昭和25年代に手塚治虫が書いた「漫画教室」が単行本に。楽しみ。(哲




2010N1110句(前日までの二句を含む)

November 10112010

 たそがれてなまめく菊のけはひかな

                           宮澤賢治

と言えば、競馬ファンが一喜一憂した「菊花賞」が10月24日に京都で開催された。また、今月中旬・下旬あたりまで各地で菊花展・菊人形展が開催されている。菊は色も香も抜群で、秋を代表する花である。食用菊の食感も私は大好きだ。いつか今の時季に山形へ行ったら、酒のお通しとしてどこでも菊のおひたしを出されたのには感激した。たそがれどきゆえ、菊の姿は定かではないけれど、その香りで所在がわかるのだ。姿が定かではないからこそ「なまめく」ととらえられ、「けはひ」と表現された。賢治の他の詩にもエロスを読みとることはできるけれど、この「なまめく」という表現は、彼の世界として意外な感じがしてしまう。たしかに菊の香は大仰なものではないし、派手にあたりを睥睨するわけでもない。しかし、その香がもつ気品は人をしっかりとらえてしまう。そこには「たそがれ」という微妙な時間帯が作用しているように思われる。賢治の詩には「私が去年から病やうやく癒え/朝顔を作り菊を作れば/あの子もいつしよに水をやり」(〔この夜半おどろきさめ〕)というフレーズがあるし、土地柄、菊は身近な花だったと思われる。賢治には俳句は少ないが、菊を詠んだ句は他に「水霜のかげろふとなる今日の菊」がある。橋本多佳子にはよく知られた「菊白く死の髪豊かなるかなし」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


November 09112010

 からたちに卍掛けなる鵙の贄

                           斎藤夏風

は秋から冬にかけて、蜥蜴や蛙などの獲物を木の枝などに串刺しにする。鵙の早贄(はやにえ)などと呼ばれるこの残酷な習性は、冬にかけて不足する食糧の確保や、縄張りの目印などと考えられている。そして掲句の卍掛けとはいかなるものなのであろうかと調べると、姿三四郎の世界に見つけることができた。合気道の技の一種で、相手の腹を突き蹴りで打ちつけ、前屈みになったところを内掛けにして、背中に飛び乗り、頸の後ろ側に膝を掛けて固め、次に相手の右腕を自分の左腕の脇固によって絞め上げるものだという。ともかく苦しそうなかたちであることだけは確かだ。鈎状になっている鵙の嘴によって、壮絶な死を迎えたであろう獲物の姿を目の当たりにしながら、吉祥の象徴である「卍」に掛けられた贄には、鵙の食糧確保というより、どこか青空に捧げた供物のように見せている。柑橘系のからたちの混み合った緑の棘が、決して触れてはならない神聖な祭壇を思わせる。〈これよりは辻俳諧や花の門〉〈クリスマスケーキ手向けてまだ暮れぬ〉『辻俳諧』(2010)所収。(土肥あき子)


November 08112010

 いちにちが障子に隙間なく過ぎぬ

                           八田木枯

者は八十代半ば。寒い日だったのか、一日中外出もせずに部屋に閉じこもっていたのだろう。時間の経過を感じるのは、ただ障子を隔てた外光の移り行きによってである。日中は日差しがあたり、木などの影も写る。それがだんだんと淡くなって薄墨色に溶けてゆき、やがて暗くなってきた。作者はべつだん意識して障子を見つめていたわけではないのだけれど、そんな一日をふり返ってみれば、目の端の障子が雄弁に時の経過を物語っていたことを知るのである。まさに時が「隙間なく」流れていることを、障子一枚で表現したところに、この句の新鮮な味わいがある。しかも作者が、この句に何の感慨もこめていないところが、かえって刺激的だ。無為の一日を惜しむ気持ちも、逆に過ぎ去った時間を突き放すような韜晦の気持ちが生れているわけでもない。作者に比べれば若造でしかない私にも、老人特有のこの淡々とした心の動きはわかるような気がする。なお「隙間なく」の「間」は、原文では門構えに「月」の字が使われている。『鏡騒(かがみざい)』(2010)所収。(清水哲男)




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