東京地方は今日も雨模様で肌寒い一日になりそう。不気味だなあ。(哲




2011N822句(前日までの二句を含む)

August 2282011

 秋が来ますよこんばんはこんばんは

                           市川 葉

京辺りでは、にわかに肌寒くなり秋めいてきました。この句とは裏腹に、何の挨拶もなくづかづかと上がりこんできた感じです。でもこれは例外と言うべきで、普段の年なら季節はそれぞれに挨拶をしながらやってきます。昼間の暑さがおさまって夜涼が感じられはじめると、私たちは秋の訪れと知るわけです。作者はそのことを、秋が「こんばんは」と挨拶しているのだとみなして、こちらからも「こんばんは」と返礼したい気分なのでしょうね。それが涼しい季節を待ちかねていた思いに良く通じていて、読者もまたほっとさせられ微笑することになります。なるほど、秋の挨拶は「こんばんは」ですか。だったら春のそれは「こんにちは」で、夏はきっと「おはよう」でしょうね。冬はどうやら無口のようですから、目礼を交わし合う程度ですませてしまうのかしらん。なかなかに愉快な発想の句で、一度読んだら忘れられなくなりそうです。『春の家』(2011)所収。(清水哲男)


August 2182011

 黒板負ふごと八月の駅の夜空

                           友岡子郷

板を負ふ、という強いイメージに喩えられているのは、なんともありふれた夜空です。「八月の駅の」なんて、ずいぶん個性のない言葉たちです。でも、そうしたのは作者の意図するところなのです。あってもなくてもいいような言葉が、こんなに短い表現形式の中にも必要になるなんて、驚きです。たとえ17文字とはいえ、全部の言葉が強く自己主張を始めたら、句が暑苦しくなるばかりです。「黒板を負ふ」だけで、もう充分イメージが読者に与えられているわけですから、あとはこのイメージの邪魔をしないようにしなければなりません。暑い日の仕事帰りに、ふと駅の上空を見上げれば、人生の、何か重要なメッセージが空に書かれていたように一瞬思われ、でも目を凝らしてみれば、黒板消しを持った大きな手が上空に振られ、あとはもう何も見えません。『日本大歳時記 秋』(1971・講談社)所載。(松下育男)


August 2082011

 花火舟音なく岸を離れけり

                           九鬼あきゑ

から花火を見たことはあるが、舟から見た経験は残念ながら無い。大きい納涼船でビール片手にわいわいがやがや、それはそれで楽しかったが。この句は「花火舟」と題された十句作品のうちの一句で他に〈船頭の黙深かりき花火の夜〉〈誰もみな海に手を入れ花火待つ〉など。舟の軋む音、波の音、耳元の風音や人の声。花火を待つ間の静かな時間がこの句から始まっている。空に海に大輪の花火が消える一瞬が、天に届けとばかりに響く音と共に、読み手の中に蘇る。『俳壇』(2011年9月号)所載。(今井肖子)




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