@句

June 0662011

 草の雨葵祭と過ぎてゆき

                           清水 昶

が詩をふっつりと書かなくなり、俳句に熱中しはじめてから十数年は経っただろうか。最近はその俳句もほとんど書かなくなっていたが、ひところは自分の掲示板に「俳句航海日誌」と称して、盛んに載せていた。昶俳句の特徴はいわば唯我独尊流で、読者にわかろうがわかるまいがオカマイなしで、ひたすら昶ワールドを提出することだけに執していた。総じて道具立てがごたごたしており、およそ省略的手法とは無縁であった。そんな句のなかにあって、掲句は普通に俳句になっていて、その意味では珍しい。古風な抒情の世界でもあるけれど、かつて京都に暮らした実感がよくこめられてある。梅雨期はとくにそうだが、京都の雨はまさに「草の雨」と言うに似つかわしい。そのか細い雨が葵祭の行列が過ぎてゆくように、いつしか草の葉に露を残して去っていってしまう。その寂しいようないとおしいような作者の思いは、また読者のそれでもあるだろう。この句は2001年5月30日付の掲示板に書かれたものだ。それからぴったり十年後の当日に、昶はふっつりと世を去っていった。単なる偶然でしかないけれど、兄としてはこの偶然までもが心に沁みる。(清水哲男)


June 1562011

 逃げる子を夕立すでに追い抜きぬ

                           清水 昶

は去る五月三十日に心筋梗塞で急逝してしまった。残念でならない。からだの不調がつづいて、隔月に吉祥寺で開催している余白句会に、近年は投句も出席もかなわなくなってしまっていた。それまでは句会では言いたいことを言って、笑わせたり顰蹙を買ったりしていた。自分の俳句のすばらしさを言って、座を妙に盛りあげてくれたっけ。そしてマイペースで徳利の日本酒をチビチビゆっくり干していた姿が、懐かしく回想される。なぜか憎めない男でした。淋しいなあ。掲句は、遊んでいた子どもたちが、急に降り出して迫ってきた夕立から逃げようとワイワイ走り出したのだろうが、たちまち容赦ない夕立に追いつかれ、追い抜かれてしまった。頭上ではカミナリも子どもたちを容赦なく脅かしているにちがいない。子どもにとってびしょ濡れはうれしいのだ。私にも子どもの頃、そんな経験が何回もあって、ずぶ濡れの子ども同士やんやと盛りあがっていたものだった。この句は実景というよりも、昶は子どもの頃の経験を思い出して詠んだのではないだろうか。ウェブ「新俳句航海日誌」では厖大な句を量産していた。他に「釣竿を肩に蚯蚓掘る少年期」(「少年期」が好きな男でした)、「大寒の真水のごとく友逝けり」など。「友逝けり」どころか自分があっさりと逝ってしまった。合掌。「OLD STATION」12号(2003)所載。(八木忠栄)


August 1882013

 月光を胸に吸い込む少女かな

                           清水 昶

さんの『俳句航海日誌』(2013・七月堂)が上梓されました。2000年6.13「今は時雨の下ふる五月哉」に始まり、2011年5.29「遠雷の轟く沖に貨物船」に終わる927句が所収されています。日付順に並ぶ一句一句が、海へこぎだすサーフボートのように挑み、試み、言葉の海を越えていこうとしています。所々に記された日誌風の散文は、砂浜にたたずんで沖をみつめるのに似て、例えば「現代詩が壊滅状態にある現在、俳句から口語自由詩を再構築する道が何処にあるのかを問わなければ、小生にとって一切が無意味なのです。」という一節に、こちらもさざ波が立ちます。句集では、「少年」を詠んだ句が10句、「少女」が7句。少年句は、「湧き水を汲む少年の腕細し」といった少年時代の自画像や「少年の胸に負け鶏荒れ止まず」といった動的な句が多いのに対し、少女句は、「ゆうだちに赤い日傘の少女咲く」「草青む少女の脚の長きかな」というように、そのまなざしには遠い憧憬があります。なかでも掲句(2003年8.19)は憧憬の極みで、少女は月光を吸って、胸の中で光合成をしているような幻想を抱きます。少年の動物性に対する少女の植物性。少女を呼吸器系の存在として、その息づかいに耳を遣っているように読んでしまうのは的外れかもしれません。ただ、この一句に翻弄されて、言葉の海の沖の向こうに流されました。ほかに、「『少年』を活字としたり初詩集」。(小笠原高志)


September 0792013

 さりさりと梨むくゆびに朝匂ふ

                           清水 昶

朝も梨をむいた、いただき物の二十世紀梨。とにかく早く食べないと日に日に味が落ちてしまう、とばかりどんどんむいて食べ、母や妹のところに持っていき、残りは保存容器に入れて冷蔵庫に。暑い中帰宅して食べると、冷やしすぎで甘みは落ちているかもしれないが、みずみずしくて美味しい。さりさり、は梨を食べている感じだが、この句の梨は、さりさりと剥かれている。私など急いでいるからさっさと四等分して芯を取ってしまうが、この梨は包丁を皮と実の間にうすく入れられながら、ゆっくり回っているのだ。その清々しい香りを、朝匂ふ、と詠んだ作者は、隣で梨を剥く妻の指をじっと見ているのかもしれない。平成十二年九月十二日の作。『俳句航海日誌 清水昶句集』(2013)所収。(今井肖子)


November 13112013

 この子らに未来はありや七五三

                           清水 昶

五三に限らないけれど、着飾ってうれしそうな子どもたちを見るにつけ、昶ならずとも「未来はあるか」という懸念が、身うちでモグモグしてしまうことが近年増えてきた。こちらがトシとって、未来の時間がどんどん減ってきていることと、おそらく関係しているのだと思う。それにしても、先行き想定しようのない嫌ァーな時代が仄見えている気がする。私などが子どもの頃、わが田舎では「七五三」といった結構な祝いの風習などなかった。いわんや「ハッピーバースデイ」なるものだって。だから、わが子の「七五三」や「ハッピーバースデイ」などといった祝い事では、むしろこちとら親のほうが何やら妙に照れくさかったし、落着かなかった。子どもに恵まれなかった昶の句として読むと、また深い感慨を覚えてしまう。もちろん「この子ら」の未来だけでなく、自分たち親の未来や人類の未来への思いを、昶は重ねていたはずである。掲句は、サイト「俳句航海日誌」の2010年11月15日に発表されている。亡くなる半年前のことである。亡くなる一週間前の句は「五月雨て昏れてゆくのか我が祖国」である。「子らの未来」や「我が祖国」などが、最後まで昶の頭を去ることはなかったかもしれない。『俳句航海日誌』(2013)所収。(八木忠栄)


November 19112014

 恋人と小さな熊手買いにけり

                           清水 昶

うご存知だと思うけれど、清水昶句集『俳句航海日誌』が、今年度の「日本一行詩大賞」特別賞を受賞したことをまず喜びたい。天国の昶はもう何回も祝杯をあげてもらい、上機嫌でかつてのように酒酒酒の日々だろうと推察される。本当によかったね、カンパーイ! 生前の余白句会の場で昶はいろいろあったにせよ、厖大な数の句から井川博年他の方々が苦労して選句したもので、改めてまとめて読んでみるとおやおや。「いいじゃないか!」という声が少なからずあがった。やはり俳句は束にして読みたいものだ。先夜は彼の誕生日の小さな集まりが、彼が入りびたっていた吉祥寺の中清であった。急逝からはや三年半になる。掲出句は2004年の作だ。素直でかわいい句ではないか。今年の一の酉は今月10日だったが、二の酉は22日。私は十年前、ごったがえす鷲神社まで行った際、バカでかい熊手とそこに添えられた「石原慎太郎」という大きい札を見て、しらけてしまったことが忘れられない。ずらりとならぶバカでかくて派手な熊手は見るだけして、買うのはもちろん小さいほうだ。掲出句の隣に「とことこと我に従ふ寒鴉」という句がならんでいる。寒鴉よ、昶に従ってどうなるというのだ?『俳句航海日誌』(2013)所収。(八木忠栄)


December 08122015

 人間が毛皮の中で生きている

                           清水 昶

和16年12月8日。日本軍が、当時の英領マレーとアメリカ・ハワイの真珠湾を奇襲攻撃し、太平洋戦争が始まった。開戦と緒戦の勝利を祝し、町や村では祝賀の行事がにぎやかに執り行われた。「進め一億火の玉だ」や「生めよ殖せよ」など戦時標語には、ヒートアップした情熱は感じられるものの、人間の顔が見えてこない。戦局の悪化にともない標語も「一億玉砕」「神州不滅」と変化し、ますますひとりひとりの命から離れていく。掲句は毛皮のコートを着ている人間を見つめたものだ。反対を唱えるでもなく淡々と描いてはいるが、毛皮という屍に包まれて満足していることもまた、命に対して無神経・無関心につながっているように思わせる。『俳句航海日誌』(2013)所収。(土肥あき子)




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