週末は久留米行き。石橋文化センターの薔薇園が楽しみです。(哲




2012N57句(前日までの二句を含む)

May 0752012

 ひといきに麦酒のみほす適齢期

                           岸ゆうこ

校生のころだったか、伊藤整の新聞小説に「初夏、ビールの美味い季節になった」とあった。「ふうん、そんなものなのか」と思った記憶があるが、いまになってみると、なるほど初夏のビールは真夏のそれよりも美味い気がする。この時期のビヤホールが、いちばん楽しい。とはいえ、ビールを飲む人の気持ちはいろいろで、みんなが楽しくしているわけではない。作者のような鬱気分で飲んでいる人もいるのだ。「適齢期」とは「結婚適齢期」のことで、最近ではほとんど聞かなくなった。この句はおそらく若き日の回想句だろうが、往時の女性は二十歳ころを過ぎると、そろそろ結婚を考えろと周囲から攻め立てられた。小津安二郎映画の若い女性などは、みなそのくちである。で、すったもんだのあげくに結婚すると、残された父親に「女の子はつまらんよ。せっかく育てたと思ったら、嫁に行っちまうんだから」などとぼやかれたりするのだから立つ瀬がない。句はそんな適齢期にあった作者が、結婚を言い立てられて、半ば自棄的に飲み慣れないビールを飲み干しちゃった図である。こんな時代も、そんなに遠い昔ではなかった。『炎環・新季語選』(2003)所載。(清水哲男)


May 0652012

 石の数が川音となり夏来る

                           大谷碧雲居

休中に川遊びをされた方も多いでしょう。掲句から、たとえば、河原で石を見るでもなくのんびり過ごしていると、川の音が夏を連れてきているようなすがすがしさを感じられます。句は、「石の数が」と字余りで始まっています。これは、数えるに余るほどの無数の石の数を表していて、中下流域の広い河原の光景でしょう。水の流れが無数の石と衝突して川音となるという句意は、説明的でもあり、即物的でもあります。また、句の中から生物を除外して、石と水という無機物の物理現象から「夏来る」を抽出する造作は、竜安寺の石庭に通じる冷徹さがあります。生命や地名といった有機的な要素を取り除き、石に水がぶつかる川音から「夏来る」と言い切る一句は、即物的であるからこそ普遍的で、どこの河原でも、どんな人でも、河原で過ごしたときにふと気づける夏の到来です。『日本大歳時記・夏』(1982・講談社)所載。(小笠原高志)


May 0552012

 湯の町に老いて朝湯や軒菖蒲

                           石川星水女

が近づく匂い、というのがある。それは、晴れた日よりも曇り、あるいはさっと来て上がった雨の後、ぐんぐん色濃くなってきた緑と濡れた土の香に、ああ夏が来る、とうれしさとなつかしさの入り交じった心地になる匂いだ。立夏と同時に端午の節句でもある今日。軒菖蒲、は、菖蒲葺く、の傍題だが、祖母が軒下に菖蒲湯に入れるほどの菖蒲を差していた記憶がある。本来は菖蒲と蓬を束にして屋根に置き邪気を祓う、というがこれもさぞよく香ることだろう。掲出句は、昭和四十年代後半の作、旅先での何気ない一句なのだが、すっと情景が浮かぶ。そこに人の暮らしが見えることで、小さな湯の町に、温泉、若葉、菖蒲に蓬と、豊かな初夏の香りがあふれてくる。『土雛』(1982)所収。(今井肖子)




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