2012N8句

August 0182012

 鰻屋の二階客なき焼け畳

                           矢野誠一

を扱った落語はいろいろある。「鰻の幇間(たいこ)」は調子のいい幇間が、路上で行きあった旦那(幇間には誰だか思い出せない)に冴えない鰻屋に誘われ、最後はとんでもないことになるという傑作。通された二階の座敷には、直前まで店の婆さんが昼寝していたり、窓にオムツが干してあったり、床の間の掛軸は二宮金次郎の絵、酒盃の絵は日章旗と軍旗のぶっ違いだったり、キツネとタヌキが相撲を取っていたり、お新香は薄切りで肝腎の鰻は硬くて噛み切れない……畳も焼けてしまっているだろう。落語評論家でもある誠一は、そんな「鰻の幇間」をどこかにイメージして詠んだのかもしれない。こぎれいでよく知られた老舗などとは、およそほど遠い風情を物語る「焼け畳」。いや、ともすると絶品の鰻をもてなす隠れた店なのかもしれないし、客も少ないから畳は焼けたまま、それを取り替える気配りもやる気もない店なのかもしれない。今年の「土用の丑の日」は七月二十七日だった。平賀源内か太田南畝が考えた出した風習だ、という伝説がある。先頃、アメリカがワシントン条約により、鰻の国際取引の規制を検討しているというニュースが報じられた。ニッポンやばい! ならばというので、賢いニッポン人が、サンマやアナゴ、豚バラ肉の蒲焼きを「代替品」として売り出し人気を呼んでいるらしい。そんなにしてまで鰻にこだわるかねえ? 誠一の夏の句に「趣味嗜好昼寝の夢も老いにけり」がある。『楽し句も、苦し句もあり、五・七・五』(2011)所載。(八木忠栄)


August 0282012

 馬と陛下映画の夏を通過せり

                           山田耕司

月になると、また数々の戦禍の映像が繰り返しテレビで放映されることだろう。御真影、教育勅語など戦後10年を経て生れた私には遠い出来事にしか思えない。それなのに「陛下」という掲句の言葉に、天皇が白馬に騎乗しゆっくりと画面を通過してゆくシーンが立ちあがる。「陛下」「馬」「夏」という言葉の連鎖がテレビのない時代、暗い映画館で上映されただろう白黒の戦争映画を連想させる。戦争を知らない私にも沖縄の夏、原爆の夏、敗戦の夏と民族の苦しみの歴史が記憶となって残っているのは繰り返される映像があるからだろう。様々な悲劇を巻き起こした戦争。昭和史の記録として焼きつけられた戦争映画の続編がないことを願わずにはいられない。『大風呂敷』(2010)所収。(三宅やよい)


August 0382012

 お祭りに行くと絶対はさんする

                           阿部順一郎

学生がつくった句というのを目にするが、どうも嘘くさいのもある。発想と書き方を親が手伝ったんじゃないかと思わせる句があるのだ。親や教師が手伝うと往々にして切れに「ね」や「よ」がリズミカルに入る。形を整えるアドバイスはまあ仕方ないとしても発想が従来の俳句観に沿っていたり、ありきたりの「童心」のごときものを見せられるとがっかりする。大人から見た「童心」と子供の本心は違うんじゃないか。子供には大人の想像もつかないような発見や奇想が詰ってるんじゃないかと思うけど、逆にそれが過大な幻想なのか。この句は正真正銘小学生の感慨に思える。大人がアドバイスしたら「はさん」は出ないだろう。もう一度小学生に戻れたらこんな奴と親友になりたい。毎日楽しいだろうな。絶対東大には行けないだろうけど。『平成23年度NHK全国俳句大会入選作品集』(2011)所載。(今井 聖)


August 0482012

 素晴らしき夕焼よ飛んでゆく時間

                           嶋田摩耶子

和三十四年、作者三十一歳の時の作。星野立子を囲む若手句会、笹子会の合同句集『笹子句集 第二』(1971)の摩耶子作品五十句の最初の一句である。時間が飛んでゆくとは、と考えてしまうとわからなくなる、圧倒的な夕焼けを前にして何も言えない、でも何か言いたい、そう思いながら思わず両手を広げて叫んでしまったようなそんな印象である。さらに若い頃には〈月見草開くところを見なかつた〉〈地震かやお風呂場にゐて裸なり〉など、いずれも夏の稽古会での作。そしてその後も自由な発想を持ち続けていた作者だが先月、生まれ育った北海道の地で療養の末帰らぬ人となった。華やかな笑顔が思い出される。〈子を寝かし摩耶子となりてオーバー著る〉(今井肖子)


August 0582012

 朝焼の雲海尾根を溢れ落つ

                           石橋辰之助

頂、または山小屋、テント場で迎えた朝。眼下の雲海は、朝焼けに照らされながら、ゆっくりと尾根から、あふれるように下界に落ちていきます。句のモチーフは、光と雲と岩のみで、人も生き物も読みこまれていません。生命が誕生する前からある、太陽と地球との無言の挨拶。そこには「おはよう」という言葉もありません。しかし、滝のように尾根から谷へと流れ込む雲海の動きをみていると、地球そのものが生きているように思えてきます。私は高校時代、山岳部だったので、大雪、知床、南アルプスなどを縦走しましたが、ここ近年は下界の塵芥の住人に甘んじています。掲句のような荘厳で雄大な句を目にすると、久しぶりに重い腰を上げて、リュックサックを背負ってみようか、という気持ちになります。「鑑賞俳句歳時記・夏」(1997・文芸春秋)所載。(小笠原高志)


August 0682012

 髪洗ふ背骨だいじと思ひけり

                           長戸幸江

齢を重ねてくると、いつしか嫌でも自分の身体の劣化に気づくようになる。昔の人は、劣化はまず「歯」にあらわれ、次に「目」にくると言った。私もその順番だった。そうなってくると、まだ現象としてあらわれてはいなくても、身体のあちこちの部位が心配になってくる。このときの句の作者の年齢は知らないが、髪を洗っているときに、うつむき加減の身体を支えている「背骨」の大切さを、身にしみて理解している。若いときには、思いもしなかった身体観が出てきたのだ。そしてだんだんこうした認識は、多くの立ち居振る舞いごとに浮かんでくるようになる。それが老人の性(さが)なのであり、仕方のないことだけれども、こうしてそのことを句として掲げられてみると、あらためて自分の身体にそくして同感している自分に気がつかされる。そしてこの認識は、次のような句にもごく自然に及んでいくのだ。「夏野原少女腕を太くせよ」。『水の町』(2012)所収。(清水哲男)


August 0782012

 耳二枚海が一枚秋立ちぬ

                           掛井広通

日立秋。もっとも違和感ある二十四節気だが、ここが暑さの峠と思い、長い長い下り坂の末に本物の秋がうずくまっていると考えることにしている。掲句は海を一枚と数えることに涼味を覚えた。はたして実際はどうなのだろうか。深さは「尋」、距離は「海里」だが、「七つの海」という慣用句があることから単にひとつ、ふたつなのだろうか。しかし、やはり一枚がいい。太平洋が一枚、地中海が一枚。どれもはるばると波立っているはてしなく大きな一枚の布のようだ。そして耳と海が並べばおのずとジャン・コクトーの「耳」〈わたしの耳は貝の殻 海の響きを懐かしむ〉を思わずにいられない。人間の身体の端っこに頼りなく付く二枚の耳が、いち早く秋を聞き分ける。〈砂浜は地球の素肌星涼し〉〈足跡はうしろに出来て鳥雲に〉『さみしき水』(2012)所収。(土肥あき子)


August 0882012

 死んだ子の年をかぞふる螢かな

                           渋沢秀雄

の頃からふわふわ飛びはじめる螢、その火は誰が見ても妖しく頼りなくて儚い。あの子が今生きていればいくつ……と、螢にかぎらず、何かにつけて想うのが親心というものだろう。殊に儚い火をともして飛ぶ螢を、無心に追いかける子どもたちを見るにつけ、子を亡くした親は「あの子が生きていれば……」としみじみと思いめぐらしてしまうに違いない。私には生まれてすぐに亡くなった姉がいたようだが、親は折々にその年を数えてみたりしていたのかもしれない。私などが子どもの頃に歌って螢を追った「ほ、ほ、螢こい、そっちの水は苦いぞ、こっちの水は甘いぞ……」という文句も、どこかしら哀しく寂しい響きをもっていた。掲句は二十四歳で失った次男のことを詠んだもの。親にとっては幾つになっても子は子である。秀雄は各界の面々が寄った句会「いとう会」の古参メンバーだった。俳号は「澁亭(しぶてい)」。澁澤榮一の四男だった。秀雄の代表句には「横町に横町のあり秋の風」があり、他に「ででむしや長生きだけが芸のうち」がある。『澁澤澁亭』(1984)所収。(八木忠栄)


August 0982012

 フクシマで良いのか原爆忌が近い

                           山崎十生

和二十年八月六日広島、八月九日長崎へ原子爆弾が投下された。広島市をヒロシマと表記するのは被爆都市としての広島を表すときで、原水爆禁止運動の中で使われたのが最初のようだ。広島には原爆投下で亡くなった親族、被爆手帳を携えて生きた義父の墓がある。余り多くを語らなかった義父にとって原爆の日が来るたびあの日の惨状を思い出すことは辛かったと思う。福島第一原子力発電所の事故から一年余り、早々と安全宣言をだし大飯原子力発電所の再稼働を決めた国の施策に疑問を感じる。もちろんアメリカ軍によって投下された原爆と今回の原子力の事故を同列に扱うわけにはいかないが、「今回の事故による放射能の直接的影響で亡くなった人は一人もいない」と言ってのける電力会社は原子力という怪物を管理している自覚があるのか。あまりにも無神経な発言に怒りを覚える。掲句では「(ヒロシマやナガサキ同様に)フクシマという表記を使っていいのか」と迷いつつ原爆忌を迎える作者の心の動きが書き留められている。被曝地域の声をなおざりに原子力政策を進める国、じゃあ自分は「フクシマ」とどう向き合うのか、作者のとまどいはそのまま自分に返ってくる。『悠々自適入門』(2012)所収。(三宅やよい)


August 1082012

 アッツの照二仔猫をまこと怖がりし

                           野宮猛夫

ッツの照二だけで、第二次大戦で日本軍が全滅したアッツ島にいた照二という兵隊であることが思われる。それ以外の展開はアッツの照二から僕は想像できない。最後の一兵まで突撃して生存者は1パーセント。だから屈強の兵だったことだろう。そのつわものが仔猫を怖がった。面白い。面白いが悲しい。おもしろうてやがて悲しきである。ほんとうに照二さんはいたのだろう。フィクションだったら山田洋次になれる。この句に並んで同じ作者の「くつなわ首に捲く照三も野に逝けり」がある。くつなわはくちなわのこと。自身の北海道訛がそのまま句になった。この二句がある限り照二と照三は忘れられることはない。確かに二人はこの世界に存在したと、読む者が確認する。「週刊俳句」(2011年4月24日号)所載。(今井 聖)


August 1182012

 さざなみの形に残る桃の皮

                           金子 敦

本古来の桃の実は小粒で、産毛が密生していて毛桃と呼ばれ〈苦桃に戀せじものと思ひける〉(高濱虚子)などと詠まれているが現在、桃といえば白桃、色といい形といい、はにかむように優しく、甘くてみずみずしい果実の代表だ。その皮は、実が少し硬めだと果物ナイフで、熟していると指ですうっとはがすように剥けるが、この句の場合はナイフで剥いたのだろう。皮の薄さとところどころに残る果実の水気で、林檎や梨とは違う静けさを持って横たわる皮、そこにさざなみの形を見る感覚は、桃の果実同様みずみずしい。〈無花果の中に微細な星あまた〉〈なんでもないなんでもないと蜜柑むく〉など果物をはじめ、食べ物の佳句が印象的な句集『乗船券』(2012)より。(今井肖子)


August 1282012

 なでしこよ河原に石のやけるまで

                           上島鬼貫

島鬼貫(うえしま・おにつら)は、「まことの外に俳諧なし」と悟り、同時代の芭蕉に深く影響を与えました。「なでしこよ」と、呼びかけの間投詞「よ」を用いて、「なでしこ」への親愛の情を率直に示しています。「河原に石のやけるまで」は、梅雨が明けた七月、八月の炎暑のなかで、花、開く姿でしょう。夏の花、なでしこは、過酷な条件の中で咲いています。図鑑によると、日本の撫子は四種類あります。カワラナデシコ・ハマナデシコ・タカネナデシコ・ミヤマナデシコ。この夏、ロンドンでも、キャプテン・宮間なでしこたちが、芝生にボールの焼けるまで、存分に活躍してくれました。沢から流れ落ちる岩清水の川は澄み、宮間の大野に大和撫子は咲き乱れました。「なでしこジャパン」。当初は、この命名に戸惑いましたが、今や立派な花です。男子チームの活躍もあっぱれです。サッカーを見ていて、これは、鬼ごっこだな、と思いました。ニッポンのこどもたちが、世界の鬼ごっこで活躍できているのをみると、夏以上に熱くなります。なでしこよ、ニンジャたちよ、ありがとう。「日本大歳時記・夏」(1982・講談社)所載。(小笠原高志)


August 1382012

 画集見る少女さやかに遠ち見たる

                           伍藤暉之

5807
こからか『ゴンドラの唄』(吉井勇作詞)でも聞こえてきそうな句だ。あからさまに告白はしていないが、少年が少女に惹かれた一瞬を詠んでいる。画集に見入っていた少女が、ふと顔を上げて遠く(遠ち<おち>)を見やった。ただそれだけの情景であり、当の少女には無意識の仕種なのだが、そんな何気ない一瞬に惹かれてしまう少年の性とは何だろうか。掲載された句集の夏の部に<姉が送る団扇の風は「それいゆ」調>とあったので、私には句の少女の顔までが浮かんできた。戦後まもなく女性誌「それいゆ」を発行した画家の中原淳一が、ティーン版の「ジュニアそれいゆ」に描きつづけた少女の顔である。これらの少女の顔の特徴は、瞳の焦点が微妙に合っていないところだ。こう指摘したのは漫画家の池田理代子で、「微妙にずれていることによって、どこを見ているのかわからないような神秘的な魅力。瞳の下に更に白目が残っていて、これは遠くを見ている目だ。瞳が人間の心を捉えるという法則をよくご存知だったのではないか」と述べている。つまり句の作者もまたおそらくは「焦点のずれ」に引き込まれているわけだ。少女に言わせれば「誤解」もはなはだしいということになるのだろうが、こうした誤解があってこその人生ではないか。誤解バンザイである。『PAISA』(2012)所収。(清水哲男)


August 1482012

 新盆や死者みな海を歩みくる

                           小原啄葉

者は盛岡市在住。昨年の大震災に対して「実に怖かった」のひとことが重く切ない。掲句は津波で失った命に違いないが、生命の根幹を指しているようにも思う。海から生まれ、海へと帰っていった命の数にただただ思いを馳せる。迎え火から送り火まで、盆行事には愛に溢れた実に丁寧なシナリオがある。精霊馬にも水を入れた盃を入れた水飲み桶を用意したり、お送りするときにはお土産のお団子まで持たせる。今年は縁あって福島県いわき市の「じゃんがら」に行く機会を得た。鉦や太鼓を打ち鳴らしながら新盆の家々を廻る踊り念仏である。新盆は浄土からこの世へと戻る初めての道のりのため、故人が迷うことのないよう、高々と真っ白い切子灯籠を掲げる土地もある。お盆とは、姿が見えないだけで存在はいつでもかたわらにあることを思い願うひとときであることを、あらためて胸に刻む。『黒い浪』(2012)所収。(土肥あき子)


August 1582012

 胃カメラをのんで炎天しかと生く

                           吉村 昭

日は敗戦記念日。「8.15以後」という言葉・認識を日本人は永久に忘れてはならない。さらに、今や「3.11以後」も風化させてはなるまい。くり返される人間の歴史の愚かさを見つめながら、生き残った者たちは「しかと生」きなければならない。昭は五十歳の頃から俳句を本格的に作りはじめた。結核の闘病中でも俳句を読んで、尾崎放哉に深く感動していたという。掲句は検査か軽い病いの際に詠んだ句のようだが、炎天の真夏、どこかしら不安をかかえてのぞむ胃カメラ検査。それでも「しかと生く」と力強く、炎天にも不安にも負けまいとする並々ならぬ意志が表現されている。四回も芥川賞候補になりながら受賞できなかった小説家だが、そこいらの若造受賞作家などには太刀打ちできない、実力派のしっかりとした意志が、この句にはこめられているように思われる。胃カメラ検査は近年、咽喉からでなく鼻腔からの検査が可能になり、とてもラクになった。昭には他に「はかなきを番(つがひ)となりし赤蜻蛉」があり、死後に句集『炎天』(2009)がまとめられた。(八木忠栄)


August 1682012

 来て洗ふ応へて墓のほてりかな

                           星野麥丘人

のごろはロッカー式の墓があったり、墓を作らずに散骨を希望する人も増えているようだが、鬱蒼と茂る樹木に囲まれた墓に参るのもいいものだ。しかし先祖が眠る墓苑では、無縁仏になってしまったのか荒れたお墓も目に付くようになってきた。昔に比べ家族の結びつきが希薄になった現在、墓はいよいよ取り残されてしまうかもしれない。掲句では「来て洗ふ」という表現から心のこもった墓参りの様子が伝わってくる。強い日差しにほてった石のぬくみを手のひらに感じながら丁寧に墓を洗う。墓のほてりが懐かしい人の体温のようだ。たっぷりと水を吸った墓に花を活け、線香をあげてさまざまな出来事の報告をする。水と墓石のほてりの照応に、現世と彼岸との目に見えない交流が感じられる。『星野麥丘人句集』(2003)所収。(三宅やよい)


August 1782012

 質問の多き耳順の新入生

                           廣川坊太郎

十にして耳順(したが)う。論語の中の言葉。この新入生は六十歳にして入学してきた。放送大学か通信教育のスクーリングか。入学の季節は春か秋か。そんなことはどっちでもいい。六十歳の新入生が先生に質問を繰返す。質問の多さはこの新入生の熱意をあらわす。わからないことは訊くのだ。肉体年齢の先は見えている。恥もひったくれもない。四十歳を過ぎてカルチャースクールにシナリオの書き方を習いに行ったことがある。課題に四苦八苦している同じような年齢の僕らに師が言った。「不思議だ。君たちはどうしてもっと焦らないのか」。やらなければならないことが山ほどある。どれから手をつけたらいいのかもわからないほどのとてつもない量だ。やってもやっても追いつかない。六十にもなって偉いねという句ではない。この生徒の切実さが身に沁みて哀しい。この句も面白うてやがて悲しきだ。「横浜俳句鍛錬会報・2012年6月」所載。(今井 聖)


August 1882012

 ひらきたる花火へ開きゆく花火

                           岩垣子鹿

らきたる、は散りかけていて、開きゆく、は今まさに大輪。開きゆく花火、と読んでいる時には、ひらいた花火ははらはら散っている。縦書きの方がさらに感じが出るだろう。いずれにしても、ひらがなと漢字の視覚的効果の違いによって、花火そのものの有り様がとらえられている。さらにその二つの花火を、へ、がつなぐことで、瞬間の時間差も体感できる仕組みである。奈良県生まれ、戦後まもなく奈良医大俳句会で俳句と出会ったという作者の、最初で最後の句集『やまと』(2006)は〈もののけの遊ぶ吉野の春の月〉の一句で締めくくられている。(今井肖子)


August 1982012

 月とるごと種まくごとく踊りけり

                           山口青邨

踊りです。徳島の阿波踊りや、富山県八尾の風の盆など、踊りながら練り歩く踊りは壮観ですが、掲句は、寺の境内や広場でやぐらを組んだ盆踊り会場のようです。そう判断するのは、表現から、身体の動きにぎこちなさを感じとれるからです。「月とるごと」で一度切れています。手本になる踊り手が、月を両手で取るごとく踊っていて、作者は、それを見よう見まねで動きをなぞっているのですが、すぐにはできない。やや動きが遅れる。上五を字余りにして「ごと」で切ったのは、踊りの輪に入ったときはまだ初心者で、動きがうまくいっていない状態を示しているように思われます。「月とる」動きに慣れてきて、今度は「種まくごとく」の動きにうつり、これは、ぴっ たり定型 に納まりました。身体もだんだん慣れてきて、手本の踊り手を見なくても、輪の中で、何度も何度も同じ所作を繰り返せる。楽しくなってきた。やや上気してきた。それが、「踊りけり」という実感のある納まりになっています。一句の中で、作者の身体の変化が伝わってくるようで、これも踊りの効用でしょうか。月をとったり、種をまいたり、これらの所作も風流で、花鳥風月を円環の輪の中で真似ぶ所作は、いとをかしです。「日本大歳時記・秋」(1981・講談社)所載。(小笠原高志)


August 2082012

 いつとなく庇はるる身の晩夏かな

                           恩田秀子

惜しいが、私の実感でもある。若い人が読めば、甘っちょろい句と受け取るかもしれない。新味のない通俗句くらいに思う若者が多いだろう。だが、この通俗が老人にはひどくこたえる。「庇(かば)はるる身」はこれから先、修復されることが絶対に無いという自覚において、苦さも苦しなのである。「晩夏」は人生の「晩年」にも通じ、盛りの過ぎた「身」を引きずりながら、なお秋から冬へと生きていかざるを得ない。そういえば、いつごろから「庇はるる身」になったのだろうかと、作者は自問し心底苦笑している。自戒しておけば、庇われることは止むを得ないにしても、慣れっこになってはいけない。庇われて当然というような顔をした老人をたまに見かけるが、あれはどうにもこうにも下品でいけません。『白露句集』(2012)所載。(清水哲男)


August 2182012

 右左左右右秋の鳩

                           神野紗希

左左右右、さてなんでしょう。最初足取りを描いたが、それではまるで千鳥足。はたしてこれは首の動きなのだと思い至り、大いに合点した。頭部を小刻みにきょときょとさせる鳩の特徴的な様子を描いているのだ。平和の象徴と呼ばれ、公園などで餌をやる人がいる一方、のべつ動かす首が苦手だという人も多い。なかには他の鳥は許せるが、鳩だけは許せない、羽の色彩や鳴き声まで腹立たしいという強烈なむきもあるが、嫌悪の理由はおしなべて勝手なものである。鳩嫌いの女の子の四コマ漫画『はとがいる』でも、恐怖や目障りな存在をハト的なものとして描いて好評だが、ここにもこの鳥が持つ平和や幸福と相反するイメージへの共感がある。掲句を見て、秋の爽やかさと取るか、残暑の暑苦しさと取るかで、鳩好き、鳩嫌いに分けることができるだろう。ともあれ右と左、これだけで鳩の姿を眼前に映し出すのだから俳句は面白い。実際に爽やかを感じるまで、秋の助走はまだまだ長い。『光まみれの蜂』(2012)所収。(土肥あき子)


August 2282012

 バリカンに無口となって雲の峰

                           辻 憲

憶を遡れば、小学生の時はいつも母がバリカンでわがイガグリ頭を刈ってくれた。(中学生になってからは、母による「虎刈り」がいやで、隣村の床屋さんまで出かけた。プロによる理髪は気持ち良かった。)頭髪が伸びると「ゴンマツ頭はみっともねエ」と母が言い、畳にすわらされてバリカンでジョキジョキ……。時々母の手のリズムが狂うと、バリカンが頭髪を食うから「痛ッ!」と叫ぶ。そうすると、バリカンで頭をゴツンとやられる。「タダでやってもらって、男の子は我慢しろ!」。相手は凶器(?)を持っているのだから、下手に逆らえない。「無口」になって我慢せざるを得なかった。あげくの果てが「虎刈り」である。掲句でそんな少年の日のことをありありと思い出した。憲さんの「無口」も実体験であろう。外はカンカン照りで、雲の峰(入道雲)がモクモク。一刻も早く飛び出して行って、友だちと_取りとか水遊びでもしたいのに、しばらくは神妙に我慢していなければならない忍耐の時間。イガグリ頭とバリカンの取り合わせが懐かしい。「虎刈り」の時代も過去の思い出話となってしまった。國井克彦に「バリカンや昭和の夏のありにけり」がある。憲は征夫の実弟で、句会ではいつも高点を獲得している。憲の句に「本郷の猫のふぐりのみぎひだり」がある。「OLD STATION」14号(2008)所収。(八木忠栄)


August 2382012

 瓜ぶらり根性問はることもなし

                           山中正己

リンピックも終わり、銀座ではメダリスト達のパレードもあった。連日の熱戦を楽しませてもらったものの敗れた選手の立場を思うと「大変だなぁ」と思うことたびたびだった。「メダルをとれずにすみませんでした」と泣きながら謝っていた柔道の選手がいたが国の代表になって「根性を問われる」ことはしんどいことだ。その点、ぶらりとぶら下がって風に吹かれる瓜は気楽なものだ。瓜と言ってもいろいろあるが「ぶらり」なのだから胡瓜かヘチマだろうか。支えの棒や組み立てた棚へ蔓をからませて気が付けば「食べてください」とばかりにおいしそうな実をぶらさげている。「根性を問われる」ことも「叱咤激励」されることもなく身を太らせて気楽なものである。掲句がそんな瓜の在り方に羨ましさを感じている作者の気持ちの反映であるとすると、怠け者の私なぞも同感である。『地球のワルツ』(2012)所収。(三宅やよい)


August 2482012

 蠅の舌強くしてわが牛乳を舐む

                           山口誓子

あ、やっぱり誓子だなあ。誓子作品についてよく言われる即物非情の非情とは、これまで「もの」が負ってきたロマンを一度元に戻すことだ。蝶は美しい。蛾は汚い。黒揚羽は不吉。ぼうふらは汚い。蠅は汚い。みんな一度リセットできるか。それが写生ということだと誓子は言っている。子規が言い出して茂吉もそう実践している。生きとし生けるものすべてに優しさをとかそんなことじゃない。「もの」をまだ名付けられる前の姿に戻してまっさらな目でみられるか。この「強くして」がいいなあ。「生」そのものだ。『戦後俳句論争史』(1968)所載。(今井 聖)


August 2582012

 蜩やどこにも行けぬ観覧車

                           輿梠 隆

周して戻ってくるだけの乗り物、観覧車。同じ一周でも縦に回ると、空に近づいて戻って来る分、結局どこにも行けない、という気分になるのだろうか。ただ、蜩のかなかなかなという音色は、観覧車にまとわりつく感傷よりくっきりとして、淋しい。そう思うと、ただそこで回るばかりの観覧車自身がどこにも行けないなのか、という気がしてくる。先日横浜で水上バスから見た、意外にうすっぺらいその横顔?を思い出しながら、今日もあちこちでただただゆっくり動いている大小さまざまな観覧車を思い浮かべている。『背番号』(2011)所収。(今井肖子)


August 2682012

 かなかなや川原に一人釣りのこる

                           瀧井孝作

(ひぐらし)、かなかなの鳴き声は、金属音のように響きます。夏の終わりの夕刻の空に向かって、楽器の音色とは違った、ぜんまい仕掛けのようなメカニックな音を響き渡らせます。作者は、終日、釣りつづけていたのでしょう。「川原」と表現しているので、中流か下流の広い川原で、鮎でも釣っていたのでしょうか。気づくと、さっきまで点在していた釣り人が、誰一人としていなくなっている。自分だけがとり残されてしまった。豊漁ならばさっさと竿をたためるが、たぶん、釣果はかんばしくなく、竿をたたむにたためず、日が暮れかかるや空にかなかなが響き渡って、我に返った図。その金属的な鳴き声は、川原の石にも響き渡るようで、空っぽのびくが寂しい。小 学校のと きの居残りの気分に似て、大人の居残りとはこんな感じでしょうか。あるいは、夏休みも終わりに近づいて、まだ宿題がたくさん残っているような、そんな屈託でしょうか。夕刻の空に川原に広がるかなかなの鳴き声を、自嘲ぎみに聞いているところが大人です。「日本大歳時記・秋」(1981・講談社)所載。(小笠原高志)


August 2782012

 人人よ旱つづきの屋根屋根よ

                           池田澄子

いかわらずの旱(ひでり)つづきで、げんなりしている。冷房無しのせいあるが、団扇片手に昼寝をきめこんでもあまり眠れず、なんだか「ただ生きているだけ」みたいな感じだ。この句は、みんながまだ冷房の恩恵に浴していなかった昔の情景を思い起こさせる。小津安二郎が好んで描いた東京の住宅街は、まさにこんなふうであった。ビルもそんなにはなく、「屋根屋根」は平屋か二階建ての瓦屋根だ。それらが夏の日差しのなかにあると、嫌でも脂ぎったような発色となり、ますます暑い気分が高じてくる。白昼ともなれば、往来には人の影もまばらだ。「人人」はいったいどうしているのかと、ついそんなことが気になってしまうのだった。それでもどこの「家家」の窓も開いているから、ときおりどこからかラジオの音が流れてきたりする。ああ「人人」は健在だなと、ほっとしたりしたのも懐かしい。『たましいの話』(2005)所収。(清水哲男)


August 2882012

 八月のしばらく飛んでない箒

                           森田智子

ょうど今頃の空を「ゆきあいの空」と呼ぶという。広辞苑によると「夏秋の暑気・涼気の行き合う空」と出ている。古今和歌集に〈夏と秋と行きかふ空のかよひ路はかたへすずしき風や吹くらむ〉があり、残暑と秋が幾層にも混じり合った空気が感じられる。4月30日から5月1日にかけて、魔女たちが集まるといわれるワルプルギスの夜も、北欧の長い冬から夏への変わり目を祝うものだ。作者はいつものように庭箒を使いながら、どことなく使い心地の違う箒に、魔女の笑いを浮かべて、八月のおそらく美しい夕焼けの空を見あげている。民間伝承によると、魔女が空を飛ぶ道具として箒のほかにも熊手、シャベルなど、いずれも柄のついたものにまたがる図もあるというが、もっともシルエットが美しく、スピード感が出る箒が定着したのだといわれている。それにしても、ドラキュラが小さな蝙蝠となってこそこそ飛ぶ姿と比べ、箒でゆうゆうと滑空する魔女たちのなんと堂々としたものか。今夜あたり、飛びたい箒たちがあちらこちらでうずうずとしているのかもしれない。〈台風の一夜をともに鳥獣〉〈飛行機の中の空気や天高し〉『定景』(2012)所収。(土肥あき子)


August 2982012

 ラムネ飲んでその泡のごと別れたる

                           和田博雄

ムネの泡は一挙に激しく盛りあがるけれど、炭酸ゆえにたちまち消えてしまう。この場合の「別れ」はいかなる事後の別れなのかわからない。しかし、ラムネの泡のごとくあっさりしたものなのだろう。ビールの泡のごとき別れだったら、事情はちがってくる。博雄が下戸だったかどうかは知らないが、この別れは男同士ではなく、男と女の別れと解釈したほうが「ラムネ」が生きてくる。それはあまり深刻なケースではなかったのかもしれないし、逆に深刻の度を通り越していたとも考えられるけれど、それ以上に「別れ」をここで詮索する必要も意味もあるまい。このごろのラムネ瓶はプラスチック製だから、振っても音がしないのが口惜しい。博雄は吉田内閣で農林大臣や国務大臣をつとめ、のちに左派社会党の書記長をつとめたことでも知られる。俳句の上で博雄とつき合いのあった安藤しげるは「和田さんは、後に政界をスッパリ引退し、俳句三昧に遊び……」と書いている。西東三鬼の句に「ラムネ瓶太し九州の崖赤し」がある。安藤重瑠『戦渦の疵を君知るや』(2012)所載。(八木忠栄)


August 3082012

 夏の川ゴールデンタイムちらちらす

                           こしのゆみこ

は追憶の季節でもある。子供のころ当たり前のようにめぐってきた夏休みは退屈であきれるほど時間があった。だからと言って朝から晩までテレビを見たわけではない。あの頃のテレビは劇場の緞帳に似た覆いがかかっていて、好き勝手につけていいものではなかった。子供にチャンネル権はなく、家族がテレビの前に集まって見るゴールデンタイムの番組は夜の楽しいひとときだった。それも今は昔。朝から晩まで番組を流し続けるテレビに高揚感はなくなり、「ゴールデンタイム」はある世代の記憶の中にある時間帯になってしまった。掲句は夏の日を受けてちらちら光る川面を見ているうち「ゴールデンタイム」へ連想が及んだのか。白っぽく光る真空管テレビで見た「ディズニーランド」「鉄腕アトム」「宇宙家族ロビンソン」など子供心を浮き立たせた番組を懐かしく思い出す。あと一日で子供たちにとって至福のときである夏休みも終わってしまう。『コイツァンの猫』(2009)所収。(三宅やよい)


August 3182012

 秋草や妻の形見の犬も老い

                           本井 英

句といえど自己表現なんだから他者と自己との識別をこころがけていくべきだ云々、僕が口角泡を飛ばして言ったとき聞いていた本井さんがぽつりと言った。「あなたは自己、自己っていうけど人はやがてみんな死ぬんだよ」。本井さんは少し前に奥方を亡くされていたのだった。死生観を踏まえての俳句の独自性を彼は「虚子」の中に見出した。平明で秋草という季節の本意もまことに生かされている。妻は泉下に入り犬は老い秋はまた巡ってきた。俳句の身の丈に合った述懐であることはよくわかる。この句はこれでいい、しかしと僕は言いたいのだが。『八月』(2009)所収。(今井 聖)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます