友人の娘さんが開設した「東北思い出写真館」。ご協力を。(哲




2011N526句(前日までの二句を含む)

May 2652011

 五月闇吸ひ込むチェロの勁さかな

                           朝吹英和

ェロは魅力的な楽器である。単独でのチェロの演奏を切り開いたのはパブロカザロスらしいが、古ぼけた復刻版でバッハの「無伴奏」など聴いていると心が落ち着く。チェロは弦楽器であるから、弓で弦を振動させて音を出すのだが、そのチェロの響きを「五月闇」を「吸ひ込む」と表現してチェロの太くて低い音質を感じさせる。雨を含んで暗い五月闇は否定的な印象で使われることが多いが、この句の場合その暗さをゆったりと大きく広がる魅力的なチェロの響きに転換し、しかもそれをチェロの「勁さ」と規定しているところに魅力を感じる。作者自身演奏者なのか、この句集では様々な楽器をテーマに音楽と季節との交歓を詠いあげている。「モーツァルト流れし五月雨上る」「薔薇真紅トランペットの高鳴れり」『夏の鏃』(2010)所収。(三宅やよい)


May 2552011

 幾度も寝なほす犬や五月雨

                           木下杢太郎

の俳句は「いくたびも……さつきあめ」と読みたい。「さみだれ」の「さ」は「皐月」「早苗」の「さ」とも、稲の植付けのこととも言われ、「みだれ」は「水垂(みだれ)」で「雨」のこと。梅雨どき、降りつづく雨で外歩きが思うようにできない飼犬は、そこいらにドタリとふてくされて寝そべっているしかない。そんなとき犬がよくやるように、所在なくたびたび寝相を変えているのだ。それを見おろしている飼主も、どことなく所在ない思いをしているにちがいない。ただただ降りやまない雨、ただただ寝るともなく寝ているしかない犬。いい加減あがってくれないかなあ。梅雨どきの無聊の時間が、掲句にはゆったりと流れている。杢太郎は詩人だったが、俳句も多い。阿部次郎らと連句の輪講や実作をさかんに試みたそうである。その作風は、きれいな自然の風景を描くといった傾向が強かった。他に「湯壷より鮎つる見えて日てり雨」「杯の蟲取り捨てつ庭の秋」などがある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


May 2452011

 花蜜柑匂ふよ沖の船あかり

                           武田孝子

柑の花が咲く頃になると、街全体が清々しい香りで包まれる。作者の出身は愛媛というから、同じ蜜柑王国である静岡出身の私の気分は大いに満たされる。少女時代、周囲を見回せばどこにでもあった穏やかな山々は、どこもいっぱいの陽光を注がれ、蜜柑の花を咲かせていた。童謡の「みかんの花咲く丘」もまた「思い出の道、丘の道」と起伏の多い土地であり、「遥かに見える青い海、お船が遠く浮かんでる」と、思わず重ねてしまうが、しかし掲句の眼目は夜であることだ。船の灯す沖の明かりの他は、ただ波音が繰り返される闇のなかに作者はいる。白く輝く花の姿はないが、作者にはまざまざと見えている。そしてその闇に咲き匂う純白のたたずまいこそ、作者が愛してやまない故郷そのものなのだろう。蜜柑の花は蜜柑の匂いがする。それをしごく当然と思っていたが、林檎や梨の花にはまったく果実の匂いがしない。こんなことにもなんとなく誇らしく思えるのだから、故郷というのは素敵である。『高嶺星』(2006)所収。(土肥あき子)




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