく外人との会話に、困り果てている姿を詠っています。これで文法は正しいだろうか、とか、3単現のエスを忘れてしまった、とか、言いたい単語は頭の中にその姿を現しているものの、どうしてもその言葉が出てこないとか、困りきった挙句に笑ってごまかしています。35年以上も外資系の会社に勤めて、そのほとんどの期間において外人の上司の下で働いていた私としては、実に、人ごととは思えない句です。ところで、さくらんぼと、この状況とはどんな関係があるのでしょうか。困り果てた挙句に浮かび出た素直な笑顔が、弱さをありのままに出していて、なんとも無防備で無垢なかわいらしさをたたえていた、それゆえのさくらんぼなのでしょうか。『俳句のたのしさ』(1976・講談社)所載。(松下育男)
June 262010
四葩咲きよべの涙を忘れしむ
文挾夫佐恵
通勤路の紫陽花、さみどりの蕾が日に日に色を見せていまちょうど雨に似合う青紫。四葩(よひら)を紫陽花の意味で使うのは、「特に俳句でいう。」(広辞苑)とのことだ。小さな花を豪華な四片の萼が囲んでいる。昨日の帰り道ご近所で、庭の紫陽花が道路まではみ出したのを一気に刈っていた。まだたくさん花がついていて、通りがかりの私達にも「よかったら持っていって」と。一輪いただいて帰りガラスの器に挿した。大きい毬がかたまって咲く割には、その深く濡れた水色といい、咲く時期といい、さびしい印象のあった紫陽花だけれど、こうして一輪と向き合ってしみじみ見ていると可憐でかわいらしい。涙色の紫陽花と見つめ合いながら、少し微笑んでいる作者の顔が見えるような気がするのだった。『花の大歳時記』(1990・角川書店)所載。(今井肖子)
June 252010
母が泣く厨のマッチ火星へ発つ
土居獏秋
封建的な夫、または婚家の姑や小姑にいびられている母が厨で煮炊きのマッチをする。点火したマッチはそのままロケットになって火星へ旅立つ。初版1965年の金子兜太著に載っている作品だから少なくともそれ以前の作。厨で泣くという設定がいかにも古い時代の「母」の典型を思わせるが、その母の手元からマッチがロケットになって火星に飛んでいくという発想はどこか泥臭くて、いびられている女の現実離脱願望が出ていてリアルだ。その現実から半世紀近く経った今は、誰がどこで泣いていて、そこで何を夢想するのだろう。泣かされているのは老人か、幼児虐待の幼児か、引きこもりの青年か、ニートの群れか。『今日の俳句』(1965・光文社)所載。(今井 聖)
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