余白句会。兼題は「摘み草(草摘む)」「音」当季雑詠の三句。(哲




2011N416句(前日までの二句を含む)

April 1642011

 花人にのぞき見られて花に住む

                           藤木和子

週水曜日に花の散り込む目黒川に沿って歩いた時、川に面したマンションの住人だろう、二階のベランダでお花見をしていた。手の届くところに花の枝が伸びていて、その近景と延々と続く桜並木の遠景は素晴らしいに違いなく、うらやましく見上げたのだった。この句の作者のお住まいは、のぞき見られているのだからマンションではないだろう。庭にみごとな桜の木があるのか、桜並木沿いにお住まいなのか、ともかく花時にはたくさんの人がそのお庭や窓を見ながら通り過ぎる。「観る」視線のまま歩く花人は、花以外もついついじっと見てしまうのかもしれない。この句からは、それを楽しむ余裕と、四季折々の自然の中でのゆったりとした暮らしぶりが感じられる。ちなみに、目黒川沿いのフェンスには近くの小学生が詠んだ俳句を書いた短冊がくくりつけてあった。その中に「春の川ピンクできれいいい季節 高松」という一句があり、そういえばいい季節だということを忘れていたな、とあらためて感じている。『ホトトギス新歳時記』(2010・三省堂)所載。(今井肖子)


April 1542011

 陽炎へばわれに未来のあるごとし

                           安土多架志

るごとしとは、無いということだ。37歳で夭折した多架志の最晩年の句。多架志はキリスト者で、しかも神学部出ということで医者はすべてを告知していたから正確な病状を知り得たのだろう。田川飛旅子には「日が永くなるや未来のあるごとく」もあった。どちらも切実で悲観的だが、ふたりともキリスト者であったので救済を信じれば本来楽観的であるはずなのにと思われ興味深い。ことに多架志の句は明るい陽炎が背景に置かれているので余計に切迫した作者の現状が思われる。『未来』(1984)所収。(今井 聖)


April 1442011

 あつ雉子あつ人だちふ目が合うて

                           西野文代

物の雉子にはなかなかお目にかかれないが、名古屋に住んでいたころ、山林を切り崩して宅地を造成している道へ出てきた雉子を見かけたことがある。もちろんそばには近寄れず、遠くから双眼鏡で眺めただけだったが、住み場所を荒らされたあの雉子はどこへ行ったやら。それにしてもこの句、山道かどこかでばったり雉子と鉢合わせをしたのだろうか。「あ、雉子」と声にならない声をあげている人の驚きは勿論のこと、雉子の目にも狼狽の色を読み取っている。こういう出会いは人間からの視点になりがちだけど、目を白黒させている雉子の気持ちになって「あ、人だ」と言わせているのがおかしい。ほんとに雉子は焦っただろうな。仮名遣いの妙を生かして瞬間の情景を生き生きと描き出している。いいなぁこういう句。『それはもう』(2002)所収。(三宅やよい)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます