October 162011
地と水と人をわかちて秋日澄む
飯田蛇笏
3月11日の大震災を経験したのちに読んでみると、それまでとは違った感想を持ってしまう句があります。むろん、句そのものに違いはないわけで、あくまでも受け取り方の問題なのですが。本日の句も、単に大地と水がくっきりと分かれて見えると詠っているだけなのですが、どうしても陸地と海の境目のところに、思いは及んでしまいます。それはともかく、この句がすごいなと思えるのは、人を、地と水に並置しているところです。秋空の下、空気をどしどし押しのけるようにして歩いている人の姿が見えてくるようです。悩みとか感情とか屈託とか、そんなものはもともと大したものではなく、ここにこうしてあること自体が大切なことなのだと、あらためて教えてくれているようです。『日本大歳時記 秋』(1971・講談社) 所載。(松下育男)
October 152011
詫状といふもの届きうそ寒し
山田弘子
やや寒、うそ寒、そぞろ寒、肌寒、秋の寒さはあれこれ微妙だ。『新歳時記 虚子編』(1995・三省堂)には、うそ寒を、やや寒やそぞろ寒と寒さの程度は同じとしながら、「くすぐられるやうな寒さ」とある。背筋がなんだかぞわぞわするような寒さということか。作者は詫状を前にして、複雑な思いでいる。それは決して「わざわざ詫状をお送り下さるほどのことでもないのに、かえって恐縮です」というのでも「まあきちんと謝っていただけばこちらももうそれで」というのでもない。差出人の名前を見て、忘れかけていた不快な思いがよみがえり、読まなくてもどんな文面か想像がついている。私の知る限りでは、明るく親しみやすくさっぱりとしたお人柄だった作者をして、こんな句を詠ませた人は誰だろうと思いながら、むっとしつつうそ寒の一句に仕立てた作者に感心しながら、その笑顔を思い出している。『彩 円虹例句集』(2008)所載。(今井肖子)
October 142011
石に木に父の顔ある秋の暮
北 光星
石に木に風に空に雲に死者の顔が映る。花鳥風月の中に死者を見る。ここまでは諷詠的情緒だ。ナイフやフォークや一枚の皿や一本のネジやボルトや切れそうな裸電球にも死んだ父は宿る。どこにでも死者の記憶のあるものや場所に死者は蘇る。死者と直接関係のない対象でもそれを見たとき言ったとき思い出せば死者は現れる。『天道』(1998)所収。(今井 聖)
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