2012N6句

June 0162012

 空蝉となるべく脚を定めけり

                           夏井いつき

間にある事物を自分の「知」のはたらきで感じ取り構成していく。俳句の骨法の大きな要素。地球上でこんなに人間が横暴に好き勝手しているのにその面倒にもならずそればかりか人間に「名指し」で妨害されても自分の力で必死に暮らしている鳥や虫たちがいる。雀や燕やカラスをみると胸が熱くなります。虫もそうだなあ。この空蝉も神の造型を感じさせる。『平成俳句選集』(2007)所収。(今井 聖)


June 0262012

 金魚にはきつと歪んでゐる私

                           火箱ひろ

の世界が歪んで見えることが金魚にストレスを与える、という理由で、金魚鉢で金魚を飼うことを禁止する条例がイタリアで施行、というニュースを目にしたのはずいぶん前のことだ。イタリアにも金魚玉があるんだ、とそれもちょっと意外だったが、当の金魚は、一見ノンストレスな感じで文字通り涼しい顔をしてなめらかにたゆたっている。掲出句、ぼんやりとそのゆらゆらを見るうちに、ふっと思ったのだろう。ちょっとした発見なのだが、歪んでいるのが四方の景色ではなく、私、であることで、作者の視線がはっきりして、金魚との間に通い合うものも感じられる。「子規新報」(2012年4月20日号)には、対象物を個性的にとらえたこの作者の三十句が特集されている、その中の一句。(今井肖子)


June 0362012

 勇魚捕る船や遠見の大瀑布

                           尾崎青磁

上の船から遠望できる大瀑布(だいばくふ)=大きな滝は、紀州和歌山の那智の滝と思われます。那智の滝は、飛瀧(ひろう)神社の御神体です。鳥居の向こうに拝殿はなく、参拝者は、数十メートル先の那智の滝をじかに拝みます。那智の滝の涸れる時は、この世の終わる時、という言い伝えがありますが、たしかに、滝の周囲の熊野古道の森も、生物も、人間も、水が涸れてしまえば生きられません。これは、日本各地で太古から続く自然信仰のもっともわかりやすい姿です。勇魚捕る(いさなとる)は、万葉集では「鯨魚取」と表記され、海にかかる枕詞として用いられていますが、掲句は、実際のカツオ・マグロ漁のことでしょう。紀州勝浦港から熊野灘に出た漁師たちが 、山あいから落ちる 那智の滝を遠くに見て、また、見守られて漁をしている姿です。生きる糧をじかに手でつかみ取り、漁の安全を大瀑布からじかに見守られている営みを、作者は、熊野那智大社の隣、青岸渡寺あたりから遠望していたのではないでしょうか。その視線は、はるか万葉時代よりも先に遡る、遠いまなざしになっているのかもしれません。那智の滝は、那智川となり、那智湾へと注いで海になります。蛇足ですが、この近くで、博物学者・南方熊楠は、粘菌類の発見と写生に没頭しました。つねに、携帯用の顕微鏡と画材を持って森を歩いていたそうです。「現代俳句歳時記・夏」(2004学研)所載。(小笠原高志)


June 0462012

 木の匙に少し手強き氷菓かな

                           金子 敦

の食堂などに「氷」と書かれた小さな幟旗が立つ季節になった。かき氷だが、句の氷菓はコンビニなどで売られているカップ入りのアイスクリームやシャーベットである。買うと、木の匙をつけてくれる。最近ではプラスチック製の匙もあるけれど、あれは味気ない気がして好きじゃない。この木の匙はたいがい小さくて薄っぺらいから、ギンギンに冷えているアイスクリームを食べようと思っても、少し溶けてくるまでは崩そうにも崩せない。句はそのことを「手強い」と言っているのだ。でも、作者はその手強さに困っているわけではなく、むしろ崩そうとしてなかなか崩れない感触を楽しんでいる。夏の日のささやかな楽しみは、こういうところにも潜んでいるわけだ。蛇足だが、木の匙の材質には白樺がいちばん適当らしい。白樺には、ほとんど独自の匂いがないからだそうだ。『乗船券』(2012)所収。(清水哲男)


June 0562012

 六月や草より低く燐寸使ひ

                           岡本 眸

の生活で燐寸(マッチ)を使う機会を考えてみると、蚊取線香とアロマキャンドルくらいだろうか。先日今年初の蚊取線香をつけたが、久しぶりで力加減がわからず、何本も折ってしまった。以前は小さな家を「マッチ箱」とたとえたほど生活に密着し、あるいは「マッチ売りの少女」の売り物は、余分に持っていても使い勝手はあるごく安価な日常品としての象徴だった。その生活用品としてのマッチと認識したうえで、掲句の「草より低く」のなんともいえない余韻をどう伝えたらよいのだろう。煙草などの男の火ではない、女が使う暮らしのなかの火である。マッチは、煮炊きのための竈に、あるいは風呂焚きに、風になびかぬよう、静かな炎をつないでいく。そして、燃えさしとなったマッチの軸も、そのなかへと落し、鼻先に燃えるあかりを育てるのだ。幾世代にも渡って女の指先から渡してきた炎のリレーが自分の身体にもしみ込んでいるように、何本も失敗したマッチをこすった後の、つんと残る硫黄の匂いが懐かしくてならなかった。『流速』(1999)所収。(土肥あき子)


June 0662012

 骨酒やおんなはなまもの老女(おうな)言う

                           暮尾 淳

酒は通常焼いたイワナを器に入れて熱燗をなみなみ注ぎ、何人かでまわし飲みするわけだが、季節を寒いときに限定することはあるまい。当方は真夏、富山県の山奥の民宿で何回か骨酒の席を経験したことがある。特にとりたてておいしい酒とは思わないが、座が盛りあがる。一度だけ、見知らぬ若い女性と差しで飲んだこともあった。しかし「なまもの」などという言い方をすると、女性からクレームをつけられるかもしれませんよ、淳さん(おとこはひもの?)。中七を平仮名書きにしたところに、作者が込めた諧謔的な本音があるように思われる。てらいもあるのかもしれない。「なまもの」はおいしいが、中毒するという怖さもある。「なまもの」だからといって、「刺身」などではなく「骨酒」を持ち出したあたり、なるほど。酒に浸され、まわし飲みの時間が経過するにしたがって(おんなも一緒に飲んでいるのだろう)、次第に魚の身が崩れ、骨が露出してくる姿に、「おんな」にも飲まれる哀れと怖さを感じているのかもしれない。ここは老女に「おんなはなまもの」と言わせたのだから、いっそう怖いし、皮肉も感じられる。句集の解説で、林桂は「暮尾さんの俳句の文体は、俳句的修辞への悪意とも憎悪ともつかないものがあって緊張している。最初から俳句表現に狎れることを拒否した緊張感だ」と書く。他に「もういいぜ疲れただろう遠花火」などがある。『宿借り』(2012)所収。(八木忠栄)


June 0762012

 箱庭と空を同じくしてゐたり

                           岩淵喜代子

庭は箱の中に小さな木や人を配し、川をしつらえ橋を渡したミニチュアの庭だが、どうして夏の季語になっているのだろう。歳時記の皆吉爽雨の解説によると箱庭を作るのは子供の夏の遊びの一つと書かれており、「古い町並みを歩くと軒下などに箱庭がおかれているのを見かけて、日本人の夏を感じる」とある。この頃は心理療法として箱庭を作るのが治療のひとつになっているようだけど、夏空の下で箱庭を作る遊びも楽しそうだ。箱庭を覗きこむ自分の頭上にも箱庭と同じ空がある。空から俯瞰すると自分がいる風景も覗きこんでいる箱庭の風景と同様の小ささで、人という存在がいじらしく思える。『白雁』(2012)所収。(三宅やよい)


June 0862012

 雪よりも白き雲来て雪かくす

                           山口青邨

のう、個人的なことなのですが、勝手ながらこれまでこの欄にはその折の季節に合わせて俳句を取り上げて鑑賞して参りましたが、これからはタイムリーな季節の句に関りなく取り上げていきたいと思います。この句「アルプス行」の前書きあり。この作者の句に感じるのは情緒の安定。感情の揺れをそのまま詩型に叩きつけたりしない落ち着きぶりです。それが大人の風格のようで若い頃は嫌味に見えたのですが、このごろはその魅力も少しわかってきたように思います。感情が安定していると風景もブレない。正面から大きな景に堂々と立ち向かう。横綱相撲というべきか。『現代の俳句』(1993)所載。(今井 聖)


June 0962012

 豚の仔の鼻濡れ茅花流しかな

                           大久保白村

花(つばな)は茅萱(ちがや)の花、流しは湿った南風、ということで初夏、茅花の穂がほぐれる頃に吹く南風が、茅花流し。とは言え、実際に目にした記憶は定かでなかった。それが先週、近郊の住宅街を歩いていたら、ぽっかりと四角い空き地一面の茅花の穂をいっせいになびかせている白い風に遭遇。吹き渡る、という広がりこそなかったが、間近で見た花穂のやわらかい乾きと風の湿りが印象的だった。この句を引いた句集『翠嶺』(1998)には、掲出句と並んで〈黒南風や親豚仔豚身を擦りて〉とある。仔豚の鼻の湿りと茅花の穂のふんわりとした明るさ、肌と肌の擦り合う湿りと梅雨曇りのどんよりとした暗さ、二つの湿りの微妙な違いがそれぞれの風に感じられる。(今井肖子)


June 1062012

 激つ瀬にうつぶし獲たる山女魚かな

                           木村蕪城

女魚(やまめ)は、渓流釣りの憧れです。尾びれ胸びれには切れがあり、斑点と縞の紋様は、他の渓流魚には見られない、あでやかな姿です。塩焼きにして皮ごと食べられる白身は、淡泊な中に味わいが濃厚で、天然の旨みを堪能できます。しかし、これを釣りあげるにはよほどの好条件が重ならなければかないません。まず、習性が敏感なので、足音、人影、気配を出せば、警戒して姿 を消します。したがって、先行する釣り人がいる場合は、沢筋を変えなくてはなりません。おのずと釣り人は、命知らずの沢登りの登攀(とはん)者となり、岩にしがみつき、脆い足場をよじ登り、人跡未踏のポイントを目指します。掲句は、そのような激(たぎ)る川瀬のポイントを見つけて、気配を消し、影をなくして、身をうつ伏しかがめて、一竿で野生の山女魚を獲た、実景実情の句でしょう。上五から中七は、動中静在り、といった釣りの要諦が示されているようです。また、「激つ瀬」は、「tagitsuse」で、母音だけとると「aiue」となり、上から下へ音が流れていますが、「うつぶし」は「utsubushi」で、「uuu」が三音続くことで、うつ伏している体勢の持続を音で表しているように受けとれます。「獲たる 」のあと、最後は「yamamekana」で、音も明るく、喜び、静かに叫んでいます。「日本大歳時記・夏」(1982・講談社)所載。(小笠原高志)


June 1162012

 ひとかなし氷菓に小さき舌出せば

                           嵩 文彦

レビを見ていると、年中誰かが物を食べていて、「うーむ、美味い」などと言っている。かつての飢えの時代を体験した私などは、たまらなくイヤな気持ちになる。「ひと」が物を食べる行為は、いかにテレビがソフィステケートしようとも、本能の根元をさらしているわけだから、決して暢気に楽しめるようなものではない。「ああ、人間は、ものを食べなければ生きて居られないとは、何という不体裁な事でしょう」と言ったのは太宰治だが、現代はそういうことにあまりに無神経過ぎる。棒状の固い氷菓は、まず舌で舐めなければならない。かぶりついても、氷菓は容易に崩れてはくれないからだ。まず舌で舐めるのは、つまり本能が我々にそうするように強いているからそうしているのである。本能の智慧なのだ。私たちは、ほとんど例外なくアイスキャンデーをそうやって食べている。このときに「ひとかなし」と作者がわざわざ言わざるを得ない気持ちを、もしかすると飢餓を知らないひとたちはわからないかもしれない。『ランドルト環に春』(2012)所収。(清水哲男)


June 1262012

 平家蟹カゲノゴトクツキマトウ

                           小泉八雲

平家蟹
句や短歌など、日本の詩歌を英訳し紹介しつづけた小泉八雲。妻節子の『思い出の記』には「(八雲は)発句を好みまして、沢山覚えていました。これにも少し節をつけて廊下などを歩きながら、歌うように申しました。自分でも作って芭蕉などと常談を云いながら私に聞かせました。どなたが送って下さいましたか『ホトトギス』を毎号頂いて居りました。」という記述がある。そこでしばらく小泉八雲の俳句をあちこち探したが、見つけることはできなかった。実は掲句、小泉八雲の秘稿画本『妖魔詩話』(1934)に収められた八雲の草稿から見つけたものだ。これは天明老人編「狂歌百物語」に収められて狂歌を英訳したものだが、八雲は未発表のまま亡くなり、昭和9年没後にご子息一雄氏が編者となって出版した。平家蟹の項には八雲のペンによって描かれた強面の蟹のスケッチの脇に「カゲノゴトクツキマトウ」とカナで記されている。影の如く付きまとう……。蟹の甲羅に浮かぶおそろしい武士の顔を丹念に写し取るとき、思わず蟹の姿となって、ひいては安息を得られない平家の霊のひとつとなってペン先からこぼれ落ちたつぶやきであろう。はたしてこれを俳句作品として挙げるのは乱暴かもしれないが、八雲の作った俳句のようなもの、として紹介したい。(図版『妖魔詩話』「平家蟹」より)(土肥あき子)


June 1362012

 髪結ふやあやめ景色に向きながら

                           室生犀星

人で「あやめ」と「かきつばた」の違いがわからない人はいないだろう。わからない? 俳人たる資格はないと言っていいかも(当方などはあやしいのだが)。「あやめ」はやや乾燥した山野に生えて、花びらに網模様がある。「かきつばた」は湿地や池沼に自生して、花は濃紫である。まだ暑くはないさわやかな五〜六月頃、縁側か窓辺で女性がおっとり髪を結っているのだろう。あるいは結ってもらっているのかもしれない。前方にはあやめが群生していて、そこを吹きわたってくる風が心地よい。そう言えば、あやめの花の形は女性のある種の髪形のようにも見える。そんな意識も作者にはあったのではないかと推察される。昭和二十八年五月に、犀星は「髪を結ふ景色あやめに向きながら」と詠んだが、五日後に上掲のかたちに改めたという。なるほど「髪を結ふ景色」よりも「あやめ景色」のほうがあやめが強調され、句姿が大きく感じられないだろうか。犀星のあやめの句に「にさんにちむすめあづかりあやめ咲く」もある。『室生犀星句集』(1979)所収。(八木忠栄)


June 1462012

 ままこのしりぬぐひきつねのかみそりと

                           西野文代

物の固有名詞をならべただけなのにまるでお話のようだ。「ままこのしりぬぐい」はタデ科の一年草で、先っちょを紅く染めた小花が固まって咲いていると植物図鑑にはある。道端で通り過ぎても言い当てることはできそうにないが、どうしてこんな面白い名前がついているのだろう。きつねのかみそりは飯島晴子の「きつねのかみそり一人前と思ふなよ」が有名。こちらはどこかの木の茂みでホンモノを見たことがあるが、地面からひょろっと花が突き出た特異な姿だった。有毒植物ということで、こんな名前がついているのだろうか。二つ並べると「ままこの尻」、の柔らかさと、「キツネとかみそり」の配列に危うさと痛さが感じられる。嘱目で作った句かもしれないが、取り合わせた言葉が呼び寄せる不思議な世界を直観的に感じとるセンスがないとこんな句は出来ないだろう。『それはもう』(2002)所収。(三宅やよい)


June 1562012

 鮭食う旅へ空の肛門となる夕陽

                           金子兜太

きな景を自身の旅への期待感で纏めた作品だ。加藤楸邨は隠岐への旅の直前に「さえざえと雪後の天の怒濤かな」と詠んだ。楸邨の句はまだ東京にあってこれから行く隠岐への期待感に満ちている。兜太の句も北海道に鮭を食いに行く旅への期待と欲望に満ちている。雪後の天に怒濤を感じるダイナミズムと夕焼け空の色と形に肛門を感じる兜太のそれにはやはり師弟の共通点を感じる。言うまでもなく肛門はシモネタとしての笑いや俳諧の味ではない。食うがあって肛門が出てくる。体全体で旅への憧れを詠った句だ。こういうのをほんとうの挨拶句というのではないか。『蜿蜿』(1968)所収。(今井 聖)


June 1662012

 父の日や日輪かつと海の上

                           本宮哲郎

の日っていうのはさびしいものなんですよ、と自らも父である知人が言った。それは句会の席でのこと、父の日を詠んだ句が、ペーソスが感じられていいですね、と評されたのを聞いて、そういうものなのかなあ、とつぶやいた私に向けられた言葉だ。娘にしてみれば、一緒にビールを飲む楽しみな日だったけどな、と帰宅して歳時記を開いてみると、確かにどこかものさびしい句が並んでいる。そんな中にあった掲出句、この太陽の存在感が、作者自身の中にいつまでも生きている父親そのものなのだろう。しかし、母親を太陽にたとえる時は、その明るさがみんなをあたたかく照らす、というイメージだが、かっと海の上にあるこの太陽は、強く輝くほどなんとなく孤独だ。父もものさびしかったのか、知るよしもないが、父を亡くした娘にはさびしい、明日は父の日。『俳句歳時記 第四版 夏』(2007・角川学芸出版)所載。(今井肖子)


June 1762012

 手の薔薇に蜂来れば我王の如し

                           中村草田男

学に入って、初めて買った俳句の本、「季寄せ-草木花・夏(上)」で掲句に出会いました。この本、ご存知の方も多いと思いますが、見開き二頁のなかに、花の写真と植物の解説と例句がそろう親切なつくりで、よい入門書でした。写真と俳句の相性のよさが活かされた本です。掲句はたぶん実景で、草田男は庭の薔薇を切って手にしていたか、あるいは薔薇の花束を手にしていたか、そこに蜂がやって来たわけですから、庭が妥当でしょう。勤務先、成蹊高校の中庭かもしれません。薔薇を手にしているだけでも豪華ですが、そこに蜂が来れば絢爛です。このとき草田男は、「おー」と心の中で叫んだから「王の如し」なのかどうかはわかりません。ただ、このような、シェー クスピア 劇の一場面のような劇的一瞬が、われわれの日常の中にも稀にあり、草田男はそれを見逃さず、俳句のシャッターを切りました。薔薇の花びらは、一片一片が大きくややぶ厚い質感で、それらが中央から三重、四重にもなって真っ紅に開いているので、王にふさわしい姿です。蜂は、胸部は褐色の毛におおわれていて、腹部は縞模様が黒く光り、威圧感があります。その姿は、武器を隠し持つ王の傭兵のようです。薔薇も蜂も王朝風に美しく、しかし、薔薇は棘を出し、蜂は針を隠しています。これは、王家がつねに美をまとい、つねに武装に腐心するのに似ています。作者は、庭で全盛期のリア王のように絢爛豪華な気分にひたりながらも、同時に、王家には、常に刃が向けられている恐怖 をも感じたのかもしれません。薔薇も蜂も、美しく無惨な悲劇に合います。教師時代の草田男は、いつもマント姿だったようで、舞台衣装もきめてます。(小笠原高志)


June 1862012

 女にも七人の敵花ユッカ

                           近江満里子

花ユッカ
戸時代からの諺に曰く、「男は閾を跨げば七人の敵あり」。男が社会に出て大人として活動すれば、常に多くの敵ができるものであるという意だが、作者は「女」も同様ですよと言っている。昔の人が読んだらびっくりするだろうが、いまの私たちには「さもありなん」と違和感は覚えない。世の中は、すっかり変わってしまったのだ。では、何故「花ユッカ」との取り合わせなのだろうか。間違っているかもしれないが、私は作者の持つ女性観のひとつだと解釈した。美人をたとえて「立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花」と言うが、これと同じことだ。つまり女には「花ユッカ」みたいなところがあるというわけである。公園などに植えられるこの花は、まことにおだやかな感じの白くて大きい花房を高くかかげる。だが、写真でお分かりのように、下の葉は剣先のような鋭い形状をしており、おだやかな花の雰囲気とは似ても似つかない。英名では「スペインの小刀」と言うくらいで、不気味なたたずまいである。しかもこの花は初夏と秋の二度咲きで、なかには越年して咲きつづけるものもあるそうな。女の敵の女は、かくのごとくにしつこくて執念深いというわけだ。なんだか、男の七人の敵のほうが可愛らしくヤワに思えてくる。『微熱のにほひ』(2012)所収。(清水哲男)


June 1962012

 船ゆきてしばらくは波梅雨の蝶

                           柴田美佐

航する船を見送るシーンにカラフルなテープを投げ交わす光景は、いつ頃から始まったのかと調べてみると、1915年サンフランシスコで開催された万国博覧会に紙テープを出品した日本人から始まっていた。この頃既に布リポンがあったため大量に売れ残った色とりどりの紙テープを「船出のときの別れの握手に」と発案し、世界的な習慣になったという。行く人と残る人につながれたテープは、船出とともに確かな手応えとなって別れを演出する。陸を離れる心細さを奮い立たせるように、色とりどりのテープをまといながら船は行く。掲句にテープの存在は微塵もないが、船と陸の間に広がる波を見つめる作者の視界に入ってきた梅雨の蝶の色彩は、惜別に振り合った手のひらからこぼれたテープの切れ端のようにいつまでも波間に揺れる。〈啓蟄や木の影太き水の底〉〈小春日やこはれずに雲遠くまで〉『如月』(2012)所収。(土肥あき子)


June 2062012

 一つ蚊を叩きあぐみて明け易き

                           笹沢美明

の消え入るような声で、耳もとをかすめる蚊はたまらない。あの声は気になって仕方がない。両掌でたやすくパチンと仕留められない。そんな寝付かれない夏の夜を、年輩者なら経験があるはず。「あぐ(倦)みて」は為遂げられない意味。一匹の蚊を仕留めようとして思うようにいかず、そのうちに短夜は明けてくる。最も夜が短くなる今頃が夏至で、北半球では昼が最も長く、夜が短くなる。「短夜」や「明け易し」という季語は今の時季のもの。私事になるが、大学に入った二年間は三畳一間の寮に下宿していたので、蚊を「叩きあぐ」むどころか、戸を閉めきればいとも簡単にパチンと仕留めることができて、都合が良かった。作者は困りきって掲句を詠んだというよりは、小さな蚊に翻弄されているおのれの姿を自嘲していると読むことができる。美明は、戦前の有力詩人たちが拠った俳句誌「風流陣」のメンバーでもあった。「木枯紋次郎」の作者左保の父である。他に「春の水雲の濁りを映しけり」という句がある。虚子には虚子らしい句「明易や花鳥諷詠南無阿弥陀」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所載。(八木忠栄)


June 2162012

 無垢無垢と滝に打たれてをりしかな

                           山崎十生

禅を組むのも、断食道場へ通うのも、滝に打たれるのも自分の中に巣くう煩悩を流して生まれ変わりとはいかないまでも、まっさらな自分になりたいがためだろう。どのぐらい効果があるかわからないが、「無垢無垢」と念じつつ、轟音とともに落ちてくるしぶきの冷たさに耐えながら立っている様子を思うと何だか笑えてくる。真面目であればあるほど「無垢無垢」が擬音語のようでもあり、念仏のようでもあり、押さえても押さえても湧き出てくる煩悩のようで、何だかおかしい。那智の滝や華厳の滝の如く遥か上方から垂直にたたきつけるのは怖すぎるけど、穏やかない滝なら、ムクムクと打たれてみるのもいいかもしれない。『悠々自適入門』(2012)所収。(三宅やよい)


June 2262012

 死ねない手がふる鈴をふる

                           種田山頭火

頭火は58歳で病死したがその5年前に旅の途中で睡眠薬を大量に飲んで自殺を企てている。結局未遂に終りそのまま行乞の旅を続ける。本来托鉢行とは各戸で布施する米銭をいただきながら衆生の幸せや世の安寧を祈ることだろう。だから鈴をふる祈りには本来は積極的な行の意味があるはずだ。死にたい、死ねないと思いながら鈴をふるのは得度をした人らしからぬことのように思える。しかしながらそこにこそ「俗」の山頭火の魅力が存するのである。「俳句現代」(2000年12月号)所載。(今井 聖)


June 2362012

 灯台に白き穂を立て夏至の濤

                           板谷蝸牛

京では五時間近く昼の方が長いという夏至、今年は一昨日の木曜日だった。しかし、今年のように時ならぬ台風に驚かされることがなくても梅雨最中、歳時記にも、夏至の雨、などの句が並んでいる。掲出句、遠くから見える白い灯台と白い波頭、さらに雲の白さが、梅雨の晴れ間の海の碧に際立って眩しい。ただ、濤、の一字が、一見ちらちらと寄せているように見える波が実際は、それこそ台風が来そうな激しい波であることを思わせる。夏至という、上りつめればあとは下るだけ、という一点の持つさびしさが、波の勢いが強ければ強いほど、大きく砕ければ砕けるほど、感じられるのだろう。『図説 大歳時記・夏』(2007)(角川学芸出版)所載。(今井肖子)


June 2462012

 鯖の旬即ちこれを食ひにけり

                           高浜虚子

瞬で、ぺろりと鯖鮨を食った。旬だから、好物だから、足が速いから、握られて置かれてすぐに召しあがった。鮨屋のカウンターならば、これがよい食べ方です。山本健吉の歳時記には、「五月十四日作る」とあります。鯖は五月が味の旬とされているので、それを逃さず、これも季節と人との出会いです。それにしても、ただ鯖を食っただけなのに俳句になっているのはなぜでしょう。また、俳句としては例外的に「即ちこれ」といった接続語と指示語を使っています。この効果について、思いついたことをいくつか書きます。一、五七五の定型にするため。二、一瞬で食べられてしまう鯖を「これ」で指示して注目させるため。三、韻律の効果。前半を「サ行音」で、後半を 「カ行音」でまとめた。四、五七五 を三コマのフィルムとみれば、一コマ目は眼の前の鯖鮨、二コマ目は手に取った鯖鮨、三コマ目は腹に入った鯖鮨。と分析しましたが、こんな野暮な考えよりも、句のスピード感が心地いいからでしょう。とくに、「旬」と「即」が漢語でカチンとぶつかっていながらも、「シュン・スナワチ」の音が、速度のある食いっぷりを形容しています。最近の研究で、鯖などの青魚は肝臓がんの抑止効果があると発表されましたが、八十五歳まで健筆を奮った虚子を内側から支えていたのかもしれません。「鑑賞俳句歳時記・夏」(1997・文芸春秋)所載。(小笠原高志)


June 2562012

 睡蓮や十年前の日が射して

                           坪内稔典

く出かける神代植物公園(東京都調布市)は、睡蓮の宝庫と言ってよいだろう。毎夏、公園の池には温帯性の睡蓮がたくさん咲くし、温室に入ると熱帯性の花を数多く観ることができる。名前のとおりに、睡蓮は「睡る花」である。日が射せば開花するのだから、句のように「十年前の日」にも反応するはずである。この発想は、とても面白い。面白いと同時に、作者が句の睡蓮に郷愁を覚えているさまをよく表している。「この花はいつか見た花」というおもむきだ。「十年一日のごとし」という感慨も、ちらりと頭をかすめる。そしてまた、水に浮かぶこの花の風情が、さながらモネの描いた睡蓮のように、どこか永遠性を秘めていることをも告げているようだ。睡蓮を眺めていると、私はいつも「全て世は事も無し」と呟きたくなる。「十年前の日が射して」いるせいかもしれない。『ぽぽのあたり』(1998)所収。(清水哲男)


June 2662012

 死にたれば百足虫は脚を数へらる

                           雨宮きぬよ

足虫(ムカデ)はその名の通り、多い種になると173対というから300本をゆうに越える足を備える。日頃怖れているものが死んでいるとき、観察する派と、死体であっても無理派に分かれる。作者を含む前者は、刺されたり攻撃されることさえなければ、その個体に興味が湧くという探究心の持ち主であろう。死んだ百足虫を目の前にして、ぞろりと揃えられた足の一本一本が絡まることなく規則正しく動いていた事実に思いを馳せる。生前の嫌悪は遠ざかり、複雑な身体を持った彼らに「お疲れさま」とねぎらうような視線が生まれる。同集には〈いくたびも潮の触れゆく子蟹の屍〉も見られ、こちらはさらに温情の純度が高まっている。一方、生きていようが死んでいようが、存在自体に意気地なく尻込みするタイプもある。私もはっきりそちらに所属しており、おしなべて昆虫関係は不得手だが、ことに足が多いほど苦手度は増す。ムカデ、ヤスデといった存在は虫というより怪物に近い戦慄を覚える。虫嫌いの傾向は子どもの世界まで万延し、ノートの定番ジャポニカ学習帳の表紙にも昆虫が登場しなくなったという現実を聞くとやはりさみしいと思う。わらじを脱いでいると思ったらまだ履いているところだった、という「ムカデの医者むかえ」など親しみも持てる話しや、一匹を退治すると連れ合いが探しにくるといわれる百足虫の夫婦愛の深さなど胸を打たれるではないか。キーボードを打つだけで粟立っている者の言葉では説得力に欠けるが……。『新居』(2011)所収。(土肥あき子)


June 2762012

 朝顔の夢のゆくへやかたつむり

                           中里恒子

たつむりの殻の螺旋は右巻き? 左巻き? ――大部分は右巻きだそうだ。それはともかく、かたつむりは梅雨の今頃から夏にかけて大量に発生してくる。かたつむりは可愛さが感じられても、ヌメ〜〜としていて必ずしも美しいものとは言えない。掲句は「朝顔の夢のゆくへ」という美しい表現との取り合わせによって、かたつむりにいやな印象は感じられない。それは朝顔の夢なのだろうか、かたつむりの夢なのだろうか、はたまた人が見ている夢なのだろうか。螺旋状の珍しい夢だったかもしれないけれど、どんな内容の夢だったのだろうか。そこいらの解釈は「こうだ!」と声高に決めつけてしまっては、かえって野暮というもの。ついでに「朝顔」(秋)と「かたつむり」(夏)の季重なり、そんなことにこだわるのも野暮というものでげしょう。文人による俳句は、そういうことにあまりこだわらないところがいい。恒子は横光利一、永井龍男等の「十日会」で俳句を詠んでいた。他に「花途絶えそこより暗くなりにけり」「法師蝉なにごともなく晴れつづく」などがある。(『文人俳句歳時記』)(1969)所載。(八木忠栄)


June 2862012

 象の頭に小石のつまる天の川

                           大石雄鬼

の川とは「微光の数億以上の恒星から成り、天球の大円に沿って淡く帯状に見える」ものと広辞苑に解説がある。インドでは象の頭をもった神様は富と繁栄、知恵を授けてくれる幸運の神様という話。象がとても賢い動物からだろう。その象の頭に小石がつまるという発想が面白い。なるほど、ゴツと天辺が飛び出したアフリカ象の頭の恰好は、なるほど小石を詰めた袋のようだ。しかも小石の詰まった頭と夜空に輝く天の川の取り合わせは、象の頭に詰まった小石が弾けて天の川になったかの如く不思議な気分になる。この作者の句は言葉の繋がりかたが独特で屈折した文脈がステレオタイプな季語の見方を少し変えてくれる。「舟虫の化石にならぬため走る」「蛍狩してきし足を抱いて眠る」『現代俳句最前線』(2003)所載。(三宅やよい)


June 2962012

 流れに沿うて歩いてとまる

                           尾崎放哉

々に沿って歩いてきました、または歩いていきました、くらいが大方の詩想。凡庸な作家はここまでだ。「とまる」が言えない。行きにけり、歩きけり、流れけり。みんな流して終る。「春水と行くを止むれば流れ去る」誓子の句の行くの主語は我、流れ去るのは春水。二者の動きを説明した誓子に対して放哉は我の動きを言うだけで水の動きも言外に出している。放哉の方が上だな。『大空』(1926)所収。(今井 聖)


June 3062012

 日本の水は美し髪洗ふ

                           藤浦昭代

時記に、行水、髪洗ふ、と並んでいるのを見ると、夕風にたらいの風情。髪洗ふ、とは、浴衣を肩が見えるくらい下ろして長い黒髪を洗うのであり、決してシャワーの前で仁王立ちしてはいけない。そう考えると現在は、髪を洗うこと自体には夏の季感は乏しいかもしれないが〈洗ひ髪夜空のごとく美しや〉(上野泰)の句の艶やかな黒髪には、今も体感できる夏の夜風が心地よく吹いている。掲出句、美しい水で洗われている黒髪もまた美しいのだろう。水で洗う、ということは当たり前でありながら、美しい水で髪を洗う、という表現は新鮮であり、日本人は美しく豊かな水に恵まれて暮らしてきたのだ、とあらためて思うと同時に、それを自らの手で脅かしてしまう愚かさを思う。『りんどう』(2012)所収。(今井肖子)




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