Pq句

June 2762012

 朝顔の夢のゆくへやかたつむり

                           中里恒子

たつむりの殻の螺旋は右巻き? 左巻き? ――大部分は右巻きだそうだ。それはともかく、かたつむりは梅雨の今頃から夏にかけて大量に発生してくる。かたつむりは可愛さが感じられても、ヌメ〜〜としていて必ずしも美しいものとは言えない。掲句は「朝顔の夢のゆくへ」という美しい表現との取り合わせによって、かたつむりにいやな印象は感じられない。それは朝顔の夢なのだろうか、かたつむりの夢なのだろうか、はたまた人が見ている夢なのだろうか。螺旋状の珍しい夢だったかもしれないけれど、どんな内容の夢だったのだろうか。そこいらの解釈は「こうだ!」と声高に決めつけてしまっては、かえって野暮というもの。ついでに「朝顔」(秋)と「かたつむり」(夏)の季重なり、そんなことにこだわるのも野暮というものでげしょう。文人による俳句は、そういうことにあまりこだわらないところがいい。恒子は横光利一、永井龍男等の「十日会」で俳句を詠んでいた。他に「花途絶えそこより暗くなりにけり」「法師蝉なにごともなく晴れつづく」などがある。(『文人俳句歳時記』)(1969)所載。(八木忠栄)


April 2742016

 春惜しむ銀座八丁ひとはひと

                           中里恒子

しまれつつ去って行く季節は、やはり春こそふさわしい。銀座にだって季節はあり、惜しまれる春はそれなりにちゃんとあるのだ。その一丁目から八丁目に到るまで、お店それぞれの、逍遥する人それぞれの季節:春がやってきて、去って行くことはまちがいない。恒子はいま何丁目あたりを歩いているのかはわからない。そこを歩いている人それぞれのことまではわからないし、知る必要もない。われはわれである。「ひとはひと」の裏には、当然「われはわれ」の気持ちが隠されている。「ひとはひと」とあっさり突き放したところが、いかにも「銀座八丁」ではないか。「ひとはひと、われはわれ」で、てんでに銀座の行く春を惜しんでいれば、それでいいさ。そのある種の「ひややかさ」は、銀座八丁が醸し出している心地よさでもあろう。さらりとして、べたついてはいない。そこには下町や田舎とはちがった春を惜しむ、そんな心地よさが生まれているように感じられる。恒子に俳句は多いが、夏の句に「薔薇咲かず何事もなく波ばかり」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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