2011N8句

August 0182011

 うなだれて八月がくる広島に

                           小山一人静

名を擬人化した句はめずらしいのではなかろうか。今年もまた「八月」がやってきた。うなだれて「広島」に来たのは、むろんこの月が原爆投下日を含んでいるからだ。原爆さえ落とされていなかったなら、広島の八月の表情はずいぶんと変わっていただろうに。「うなだれて」いると感じるのは、もとより作者自身の気持ちがそうだからなのだが、これを「八月」自身の気持ちとして捉えてみると、被爆という現実が個人の思いをはるかに超えたところに定着していることがわかる。否応なく、八月は被爆の無残を告げ、人間の無力感を増幅させる。もうあんなことは忘れたいのにと思っても、八月がそれを許さない。「うなだれ」ながらも、告げるべきことは告げなければと、八月は今年も巡ってきたのだ。来年からの「福島」にも「三月」は同じようにうなだれてやってくるのだろう。未来永劫、これら「八月」や「三月」が颯爽とした顔つきでやってくることはあるまい。私たち人間は、いつまで愚かでありつづけるのか。『未来図歳時記』(2009)所収。(清水哲男)


August 0282011

 心太足遊ばせて食べにけり

                           佐藤ゆき子

透明のトコロテンがガラスの器におさまっている様子は、かたわらに添えられているものが酢醤油と練り辛子であっても、黒蜜ときな粉であっても絵になる涼しさである。天突きで頭を揃えて出てくるかたちにも似て、するするっと胃の腑に落ちれば、酷暑にへこたれている身体もしゃんとするのではないか。ではないか、と憶測するのは、個人的には苦手なのだ。しかし、他人が食べているのを見ていると、なんとも美味しそうに思えるのだから不思議だ。あまりにも美味しそうに見えて、何年かに一度は、一本くらいもらったりするのだが、やはり口にすれば苦手を再認識するばかりである。あるとき、心太を前にした母が「つわりの時でさえ、これだけは食べることができて三食ずっと食べてた」とつぶやいた。わたしの誕生日は10月である。その前の数カ月、母はひたすらこればかりを摂取していたのだ。医学的に立証されなくても、きっとここに原因があるのだと思う。来る日も来る日も心太ばかりで、わたしはもうじゅうぶん食べ過ぎたのだ。とはいえ、透明感と涼感に溢れる食べ物であることには間違いない。掲句の「足を遊ばせる」とは、縁側や、やや高い椅子などに腰掛けて、足を揺らす動作だが、心太が収まっていく身体が喜んでいるようにも思える。〈尺蠖に白紙のページ這はれをり〉〈卓上が海へと続き夏料理〉『遠き声』(2011)所収。(土肥あき子)


August 0382011

 点滴の落つ先に見ゆ夏の雲

                           坂東彌十郎

、歌舞伎座は再建中で、しばらく更地での工事がつづいている。木挽町界隈は淋しい限りである。掲句は、近年、大柄な存在感で売り出してきている彌十郎の句として、繊細にしてスケールの大きい夏らしい姿がしっかり決まっている。点滴と作者の大柄な体躯との対比に、一種の好もしさを感じる。タク…タク…とゆっくり落ちてゆく点滴のしずくの向こう、病室の窓越し、青空に白い雲がでっかく鮮やかに見えているのだろう。病院ネタにしては暗さが感じられず、カラリとしていて後味がいい。一刻も早く健康を取り戻し、点滴から解放されて夏雲のほうへ出かけて行きたい、そんなはやる気持ちがあふれている。彌十郎によれば、古くから歌舞伎と俳句は深いつながりがあって、十五代目羽左衛門、六代目菊五郎、十七代目勘三郎らをはじめ、俳句をやっていた役者は少なくない。彼らは俳号もちゃんともっていた。彌十郎の俳号は酔寿。暇を見つけては句会に熱心に足をはこんでいる。彼の亡き兄・吉弥もかつては俳句を嗜んでいた。初代吉右衛門や現幸四郎の俳句もよく知られている。彌十郎には他に「街灯の下のみ激し春の雪」がある。『かいぶつ句集』42号(2008)所収。(八木忠栄)


August 0482011

 被爆者の満ち満ちし川納涼舟

                           関根誠子

民喜の「永遠のみどり」の一節に「ヒロシマのデルタに/若葉うづまけ/死と焔の記憶に/よき祈りよ こもれ」とあるように大田川の下流のデルタ地域に広島市はある。四本に分流した川はそのまま瀬戸内海へ注ぎ込む。原爆投下の直後、火に包まれた街から水を求めて多くの人達が川に集まったことだろう。八月六日の夜には原爆で亡くなった人たちの名前を書いた無数の灯籠が流される。その同じ川に時を隔てて納涼舟が浮かんでいる。川の姿はちっとも変っていないが、時間の隔たりを凝縮して思えばその二つの図柄の重なりが「ヒロシマ」を主題とした一つの絵巻物のように思える。「死者生者涼めとここに沙羅一樹」村越化石の「沙羅」のように川は人間世界の時間を越えてとうとうと流れ続ける。『浮力』(2011)所収。(三宅やよい)


August 0582011

 驟雨くる病院帰りの水の味

                           寺田京子

らはどれほど勇気をもらったことだろう。子規や波郷や玄や京子に。命の消え際のぎりぎりまで「もの」を視た。視覚、嗅覚、触覚、味覚、聴覚を総動員して「瞬間」を感じ取った。生きている時間を刻印した。あらゆる俳句の要件を味方につけて結局はそれより大切なものをゴールに蹴り込んだ。修辞的技術よりも「自分」を一行に刷り込むことを優先させた俳人だ。『雛の晴』(1983)所収。(今井 聖)


August 0682011

 畳より針おどり出ぬ蠅叩

                           齋藤俳小星

元文庫の『現代俳句全集 第一巻』(1953)を読んでいた。八月六日の句に出会えないものか、と思ったのだがなかなかめぐり会えず、それとは別に今や非日常となった季節の言葉を詠んだ句の数々に興味を惹かれた。掲出句の蠅叩、少なくとも都会ではとんと見かけない。子供の頃は、夏とセットだった蠅。蠅取り紙のねばねばや蠅帳は、仄暗い台所の床の黒光りとこれまたセットで思い出される。思いきり叩くと、畳の弾力が蠅を仕留めた実感を伝えるのだが、その勢いで、畳から縫い針が飛び上がったという瞬間、作者の一瞬の表情が見える。針の数を数えなさい、落ちている針を踏んで血管に入ったらあっという間に脳へ行って死んでしまうのよ・・・そう言われて、子供心に恐かったのを思い出すが、畳に落ちた針は、特に畳の目にはまってしまうとなかなか見つからない。ちなみに、作者の俳号、俳小星(はいしょうせい)は、「はい、小生」、という名告りの語呂合わせだとか。〈灯を消せば礫とび来ぬ瓜番屋〉〈家の中絹糸草の露もてる〉(今井肖子)


August 0782011

 行く夏の倉と倉との間かな

                           永島靖子

節の中で、一番惜しまれて去ってゆくのが夏です。行く夏、とひとことつぶやけば、だれしも胸に込み上げてくるものを思い出すことができます。生命の、最も派手やかな瞬間の後の、虚脱感のようなもの。本日の句、倉と倉との間は、それほどに広くはないと思われます。地面には、小さな砂利が敷き詰められてでもいるでしょうか。同じ形に並んだ倉の、白壁と白壁に挟まれた長細い空間。その中ほどに立ち止まって、うつむいて物思いにふけっている人の姿が、はっきりと見えてくるようです。それからゆっくりと顔をあげ、空をじっと見上げてみれば、特段何が悲しいというわけではなくても、自然ときれいな涙があふれてくるものです。『角川俳句大歳時記』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


August 0882011

 西瓜喰ふ欠食児童のやうに喰ふ

                           佐山哲郎

んなふうに食べようが勝手とはいうものの、西瓜を上品にスプーンですくって食べている人を見ると、鼻白む。あれで美味しいのだろうか。句のようにかぶりついたほうが、よほど美味いと思うんだけど。ところでこの句は、現代だからこそ成立する句だと思った。そこらじゅうに「欠食児童」がいた時代だったら、洒落にもならないからだ。もはや思い出のなかにしか存在しない「欠食児童」。西瓜にかぶりつきながら、苛烈な空腹を微笑とともに追懐することができるから、句になっているのである。私も学校に弁当を持っていけない子だった。弁当の時間に何人かの「欠食児童」といっしょに校庭に出て、ただぼんやりしていた時間は忘れられない。大人になってからのクラス会で、そんなぼくらに自分の弁当をわけるべきかどうかと悩んでくれていた友人がいたことを知った。「でも、オレは分けないことにした。きみらのプライドが傷つくと思ったからね」。こう聞かされたとき、私は思わず落涙した。お前はなんて優しくて偉い奴なんだ…。傷ついていたのは、欠食児童の側だけではなかったのだと、深く得心したのだった。今日立秋。「西瓜」はなぜか秋の季語である。『娑婆娑婆』(2011)所収。(清水哲男)


August 0982011

 八月の赤子はいまも宙を蹴る

                           宇多喜代子

1945年の本日午前11時2分、長崎市に原爆が投下された。その瞬間赤子は永遠に赤子のまま、時間は凍りついた。掲句の赤子が象徴しているものは、日常が寸断された世界である。笑おうとした顔、なにげなく見あげた時計、蝉の背に慎重にかざす捕虫網。普段通りの仕草の途中で、唐突に命がなくなってしまったとき、その先に続くはずだった動作は一体どこへ行ってしまうのだろう。彼らは、永遠に笑い、時計を見やり、蝉を捕り続けているのではないのか。その途方に暮れた魂を思うとき、わたしたちは今も頭を垂れ、醜い過ちを思い、静かに祈るしかないのだろう。『記憶』(2011)所収。(土肥あき子)


August 1082011

 ワイシャツは白くサイダー溢るゝ卓

                           三島由紀夫

イシャツ、サイダー、卓がならべられた、別段むずかしい俳句ではない。意外や、この作家もかつて俳句を作っていたという事実。詩も作った。ワイシャツの白さと、溢れるサイダーの泡の白さが重ねられて、三島らしい清潔感に着目した句である。学習院の初等科に入った六歳のときから俳句を作りはじめ、中等科になって一段と熱が入ったという。同級生の波多野爽波と一緒に句会に顔を出したり、吟行に出かけたりしたらしい。掲句はその当時のものと思われる。他に「古き家の柱の色や秋の風」という句もある。しかし、間もなく爽波の俳句の才能に圧倒されて、自分は小説のほうへ移った。現在残されているいちばん古い句に「アキノカゼ木ノハガチルヨ山ノウエ」という可愛い句がある。俳句について、三島は後年次のように書いていた。「ただの手なぐさみの俳句では、いつまでたっても素人の遊びにすぎず……」。若くしてのどかな句会に対して疑問も感じていたようである。一九七〇年に自決したときの辞世の歌の一首に「散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜嵐」がある。この歌の評価は低かったという記憶がある。『みんな俳句が好きだった』(2009)所載。(八木忠栄)


August 1182011

 口開けて金魚のやうな浴衣の子

                           三吉みどり

んて可愛いい句だろう。盆踊り、夜店、夏祭り、子供たちにとって夏は特別な季節。ただでさえウキウキするのに糊の効いた浴衣を着せてもらってますます楽しみごとに期待が膨らむ。親に連れられた小さな子供が櫓の太鼓に見とれているのか、夜店の賑わいに心を奪われているのか。半開きの口元に何かに夢中になっている気持ちが表れている。水面に浮きあがってくる金魚のよう。浴衣にしめる赤やピンクのふわふわの兵児帯がゆらゆら揺れる金魚の尾鰭に思える。「やうな」という直喩は異質な物と物とに通路を開く働きをする。これから金魚を見れば口を開けて見上げる浴衣の子を思い、浴衣の子を見れば水槽に浮かびあがってくる金魚を想像するかもしれない。『花の雨』(2011)所収。(三宅やよい)


August 1282011

 吾家の燈誰か月下に見て過ぎし

                           山口誓子

者の位置はどこに在るのだろう。自分が家の中に居るとすれば、外の闇の中を過ぎる人影が視認できたとしてもその人が自分の家の中の燈を見たとまでは断定できぬであろう。自分が外に居て第三者が「吾家」の燈を見ているところを目撃したとするなら燈と通りかかった人と自分の位置関係ははっきりするが、自分が自分の家の燈を外から客観的に見ているのも変な状況である。そんなことを考えているうちにこの句は過ぎしのあとに「か」を補ってする鑑賞がいいのではないかと思い到る。吾家の燈誰か月下に見て過ぎしかというふうに。夜の道を行き交う人が、「私」の居る家の燈を見て過ぎたであろうと思っている。留まるものつまり今ここに存在する「吾」の前を過ぎていく諸人がいる。優れた句は日常を描いて寓意に到る。『激浪』(1944)所収。(今井 聖)


August 1382011

 朝顔の前で小さくあくびする

                           岸田祐子

が家には門がなく、玄関の前に目隠し代わりの木製のフェンスがある。その内側に母が先日、買い求めてきた朝顔の鉢を三つ置いた。蔓を絡ませるにはフェンスの一本一本が太すぎるのでは、と思ったが今や器用に絡んで毎朝咲いている。いわゆる団十郎というのだろうか、茶色がかった渋い赤に白い縁取りの花が気に入っているが、赤紫も藍色も、あらためて見ると風情のある花だ。早朝、朝顔の鉢の前にしゃがみこんでいくつ咲いているか数えたり、しぼんでしまった花殻で色水を作ったりしたことをふと思い出させるこの句。何の説明も理屈もなく、朝の空気に包まれた穏やかな風景がそこにある。「花鳥諷詠」(2011年3月号)所載。(今井肖子)


August 1482011

 戦争が廊下の奥に立ってゐた

                           渡辺白泉

ころで、明日の「終戦記念日」は秋の季語ですが、「戦争」はどうなのでしょうか。「時の流れ」がどの季節にも限定できないように、「戦争」も同様に、季節からまぬがれているのかもしれません。だからこの有名な句を前にしても、特段、季節の風を感じません。あるいは、生きている者の親密な息のぬくもりが感じられません。ただ廊下があって、その奥があって、そこに戦争が立っているのだなと、書かれたままに読むだけです。それでもその無表情な戦争が、頭の中を去ってゆかないのはなぜなのでしょうか。どれほど巧みに感情を込めた表現も、どんなに大きな叫び声も、とても歯が立たないもの。文学という器には到底押し込めることのできないものを表現しようとすれば、こうしてただ、そのものを立たせているしかなかったのでしょう。見事な句です。『現代俳句の世界』(1998・集英社) 所載。(松下育男)


August 1582011

 生きてゐる負目八月十五日

                           志賀重介

戦の日に七歳の子供だった私にも、多少の負目はある。数々の空襲で死んでいった同世代の子供らのことを思うからである。ましてや作者のように既に大人になっていて生き残った人には、具体的で生々しい死者の記憶があるのだから、負目を覚えるのがむしろ当然だろう。人は必ず死ぬ。それは冷厳な真実ではあるけれど、どのような生の中断についても、生き残った人にはただ理不尽としか映らないものだ。たとえ老衰と言われ大往生と言われるような死ですらも理不尽なのであり、ましてや戦争で若い命が中断されるなどは、その最たるものであるだろう。作者が誰に負目を感じるのかは書かれていないが、それは決して太平洋戦争での日本側の死者三百万人(諸説あり)に対してではなく、具体的に友人知己だった誰かれに対してであるはずだ。三百万人の死者といえば物すごい数だけれど、当時の大人たちにしてみれば、それら三百万人よりも、親しかった一人か二人か、あるいは数人の死に激しい痛みと負目を覚えるのである。つまり、数字のみで戦争の悲惨を計ることはできないということだ。そんな日が、また今年も巡ってきた。死者はいつまでも若く、負目を負った人の若さは既に失われ、理不尽の思いだけが増殖してゆく。『現代俳句歳時記・夏』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


August 1682011

 つれあひに鼻あり左大文字

                           嵯峨根鈴子

夜は京都五山送り火。掲句の大文字は、金閣寺大北山の大文字山である。北山も東山も大文字山と呼ばれているため、御所から見て向かって左にある北山を左大文字、右にある東山を大文字または右大文字と区別しているといわれる。北大文字は、東山の「大」の字を反転させているため左の流れが長いとか、少し小さいので女文字だとか、要は左右対と見なされている。掲句の「つれあひ」なる夫婦の関係に、この対をなす大文字が響き合うことで少々の屈託が生まれた。夫に鼻があるのは当然ながら、炎に照らされた横顔をあらためて見ることの新鮮さが、鼻という輪郭に集約されている。そしてこんなときこそ、この世界でたったひとりの男性と夫婦というかたちを十数年(もっとかもしれないが)続けていることの、不安とも安堵ともつかぬ不思議な感触が芽生えている。ところで、今年は東日本大震災で津波に倒された陸前高田の松原の松を大文字で燃やす計画が、二転三転したあげく、中止になった。放射性物質という得体の知れない恐怖が人の心をかき乱す。『ファウルボール』(2011)所収。(土肥あき子)


August 1782011

 夕顔やろじそれぞれの物がたり

                           小沢昭一

方に花が開いて朝にはしぼむところから、夕顔の名前がある。蝉も鳴きやみ、いくぶん涼しくなり、町内も静かになった頃あいに、夕顔の白い花が路地に咲きはじめる。さりげない路地それぞれに、さりげなく咲きだす夕顔の花。さりげなく咲く花を見過ごすことなく、そこに「物がたり」を読みとろうとしたところに、小沢昭一風のしみじみとしたドラマが仄見えてくるようだ。ありふれた路地にも、生まれては消えて行ったドラマが、いくつかあったにちがいない。「源氏物語」の夕顔を想起する人もあるだろう。夕顔の実は瓢箪。長瓢箪を昔は家族でよく食べた。鯨汁に入れて夏のスタミナ源と言われ、結構おいしかった。母は干瓢も作った。昭一は著作のなかで「横道、裏道、路地、脇道、迷路に入って、あっちに行き、こっちに行き、うろうろしてきたのが僕の道」と述懐しているけれど、掲句の「ろじ」には、じつは「小沢昭一の物がたり」が諸々こめられているのかもしれない。とにかく多才な人。掲句は句碑にも刻まれている。昭一は周知のように「東京やなぎ句会」のメンバーだが、俳句については「焼き鳥にタレを付けるように、仕事で疲れた心にウルオイを与えてくれる」と語る。他に「もう余録どうでもいいぜ法師蝉」という句もある。蕪村の句に「夕顔や早く蚊帳つる京の家」がある。『思えばいとしや“出たとこ勝負”』(2011)所載。(八木忠栄)


August 1882011

 へちまぞなもし夜濯の頭に触れて

                           西野文代

のカーテンと称して、陽のあたるベランダにゴーヤの葉を茂らせる今年の流行にのって、うちも育ててみた。どうにかいくつかぶらぶらと実を結び、毎日大きくなるのを楽しみにしていた。日除けと言えば糸瓜の棚もその一種だろう。「糸瓜」と聞けば子規を連想するが、「へちまぞなもし」は松山言葉。夜濯のものを干した頭に棚の糸瓜がごつんとあたる。「あいた」と言う代わりにこんなユーモラスな言葉が口をついて出てくれば上等だ。へちまがぼそっと呟いていると考えても面白い。野菜や果物を毎日大切に育てていると彼らの声が聞こえるという話を聞いたことがあるが、ゴーヤの声が響いてこない私はまだまだってことだろう。『それはもう』(2002)所収。(三宅やよい)


August 1982011

 見回して雲のありたる秋の晴

                           深見けん二

きどき句会で、研究会と称して「この句が無記名のまま句会に出たら、あなたは採りますか」という試みをやっている。いわゆる名句として喧伝されている句が対象だ。一度先入観を持ってしまうとなかなか作者名と作品を切り離して評価するのは大変だが、それをやってみようというわけである。自分の先入観を一度リセットしてほんとうにあなたにとってその句は魅力的な句なのか、その理由は?ということを問うていくと、鑑賞も評価も評論家やいわゆる大家などの権威に引きずられていることがわかる。この句、出席した句会に出たら僕は間違いなく採る。その理由は第一に、秋晴というのは一点の雲もなく、という本意に抗って雲のある秋晴が写生されている点。見た事実が本意を超えているのだ。第二に「見回して」に「自分」が出ている点。見回す間合いは気持の余裕と肉体の老いの所産だ。それは作者名がわかっているからそういう鑑賞が出来るのだという人がいるかもしれない。それは間違い。蓋を開けてみたらこの句が健康な青年だったという可能性はありえない。「健康な」という但し書きをつけたのは、若年であってもそういう気持の余裕と肉体の衰えを実感せざるを得ない境遇に置かれた場合は別であるという意味。「見回す」は自分と直接的に結びついた言葉である。『蝶に会ふ』(2009)所収。(今井 聖)


August 2082011

 花火舟音なく岸を離れけり

                           九鬼あきゑ

から花火を見たことはあるが、舟から見た経験は残念ながら無い。大きい納涼船でビール片手にわいわいがやがや、それはそれで楽しかったが。この句は「花火舟」と題された十句作品のうちの一句で他に〈船頭の黙深かりき花火の夜〉〈誰もみな海に手を入れ花火待つ〉など。舟の軋む音、波の音、耳元の風音や人の声。花火を待つ間の静かな時間がこの句から始まっている。空に海に大輪の花火が消える一瞬が、天に届けとばかりに響く音と共に、読み手の中に蘇る。『俳壇』(2011年9月号)所載。(今井肖子)


August 2182011

 黒板負ふごと八月の駅の夜空

                           友岡子郷

板を負ふ、という強いイメージに喩えられているのは、なんともありふれた夜空です。「八月の駅の」なんて、ずいぶん個性のない言葉たちです。でも、そうしたのは作者の意図するところなのです。あってもなくてもいいような言葉が、こんなに短い表現形式の中にも必要になるなんて、驚きです。たとえ17文字とはいえ、全部の言葉が強く自己主張を始めたら、句が暑苦しくなるばかりです。「黒板を負ふ」だけで、もう充分イメージが読者に与えられているわけですから、あとはこのイメージの邪魔をしないようにしなければなりません。暑い日の仕事帰りに、ふと駅の上空を見上げれば、人生の、何か重要なメッセージが空に書かれていたように一瞬思われ、でも目を凝らしてみれば、黒板消しを持った大きな手が上空に振られ、あとはもう何も見えません。『日本大歳時記 秋』(1971・講談社)所載。(松下育男)


August 2282011

 秋が来ますよこんばんはこんばんは

                           市川 葉

京辺りでは、にわかに肌寒くなり秋めいてきました。この句とは裏腹に、何の挨拶もなくづかづかと上がりこんできた感じです。でもこれは例外と言うべきで、普段の年なら季節はそれぞれに挨拶をしながらやってきます。昼間の暑さがおさまって夜涼が感じられはじめると、私たちは秋の訪れと知るわけです。作者はそのことを、秋が「こんばんは」と挨拶しているのだとみなして、こちらからも「こんばんは」と返礼したい気分なのでしょうね。それが涼しい季節を待ちかねていた思いに良く通じていて、読者もまたほっとさせられ微笑することになります。なるほど、秋の挨拶は「こんばんは」ですか。だったら春のそれは「こんにちは」で、夏はきっと「おはよう」でしょうね。冬はどうやら無口のようですから、目礼を交わし合う程度ですませてしまうのかしらん。なかなかに愉快な発想の句で、一度読んだら忘れられなくなりそうです。『春の家』(2011)所収。(清水哲男)


August 2382011

 いくたびも手紙は読まれ天の川

                           中西夕紀

の川と並び銀漢、銀砂子が秋季に置かれているのは、秋の空気がもっとも星を美しく見せるという理由からである。とはいえ、連歌の時代から天の川は七夕との関係で詠まれてきた。掲句も何度も開かれる手紙に、天の川を斡旋したことで七夕を匂わせ、恋文を予感させ、また上五の「いくたび」が、単に何回もというよりずっと、女性らしい丁寧な所作を感じさせる。今年の旧暦の七夕は8月6日だった。新暦の7月では梅雨さなかで、旧暦になると台風のおそれがあるという、七夕はまことに雨に降られやすい時期にあたる。一年にたった一度の逢瀬もままならないふたりの間に大きく広がる天の川が、縷々と書き綴られた巻紙にも見え、会えない日々を埋めているように思えてくる。今夜の月齢は23.3。欠けゆく月に星の美しさは一層際立ち、夜空にきらめくことだろう。〈貝殻の別れつぱなし春の暮〉〈白魚の雪の匂ひを掬ひけり〉『朝涼』(2011)所収。(土肥あき子)


August 2482011

 うちの子でない子がいてる昼寝覚め

                           桂 米朝

寝から覚めてあたりを見まわすと、うちの子のなかによその子が混ざって寝ていたという驚き。昔はよくそんなことがありました。私も子供のころ友だちの家に行き、遊びくたびれていつの間にか昼寝をした、そんな経験がある。蜩の声でようやく寝覚めて「エッ!」と面喰らったことが一度ならずあった。その家で、平気で昼食や夕飯をご馳走になったりもした。「かまへん。これからうちの子と夕飯食べたら帰しますさかいに」……米朝が言う「うちの子」だからといって、幼い日の彼の息子(現・桂米團治)と限定して考える必要はあるまい。上方弁の「いてる」にほほえましい驚きが感じられて愉快である。その子はスイカでもご馳走になって、けろりとして家へ帰って行くのかもしれない。去る七月二十一日から八月二日まで、新宿の紀伊國屋画廊で「桂米朝展」が開催された。上方落語の中興に多大な尽力をしてきた。貴重な上方演芸の資料は見応えがあった。期間中に、紀伊國屋ホールでは米朝特選落語会などが開催された。そのうちの「東京やなぎ句会」メンバー(米朝もメンバー)による「米朝よもやま噺」のパートで、加藤武が好きな句として掲句をあげていた。米朝には他に「春の雪誰かに電話したくなり」という佳句がある。米朝の俳号は八十八。来年いよいよ数えで八十八歳の米寿を迎える。『楽し句も、苦し句もあり、五・七・五』(2011)所載。(八木忠栄)


August 2582011

 朽ち果てしその蜩の寺を継ぐ

                           佐山哲郎

がカトリックだった私は寺にはまったく縁がない。それ以上に生まれ育った神戸という街そのものに寺が少なかったように思う。そのせいか、東京の谷中から上野、浅草あたりを歩いたとき、その寺の多さに驚いた。それぞれの寺には卒塔婆の乱立する古い墓地があり、寺を継ぐというのは何基あるかわからない墓の管理とその檀家の法事の一切を引き受けることと思えば気が遠くなる。考えれば武田泰淳から永六輔、植木等まで寺の息子というのはけっこう多いようだ。「朽ち果てし」という上五と蜩の声はぴったりの侘び具合であるが、「その日暮らし」という語も仕掛けられているのは言うまでもない。題名そのものも人を食った味わいがあるが、少しうらぶれた下町の情緒と、洒落のめしたナンセンスが混然一体となった句集である。『娑婆娑婆』(2011)所収。(三宅やよい)


August 2682011

 河港月夜白きのれんにめしの二字

                           大野林火

港と月夜はすこし間を置いて読むのではなく、かこうづきよと一気に読むのだろう。そう考えると河港月夜というのは一個の名詞。作者の造語ということになる。枯木星というのは確か誓子の造語、ガソリンガールというのは風生だったか。目にしてみれば極めて自然に思える言葉も作者のオリジナルな工夫がほどこされているのだ。こんなところにも独自性への真摯な希求がある。こんな小さな詩形のそのまたどこか一部に、かけがえのない「私」が存在するようにという作者の願いが見えてくる。朝日文庫『高濱年尾・大野林火集』(1985)所収。(今井 聖)


August 2782011

 古稀の杖つけば新涼集まれる

                           竹下陶子

週末、一雨に新涼を実感した。週が明けてからは再び残暑の毎日だが、法師蝉が夏休みの終わりを告げている。掲出句、作者にとっては、新涼の風を感じるといった、ふとした感覚ではなく、新涼がまさに集まってきたのだ。この句の二年前の作に〈   新涼やギプス軽き日重たき日〉とあり、リハビリを経てこの年は暑い間は大事をとって家居されていたのだろう。杖をついての外出も初めてか、そこにはためらいもあったに違いない。人生七十古来稀、まあ致し方なしというところか、と外に一歩を踏み出した時の作者の静かな中にも深い感動が、新涼の風と共に伝わってくる。『竹下陶子句集』(2011)所収。(今井肖子)


August 2882011

 霧しぐれ富士を見ぬ日ぞおもしろき

                           松尾芭蕉

士山を見ようと楽しみにしてやってきたのに、いざ到着してみたら、霧が深くてなにも見えません。でもそんな日も考えようによっては面白いではないかと、そのような意味の句です。たしかに、生きていればそういうことって、幾度もあります。ディズニーランドに遊びに行こうという日に、朝から雨が激しく降っていたり、家族旅行の前日に、なぜか姉が熱を出して中止になってしまったり。楽しみにしていた分だけ、落胆の度合いも大きくなるというものです。それにしても、やはり芭蕉は普通ではないなと思うのです。この句を読んでいると、決して負け惜しみで言っているようには感じられません。「霧しぐれ」という言葉が、なによりも美しいし、霧の向こうにあるはずの富士の姿が、思いの中にくっきりと浮かんでくるようです。体験している自分に振り回されないって、なんて素敵な生き方だろうって、つくづく思うのです。『芭蕉物語(上)』(1975・新潮社) 所載。(松下育男)


August 2982011

 旋盤のこんなところに薔薇活けて

                           菖蒲あや

後まもなくの句。下町辺りの小さな町工場だろう。薄暗い作業場のなかでは旋盤がうなっており、何かの用事でそこに入った作者は、そんな場所に薔薇の花が活けられているのを見つけた。まさに「おや、こんなところに……」という驚きとともに、誰かは知らぬが花を飾った工員の優しい気持ちが思われて、瞬時幸福な気持ちになっている。この句は作者が所属した結社誌「若葉」の最初の入選句だ。ただし、師の富安風生は「こんなところに」を「かかるところに」と添削した上で掲載したのだった。ところが、作者はいかに師の添削といえども肯定しがたく、生涯「こんなところに」で押し通したというエピソードがある。ちょうどいま発売中の「俳句界」(2011年9月号)が菖蒲あやの小特集を組んでおり、そこに登場している論者三人が三人ともこの話を披露しているから、身内ではよほど有名なエピソードなのだろう。たしかに「かかるところに」としたのでは、句の骨格はしゃんとするけれど、下町らしい生活感覚が薄められてしまい、あまり面白くはない。『路地』(1967)所収。(清水哲男)


August 3082011

 蟻地獄蟻を落して見届けず

                           延寿寺富美

地獄は薄羽蜉蝣(ウスバカゲロウ)の幼虫地面に作る漏斗状の巣穴である。ここに足を取られ落ちてきた蟻やだんご虫などの小さな昆虫を補食する。縁側の下などにきれいに並んで作られていたことはあっても、その仕掛けの一部始終を見届けたことはない。虫たちは流砂のようにすり鉢の奥へ吸い込まれてしまうのか、それとも落ちかかる虫に飛びかかって巣穴へと引き込むのだろうか。作者は蟻地獄の形状を見て、面白半分に手近の蟻を落してみたものの、すり鉢の斜面を四苦八苦する姿だけ見てその場を去ってしまった。蟻地獄という昆虫に餌を与えた、という行為が、一匹の蟻を地獄に落したと言い換えられるのである。そして、なおかつ見届けもせず立ち去るという仕打ちが一層残虐に響いてくる。しかし、取り立てて書いてみれば残酷めいて映るが、このような行為は過去を振り返れば誰でも経験があることではないのか。だからこそ、あえてその通りに詠んだことで、掲句に一種の爽快感すら覚えるのである。すり鉢の奥には一体どのような世界が広がっているか。かくして、地獄という名を負う虫は、薄羽蜉蝣へと羽化する。地獄から一転、はかなさ極まる名に変わったのちの命は、数時間から数日だという。〈ふるさとは南にありし天の川〉〈大旦神は海より来たりけり〉『大旦』(2011)所収。(土肥あき子)


August 3182011

 鯉の口ゆつくり動く残暑かな

                           中上哲夫

かろうが寒かろうが、鯉はゆっくり口をあけてエサを食べ、水を飲む。もちろん残暑の頃になっても、変わることなくパクパクやっている。まだ暑さがつづいてうんざりしているときに、所在なく池の鯉を見ていると、いつしか鯉の口に目を奪われてしまうということだろう。水中の鯉にとって残暑など関係ないだろうけれど、残暑という、季節が移り変わるときであるだけに、作者にはわけもなく鯉のパクパクが気になっている。短いヒゲを揺らしながら、ゆっくり動く鯉の口はいとしい。刀の鞘口のことを「鯉口」とは言い得て妙である。哲夫はむかし、飲んだ後みんなと別れる際に「帰って詩を書こう」と言って笑わせるのがクセだったけれど、居合わせたみんなはひそかに疑っていたはず。帰って、果たして詩を書いたかイビキをかいたか……。今は彼が主宰している句会のあと、「帰って俳句を書こう」などと言っているのかどうか。俳号はズボン堂。彼は近年、余白句会のほうには投句だけしているが、月並み句があったり、思いがけない佳句があったり、振幅が大きいのも彼らしい。他に「猫のひげだらりと垂れて秋暑し」がある。「OLD STATION」14号(2008)所載。(八木忠栄)




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