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May 1552012

 縦書きの詩を愛すなり五月の木

                           小池康生

がものを伝うのを見て、あるいは花や葉が風に舞い落ちるのを眺め、人は文字を縦書きに書くことを思いついたのではないか。視線を上から下へおろすことは、人間の両目の配置からして不自然なことだそうで、横書きの文章の方が早く理解できるといわれる。しかし、ものを縦になぞることには、引力のならいでもある安心感がある。パソコンに向かっていると横書きに見慣れ、常に目は左から右ばかりに移動する。紙面の美しい縦書きを追うことは、目のごちそうとも思える。立夏から梅雨に入るまでのひととき、木々は瑞々しく茂り、雲は美しく流れる。青葉に縁取られた五月の木の健やかさのもとでは、やはり縦書きの文字を追いたいと、目が欲するのではないか。一年のなかでも特別美しい月である五月に、目にもたっぷりとごちそうをふるまってあげたい。〈ペン先を湯に浸しおく青嵐〉〈家族とは濡れし水着の一緒くた〉『旧の渚』(2012)所収。(土肥あき子)


November 17112012

 さざんくわや明日には明日を悦べる

                           小池康生

茶花のひたすらな咲きぶりはよく句になっているし、この花を見れば丸く散り敷いている地面に目が行く。とにかく咲き続け散り続ける花、椿に似ているが散り方が違う、そしてどこか椿より物寂しい花。ただ、山茶花とはこういうものだ、という概念を頭に置きながらいくらじっと見続けても、なかなか「観る」には至らないだろう。この句の作者は山茶花の前に立ち、その姿を見ながらこの花の存在を無心で感じとって、何が心に生まれるか、じっと待っていた気がする。咲く、そして散る。それは昨日も今日も明日も、冷たくなってゆく風の中で淡々と続き、今日には今日の、明日には明日の、山茶花の姿がある。悦べる、ににじむ幸せは、生きていることを慈しむ気持ちでもあり、やわらかい心に生まれた一句と思う。『旧の渚』(2012)所収。(今井肖子)


July 3172014

 家族とは濡れし水着の一緒くた

                           小池康生

かに。もう行くことはなくなったけど家族で海水浴やプールに出かけてぐしょぐしょになった水着を一緒くたにビニール袋に入れて持ち帰った。からんだ水着をほぐして洗濯機に入れて洗うのが主婦である私の仕事だった。びしょぬれになった水着の絡まり具合は「家族」と定義するのにふさわしい。家族の間で交錯する感情の絡みとごたごたを象徴していると言ってもいい。物々しい出だしに対して「一緒くた」とくだけた物言いで収めたことで句の親近感がぐっと増す。一緒くたになった水着を一枚ずつほぐして洗い、洗い上がった水着を形を整えながら干してゆくこと。遠い夏の日には何とも思わなかった作業が、水の匂いと共に懐かしく思い出される。『旧の渚』(2012)所収。(三宅やよい)


October 22102015

 秋うらら他人が見てゐて樹が抱けぬ

                           小池康生

阪と違い東京の公園は大きな樹が多い。新宿御苑、浜離宮、新江戸川公園など昔の武家屋敷がそのまま公園として保存されているからだろう。この頃はグリーンアドベンチャーとか言って、木肌や葉を見て札で隠された樹木の名を当てながらオリエンテーリングできるようになっている。クスノキやケヤキの大木は見ているだけでほれぼれするけれど時には太い幹に腕を回して、木肌に身体をあてて生気をもらいたくなる。ひとところに動かぬまま根を張り何百年も生き続ける樹木はそれだけで偉大だ。かぎりなく透明に晴れ渡った秋空にそびえる太い幹を抱いてみたいが「他人が見てゐて」樹が抱けぬと。まるで恋人を抱くのを他人に見られる恥じらいを感じさせるのがおかしい。抱けばいいのに。でもやっぱり恥ずかしくてできないだろうな、私も『旧の渚』(2011)所収。(三宅やよい)




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